帝と中宮和子が内裏へと還御すると、諸大名が祝賀のために二条城に参じた。

 大御所秀忠と将軍家光の御前で、二条城行幸が無事に済んだことを祝す宴が催された。贅を尽くした膳と酒を前に、一大行事が終わった安堵と解放感も相まって、諸大名も徳川家臣たちも分け隔てなく、互いに労をねぎらい合う明るい宴となった。

 その宴のさなか、忠長が家光の前で声高らかに言った。

「兄上、大井川の浮橋は、いかがにございましたか」

 明るい宴の雰囲気も影響してか、忠長はすっかり酔っている。

 しかし家光の方は、盃に唇をつけているだけで、少しも飲んでいない。酒を飲めば翌朝に耐えがたい頭痛に襲われるとわかっている。だからこうして宴の場で酒の入った者を相手にする時は、素面のこちらが妙に冷めているように見えてしまわぬよう、あえて高揚した口調をするように心がけているのだが、こればかりは淡々と返してしまった。

「浮橋は、直ちに解くよう命じた」

 その答えに、忠長は驚いた。

「解く? どういうことですか」

「家康様が大井川の架橋を禁じたのを忘れたか」

「それは、存じています。ですが、此度の上洛は戦ではありませぬ。将軍の上洛を援けるために浮橋を架けたことが、家康様のご遺命に反するとは思いませぬ」

 兄弟の間に不穏な気配が漂うのに気づいたのか、周囲の者たちは黙したが、こちらを窺う目には好奇が滲んでいる。

 忠長は、語気を強くした。

「恒久の橋を架けたならば兄上のご指摘はごもっともと存じますが、浮橋はすぐに解くことができます」

「そういうことではない」

 普段ならば言い返さない。だが、此度ばかりは違う。ここで忠長の主張を認めたら、将軍としての考えを、家臣や諸大名のいる前で曲げることになってしまうと思った。

 忠長の方もまた、衆人の前で自分の否を認めたくなかったのだろう。少しも引くことなく言い返す。

「家康様のご遺命とはいえ、今や、泰平の世。西国大名が江戸へ攻め入る事態になるなど、ありうるのでしょうか」

「そういうことではないと申しておろう!」

 家光が声を荒らげると、「やめよ」と秀忠が厳しい声で制した。だが、家光は抑えられなかった。

「そなたは、将軍たる私に一言も断りなく浮橋を架けた。それは、家康様のご遺命を覆しただけでなく、この家光の将軍権威をも蔑ろにしたと同じであろう!」

 すると、忠長は、挑むように言い返した。

「兄上は、泰平の世にふさわしき将軍として選ばれたのではないのですか?」

「何……?」

 忠長は、口の端に笑みを浮かべた。

「滅びる者は全て、弱きゆえ」

 その言葉に、家光は目を見開く。忠長は笑みを少しも変えることなく言った。

「誰もが、将軍になるべきは果敢な国松だと、そう思っていたのに。それなのに、兄上は乳母の福を使って家康様と父上を味方につけ『泰平の世にふさわしき将軍』になった。そうではないのですか?」

「それが、架橋とどう関係するというのだ」

「泰平の世にふさわしき将軍ならば、なぜ、戦に備えた架橋の禁を守ろうとするのです?」

 忠長は、いたぶるかのように続けた。

「江戸に攻め入る者がいるのであるならば〈滅びる者は全て、弱きゆえ〉弱き兄上を将軍として頂いているようでは、大井川に橋があろうとなかろうと……」

「忠長、言葉が過ぎるぞ!」

 秀忠が一喝して、手にしていた盃を、音を立てて置いた。

 場が気まずい沈黙に包まれたその時だった。祝宴の大広間に家臣が駆け込み、秀忠のもとへ直行すると耳元で何かを告げた。

 秀忠の目が見開かれ、たちまちに表情が険しくなっていく。

「父上、いかがなさいましたか」

 家光が問うと、秀忠は、やや黙した後、低い声で言った。

「江戸城より早馬の使者が来た。江が、危篤に陥ったと」

 家光は驚愕した。見送りの場にいた江の姿には、少しも体調の異変を感じることはなかった。忠長も「母上が?」と言葉を失い、興奮で紅潮していた頬が蒼白になっていく。

 急報を告げた家臣は、低頭して言う。

「江様は、秀忠様と家光様、忠長様のお顔を拝したいとお望みにございます」

「侍医の見立ては」

 秀忠の問いに、家臣は少し間を置いた後、言った。

「もって、数日かと」

 その答えに、家光は秀忠を見た。二条城行幸を無事に終えたとはいえ、この後、大御所と将軍である二人には、なすべき諸行事が山積している。二日後には行幸の御礼を述べるための参内が控え、秀忠と家光はそれぞれ太政大臣と左大臣に昇進することが決まっている。さらには親王家や公卿との謁見や宴も続く。今すぐ江戸還御をするとなれば、それら全てを覆さねばならない。

(そんなことは、許されるはずがない……)

 それは、秀忠も同じ考えなのだろう。秀忠は、険しい顔のまま言った。

「ならぬ。今、江戸へ帰ることは叶わぬ」

「父上!」

 悲鳴に近い声を上げたのは、忠長だった。忠長は、秀忠の前に手をついて言った。

「母上は、最期に私たちに会いたいとお望みなのですぞ!」

「ならぬと申したのが、聞こえなかったか」

「父上……」

 忠長は愕然として、今度は家光の方へ懇願した。

「兄上からも、父上にお頼み申し上げください! 母上の最期の望みを、どうか……!」

 家光は、やや黙してから言った。

「立場が、許さぬ。そう父上が申しているのがわからぬか」

「た、立場……?」

「全てを投げ出して、母親の死に駆けつけることは、徳川将軍家たる我々には許されない」

 忠長は茫然として「そんな……」と声を震わせた。

「兄上は、このまま、母上をお一人で逝かせよと?」

 血の気の引いた唇を戦慄かせる忠長を、家光は、黙したまま見つめた。忠長の悲痛な言葉が、少しも、この胸に響いてこない。酒を一滴も飲まぬ素面ゆえではないことは、わかっている。

 黙したままの家光に、忠長は声高に言葉を浴びせた。

「兄上は、母上のことを母とも思っていないから、そんなことを言えるのです!」

 家光は、何も言い返さなかった。いや、言い返せなかった。本当のことを言われたのだから。

 母への想いが、あまりにかけ離れている。

 乳母をつけることなく、実母である江自らの乳で育った忠長は、幼少の頃からずっと、その腕の中で愛情と期待を一身に受けて育った。かたや、自分は、他人の福に育てられ、江からは疎ましくすら思われていた。

 兄と弟の感じる、母の死への動揺は、まるで違う。

 そう思った時、家光の胸の奥に、にわかに高揚してくるものがあった。

(勝った……)

 初めて、弟に勝ったと思った。母の死に動揺する弟を、優越感を持って見下ろしていた。

――竹千代様ほど将軍にふさわしき御方はいない。

 全てを捧げる福の繰り言は、間違っていなかった。

 母のことを母とも思っていない自分は、その死に微塵も動揺することなく、将軍として求められる立場を保つことができるのだから。

 家光は拳を握りしめると、忠長を見下ろしたまま言った。

「そなたは、将軍にはなれまいよ」

「な、何を、いきなり……」

 戸惑う忠長に、家光は淡々と言った。

「母親の死に動揺するような者は、将軍になど永劫になれまい」

 唇の端に微笑を浮かべた家光を、忠長は蒼白のまま睨みつけた。

「母上をお一人で逝かせることなど、私には、絶対にできない」

 忠長は、そう言いきると、その場を蹴るようにして駆け出した。

 

 

 江の危篤に、江戸へと向かった忠長を、家光も秀忠も止めなかった。

 朝廷側には「江の危篤の報に、大御所秀忠の名代として徳川忠長を、将軍家光の名代として稲葉正勝を遣わした」と伝え、その後の諸行事は全て滞りなく進めた。

 そうして、家光が江戸城へ帰ったのは、危篤の知らせを受けてから、ほぼひと月近くが経った十月九日のことだった。

「江様は、去る九月十五日、西の丸においてご逝去なさいました」

 江戸城本丸御殿の居室で、正勝の報告に、家光は頷き返した。

「忠長に看取られ、母上も穏やかな最期となったであろう」

 忠長に随行させて江戸へ帰した正勝は、江の臨終にも立ち会ったはずだ。そのつもりで、家光は言った。ところが、正勝は答えに詰まった。家光が訝しむと、正勝は絞り出すようにして言った。

「忠長様は、ご臨終に間に合いませんでした」

「何……」

「昼夜を通して東海道を早馬で駆けたのですが、ようやっと芝の地に入った頃、城よりご逝去を知らせる使者が」

「そうであったか……」

「忠長様は、馬上にて泣き崩れ、付き従う我々も、涙を禁じえませんでした」

 江は、独りきりで、死んだのだ。全てを投げ出してまで駆けつけんとした忠長に、会えぬまま。

〈いらっしゃい、国松〉

 奥御殿の庭で、両腕を広げて国松を呼んでいた、江の笑顔が浮かんだ。

 福の打掛にしがみついた竹千代を横目に、両腕を広げる江に駆けていった国松は……江の死には、駆けつけられなかった。

 正勝が伏していた目を上げ、家光を見た。何かを言いたげな正勝の表情に、家光は「どうした」と問い返す。

 正勝は言うか言うまいかと唇を噛んだ後、意を決したように口を開いた。

「大井川の浮橋が解かれていなければ、間に合ったかと」

 家光は眉を顰めた。正勝は、額を床につけんばかりに低頭して言った。

「大井川が増水していたため、一日ばかり、江戸への到着が遅れました。浮橋を残していればと……あの時ばかりは、悔やまれてなりませんでした」

「何を申している。あの浮橋は、架橋の禁を破るものであったのだぞ」

「この腹を切る覚悟の上で、申し上げました。どうか切腹なり、斬首なり、なんなりとお命じください!」

 家光は茫然として、正勝を見た。

「腹を切る覚悟か。死んでもいいから、それでもいいから、大井川の浮橋があれば忠長は母上の臨終に間に合ったと、それを言いたいと?」

 正勝は、沈黙で肯定した。

 家光は、無言のまま立ち上がると、低頭した正勝の項を見下ろした。膝が震えそうになるのをこらえて、立ち尽くす。

 青山忠俊に首を差し出された時と、同じだった。

(将軍たる私を諫めた途端、皆が、その首を差し出し、命を擲とうとする)

 この将軍の立場は、失った途端に独りになる。それなのに、将軍の立場にしがみつけばしがみつくほど、孤独になっていくのは、どうしてだろう。

 家光は、一つ息をついて、言った。

「妻は……そなたの、妻の病は、いかがか」

 その言葉が、あまりに思いがけなかったのか、正勝が「は……」と動揺したように顔を上げた。家光は静かな口調で言った。

「私が、正勝に忠長とともに江戸へ向かうよう命じたのは、腹心の家臣を将軍名代としたかっただけではない。そなたの妻もまた、病が重いことを知っていたからだ」

 家光の配慮に初めて気づいたかのごとく、正勝は目を見開いた。すると、みるみるその目が赤く潤んでいく。

 家光は、再度、問うた。

「妻は、いかがか」

「……妻は」

 正勝は声を詰まらせた後、言った。

「年は越せぬと……あと数か月の命であろうと、医者より告げられております」

 そう答えた途端、家光を仰ぎ見る正勝の目から、涙が零れ落ちた。

 これまで頑なに感情の起伏を見せようとしなかった忠臣が、その両の目からとめどもなく涙を溢れさせて、愛する妻の余命を思って震えている。

 その姿に、家光は、置き去りにされたような感覚に陥っていく。

「そうか」とだけ言うと、一歩を踏み出した。

「家光様……?」

 涙を袖で拭った正勝が、腰を浮かせる。付き従おうとする正勝を「来るな」と制した。

 家光は部屋を出ると、独り、さまようように歩いた。

 美しい障壁画に彩られた本丸御殿の廊を、独りきりで歩いていく。将軍の居所にふさわしき、極彩色の装飾は、将軍家御用の狩野の絵師たちに描かせたものだ。

〈武芸の稽古ではなくて、城の襖絵を描いた狩野の絵師に会いたい〉

 そんなことを言って、傅役の青山忠俊を困らせたこともあった。

(あの頃に戻れるものなら、戻りたい。いや、戻れるものならば、いっそ生まれる前か)

 立ち止まり、壁に描かれた芙蓉の花に戯れる蝶に、そっと触れる。

 この絵を描く立場と、この絵に囲まれる立場と。

 生まれ落ちた場所が違うだけで、どうしてこんなに、苦しくて、寂しいのだろう。

 そのまま、奥御殿に向かう。足が向かう先は、御台所、孝子の部屋だった。

 前触れもない将軍渡御、それも従者をつけずに訪れた家光の姿に、孝子の侍女たちは驚きを隠さなかった。

「家光様、いかがなされましたか」

 うろたえて問う侍女にも構うことなく、部屋に入った。

 孝子は、脇息にもたれて、庭を眺めていた。

 江の喪に服し、鈍色の打掛を羽織っているが、庭の草花を愛でるその表情は、微笑んでいた。

「孝子」

 家光が声をかけると、孝子は笑みを崩すことなく振り返った。

「まあ、父上、どうされました?」

 家光は無言のまま頷き返して隣に座した。孝子は虚ろな目をして言う。

「父上、ご覧くださいませ、東山の稜線が美しくて」

 指さす先に、江戸にあるはずもない都の東山の稜線が見えるのか。幼き頃、都の屋敷で父母と眺めていたのであろう、美しき記憶の中の稜線が。

 江の亡き後、この江戸城奥御殿を取り仕切るのは、御台所である孝子の役目だ。だが、今の孝子の状態では、無理であろうことは誰が見ても明らかだった。

 家光は、静かに問うた。

「私のせいなのだな」

 微笑んだままの孝子の蒼白い頬に、涙が伝う。

 その涙を拭ってやることは、できなかった。なぜなら、孝子の心を壊したのは、他ならぬ自分だから。

 母の死に動揺した忠長、妻の余命に落涙する正勝、そして、夫の愛を得られず心を壊した孝子。周りにいる誰もが、人として当たり前に感じるべき悲しみを持っている。それなのに、将軍として生きていく自分には、それに心を寄せることができない。

 孝子は、微笑したまま、涙を流して言った。

「……離縁してください」

 家光は、無言のまま頷き返す。できるものなら、そうしてやりたい。帰せるものなら、今すぐにも、京へ帰してやりたい。この場所から解き放ってやりたい。孝子を妻として愛することができないのならば、そうしてやるべきなのだ。それなのに、それすらできない。

(将軍が、御台所を離縁することは、できない……)

 それはすなわち、朝廷と幕府の縁組を破棄するということだから。

 不意に背後から声がした。

「家光様」

 家光は、その声に驚くこともなく振り返った。部屋の入口で、濃い蘇芳色の打掛姿の福が、手をついて座していた。家光のただならぬ来訪を、孝子の侍女あたりが福に知らせたのだろう。

「福……」

 その名を呼びながら、掌の癒えぬ痣に、爪が食い込んでいく。

「私は、どうしたらいいのだろう」

 福の姿を見ながら、助けを求めるようにそう口にしていた。

 福は、竹千代を褒めていた時と同じ微笑を浮かべて、それに応えた。

「何をいまさら。この福に万事をお任せくださればよろしいのでございますよ、家光様」

 

(つづく)