六
江の喪が明けると、家光は、将軍御前に伺候する重臣たちに向かって宣言した。
「今後、江戸城奥御殿に関することは、ここにいる乳母の福に任す。奥向きのことは、全て福を通すように」
家光の傍らに座す福は、居並ぶ重臣たちを悠々と見ている。幕政の最高職たる年寄の酒井忠勝が、厳しい口調で問い返した。
「お言葉ではございますが、江戸城の奥御殿は、これまで江様のお指図のもとにありました。江様亡き後にそのお立場を引き継ぐのは、家光様の御台所、孝子様では」
この場にいる重臣たちも皆、そう思っているのであろうことは、互いに頷き合う姿からも察せられる。福の息子である稲葉正勝でさえも、困惑の表情を浮かべていた。
「御台所は、体調が優れぬ。ゆえに、代わりに福にその役を託すのだ」
「ですが、そのような大役を……」
乳母に過ぎぬ女子に任せるなど、受け入れられない。濁した語尾にはその意があった。
酒井忠勝が、ちらと稲葉正勝の方を見やった。正勝は何か知っていたのか、と問わんばかりの目だった。しかし、正勝も、何も知らぬ、というように小さく首を振る。
それらを横目に、福は微笑を浮かべて、家光に進言した。
「では、これを機に、奥御殿の侍女たちには、表御殿の家臣たちと同様に、役職を与えたく存じます」
福の発言に、重臣たちは、またも困惑を見せた。
「侍女に、役職とはいかなることか」
酒井忠勝が、問い返す。福は朗らかに言った。
「御年寄であられる酒井忠勝様と同じく、奥御殿の最高職の侍女も御年寄と称することにするのです。むろん、その御年寄は、この福が担う所存にございます」
「は……?」
理解が追いつかぬ酒井忠勝に構うことなく、福は言った。
「これまで、奥のことは、御台様のご意向次第でした。ですが、それでは御台様のお気持ちで侍女の待遇も変わることになり、人によっては、居場所を失い、里に下がらざるをえない者まである始末。これを機に、奥御殿に仕える侍女たちの役職を定め、侍女たちが長きにわたって奉公を続けられるようにしたいのです」
「しかし、だからといって、表御殿の男子と同じように職位を与えるなど大げさでは」
福は、相手の苦言に一向に構うことなく続けた。
「御年寄、御右筆、御小姓、使番……と、表御殿の家臣同様に役職を定め、それぞれ役に応じた俸禄を、最高職の御年寄から下々の御端下に至るまで漏れなく与えることといたしましょう」
「職位ばかりか、禄までをも? それも、下働きの女子にまで?」
途端、重臣たちの間に冷笑が起きた。福は、一喝した。
「どこがおかしいと申されるのか!」
重臣たちは、驚いて目を丸くした。酒井忠勝が一つ咳払いをして言った。
「どこがおかしいもなにも、これまで通り、侍女は、主君から与えられる衣食があれば十分なのでは?」
福は「はっ」と一笑して言い返す。
「これまでが、おかしかったのでございます」
福は、滔々と言った。
「これまでは、戦に戦を重ねる乱世。戦に敗れれば、主君は城を枕に討ち死にをして、侍女も命を落とすか、落ち延びていくかという酷い世。そんないつ死ぬかもわからぬその日暮らしの世であれば、主君から与えられる衣食があれば十分でしょう。ですが、いまや徳川幕府三代将軍家光様の御代。長年にわたってご奉公することが、これからの当たり前となり、人によっては、生涯、城で暮らす者もおるでしょう。そのような者たちに、これまで通り、衣食のみを与えていれば十分など、おかしい、いえ、女子を軽んじているとしか思えませぬ」
「軽んじるなど、そのようなことは」
酒井忠勝は、苦笑する。
「その苦笑が、まさしく軽んじているのです!」
「な……」
「侍女とて、将軍をお守りする家臣の一人であると申しているのが、酒井様にはわからぬのでしょうか」
重臣たちの顔つきが、たちまちにして険しくなる。唯一、稲葉正勝だけが、気まずそうにうつむいて黙っている。
「それは、福殿のような、忠誠心の強き乳母であれば、の話であろう」
酒井忠勝の皮肉を含む発言に、福は目をつり上げた。
「私は、家光様から直々に奥御殿を任された者として、乳母としてではなく奥御殿年寄役として発言しているのです。たとえ、この世の常を覆すことになろうとも!」
「この世の常を覆す、だと?」
「これまでの侍女の在り方を大きく改め、男の家臣と同様に一家臣として遇する。さすれば、おのずと忠誠心も高まるというもの。将軍の居所たる江戸城奥御殿は、将軍をお守りするための最後の砦となるのです」
福がそう言いきると、場から苦々しい声が漏れ聞こえた。
「女子の分際で、最後の砦などとおこがましい」
福は、声を大にした。
「女子の分際で? 今、そう申されたのはどなたですか?」
場を睨みつける福に、誰もが押し黙る。福は、大きくため息をついて言った。
「誰も名乗り出ない、だけでなく誰も否定しない。ということは、この場にいる方々は、皆がそう思っているということですか? だとしたら、私も言わせていただきましょう。男子の分際で、奥御殿のことに口を出すべからず!」
その場にいる誰もがあっけにとられ、怒りで真っ赤にした頬を引き攣らせ、侮辱されたとばかりに腰を浮かせる者までいた。福はその様子を見て、鼻で笑う。
「〈男子の分際で〉と言われたぐらいで憤慨するなど、あきれてものも言えませぬ。これまで私たちがどれだけ〈女子の分際で〉と言われ続けてきたことか」
福はそう言うと、改めて家光に向かって恭しく低頭した。
「将軍御前にて声を荒らげましたこと、お許しください」
居並ぶ重臣たちは、憤懣やる方ないといった顔で黙っている。それぞれの険しい顔つきを家光は見やって小さく息をつくと、座を立った。
「物申したき者は、今すぐ、福に代わって奥御殿を仕切ることのできる者をここに連れてまいれ。それができぬならば、異論を申す者は、この将軍家光に逆らう者とみなす」
その将軍直々の言葉に、重臣たちは「は」と声をそろえ、一斉に平伏した。
家光は福の方を見やると「あとは、よきにはからえ」と言った。
福は頷き返して、微笑を浮かべた。
「家光様の聡明なお言葉、深く感謝申し上げます。これからはこの福が、いえ、奥御殿年寄役が、江戸城奥御殿を、将軍をお守りする場にしてみせましょうぞ」
福の提言を受けて「御合力金」という名で奥御殿の侍女たちに禄が与えられることになった。福は、その後も奥御殿御年寄の権限を使って、次々に制度を整えていった。
これまでは、昼も夜も区別なく仕える「平詰」が当然だったのを、侍女たちに十分な休息を与えられるよう交代で勤める「隔番」に変えた。さらに、侍女が奥御殿に男の家臣を招き入れる不品行が散見するのを厳罰に処し、秩序を保つべく、将軍以外の男子が侍女たちの居室がある局より奥に足を踏み入れることを禁じた。医者や修繕普請の大工など、職務の上で男子が出入りする場合は、管轄の奉行職が同行することを徹底させた。
そうして、福が奥御殿御年寄となって数年が経った頃のことだった。
家光は不穏な腹の痛みから、体調を崩した。
その日は朝から食欲がなかった。朝餉に出された粥を無理に掻き込んだ後は、ずっと床に臥していた。しかし、時が経つにつれ、腹の痛みは増していくばかり。
召し出した侍医に、家光は額に冷や汗を浮かべて言った。
「これは、いつもの腹の痛みではないと思う」
しかし、普段から腹痛や頭痛と言った不定愁訴が多いためか、侍医はさほど深刻にはとらえず、まずはいつもの薬湯で様子を見ることとした。
ところが、夜には高熱となり、さらには激しい頭痛にも襲われた。駆けつけた福は、侍医に対し怒りを露わにした。
「家光様がいつもと違うと訴えたというのに、いつもの薬湯で様子を見ようなどと、とんだ見立てにございますぞ。今すぐ、侍医を呼びつけて罷免いたしましょう!」
福の憤りに満ちた声が、がんがんと頭に響き、眉間に皺を寄せて目を閉じた。その様子を見て、福は「家光様?」と顔を寄せる。
燈火のもと、家光の顔に近づいた福は、息をのんだ。
「家光様、お顔が!」
福は、そのまま廊に控える者に向かって命じた。
「侍医を今すぐここへ! 家光様のお顔に、痘が出ておるぞ!」
廊に控えていた侍女が、小さな悲鳴を上げて侍医を呼びに駆けていく気配がした。
「痘か……」
そう呟いて、疱瘡に罹ったのだ、と自覚した。
疱瘡は、体中に痘と呼ばれる小豆大の発疹が出て、激しい頭痛と高熱の末、命を落とす者が少なくない病だった。治癒して命を取り留めたとて、痘は痘痕となって、生涯、その肌に消えぬ痕を残す。
福は、涙ぐんで言う。
「申し訳ありませぬ。この福がおそばにおりましたら、すぐにでもご不調に気づきましたものを。奥御殿のことにばかり気を取られ……」
「よい、そなたに奥御殿の全てを任せて多忙にさせたのは、私だ」
福の頬にも、痘痕が残っている。幼少の頃に、重い疱瘡に罹ったが一命を取り留めたと聞いたことがある。家光は、福の痘痕に手を伸ばして言った。
「私は、このまま死ぬやもしれぬな」
福は、家光の手を握りしめると力強く言った。
「お気を強くお持ちください。疱瘡に罹ったとて、死ぬと決まったわけではございませぬ。この福とて、今もこうして生きておるのですから」
家光は、無言のまま、小さく頷いた。
城中に疱瘡を広げぬため、家光の病床に近づける侍女は、福ともう一人の侍女のみとなった。
その侍女は、振という名の、家光よりも十歳以上も年下の若い侍女だった。多くの侍女が、痘痕によって見目が侵される疱瘡に罹患することを恐れて看病を辞退したが、振は、自ら進んで役目を申し出たのだという。
まだ女童といえるほどの幼顔ではあるものの、その働きぶりは、病床の家光から見てもわかるほど、真面目で健気だった。痘と膿に塗れた家光の肌に厭うことなく触れ、衰弱して座位もままならなくなった家光の体を支え、排泄の世話すら嫌な顔一つしない。
「すまぬ……」
振は、何のことかというように、首を傾げた。
「汚いであろう、私の体は」
家光がそう言うと、振はすぐさま首を横に振った。
「とんでもないことでございます」
「何か礼をしてやりたいが……この病身では、何もしてやれぬのが、残念でならぬ」
振はまたしても首を横に振る。
「ご快復さえしてくだされば、それだけで十分にございます」
しかし、福と振の懸命な看病の甲斐もなく、家光の高熱は下がる兆しを見せなかった。連日、眠れぬほどの頭痛が続き、寝返りを打つだけで体中の痘が潰れて激痛に呻き、しまいには喉の奥まで痘が広がり、白湯しか飲めなくなった。日に日に死へと近づいていくのが、自分でもわかった。
将軍の疱瘡罹患の知らせを受けて、全国の寺社が病気平癒のための祈祷を捧げ、諸大名からは続々と見舞いの品が届けられた。むろん、高熱が続く家光自身にその品々を見る余裕などはなく、枕元で福が読み上げる目録を、朦朧とした意識の中で耳にするだけだった。
延々と続く目録を読み上げる福の声が、次第に、読経のようにすら聞こえてくる。
(いや、本当に、読経なのではないだろうか)
確実に死に近づいていることを感じながら、読み上げられる諸大名の名が、将軍御前にひれ伏していた姿と重なっていく。この見舞いの品を贈る者たちの中に、本当に心から家光の快復を祈っているものが、いかほどいるのだろうか。徳川将軍家の武威に頭を押さえつけられて平伏している者たちが、将軍の重病を聞いて、平伏したまま口の端に笑みを浮かべている気がしてならない。
「徳川忠長様より、お見舞いとして……」
弟、忠長の名を読み上げられた時、ふと家光は言った。
「私が死んだら、忠長が将軍となるのだろう」
「何を申されますか!」
福は、目録を床に叩き捨てて叫んだ。
家光は、熱に潤んだ目を福に向けた。
「私には、子がおらぬ。私が死ねば、忠長に将軍職を継がせるほかあるまい」
福は家光の手を取って、断言した。
「家光様は、死にませぬ」
「もういつ死んでもおかしくない病状ゆえに、こうして諸大名たちが見舞いの品をよこすのだろう」
「家光様は、死にませぬ」
福は握る手の力を緩めなかった。だが、「そんなことはありません」と否定せずに、ただひたすらに「家光様は、死にませぬ」とだけ繰り返すのは、家光の言葉がその通りだからなのだ。
実子がいないまま家光が死ねば、将軍職は弟の忠長が継ぐことになる。諸大名がこぞって見舞いの品をよこすのは、将軍の死後に「自分は病気平癒を願っていた」という忠誠心の証を残したいからだ。
「父上も重臣たちも、きっと今頃、寄り集まって、忠長を将軍にすべきかと話し合っているのであろう」
「家光様は、死にませぬ……」
福の声は、涙に濡れていた。
家光は、ぼんやりと天井を見つめた。
(真の泰平の世のために、私は将軍になったのではなかったのか)
将軍となるべきは、国松ではない。強くなれぬ者の苦しみがわかる、竹千代でなければ……そう言われたのに。結局は、家光の死後は、忠長に将軍を継がせるしかないのか。
もう、何もかもが、虚しかった。
懸命にしがみついてきた自分の存在意義は、こうもあっけなく失われるものなのか。
「福、少しは下がって休め。このままでは、そなたも体を壊すぞ」
福は、涙ぐむ目で、何度も首を振る。
「いいえ、私は、家光様のおそばを離れませぬ」
「私が臥してから、そなたはほとんど寝ていないであろう」
傍らにいた振も「福様、ここは私が」と福に休むように促す。それでも福は離れようとしない。
「家光様のおそばを、離れたくありませぬ!」
「それは、もうすぐ死ぬからか」
家光の問いに、福は泣き濡れるばかりで、もう何も答えられない。嗚咽して突っ伏した福に、家光は言った。
「ならば、ここで休め。それならば、よいであろう」
「家光様……」
涙目で見上げた福に、家光は頷き返す。
やがて、家光の傍らに伏した福の吐息が、寝息に変わっていくのを察すると、家光は、振に視線をやった。察した振が、枕元に寄る。
「振、あの厨子棚から、漆塗の小箱を取ってくれ」
家光の頼みに、振は素直に頷き、厨子棚の方へ行った。そうして、家光の指した小箱を見つけて手に取ると、それを持ってきた。
「こちらでございましょうか」
家光は、小箱を開けるように目で促した。蓋を開けた振は、その中身を見て、驚いたように言った。
「割れた、鏡……?」
家光は、頷き返して手を伸ばした。振は、小箱を差し出す。
家光は、鋭い破片を一つ手に取って、かざした。振が「あ……」と止めようとしたが、構わなかった。
閉め切った部屋に灯された燈火のもと、割れた鏡の中に、痘に塗れた顔が映った。
「ひどい顔だな……」
そう、独り言つと、小さく笑った。
頬、唇、瞼の上にまで、赤黒く膨らんだ痘が覆いつくし、顔貌を醜く変えていた。振は、慰めの言葉も見つからなかったのか、涙を浮かべてその場に平伏した。
家光は、変わり果てた自分の顔を見つめて言った。
「これが、将軍にふさわしき顔なのかもしれない」
母の死に動揺する弟を見下した時に覚えた優越感が、今、こうして醜い顔になって現れているのだ。
家光は、破片に映る醜い顔を歪ませた。
もう、この苦しみを、終わりにしてしまいたかった。
衰弱した体に残された力で、尖った鏡の破片を首筋に当てた。
力を込めようとしたその瞬間、破片が叩き飛ばされた。
目覚めた福が、起き上がると同時に鏡の破片を平手で叩き飛ばしたのだ。その指先は、切れて血が滲んでいる。
「何をなさっているのですか!」
家光は何も答えなかった。福は、すぐさま振を睨みつけて叱責した。
「振! なぜお止めしなかった!」
「申し訳ございませぬ! まさか、そのようなことをなさるとは思いもよらず!」
「振を責めるな。あれを持ってこさせたのは、私だ」
家光がそう言うと、福は、血の滲んだ指を拭うことなく、家光の両頬を手で覆って、強く言った。
「この世に生まれたからには、何としてでも生きねばなりませぬぞ!」
その言葉に、家光は目を見開いた。
痘で腫れた瞼は、開くだけでも痛みが走る。その痛む視界に、福の険しい顔が映っている。家光は、声を震わせた。
「そなた、だったのか……」
福は、何のことかと見る。家光は、言った。
「この苦しみに塗れた世に私を引き留めたのは、福だったのか」
「いったい、何のことですか」
福は、家光の頬に手を当てたまま訝しむ。
〈生まれた時、私は、誰かの声を聞いた気がする〉
そう呟いたら、傍らで孝子が小首を傾げた……あの新枕の夜を思い出しながら、家光は言った。
「私は、本当は、この世の苦しみも、悲しみも、醜さも、何もかも、知らぬまま死ねたはずなのに。それなのに、そなたが、私をこの世に引き留めたのだ」
その言葉に、福は少し間を置いてから、問い返した。
「まさか、あなた様がお生まれになった時のことを、おっしゃっているのですか?」
家光は肯定も否定もしなかった。自分が生まれた時のことなど、覚えているはずもないのだ。生まれた時に死にかけたのを福が助けたという話を聞く機会は、幼き頃から幾度もあった。それが、記憶のようになっているに過ぎないのかもしれない。だが〈生まれた時、誰かの声を聞いた気がする〉この淡い感覚が、今、確信に変わったのは、間違いなかった。
黙したままの家光に、福は真顔で言った。
「あなた様を、初めてこの腕に抱いた時、私は信じたいと思ったのです」
「信じたい?」
「この御方が継承する世は、誰もが生きる術を失わぬ、真の泰平の世であるはずだと」
「何を、言っているのだ」
「生まれた途端に死にかける、それほどまでに弱き赤子が、天下人たる将軍を継ぐべき男子として生まれたのは、この先きっと、いや必ず、強き者が弱き者を制する世が終わりを告げる証なのだと、私は、そう信じたかったのです」
「だから、私を生き返らせたというのか?」
「真の泰平の世のために、あなた様は、将軍となるべくして生まれたのです」
その言葉に、家光は頬に当てられていた福の手を、強く振り払った。
そのままの勢いで半身を起こし、福の手首を掴むと、折れんばかりにねじ上げた。傍らで、振が小さな悲鳴を上げる。それほど、家光は凄まじい形相をしていたのだろう。
家光は、福の手首をねじ上げたまま、声を震わせた。
「将軍として生きることが、どれほど苦しいことか……」
家光は、福の手首が折れてもいいと思うほど、渾身の力を込めて掴み続けていた。福は痛みに顔を歪ませたが、少しも家光から目をそらさなかった。
鏡の破片で切れた福の指先から、血が滴り落ちる。それでも家光は、福の手首を掴む力を緩めなかった。
「将軍が美しき飾りであり続けることは、確かに、戦のない世の証となるであろう。だが、そうであるならば、将軍として生きるとは、泰平の世に捧げられる贄になることと同じだ」
そう言った途端、痘で腫れた瞼で見開く視界が滲んだ。込み上げる涙をこらえようとすればするほど、膿んだ痘が引き攣れて痛んだ。痘の痛みなのか、心の痛みなのかもうわからぬほどに、この身の全てが痛かった。
生きるとは、何かに希望を抱くことよりも、もうあの頃には戻れないということを重ねていくことばかりだ。ままならぬこの身は、それを幾重にも重ねてここまで生きてきたのだ。
「それでも生きろというのなら……私を独りにしないでくれ」
こらえきれずに溢れ出した涙とともに、言葉が零れ落ちていた。
福は、手首をねじ上げられる痛みに抗うように、強く言った。
「あなた様をこの世に引き留めた瞬間から、私はその責を負って、この生涯をかけると決めております」
「責を負って……?」
福は、頷き返す。
「ゆえに、泰平の世の贄となったあなた様を、私は絶対に、独りにはいたしませぬ」
その誓いに、家光は呻き声を上げて泣き崩れていた。それでも福の手を掴む力は緩められなかった。
掴み続ける福の手はまるで、奔流の中でもがきながら、ようやく掴んだ枝のようだったから。