二
日を改めて登城すると、忠俊は本丸奥御殿にある、竹千代の居室へと向かった。
「新たに傅役を仰せつかまつりました、青山忠俊にございます」
「面を上げよ」
鈴の音のような声に促されて、忠俊は顔を上げた。
上座に、薄青色の小袖袴姿の竹千代が座している。まだ前髪のあるその姿は、少年というより、少女のように可愛らしかった。切れ長の目に細い顎先、色白な肌に薄青色の小袖を着ているものだから、よけいにその顔色が透き通って見える。
その竹千代の隣には、毒々しいほどに濃い蘇芳色の打掛を羽織った、福がいた。
(確か、秀忠様と福は、同じ年らしい。ということは、私の一つ下……とは思えんな)
髪にはすでに白いものが目立っている。黒目がちの眼には強い芯を感じる。幼い頃に疱瘡を患ったのだろうか、頬には痘痕が残っていた。
いかにも気の強そうな外見に、つい奈津と比べてしまう。奈津はいつも微笑んでいて、優しさと素直さが滲み出ているような女子だ。福はその対極にあると言っていい。この女子を妻とする稲葉正成は、さぞ気の休まる時がないであろうと、他人ながら同情したくなる。
忠俊は、心の内に思うことを微塵も出さず、丁重に低頭して言った。
「お福殿におかれましては、これまで、竹千代様のご養育に力を注がれて参られたこと、家康様よりお聞きしております。今後は、元服の儀に向けて、この傅役の青山忠俊が……」
「お福殿、ほほ、お福殿か」
忠俊の言葉の途中で、福が笑った。何か変なことでも言っただろうか、と訝しく見やると、福は言った。
「いえ、殿方から、お福殿、などと丁重に呼ばれることに慣れておりませんので。竹千代様は、福、と可愛らしく私を呼びますし、離縁した夫は雑な口調で、福、と呼び捨てにしていました」
(離縁した夫だと?)
それは、稲葉正成のことかと、引っかかったが、竹千代の御前で問い返すべき話ではなかろうと、いったん受け流した。
一つ咳払いをして、忠俊は生真面目に言った。
「お福殿は、これまで竹千代様のご養育に尽力してきた御方。同じ徳川家に仕える者として、対等な立場で名を呼ぶべきと思ったまでのことにございます」
福は「まあ……」と目を瞬いた。
「そのお言葉、青山様が竹千代様の傅役に選ばれた理由に、私は納得いたしましたぞ」
忠俊は、何のことかと首を傾げる。福は続けた。
「青山様ならば、と、家康様は思われたのでしょう。そう思わせる実直なお人柄が、あなた様の表情や言葉の端々から窺えます」
思いがけず褒め言葉をもらい、忠俊は「さようか」と、どぎまぎと返す。
忠俊と福が話をする間、竹千代は一言も発しなかった。新たな傅役の登場にさしたる興味を示す様子もない。
「竹千代様」
忠俊の方から声をかけると、竹千代は、びくりとして、こちらを見た。
「竹千代様は、武芸の稽古では、何がお好きにございますか」
「武芸?」
「剣術、馬術、弓術、柔術、砲術……まずは、お好きなものからご指南いたしましょう」
忠俊が笑んで言うと、竹千代は「えっと……」と少し考えるようにうつむく。そうして、やや黙した後、ぽつりと言った。
「どれも、好きではない」
「は?」
思わず、そう返してしまう。福が、ちらと忠俊を見る。「ご無礼を」と低頭すると、竹千代は「よい」と言った。
「私は、絵を描くのが好きだ」
「絵、にございますか」
忠俊が訊き返すと、興味を持ってくれたとでも思ったのか、竹千代は嬉しそうに言う。
「先日は、小姓が捕まえてきた野兎を描いた」
すると、それと察した福が、文箱の中から、一枚の絵を出して、忠俊に差し出した。忠俊は恭しく受け取ると、その絵を見た。水墨画のように墨一色で、丸い野兎が描かれていた。
「これは、お上手にございますな」
世辞ではなく、本当に上手いと思った。が、賞賛はできない。将軍となるべき男子に「武芸は好きではない、絵を描くのが好き」と言われても、困惑の方が大きい。
竹千代は無邪気に言った。
「武芸の稽古ではなくて、城の襖絵を描いた狩野の絵師に会いたい」
「は、それは……絵師も多忙でしょうから、すぐにお手配できるかどうか」
忠俊は、作り笑顔を見せて、曖昧に答えるにとどめた。
挨拶を終え、忠俊は竹千代の居室を退出した。
「お福殿」
部屋を離れて、廊を進んだ先で、先導する福を呼び止める。福は「はい?」と振り返る。
「竹千代様は、いつもあのご様子なのか」
「あのご様子とは」
この際、はっきり言ってしまえと、言葉を遠回しにすることなく言った。
「ぼんやりとしていて、覇気がない」
「温和な若君様、と申されたのでしょうか?」
福の口元は笑んでいるが、目が笑っていない。その笑顔に忠俊は怯まず返す。
「まあ、そういうことにしよう。だが、武芸ではなく絵が好きだと言われても、将軍家の若君として、どうしたものかと悩ましく思った」
「私は、竹千代様ほど、将軍にふさわしき御方はいないと思いますが」
何を根拠に、と言いそうになるのをこらえる。
「それは、秀忠様と江様のご嫡男であるから、ということか」
「もちろん、それもあります。家臣の中には、弟君の国松様の方が優れている、などと申す者もおるようですが、私は、断じて、そうは思いません」
そう言って、福は庭の向こうを見やる。本丸奥御殿において、竹千代の居室と国松の居室は、庭を隔てて向かい合っていた。忠俊も、そちらを見やった。
国松の居室には、仕える小姓たちが集っているのだろうか、少年たちの楽しそうな声が、こちらまで聞こえてくる。
「今度、駿府城からおじい様が参られたら、鷹狩に行きたい!」
あれは国松の声だろう、と忠俊と福の間で暗黙の了解が交わされる。
駿府城は、家康の居城だ。そして家康を「おじい様」と呼べる男子は、この江戸城において竹千代と国松の他にいない。
家康は、先日、忠俊に傅役を命じた後、足早に駿府城へと帰っていた。「家康と鷹狩に行きたい」と望む国松の声は、実に武家の男子として望ましい言動で、溌剌としている。
すると、その少年たちの会話の中に、明るい女人の声が加わる。
「それはよいですね、おじい様もきっとお喜びになりましょう」
その声を聞いて、福が、苦々しく言った。
「また江様は、国松様のお部屋に」
忠俊が福を見やると、福は国松の居室を睨んでいた。
「江様は、竹千代様のお部屋にはめったにいらっしゃらないというのに、国松様のお部屋はああして毎日のようにお訪ねになって。竹千代様がお可哀そうにございます」
それは竹千代の傍らに福が常に侍っているからではないのか、と言いそうになるのを、忠俊は胸にしまって、ここは話を変えようと思った。
「そういえば、お福殿は先ほど、離縁されている、というようなことを申されていたが」
確か、福は、関ヶ原の戦の大勝利に貢献した稲葉正成の正妻、という立場で、乳母に召されたのではなかったのか。
すると福は、あっさりと返した。
「ええ。夫の稲葉正成とは、とうの前に離縁しました」
「離縁されたのか」
「いえ、離縁しました」
「は?」
「私の方から、縁を切りました。関ヶ原の戦があって数年ほど経った頃でしょうか」
「待て。そなた、稲葉正成の妻ゆえ、徳川家の乳母としての奉公がかなったのではないのか」
「ええ、稲葉正成の妻、という肩書は、おおいに役立ちました。おかげで、家康様から直々に、竹千代様の乳母のお役目もいただけましたし。ちょうど、末の子を産んだばかりでしたので、良い乳もたくさん出ました」
あまりに朗らかに言うものだから、理解するのにやや間が空いて、忠俊は問い返した。
「……それはつまり、産後すぐに、離縁をしたと」
「ええ。産後すぐにというか、懐妊中でした。子供たちを連れて、夫のもとを去りました」
忠俊は返す言葉が出ない。武家たるもの、跡取りになる実子を妻が連れて去るなど、信じられない。それも懐妊中だ。もしも、忠俊が奈津にそんなことをされたら、困惑どころか、絶望する。そもそも妻の方から離縁を突き付けられて、屋敷を出て行かれるなど、恥ずかしくて周囲に顔向けもできない。
(そんな奔放なことを、奈津がするとは思えぬが)
福は、忠俊の混乱を、気にすることもなく言う。
「正成様はそうされても仕方がないくらいに、私を蔑ろにしたのです」
「だが、夫婦という縁を結んだのだから支え合うものであろう。夫の振る舞いに憤りを覚えたとて、まずは耐え忍び……」
それを福は、鋭く遮った。
「夫が妻を想わず、支えもせぬというのに、妻だけが夫を想い支えよというのは、おかしいとは思いませんか」
福はそう言うと、忠俊に一歩詰め寄る。
「夫の振る舞いを、どんなことも受け入れる。それが、妻としての情であり、夫婦というものだと?」
「そ、そういうものだと、私は思っているが」
すると、福の黒目がちの眼が、つり上がる。
「そんなことを思っているようでは、いつか、青山様も奥方様に捨てられますよ」
「な……」
「なぜ女子ばかりが耐え忍んで、夫婦の縁を保たねばならぬのです。そんなのは、そもそもが、おかしな話です」
「ど、どこがおかしいというのだ」
「女は、男のようにどこかの御家に仕官することも、戦で勲功を得ることもできない。だから、夫や父、男に頼らねば生きる場所がない。そう、青山様は思っているのでしょう」
「そ、そうだが」
忠俊は気圧される一方なのも悔しくて、少々憐れみを向ける思いで言い返した。
「そなたとて、正成殿と別れた後、何も乳母にならずとも、その若さであれば、他の男に再嫁する機会もあったであろう」
すると、福は「はっ」と笑った。
「誰かに再嫁したところで、その相手が良き殿御だという保証は?」
「ほ、保証?」
何を言っているのだ、この女子は。と言い返す間も与えず、福は言いつのる。
「良縁を得て、誰かの妻となり、子を育てる、それが女子のまっとうな生き方。こんな世の常に、謀反を起こす。そのくらいの気持ちで、私は、乳母となったのです」
「この世の常に、謀反を起こす……?」
「ええ。私は、斎藤利三の娘、謀反人の娘でございますからね!」
自分の経歴の瑕疵をものともせず、むしろ胸を張る態度に、忠俊は開いた口がふさがらない。
そこに、「母上」と男子の声がした。福は、その声の方を、勢いよく振り返った。
「正勝、城中で私のことをそう呼ぶな! 幾度言ったらわかるのだ」
「は、申し訳ありません。……福様」
正勝と呼ばれた若者は、顔色を変えて低頭した。福は、一つ咳払いをすると、改まって忠俊に紹介した。
「この者は、稲葉正勝にございます。竹千代様の小姓としてお仕えしております。以後、お見知りおきを」
稲葉正勝の名に、忠俊は合点した。稲葉正成の息子、つまり福が稲葉正成と離縁した時に、連れて出てきたという男子の一人だろう。
忠俊は、律儀に一礼した。
「新たに傅役となった、青山忠俊と申す」
相手はまだ二十歳にも満たない若者でも、竹千代の小姓というお役目を担う身であれば、徳川家に仕官する立場だ。
忠俊は一礼をしつつ、思う。
(息子を、竹千代様の小姓に上げたのか)
徳川将軍家の乳母となった福は、十分な禄を得たはずだ。その上、連れてきた息子を、竹千代の小姓として仕官させるとは。このまま竹千代が元服して、三代将軍となれば、正勝は幼き頃から仕えた乳母子として、重用されることは間違いない。
まさか、とは思うが、そうなることを見越した上で、稲葉正成と離縁して、息子を連れて出てきたのだとしたら。
(なんと、したたかな)
忠俊は、吐息とともに、福を見やった。
妻の奈津と夕餉をともにしながら、忠俊は、福の強烈な印象を語った。
「何より、乳母になるにあたって、離縁した夫の稲葉正成の名を利用したところが、したたかすぎる」
奈津は、少し思案するように黙してから、素朴に問いかける。
「しかし、なぜ、福という女子は、そのように強くあれるのでしょう」
忠俊は、汁椀を一口すすると、迷わず答えた。
「他に生きる場がないからだろう」
「生きる場がない?」
「竹千代様が、万一にでも廃嫡となれば、乳母たる福も、その地位を失うことになる。今さら、離縁した夫のもとへ帰ることもできぬ女独り身で、路頭に迷うしかあるまい」
それを聞いた奈津は、箸を持った手を止めた。
忠俊は続けて言った。
「この世の常に謀反を起こす、だったか。私は謀反人の娘なのだ、と開き直って、とんでもないことを豪語しておった」
「この世の常に、謀反を起こす?」
「ああ、何だったかな。良縁を得て、誰かの妻となって、子を育てるという女子の生き方に、抗いたいのだろう。夫と離縁した女の負け惜しみとしか思えなかったが」
「身重のまま夫のもとを去るほどですもの。決意を謀反と言い換えたくなるほど、前の夫との間でつらい思いをしたのでしょう」
忠俊は「つらい?」と返す。
「息子を連れ去られた夫の稲葉正成殿の方が、よほどつらいであろう」
「……では、福殿は、なぜそこまでして離縁したのでしょう」
「知るか。まあ、あの気の強さだ。大方、福の方から癇癪でも起こして飛び出したのだろうな」
「そうでしょうか……」
忠俊は「そうに違いあるまい」と言って、汁椀をすすった。
「奈津のすまし汁は、うまいなあ。他の女たちには、この味は絶対に出せぬ」
忠俊の褒め言葉に、奈津は黙したままだ。いつもなら、嬉しそうに微笑を見せてくれるはずだ。黙したままの奈津を笑わせようと、忠俊はあえて声高に言った。
「〈竹千代様ほど、将軍にふさわしき御方はいないと思います〉と断言していたが、それは、竹千代様への信頼というよりは、福の願望、ということだな! 別れた夫を頼ることなく生きていくために、三代将軍の乳母となって不動の地位を築きたいのだろう」
奈津が、ぽつりと言った。
「なんと強い女子なのでしょう」
「したたかな女子よな」
軽く笑ってやった。すると、奈津は、忠俊に言い返した。
「強いとしたたかは、違います」
「そ、そうか?」
奈津にきっぱりと否定されるとは思わなかったから、少々戸惑う。奈津は、夫の言葉を否定したことに、はっと気づいた様子で、恐縮して頭を下げる。
「失礼しました。私には、福殿のような強さはないと、そう思ったまでのことにございます」
「なくてよい」
忠俊は即答した。自分の妻が、福のような強烈な女子だったとしたら、気の休まる間がないではないか。こうして自邸に帰れば、穏やかに忠俊を受け入れてくれる。そのおかげで仕官する身の窮屈さも、理不尽な出来事も、乗り越えてきたというのに。
「そなたの良きところは、従順で素直なところなのだから」
忠俊が言うと、奈津はやっと微笑してくれた。
忠俊は、一つ息をついて言った。
「しかし、あの女子のことだ。竹千代様を将軍の座につかせた後は、竹千代様を意のままに動かしかねんぞ」
そう言いながら、何やら薄ら恐ろしいものを感じた。女子の意のままに動かされる将軍が治める世など、誰が望んでおろう。家臣たちの心が離れていきかねない。そうなれば、徳川幕府を倒そうとする者が現れて、再び、天下を狙う武将たちが群雄割拠する戦国乱世に戻りかねない。
すると、奈津は、微笑を浮かべたまま言った。
「この世はこれまでずっと、織田信長様、豊臣秀吉様、そして徳川家康様、と軍事も政事も、男子が動かしてきたのです。女子が力を持ったとて、何が変わりましょう。忠俊様の考えすぎにございますよ」
奈津の言葉に、忠俊は安堵を得て頷いた。
「そうよな、考えすぎであるな」
忠俊は、もう一口、汁椀をすすった。
やはり、奈津のすまし汁はうまかった。