それからひと月ほどして、秀忠は西の丸の竹千代の居室を訪れた。

 竹千代は夕陽の射し込む簀子縁に座して、黙々と絵を描いていた。

 覆いかぶさるように紙に向き合い、瞬き一つせずに、絵筆を動かしている。秀忠が訪れたことにも気づかぬほどに集中していた。その真剣なまなざしに、秀忠は、胸を打たれた。

 いつも自信を持てずに、不安そうにしている竹千代が、こんなにも力強いまなざしで何かに向き合う姿を、初めて見た。

 少し離れた場に、福が見守るように座していた。福は、秀忠の姿を認めて黙礼する。今日、こうして秀忠が竹千代の部屋を訪れることは、事前に福には告げてあった。秀忠が視線を送ると、福は心得た様子で、部屋を去っていく。

 竹千代と二人きりになって、秀忠は声をかけた。

「何を描いておる」

 熱心に絵筆を動かしていた竹千代は、驚いたように顔を上げた。

「ち、父上」

 初めてそこに秀忠がいることに気づいたのだろう、絵筆を手にしたまま、固まってしまった。

「何を、描いておるのだ」

 秀忠はもう一度、問うた。竹千代は、慌てた様子で絵筆を置いて答えた。

「す、雀を描いておりました」

 武芸の稽古ではなく、絵を描いていたことを叱責されるとでも思ったのだろう。竹千代は身を縮めるようにして、うつむいている。

 秀忠は「そうか」とだけ言って、竹千代の隣に腰を下ろした。叱責されなかったことに、竹千代は困惑したような目を向けた。秀忠は黙したまま、庭先を見やる。庭の木の根元には粟粒がまかれ、雀が楽しそうに群がっていた。あの雀たちを描いていたのだろうか。

 秀忠が、絵をのぞき込もうとすると、竹千代は、恥ずかしかったのか、隠すように紙を引いた。

「ち、父上にお見せできるような絵では、ございませぬ」

「いや、なかなか上手ではないか」

 褒められるとは思いもしなかったのか、竹千代は、頬を真っ赤に染めた。

「狩野の絵師に会いたいと、申していたそうだな。青山から、そう聞いたことがある」

 秀忠の問いかけに、竹千代は頷く。

「……はい。城の襖に描かれた、鶴や草花の絵が、とても美しいので」

 その上目遣いは、いったい、父は何用で参ったのだろうと、不安そうに窺い見るようだった。

 秀忠は、庭に戯れる雀に視線をやると、ぽつりと言った。

「私も、そうなのだ」

「え……?」

「私も、美しいものが、好きなのだよ」

 竹千代に語りかけながら、秀忠は、ああそういうことか、と思う自分がいた。

(だから、私は、好きになったのだ)

 初めてその姿を見て、輝くばかりに美しい人だと思った。その時からずっと、江のことが、好きだったのだ。その思いで、秀忠は言った。

「本当は、争うことよりも、美しいものを愛していたい。だが……強き者が弱き者を制する世においては、それが許されなかった」

 震えてしまった声に、竹千代は、小首を傾げた。秀忠は、滲みそうになる涙を見せぬよう、そっと目を閉じる。

「そなたは、私に似てしまったのだよ」

 瞼の裏に映る闇に、涙を染み込ませる。そうして、目を開けた。目の前にあった闇が裂かれるように視界に夕陽が射し込んで、微かに残る涙が睫毛を濡らした。秀忠は、眼前に広がる煌めきに、微笑した。

 その微笑を、竹千代に向けた。父から向けてもらいたかった微笑を、今、自分自身が父親として息子に向けていた。

「将軍の座につく苦しみは、この私が誰よりもわかっている。ゆえに、そなたに、伝えておきたいことがあって、今日は参ったのだ」

 竹千代は、父の微笑に、目を瞬く。だがもう、不安そうに窺い見るのではなく、秀忠の言葉の続きを知りたいと欲するまなざしをしていた。

「失礼いたします」

 頃合いを見計らったように、福の声がした。

 福が手をついて一礼する横で、青山忠俊が、大きな箱を運び入れていた。

「父上、あれは……」

 徳川家の葵の御紋が記された箱は、一見して、鎧櫃だとわかる。

「家康様直伝の歯朶具足だ。それを、そなたに譲りたい」

「歯朶具足を、私に?」

 それを譲るということは、秀忠が二代将軍を退き、竹千代が三代将軍となる日が、遠からず来ることを示していた。

 竹千代は、首を横に振った。

「でも、私は……国松よりも弱くて、武芸も苦手で……」

「それでよいのだ」

「それで、よい?」

 傍らで、青山忠俊が、黙々と歯朶具足を組み立てていく。歴戦を経た忠俊には、具足の組み立てなど慣れたことで、瞬く間に、目の前に家康直伝の歯朶具足が鎮座した。

 金色の歯朶の葉が兜に飾られた時、秀忠は、その輝きを見上げて言った。

「この歯朶具足を、この先、徳川将軍は代々受け継いでいくことになろう」

 秀忠の言葉に、竹千代は消え入りそうな声で言った。

「ですが、私は、おじい様のように、この歯朶具足を纏って、戦場で采配を振れるでしょうか」

「竹千代がこの具足を纏う日は、来ぬ」

「え……?」

「この先も、何代、徳川将軍が続こうと、この具足を纏う将軍は、現れない」

「どういうことですか」

「戦場に将軍が立つ日は、永劫に来ないということだ。真の泰平の世を築くため、二代将軍として私は力を尽くす。ゆえに、そなたに、この父が作る世を継承してほしいのだ。それは、国松ではならぬ。強くなれぬ者の苦しみがわかる、竹千代でなければ」

 竹千代は、何も答えなかった。だが、その目はもう、一つ瞬きをすれば、涙が零れ落ちるほどに潤んでいる。秀忠が、肩に手を置いてやると、そのはずみで、一粒の涙が落ちた。途端、とめどもなく涙が溢れ出て、竹千代の濡れた頬が、夕陽に照り輝いていく。

 福が、竹千代を仰ぎ見ると言った。

「竹千代様が将軍となられる日には、この歯朶具足は、美しき飾りとなっておりましょう」

 竹千代は「美しき、飾り……」と呟く。

 秀忠は、竹千代の繊細な横顔を見つめて、確信した。

 真の泰平の世における将軍とは、誰もが仰ぎ見る美しき飾りであり続けねばならぬのだと。

 

 秀忠が西の丸から本丸御殿に戻ると、薄暮の居室に、江がいた。

「江、参っていたのか」

 やや驚いて秀忠が言うと、江は振り返るなり、鋭く言った。

「家康様の歯朶具足を、竹千代に与えたのですか」

 秀忠の居室から、歯朶具足の入った鎧櫃が消えたことに、気づいたのだろう。

「竹千代は、三代将軍となる嫡男。少し譲り渡すのは早かったかもしれぬが、当然であろう」

 そう答えると、江は、責めるように言った。

「福ですか。あの女に、そそのかされたのですか」

「それは、違う」

 秀忠は断言した。

「福は、竹千代の乳母だ。それ以上でもそれ以下でもない。私は、真に、竹千代に世を継いでほしいと思ったのだ」

「私は、認めませぬ」

 江は頑なに、首を振った。秀忠の方へ詰め寄り、ほとんど泣きそうな声で言った。

「あの子は、あまりに弱すぎる。将軍になるべきは、国松のような強き男子でなければ、なりませぬ。強くなければ、強くなければ、この世を生き抜くことなどできぬのに!」

 それはまるで、夫とわかり合えぬ妻の苦しみが、溢れ出すかのようだった。言いつのる江に、秀忠は静かに答えた。

「認めずともよい。それでいい」

 秀忠の言葉に、江は「何を申されているのですか」と涙に震える声で言い返す。秀忠は、江の両肩に手を置いた。秀忠を見つめる潤んだ目が、今はもう、憐れでならなかった。

 江のことを、誇り高き戦国の姫君と人は言う。けれど、秀忠はそうは思わない。この誇り高き戦国の姫君は、この世を生き抜く中で、多くの肉親を殺されたのだから。父も、母も、伯父も……そして、姉は、夫に殺されたのだ。それでも誇りだけは失わなかった、いや失いたくないと、ずっともがき続けているのだ。

 この美しい人が、この上なく憐れで、愛おしかった。

 秀忠は、江を抱き寄せた。江は困惑したように体をこわばらせたが、秀忠の腕の力に、抗うことはしなかった。

「認めずとも、よいのだ。わかり合えぬことが、そなたと私だから。それでも……」

 秀忠は、江を抱きしめたまま、言葉を詰まらせた。

 秀忠は江の求めるような、強く自信に満ち溢れた夫にはなれない。そして江もまた、秀忠を静寂で包み込んでくれる妻にはなれない。それはきっと、この先も、変わることはないだろう。

(私たちは、永遠にわかり合えぬ夫婦だとしても……)

 それでも、夫婦であり続ける限り、愛し愛される日が来る。真の泰平の世に、それを願うことだけは、どうしても、諦めたくはなかった。

 

(つづく)