序
春日が、死んだ。
あの春日局が死んで、江戸城中が喪に服す中、私は、独り、立ち尽くしていた。彼女が遺した、小さな黒い茶碗を手にしたまま。
両掌に収まってしまうほど小さなこの茶碗は、釉の斑紋が青と銀に輝いている。見る角度によって揺らめく斑紋の輝きは、黒地の碗の色とも相まって、まるで天の星々を思わせる美しさだった。
――曜変天目茶碗――
江戸幕府三代将軍、徳川家光が春日局に直々に贈った、大陸渡来の最上級の名器。病床に臥した春日に薬を飲ませるために、この希少な曜変天目茶碗は贈られたのだ。
それなのに、春日は、一度も使おうとしなかった。
私が見舞いに訪れた時、曜変天目茶碗は、箱から出されてすらいなかった。
*
病床の春日の枕元に、曜変天目茶碗の入った箱が贈った時のまま、蘇芳色の飾り紐で固く封印されていた。
横たわる春日の顔は土気色になり、瞼も力なく閉じられ、ふくよかだった体は痩せ衰えていた。けれど、病に侵されて変わり果てた春日の姿よりも、開けられた形跡のない箱の方に、私は言葉を失った。
この女は、病を治したいという気が、つまり、生きたいという思いが、すでにないのだとわかったから。
私は春日の傍らに座し、その手を握った。
枯れ枝のように細くなった指に、たまらず声が震えた。
「なぜ、あの茶碗を使わぬ。そなたが薬を拒むと侍医から聞いたゆえ、最上級の茶碗ならば、と思うて贈ったというのに」
私の責めるような問いかけに、春日の目がうっすらと開いた。乾いた唇が動き、ようやっと聞き取れるかというほどの吐息のような声に、耳をすませる。
「私は、もうよいのです」
その答えに、私は春日の手を取ったまま、首を横に振った。
「ならぬ、ならぬぞ。さようなことは……」
許さぬ、という言葉が、嗚咽に変わっていた。
薬絶ち、つまり全ての治療を拒むという意志の根幹にあるのは、自ら死を選ぶということだ。
私は嗚咽したまま、春日の体の上に突っ伏した。周りで側近の家臣や侍女たちが見ているのも構わず、その胸に縋りついて慟哭した。
この人に一日でも長く生きてほしい、というよりは、自ら死を望む姿が受け入れられなかった。
春日局という女は、強い女ではなかったのか。
将軍徳川家光の乳母として権勢を誇り、「春日であるぞ!」の一言で、将軍の居城である江戸城大手門をも開かせようとした女ではなかったのか。
病弱な少年だった家光を献身的に育て上げ、三代将軍の地位に就いた後には「私は、生まれながらの将軍である」と豪語させるほどの自信を持たせた、有能な乳母だったのではないのか。
将軍の乳母という立場で、時の帝、後水尾天皇に譲位を迫った女だ、とまことしやかに伝える者すらいるというのに。かの島原の乱の折には、幕府軍の総大将を誰に据えるかで、幕閣たちが「春日局にすればいい」と揶揄したほど、この江戸城において、絶大な存在感を放っていた。それが、春日局という女ではなかったのか。
それなのに、今、目の前で臥す女は、年老いて、やせ細り、消え入りそうな声で死を望み、弱々しい姿を晒している。
痩せ細った胸に、私は頬をすり寄せた。衰えた体は、かつての春日局の姿からは変わり果てているというのに、頬に伝わるぬくもりは、その鼓動は、幼き私を抱きしめてくれた頃と同じだった。
「福……」
この名を、私はこれまでの人生で、いったい幾度呼んだであろう。
このぬくもりを失いたくない。死して冷たくなっていくことなど想像もしたくない。いつまでも、ずっと、そばにいてほしい。この世を生きていく以上、叶わぬ願いだとわかっていても、願わずにはいられない。永遠の別れがあることを、受け入れたくない。
「福、ならぬ、私を置いて逝くなど、いやだ。絶対にいやだ……たのむ、この茶碗で薬を飲んでくれ。今すぐ病を治して、私のそばにいつまでもいてくれ!」
幼子のごとく言いつのる私を、福は母親のように諭す。
「いいえ、何事にも、順というものがあるのですよ」
「順……」
「先に老いていく者から逝かねば……」
私を見つめるその目が潤んでいる。福が言いたいことはわかる。年老いた者から先に、年齢の順に逝かねば、遺される者は、深い悲しみと後悔を抱えていくということも。その言葉を発する福の、母親としての悲しみも、後悔も、私は、知っているから。
わかっているが、それでも、それでも私は……。
*
「福に、生きていてほしかった」
福の最期の姿を思いながら、立ち尽くす私の頬に、涙が伝う。
薬絶ちをしたまま、六十五歳の生涯を閉じた福……春日局を、人々はどう思うのか。彼女の死を知って、江戸城中に溢れかえった涙は、きっと、悲しみの涙だけではなかっただろう。
春日局は、かの徳川家康にも臆することなく物申すほどの図太さを持ち、家光の生母である江との確執にも折れずに自分の主張を押し通し、家光を三代将軍に立たせた後は、息子の稲葉正勝を重職に就かせて栄達させ、江戸城北の丸と神田に広大な屋敷まで手に入れた。その上、将軍の妻女の居所である江戸城大奥の総取締となって、幕閣たちをも黙らせるほどの権力を握り続けた。まさに、この世の権勢をほしいままにした女。そう思う者は、少なくはないだろう。
だが、たとえどう思われようとも、私の中には、私の知っている福しかいない。
曜変天目茶碗に落ちた涙が、星明かりのように揺らめいた。その輝きは、福という名の女子の生きざま、そのものに見えた。
第一話 青山忠俊
一
江戸城本丸表御殿において、忠俊は、徳川家康から直々に告げられた。
「青山忠俊、そなたを竹千代の傅役に任ずる」
忠俊は平伏したまま「ありがたきお役目にございます」と答えた。
竹千代は、家康の孫だ。家康の息子である徳川秀忠が二代将軍となった今、その秀忠の嫡男である竹千代の傅役になる、ということは、徳川将軍後嗣の養育を任されるということ。三十八歳になる忠俊にとって、いや、徳川譜代の家臣である青山家にとって、これ以上の名誉はないだろう。その大役に、わずかばかり声が震えたのは、武者震いだろうか。
「まあ、そう硬くなるな。面を上げよ」
鷹揚な声に促され、忠俊は、顔を上げた。
ふくよかな頬をした白髪まじりの家康が、忠俊をじっと見ていた。その丸い目は、決して鋭くはない。それなのに、見つめられると動きを制される、強い目だった。
(さすがは、天下を治められるほどの御仁)
忠俊の背筋は、おのずと伸びる。
天下分け目の関ヶ原の戦において、大勝利を収めた徳川家康は、諸大名を臣従させ、征夷大将軍となってこの江戸の地に幕府を開いた。そして、息子の徳川秀忠を二代将軍として、代々徳川家が将軍職を継承していくことを世に示すと、二度にわたる大坂の陣において、豊臣秀吉の遺した子、秀頼と、その母である茶々を自害に追いやった。これによって、戦国乱世に栄華の階を駆け上った豊臣家は滅亡し、天下は名実ともに徳川家のものとなった。
その豊臣家を滅亡させた大坂の陣から江戸へ凱旋するなり、青山忠俊は、こうして家康と秀忠の御前に呼び出されたのだ。
「精悍な顔つきであるな」
家康は、満足そうに忠俊の顔を見やる。
「畏れ多いお言葉にございます」
「竹千代は、来年には十三歳を迎える。元服の儀に向けて、忠俊のような気骨ある忠臣に傅役をまかせたい。そうであるな、秀忠」
「仰せの通りに」
家康の隣に座した秀忠が、目礼する。余計なことを言わず、口元に微笑を浮かべるのみだった。
(こういうところが、秀忠様のよろしくないところだな)
そんなことを、思ってしまう。微笑を浮かべて従順に相手の言うことを受け入れるのは、武家の嫡男として求められる姿ではない。忠俊の一つ年下、三十七歳のはずなのだが、その年齢よりもずっと若く見えてしまうのは、この優柔な姿勢ゆえではなかろうか。
率直に言って、見目は悪くない。くっきりとした目鼻立ちは、家康の若い頃はこうだったのだろうか、と想像をかきたてる。だが、自分、というものがまるでない。これまで政の場でも戦の場でも、家康や重臣の言いなりだった。
ゆえに、こうして秀忠が二代将軍となった後も、徳川家臣たちは、家康を大御所様と敬い、家康の言葉を第一義にしてしまうのだ。
家康は、鷹揚な口調のまま言った。
「忠俊、竹千代に乳母がいることは知っているな」
忠俊は「は」と答えた。
福、という名の女が、竹千代出生の乳付けの頃から仕えていることは、江戸城中において知らぬ者はいない。乳母という役は、文字通り、乳を与える母として、赤子の頃で役目は終えるというのに、福は、竹千代が十二歳になる今もなお、側仕えを続けている。
竹千代がいる場には、必ず、福の姿がある。ぴたりと添う姿は、乳母というより、もはや影といっていい。そのくらい、福は竹千代の世話に心血を注ぎ、竹千代もまた福を頼りにしきっている。
「竹千代様が、たいそう信頼なさっている乳母と存じております」
忠俊は、そつなく言った。ここで家康を相手に、福が竹千代に侍っている姿への苦言を述べたところで、吉と出るか凶と出るかわからない。福は、家康直々に選出された乳母なのだと、もっぱらの噂だ。
福の夫は、関ヶ原の戦において家康が大勝利を収めるに貢献した、小早川秀秋の家老、稲葉正成。この男が、小早川秀秋に家康側へ寝返るように勧めなければ、家康の勝利はなかった。家康は、徳川家にとって恩義ある男の正妻を、竹千代の乳母に任じたのだ。
家康は、頷き返すと言った。
「竹千代は、徳川将軍家の嫡男。しかし、生まれつき体が弱いこともあって、何をするにも乳母の福が案じてそばを離れぬのでな」
ほとほと困っている、という言葉までは口にしなかったが、そう言いたいのではなかろうか、と穿ってしまうのは、忠俊の考えすぎだろうか。
「竹千代を、強く逞しい将軍後嗣に鍛え上げるのが傅役のつとめ。乳母の福とともに、尽力してほしい」
家康の言葉に、忠俊は「は」と低頭する。
(ということは、つまり……私の役目は、福とうまく付き合わねばつとまらぬということか)
忠俊の中で、傅役に任じられた瞬間に感じた、武者震いのような感動が徐々に消沈していくとともに、これは大変な役を仰せつかったやもしれぬ、という事実がのしかかってくる。
「そうであるな、秀忠」
家康に振られても、秀忠はやはり口元に微笑を浮かべて「仰せの通りに」と答えるのみ。
家康は、おもむろに言った。
「その乳母、実は、斎藤利三の娘だ」
「斎藤利三、にございますか?」
それでは、謀反人の娘ということではないか。
戦国の覇者である織田信長を、本能寺で弑逆した明智光秀の重臣、と言えば、福が「謀反人の娘」と後ろ指をさされる理由は、誰もが察する。しかし、いわゆる本能寺の変が起きたのは、忠俊が数え五歳の幼子だった頃のこと。徳川家康が天下を治め、豊臣家も滅亡した今、織田信長を誅したことなど、遥か過去の話。
とはいえ、つい問いかけてしまう。
「畏れ多いことながら、家康様は、そのことをご存じで、竹千代様の乳母に召されたのでございますか」
家康は「さよう」と頷いて言った。
「むろん、私も秀忠も、福の出自を知った上で、乳母に登用したのだ。だが、どうも江は、福の血筋を快くは思っていないようだ」
江、の名が出て、忠俊は「それはそうだろう」と言いそうになるのを飲み込む。と同時に、妙に納得してしまう自分がいた。
秀忠の正妻であり、竹千代の生母である江が、福を厭うている理由に。
江と福が場を同じくするたびに、ぎすぎすとした険悪な雰囲気が漂うことを、この江戸城において知らぬ者はいない。江も福も気が強く、互いに譲らない。それは、戦国生まれの女子の気質ゆえ、と忠俊なりに解釈してきた。
(福は、斉藤利三の娘だったのか)
江の伯父は、織田信長だ。
自分の伯父を謀殺した一味の娘が、我が子、竹千代の乳母となり、いつの間にか、のし上がっている。その上、竹千代は福のことを信頼しきっているのだ。江が福に好感を持つはずもなかろう。戦国生まれの女子の気質ゆえ、という漠然とした理由に加えて、確たる証拠を得たような気がした。
「まあ、うまくやってくれ」
家康は、それだけ言った。秀忠の口元に浮かんでいた笑みが、苦笑に変わった一瞬を、忠俊は見逃さなかった。
先ほど感じた、武者震いのような感動は、完全に消え失せていた。
忠俊が下城して自邸に帰ると、妻の奈津が「お帰りなさいませ」と笑顔で迎え出る。
腰の太刀を外して、奈津に託すなり、深い吐息が漏れてしまった。
「どうなさいました、御城で何か?」
「竹千代様の傅役を仰せつかった」
「それは、まことに栄誉なことでございます!」
奈津は、賞賛の声を上げた。忠俊は「うむ」とだけ返すと、居室に入った。その後ろに従って、奈津は部屋に入ると、窺うように問いかける。
「お顔がさえませんが」
忠俊は脇息にもたれて、暗澹と言った。
「ようは、私にしかつとまらぬ役目だということだ」
「将軍後嗣の傅役があなた様にしかつとまらないなど、誇らしいことにございましょう」
「そうではない、竹千代様の乳母とうまくやっていけるのが、私にしかつとまらぬということだ」
「は……?」
「その乳母、福という名の女なのだが、何と言うか……かなり、気が強い。おまけに、江様に、心底、憎まれている」
「ま」
奈津が目を丸くする。その表情に、秀忠が浮かべた苦笑と共通するものを感じた。憐みに近い苦笑だった。奈津は、その表情のまま言った。
「つまり、かなり気が強い乳母と、将軍秀忠様のご正室、御台所である江様との間に立って、うまくやっていける傅役は、忠俊様にしかつとまらぬと」
忠俊は、ため息まじりに返す。
「私は、仰せつかった役目は、何があろうと、最後までまっとうする。この気質を見込まれての抜擢なのだろうが……」
「何と申しますか、この期に及んでは、損なご性格ですこと」
奈津は口に手を当てて「ほほ」と笑った。忠俊は「笑うな」とむっとした。奈津は真顔に戻って「失礼いたしました」と素直に謝った。
忠俊は「ここだけの話だがな」と前置きして言った。
「竹千代様が虚弱な原因は、福にあるのではないか、という気がしてならん」
「虚弱な原因が、乳母に?」
「竹千代様は、お生まれになった時、自力で乳を吸えぬほど弱々しいお体だったという。福の乳付けと養育で、なんとかここまでお育ちになられたのだ」
「まあ……それでしたら、乳母として、立派にお役目を果たしたということではないですか」
奈津の受け答えは、的確で要領を得ていて、その上、素直で従順だ。
(他の女子には、この聡明さはないな)
奈津を改めて惚れ惚れと見やる。忠俊は、多くの武将がそうであるように、奈津の他にも妻、つまり側室がいた。武家の男子は、戦となれば、いつ討ち死にするともしれぬ身。徳川譜代の家臣である青山家の男子として、御家の安泰のためにも、子は一人でも多いに越したことはない。
忠俊は、奈津の問いかけに答えた。
「しかし、所詮、乳母。乳を必要としない年頃になれば退けばいいものを、お体が弱いという理由で、側仕えを続けている。結果、竹千代様は、何をするにも福に甘えて、何もできない子になってしまわれたのだ」
「何もできない子、というのは」
奈津が眉根を寄せる。忠俊はやや声を落として「竹千代様が悪いのではない、福が悪いのだぞ」と言って続けた。
「何もかも、福が先回りしてやってしまうから、満三歳になっても言葉も出ず、ようやっと四歳になろうかという頃に、か細い声で『ふく』と呼んだのが初めての言葉だったらしい。ご自分の意思を言葉で伝えられるようになったのは、ここ最近ではないだろうか」
「ここ最近って……御年十二になられるのでしょう?」
奈津が、そんな大げさな、と目を丸くする。忠俊は「大げさに言っているのではない」と返す。
「江戸城に出仕する者の間では、言わずと知れたことだ」
「まあ……」
「食が細い上に偏食もひどく、米も、粒の固さや色つやの微妙な違いにこだわってしまう。福は、炊き具合を変えたり、茶飯にしたり、赤飯にしたりと、毎食、さまざまな米飯を支度させているというが、炊事役の間では『七色飯』などと揶揄されている」
「七色飯……」
奈津は、笑いそうになる口元を引き締める。先ほど忠俊が「笑うな」と窘めたのを反省しているのだろう。本当に素直な女子だと思う。
奈津は、心底案ずるような口調で言った。
「ですが、食が偏っては、お体もますます弱くなられましょう」
「そうよ。竹千代様は、蒼白いお顔で、体格も細い。季節の変わり目には必ず体調を崩される。そんな竹千代様を、甘やかす福から引き離し、強く逞しい将軍後嗣に鍛え上げるのが、私に与えられた使命。なんとも難儀な役をいただいたものよ」
「お母君の江様は、国松様の方をご寵愛なさっているとか……」
国松の名に、忠俊は「それよ」と悩ましく頷いた。
国松とは、竹千代の二歳年下の弟のことだ。
大きな産声を上げて誕生した国松は、これぞ、待望の男子、という姿で生まれてきた。そして、乳母をつけることなく、母親である江の乳で育てられた。それはまさに、竹千代が乳母の福に頼りきった子に育ってしまったことを、江が苦々しく思っていることの証だった。
忠俊は、ため息まじりに言う。
「江様は事あるごとに、竹千代様と国松様を比べられる」
「竹千代様も国松様も、秀忠様と江様の御子であることに変わりはないのに、どうして比べてしまうのでしょう」
「それは、将軍にふさわしきはどちらなのか、という思いゆえであろう。江様はかの織田信長様の姪姫だ。信長様が天下布武を掲げていたように、強く勇ましき者が頂に立つべきとお考えなのであろう」
「その江様のお考えに適うのが、国松様だと?」
忠俊は「そうだ」と頷いた。蒼白い顔の病弱な将軍など、戦場に出たところですでに負けているようなものだ。かたや国松は丈夫で、体格もよく、何事にも怖気づくことがない。秀忠の後を継いだならば、さぞかし勇敢な将軍となるであろう。
「竹千代様は、背丈はすでに国松様に越され、人見知りも強い。〈国松様はできるのに、竹千代様はできないことばかり〉そう、城中で誰ともなしに囁いているのは、江様はむろんのこと秀忠様のお耳にも入っているはずだ」
「乳母の福殿が必死に竹千代様をお支えしているのは、ひょっとしたら、江様を後ろ盾にした国松様に、後嗣の座を奪われることを危惧されているのかもしれませんね」
「ゆえに、周りに仕える家臣たちは、江様と福が居合わせると、何が起こるかと、毎回、ひやひやする。いつだったか、秀忠様が国松様を褒めると、江様が〈私の乳が良かったのでございましょう〉と言った時の、福の形相は、凄まじかったぞ。あのまま刺し違えるかと思った」
思い出すだけでも身震いがする、と肩を竦めると、奈津は「まあ」と目を丸くして、ついにこらえきれず笑い出してしまった。
「忠俊様の、考えすぎにございます。悪いくせにございますよ」
笑いすぎて出た涙を拭う奈津を見やって、忠俊は、自分を納得させるように呟いた。
「考えすぎ、かのう……」