七
高熱はやがて解熱し、腫れた痘も消退していった。顔にも体にも痘痕は残ったものの、発症からひと月後、家光は一命を取り留めた。
体を清めるための酒湯を浴びた後、快気祝いの宴が催された。
天守台の前に設けられた舞台で猿楽が演じられ、家光は秀忠とともに鑑賞した。弟の忠長も相伴して、重臣たちとともに将軍の快復を盛大に祝した。
その宴の場にも、御台所孝子は姿を見せなかった。将軍の傍らの御台所の座は空席のまま、代わりに奥御殿の侍女たちが華やかに列座している。当然、福も奥御殿御年寄としてその先頭に座していた。
家光は、忠長のもとへ歩み寄ると、自らの手で酒をふるまった。
盃を受けた忠長は、恭しく言った。
「兄上、疱瘡からのご快復、まことにおめでとうございます」
家光は、頷いてから言った。
「私が生き返ったゆえ、またも将軍になる機を失わせてしまったな」
「何を申されているのか……」
忠長は盃を手にしたまま、わずかばかり頬を引き攣らせる。家光は、周囲を見渡して言った。
「私が病床に臥す間、父上も、ここにおる重臣たちも、皆が忠長に将軍職を継がせることを考えていたのであろう。私には、子がおらぬゆえ」
家光の言葉に、周りの者は気まずそうに押し黙る。
忠長は一気に盃を飲み干すと、家光を睨んだ。
「子がおらぬゆえ、という理由ならば、そもそも疱瘡に罹らずとも、四代将軍は私になるということでは? 兄上には、側室もおらぬのですから」
そう言い放つと、忠長は、御台所の不在の席に視線を投げやった。
二十六歳にして、実子がいない。御台所との夫婦仲は不和のまま、側室もいない。となればこの先、世継ぎが生まれるとは思えない。
静まり返る場に、家光は言った。
「側室ならば、おる」
家光が発した言葉に、誰もが耳を疑った。家臣や侍女たちの間にも、ざわめきが起きる。ただ一人、福だけが、動じていなかった。福は、表情一つ変えず、この場によく通る声で言った。
「家光様の、仰せの通りにございますぞ」
忠長は、音を立てて盃を置いた。
「どこに、側室がおられるというのです」
家光がその場しのぎに言ったのであろうと、見透かすような言いぶりだった。家光は無言のまま立ち上がると、侍女たちの方へ歩み寄った。
誰もが家光の行く先を見やったその時、家光は、末席に座す一人の侍女に手を差し伸べた。
「振」
家光に名を呼ばれ、振は、目を丸くして家光を見上げた。その表情には、恐懼が満ちている。周りにいた侍女たちも「まさか振が?」と囁き合う。忠長も、居合わせる家臣たちも、動揺を隠せなかった。それほどまでに、振は、まだ少女といえるような侍女だったからだ。
家光は、振に手を差し伸べたまま言った。
「他の侍女たちが疱瘡に恐れおののく中、そなただけは懸命に看病してくれた。ゆえに、そなたには、これからも側近くにいてほしいのだ」
振は蒼白になって、平伏した。
「お、畏れ多いことにございます、私はただ……」
家光は最後まで聞くことなく膝をつくと、差し伸べた手を平伏する振の背に当てた。
背に当てる手から、振が震えているのが伝わってくる。振は、怯えているのだ。己の身に突如として降りかかった、女子の運命に。
それでも、家光はこの言葉を言わずにはいられなかった。
「もう決めたのだ。そなたは、今宵より私の……将軍家光の側室だ」
その年の夏、疱瘡の快癒を朝廷に報告するべく、福が上洛することになった。
病床に臥している間、諸大名から見舞いの品が届いたのと同じく、朝廷からも見舞いの使者があり、その御礼と快癒の報告のために、家臣を派遣せねばならなかった。
将軍家光の名代として男の家臣ではなく、福を遣わしたのは、絶対に公にはできないもう一つの理由があったからだ。
――御台所孝子を、帰す。
その交渉を、秘密裡に進めるためだった。
孝子の心身の状態が好転する兆しは一向にない。家光との離縁を望み、それが叶わぬとなると悲嘆して症状がさらに悪化する日々が続いていた。このまま将軍御台所という名を背負わせたまま、江戸城に留め置くことはあまりに憐れであった。
しかし、孝子を離縁して帰すということは、すなわち、朝廷と幕府の縁組をも破棄するということ。その交渉にあたり、地位がある家臣を将軍名代として派遣してしまっては、今後の幕府と朝廷の関係に疵がつきかねない。かといってあまりに低い身分の家臣を遣わすわけにもいかない。
ここは、無位無官でありながらも家光に最も近しい立場であると誰もが認める「将軍の乳母」たる福を遣わすことで、あくまで表向きは、疱瘡快気祝いの使者として、事を進めたかった。
そうして、上洛した福は、帝から「春日局」という称号を与えられた。
快気祝いの品として、金五十枚や綿や綾などの贈物を将軍家光から託されて上洛した福であったが、帝と中宮和子に謁見するにあたり、無位無官のままでは参内ができなかった。そのため、公家で武家伝奏の役を担う三条西家の当主の猶妹という扱いとなり、参内して帝から直々に盃を賜ると「春日局」の称号を与えられたのだった。
しかし、ひと月以上の滞在を経て江戸へ帰府した福の表情は、その華々しい称号とは裏腹に、厳しいものだった。
福は、家光に帰府の挨拶をするとともに、内々に託されていた孝子の件を報告した。
「孝子様の件につきましては、叶わぬことにございました」
「どうしても、叶わぬか」
「病とはいえ、御台所となった者を京へ帰すというのは、朝廷の面目を潰すことになると。武家伝奏の三条西様はむろん、中宮和子様の側近や京都所司代の幕臣たちからも強く反対されました」
「これ以上、幕府と朝廷の間に波風を起こしたくはないということか」
「帝に謁見もいたしましたが、やはり二年前の紫衣のことが、いまだ御心にわだかまっておられるご様子でした」
紫衣、の言葉に家光は、深く嘆息した。
高僧の法衣である紫衣を巡って、帝の出した勅許を幕府が無効とした、いわゆる紫衣事件が絡んでいるのだ。
福は、厳しい口調で言った。
「紫衣を巡る幕府の越権行為に、帝は譲位を望むほどの不快感を示され、そのお怒りは二年経った今も解けず。中宮和子様のお立場を保つためにも、帝の譲位をとどめようとしているさなか、孝子様を京へ帰すというのは、あまりに危うすぎるかと」
福の報告を聞くと、家光は重い足取りで孝子の居室へ向かった。
孝子は、相変わらず虚ろな微笑を浮かべ、脇息にもたれて庭を眺めていた。
「孝子」
家光が声をかけると、孝子は、いつものように虚空を指す。
「父上、ご覧くださいませ、東山の稜線が……」
「そうだな」
家光は孝子の幻覚を否定することなく頷いた。そうして、隣に座すと、孝子の指す方を見やって言った。
「孝子、ここを出よう」
虚空を指していた孝子の目が見開かれる。
「都へ、都へ帰れるのですか」
「都には、帰れない。すまぬ……力は、尽くしたのだが」
見開かれた孝子の目に、涙が溜まる。周りに控えていた孝子付きの侍女たちが、身構える。途端、孝子は泣き声を上げ、両腕で脇息を倒した。その勢いのまま几帳も倒し、几帳に当たって灯台が倒れた。明かりの灯る時分であれば、たちまちに火事になったであろう。
「孝子!」
家光は孝子を止めようとするが、筆や香炉など、手あたり次第に物を投げつけられる。侍女たちは、小さな悲鳴を上げて部屋の中を逃げまどうばかり。
家光は、なんとか孝子を羽交い締めにして押さえつけた。孝子はそれでもなお抵抗しようとする。家光は腕を回し、後ろから強く抱きしめた。孝子は身をすくめるようにして、静かになった。その肩は、戦慄くように震えていた。
初めて孝子を抱きしめながら、家光は言った。
「すまぬ、孝子……。悪いのは、全て私だ」
家光が愛せなかったばかりに、孝子の心を壊してしまった。将軍と御台所として出会ってしまったがゆえに、離縁すら叶えることもできない。どんなに言葉を尽くしても、この罪は、償えない。
孝子の力がふっと抜けた。そのまま泣き崩れる孝子の肩を支え、家光は言った。
「せめて、この奥御殿から、解き放ってやりたい」
もうそれしか、できない。それが、将軍家光が御台所孝子のためにできる、たった一つのことだった。
八
孝子は、本丸奥御殿を出て、西の丸との間にある中の丸に居を移した。将軍御台所としての立場はそのままであったが、孝子は中丸様と呼ばれ、以後は御台所のつとめは免除され、中の丸に与えられた屋敷でひっそりと暮らした。
それから二年ほどが経とうかという頃、振に懐妊の兆しが見られた。
福の口から内々に告げられた家光は、すぐさま振のもとへ駆けつけた。
「振、懐妊したのか」
部屋に入るなり問うた家光に、振は頬を染めて小さく頷いた。その頷きに、家光は、へたり込むように座した。
「よかった……これで、将軍後嗣が生まれる」
解放されたような安堵を覚えて、涙ぐみそうになった。
振を側室にすると諸臣の前で宣言したものの、まだ少女ともいえる振を抱くこともできぬまま、年月ばかりが過ぎていた。
そうしてようやく振に初めて触れた夜、その細い体はずっと震えていた。恋というものもまだ知らぬ年頃で将軍の側室にと望まれたことが、どれほど恐ろしく、不安であったことか。振の女子としての運命を変えてしまった自分は、振以外の女子を愛することなど、できるはずもなかった。
振は今では、侍女だった頃とはくらべものにならぬほどに、美しい色打掛を羽織っている。その薄紅色の打掛の袖口から出る華奢な手に、家光は手をそっと重ね、改めて言った。
「本当に、よかった」
「まだ、無事に生まれるともわかりませぬ」
振は不安そうに言った。傍らにいた福も、真顔で頷いた。
「さようにございます。振様にとっても初めてのご懐妊。ご心労をかけぬためにも、着帯の儀が済むまでは、ご懐妊のことは、内々に秘しておかねばなりませぬ」
しかし、将軍家光に初めての子が生まれるという噂は、どこからともなく漏れていき、気づけば城中に広がり、やがては諸大名にも伝わった。人々の噂は、そのまま重圧となって振の体に襲いかかった。酷い悪阻に苦しみながら、周囲の期待に押し潰されていく振の体は、みるみる衰弱していった。
「着帯の儀が済むまで、公にせぬはずではなかったのか!」
声を荒らげた家光に、福は低頭して答えた。
「公には一切しておりませぬ。しかし、人の口には蓋ができぬと申しますか、振様のご懐妊を察した者の口から、漏れ伝わってしまい……」
家光は苛立ちを露わに福に命じた。
「問い尋ねる者がいれば、今後一切、見舞いや進物は不要、と申せ! 無事に誕生した後も、大げさな祝儀は全く望まぬ! とにかく、振の体を第一とせよ!」
その厳命もむなしく、月満ちることなく振は流産した。
知らせを受けて、家光は、両手で顔を覆ってうなだれた。報告した福もまた、押し黙っている。どんな言葉も、慰めにならないことは、わかっているのだろう。
「もう、よい」
「家光様?」
「もう、忠長を将軍後嗣とすればいい。そうするほかあるまい」
衰弱した振を思うと、再びの懐妊を期待することは酷だった。かといって、新たに側室を迎え入れるなど、考えたくもない。
投げやりに言った家光に、福は思いがけないことを口にした。
「ならば、水戸徳川家の頼房様の姫君を、ご養女に迎えるのはいかがでしょう」
「養女?」
唐突に何を言うのだと、家光は福を見やる。福は頷き返して言う。
「水戸徳川家の頼房様の四女、絲姫様が、過日、家康様のご側室であられた英勝院様に引き取られたことはご存じですか」
「むろん。聡明な姫君ゆえ、ゆくゆくは出家させて、鎌倉にある菩提寺の尼住職としたいと。先日、英勝院の方から、将軍である私にも許しを求める話があった」
「絲姫様が聡明な姫君であることは、以前より、私も、お調べしておりました」
「調べる? いったいなぜ」
家光は、訝しく問い返した。福が何を言いたいのか、全く見当がつかない。
「水戸徳川家の頼房様は、家康様の十一男であられた御方。つまり、娘である絲姫様は、家康様の孫にあたる姫君にございます」
「そうだが、それが何だというのだ」
「家康様の孫姫を家光様のご養女として江戸城に迎え入れ、徳川将軍家の姫君とする。その上で、尾張徳川家か、あるいは紀伊徳川家から、しかるべき男子を見出して縁組をするのです」
「縁組?」
「水戸、尾張、紀伊の徳川家は、家康様が将軍家断絶に備えて分家した御三家。その家門の若君と将軍家の姫君が縁組をすることは、すなわち、将軍後嗣となりえる男子を選ぶに等しきことかと」
「それはつまり……婿を将軍とするのか」
福は、目だけで頷いた。家光は「だが、そんなことは」と首を振る。
「忠長が認めまい。自分という嫡流の男子がいながら、他家から迎えた男子を将軍とするなど」
「嫡流の男子だからといって、将軍に適しているとは限りますまい。それに、家光様の後嗣として考えるならば、年の近い忠長様を立てるよりは、家康様がお認めになった御三家から、家光様の意に適う若君を立てる方がよろしいのでは」
「それは、そうだが。しかし……」
家の跡継ぎとは、その家に生まれた男子が代々継ぐべきもの。だからこそ、誰もが正妻だけでなく、多くの側室を求め、一人でも多くの男子を儲けようと望むのだ。それが、世の常であるのに……と思いかけて、家光は福を見た。
「この世の常を、覆すのか」
福は、微笑を浮かべた。
「私は、これまでずっと、そう申し上げてきたはずですよ」
九
家光は、絲姫を養女として江戸城の奥御殿に迎え入れ、将軍家の嫡女を意味する大姫の名を与えることにした。絲姫を養女に迎える本当の理由を知らぬ者は、誰もが、振の子が流れたことへの傷心を癒すための養女だと思っていた。
その頃、城中で囁かれる噂に、家光は耳を疑った。
――忠長様のご乱心。
居城の駿府城において、忠長の乱行が目立っているという。
今年の正月に江戸城に登城した時には、そのような様子は少しもなかった。家光とともに、西の丸の秀忠のもとに年頭の挨拶に伺い、相変わらず兄と弟の間に弾んだ会話もなかったのも、いつものことだった。
家光は、すぐさま稲葉正勝を呼び出して問うた。
「近頃、気になる話を耳にするようになった」
「忠長様のことにございましょうか」
正勝が即答したことが、その噂は本当だということを示していた。
「そなたが把握していることを、包み隠さず申せ」
家光の命に、正勝は低頭して答えた。
「家臣をお手討ちになさったのが始まりだったようです。酒乱とみなしていたのですが、今では、家臣や侍女たちも恐れおののき、出仕を拒むほどになっているとか」
包み隠さず申せと言ったのに、その答えは、言葉を選ぶかのように慎重だった。
「家臣や侍女が出仕を拒むほどとは、よほどのことであろう。ただの酒乱による手討ちではあるまい。包み隠さず申せと言ったであろう!」
家光が強い口調で言うと、正勝は、やや黙してから口を開いた。
「気に入らない家臣や侍女を斬り殺すばかりか、仕える女童を唐犬に襲わせて愉しみ、城下では辻斬りをしている……という話までもが上がっております」
「なんと……」
あまりの乱行ぶりに、すぐには言葉が出なかった。一つ息を吐くと、厳命した。
「ただちに駿府城へ使者を送り、忠長を江戸へ召し出せ」
正勝は「はっ」と宜うと、すぐさま退出した。
誰もいなくなった部屋で、家光は脇息にもたれて額に手を当てた。
大御所である秀忠にも報告するべきだろうか。いや、あまり事を大きくはしたくない。まずは、忠長に会って、真偽を確かめてからにするべきだ。