第二話 徳川秀忠

 

 

「国松が可哀そうでなりません!」

 涙まじりに言う江を、秀忠は「落ちつけ」とその場に座らせようとした。江は抗って手を振り払い、立ったまま言いつのった。

「家康様は、国松がいかに優れて逞しい子か、まるで存じていらっしゃいません!」

 竹千代と国松に長幼の序を諭し、国松を叱責した家康は、今はここにいない。秀忠の居室で夫婦二人きりになった途端、江は感情を露わにしたのだ。

「竹千代は虚弱で、何をするにも福に頼るばかりの子です。将軍にふさわしいとは、到底、思えませぬ」

 竹千代の乳母である福の名を、苦々しく口にした江に、秀忠は言った。

「ゆえに、傅役に青山忠俊をつけたのだ。竹千代も元服をすれば、将軍後嗣としての自覚をもって、変わってこよう」

 なだめようとする秀忠に、江は一層、声を高くした。

「弱き者が上に立つということは、徳川家の存続にもかかわるのですよ。私は、徳川の妻として、申し上げているのです」

「わかっておる」

 徳川の妻、というところを強調して言うところが、江なりの仕返しだと思った。先ほど、家康に向かって出過ぎた言動をした江を、秀忠が制したことを根に持っているのだろう。

(江のためを思って、制したのに)

 もし、あの場で「織田信長が生きていれば、徳川の世などなかった」などと言いきっていたら、どうなっていたか。家康が機嫌を損ねる、といった単純な話ではない。徳川家臣たちがいる中で、家康の天下統一を真っ向から否定することになりかねなかった。二代将軍徳川秀忠の正妻の発言として、そのようなことがあってはならない。

 そう伝えようにも、その隙も与えぬ勢いで、江は言い続ける。

「わかっている? 何をわかっているというのです。わかっているのならば、なぜ、秀忠様は家康様に対して、否と申してくださらなかったのですか。私のことを、妻だからといって黙らせたというのなら、あなた様ご自身が、徳川の嫡男として、父親に堂々と物申してほしかった。後嗣にふさわしきは、竹千代ではなく国松だと、なぜ、申してくださらなかったのです」

 秀忠は「すまぬ」とだけ言った。なぜ、なぜ、と己が正しいと信じて疑わぬ態度で攻めてくる者を相手に、これ以上、何かを言ったところで、余計に諍いが増すだけだ。

 ひょっとしたら、かの織田信長も、こうやって相手を黙らせていたのではないだろうか。

 江は、織田信長の姪姫だ。その血筋を持つ彼女を、誇り高き戦国の姫君、と人は言う。信長全盛期に母親譲りの美しい見目を持って生まれ、父母を戦で亡くした後は、豊臣秀吉の庇護を受けた。そして、天下人たる秀吉の養女として、政略の婚姻と離縁を繰り返した。

 この誇り高き戦国の姫君にとって、秀忠は、三度目の夫だった。

 夫婦となったのは、江が二十三歳、秀忠が十七歳の時。秀忠の方は初婚であり、もちろん、豊臣家と徳川家を結ぶための政略の縁組だった。

 当時、徳川家は豊臣家に臣従する立場。豊臣秀吉から直々に賜った六歳年上の誇り高き戦国の姫君は、十七歳の秀忠にとって、まさに仰ぎ見るような存在だった。

(それは、今も変わらないか……)

 婚姻から二十年。三十七歳となった秀忠は、今もこうして、江を仰ぎ見ている。

 秀忠は、一つ息をつくと、声を荒らげることなく言った。

「三代将軍になるべきは、竹千代。父上のお心はそう決まったのだ。私はそれに従う」

「ええ、そうでしょう。秀忠様は、家康様に逆らったことなどございませぬものね。将軍となる我が子を選ぶのも、家康様の仰せの通りにと」

 秀忠は、何も返事をしなかった。

 こんな時、秀忠は一喝できない。六歳の年の差に遠慮をしているわけではない、織田信長と豊臣秀吉に繋がる輝かしい生い立ちに引け目を覚えているわけでもない。

 人と争うことが、好きではないのだ。

 自分がこらえて事が収まるなら、それでいいと思う。この忍従の態度が、江の目には、優柔と映ることも、わかっている。そしてそれが、家臣たちが秀忠を軽んじている最たる理由だということも。

 二代将軍を仰ぎ見る家臣たちの目が、秀忠の背後にある家康の存在を見ている。そう感じ取るたびに、将軍という名を背負い、独り、立ち尽くしている感覚に陥りそうになる。

 もうこれ以上、この話を続けたくない。その思いで、竹千代と国松の今後の処遇を、一方的に口にした。

「竹千代が三代将軍となった後は、国松には、甲斐かいとおとうみあたり、しかるべき一国を与えて、将軍家に次ぐ大名とする。もうこの話は、それでよかろう」

 そう言ってこの場を去ろうとすると、江は秀忠の袖を掴んだ。

「私は、認めません」

 秀忠が見やると、江は思いつめたように言った。

「たとえ、家康様と秀忠様が、竹千代を三代将軍として認めようと、母たる私は、認められません」

「何を申しておる」

「竹千代は、あまりに弱い」

「確かに、竹千代は、病弱で気も弱い。だが……」

「私は、肉親を殺されたのです」

 その言葉に、袖を掴む江の手を、振り払えなかった。

「この戦国の世において、私は、父も、母も、伯父である信長様も、皆、殺されました。そして、姉も」

「…………」

 姉とは、大坂城で死んだ、豊臣秀頼の母、茶々のことだ。

 去る大坂の陣において、秀忠は父の家康とともに諸大名の軍勢を従えて、豊臣家を滅亡させた。そして、豊臣秀頼と茶々は、燃え上がる大坂城において自刃した。

 つまり、江は、家康と秀忠に……夫の家によって姉を殺されたのだ。

 秀忠は、次に続く江の言葉に身構えたが、思いがけず、江は静かな口調になった。

「ですが、私は嘆くつもりも、あなた様を責めるつもりも、ございませぬ。それも全て、戦国の世に生まれた運命と思うまでのこと」

 その言葉は、誇り高き戦国の姫君、という呼び名にふさわしかった。

 江は、掴んでいた袖から手を離すと、言った。

「滅びるものは全て、弱きゆえ。この世を生き抜くには、強くあらねばならぬのです。それを、私は、いやというほど思い知っています」

「ゆえに、弱き竹千代は、後嗣として認められぬと」

 江は、頷いた。

「あの子は、この世を生きるには、あまりに優しすぎる。ましてや将軍など、かえって苦しむだけでありましょう」

「それは……」

 繊細な子として生まれた竹千代が将軍になれば、苦しむだけ。

 まるで、自分のことを言われているかのようだった。

 竹千代を認められないという江の言葉が、そのまま、自分に向けられている気がしてならない。なぜならそれは、誰よりも、秀忠自身がそう思っていることだから。

(将軍になるべきは、私ではない。死んだ兄上の方だったのだ……)

 立ち尽くす秀忠に、江は言った。

「あの子を産んだ母親として、あの子に与えうる唯一の情は、将軍の座を弟の国松に譲るべきだということなのです。ゆえに、父親であるあなた様には、どうしてもわかっていただきたいのです」

「父親としてわかってやったところで、何が変わるというのか」

 思わず口にしてしまった言葉が、自分でもわかるほどに投げやりだった。

 江が訝しむ。一度出てしまった言葉を取り消すこともできぬと諦め、秀忠は言った。

「自分自身が、父親から信頼されたことがないのに」

 秀忠は、これまで戦場で、家康から失望ばかりされてきた。もともと人と争うことは好きではない。当然、戦の采配も家臣団を率いる大将としての振る舞いも下手だった。天下分け目の関ヶ原の戦においては、あろうことか、遅参した。

 関ヶ原へ向かう途上の信州上田城攻めに苦戦して、関ヶ原に到着した時にはすでに戦は終結していた。秀忠は、ただちに家康のもとへ馳せ参じたが、家康は三日間も会ってくれなかった。

 取り返しのつかない過去を思い返すたび、自分の不甲斐なさに苛まれる。押し黙る秀忠に、江は、強く言った。

「そこが、あなた様の、よろしくないところなのです! 家康様はもうすでに、あなた様に将軍の座を譲ったのですよ。いつまで、遠慮しているのです」

 黙ったままの秀忠に、江はやるせなく首を振って言った。

「だいたい、此度のことも、あなた様の態度を、福に利用されたのでしょう」

「福に利用される?」

「福の画策ですよ。駿府城にいらした家康様が、にわかに江戸で鷹狩を望まれるなど、おかしいと思っていたのです。福が、伊勢参りと偽って駿府城に赴いて、家康様をそそのかしたに違いありません。秀忠様は家康様に逆らえぬゆえ、大御所たる家康様を味方につけて、将軍後嗣を確定させてしまおうと」

「そのような大それたことを」

「するのが、あの女にございます」

「またそのような……」

「福の肩を持つのですか!」

 途端、江の目がつり上がって、秀忠は「そういうつもりはない」と否定した。下手に秀忠が福のことを言うと、江の心を掻き乱すのはわかっていた。

「まさか、秀忠様は福のことを……」

「そのようなことはない」

「まことにございますね」

 にじり寄らんばかりの江に、秀忠は断言した。

「まことだ」

 

 江が退出すると、秀忠は、深い息をついてその場に座り直した。

 江が福のことを厭うていることは、この江戸城において、知らぬ者はいない。その原因は、福の出自にあると、人は言う。江は伯父の織田信長を、明智光秀に殺された。その明智光秀の重臣の斎藤利三が、福の父親だった。その謀反人の血筋を、江は憎んでいるのだと。だが、秀忠は、それだけが理由だとは思わない。

(江は、私と福が、同い年なのを許せないのだ)

 そんな、どうにもならないことを、受け入れられない。自分の矜持に疵がつくことを、許せない。

 江の気持ちは、夫として、二十年のときを過ごすうちに、わかるようになった。

 江は、夫より六歳年上であることを、気にしていた。徳川家の嫡男の正妻として、男子を挙げねばならぬというのに、女子ばかりが生まれたことも少なからず影響していたとは思う。夫の身辺に、常に目を光らせて、若い侍女が近づくことに不快感を示した。

 秀忠は生真面目な性格だ。政略で結ばれたとはいえ、江をきちんと愛すべきだと思っていた。ゆえに、側室は持たなかった。秀忠付きの侍女も全て、江よりも年上の落ち着いた者を選んだ。

 いつだったか、夜分に家康の居所を訪れた際、気を利かせたつもりなのか、家康が秀忠のもとに女子を寄越したことがあった。菓子を持って寝所を訪れた姿に、とぎに来たのだと察したが、気づかぬふりを通した。差し出された菓子を「美味いな」と褒め、しばし談笑してやり、女子の体には指一本触れずに帰してやった。

 そのくらい秀忠は江に気を遣ったためか、家康や家臣たちは、嫉妬深い妻を持った憐れな男よ、とあきれていた。

(だが、江は、嫉妬深いのではない)

 それを知ったのは、一度だけ、秀忠が過ちを犯してしまった時だった。

 しず、という名の女子だった。その名の通り、物静かな振る舞いに心惹かれた。包み込んでくれるような静寂さに、気づいた時には手を取ってしまっていた。たった一夜の過ちのつもりだった。

 ところが、静は懐妊して、男子を産んだ。

 それを知った江は「私のことを侮っているのですか!」と秀忠を激しく詰った。

――侮っている。

 その一言に、秀忠に対して抱く、江の感情の全てが込められていた。江は、夫の心移りが悲しいのではなく、侮られたことが、許せなかったのだ。

 その時、秀忠は悟った。いや、諦めがついた、と言うべきか。

 江は、秀忠のことを、微塵も愛してはいないのだと。

 嫉妬すらしてくれない。所詮、政略のために結ばれた夫婦。愛されることなど、期待してはいけなかったのだ。

 結局、生まれた男子は、他家へ養子に出され、徳川家との縁も切らされた。

 それでも、江は、秀忠の過ちを許してはくれなかった。どんどん、疑り深くなって、ついには、福が同い年で、しかも離縁して独り身であることすら気にするようになった。竹千代の乳母である福が、秀忠の御前に姿を見せることは、常日頃からある。そのたびに、江の目は光るのだ。

(ありえない、絶対に)

 秀忠は、首を振った。

 秀忠は、物静かな女子に惹かれるのだ。それとは正反対といえる福に、心惹かれるはずがあろうか。それなのに、同い年だという理由で疑ってくる。

 そんな、どうにもならないことを、許せない。それが、江だった。

 

 

 三代将軍になるべきは竹千代、と家康が明言した数日後、秀忠はこうのにいた。

 鴻巣は、将軍家の鷹場である御拳場の一つ。家康江戸来訪の表向きの理由である鷹狩に、家臣を率いて同行したのだ。

 秋晴れのもと、広大な武蔵野には涼やかな風が吹き抜け、草叢には萩の紅い花が揺れている。獲物を追い立てる勢子たちの太鼓や鳴子の音が、澄んだ空に高らかに響いていた。

 秀忠は、自らの鷹を放つことなく、その光景を見渡していた。

 爽やかな秋野の景色とはうらはらに、秀忠の心の内は晴れない。鷹狩は、あまり好きではない。勢子に追い立てられ、上空からは鷹に狙われ、驚き慌てふためく野鳥や兎などの小さき命の悲鳴を、草叢の陰に感じ取ってしまって、心から楽しむことができなかった。

(だが、そんなことをこの場にいる者に言ったところで、誰にも理解されないだろうな)

 秀忠は、人知れず、息を吐く。

 勢子に追い立てられて飛び出した雉へめがけて、家康が揚々と鷹を放った。鷹は家康の意のままに飛び立つと、鋭い嘴と爪で雉を仕留め、場に「お見事!」と歓声が起こる。それに合わせて、秀忠も「お見事にございます」と家康に向かって一礼すると、笑顔を作った。

 秀忠とは異なり、家康は鷹狩を好んでいた。駿府城から伴ったお気に入りの鷹が俊敏に獲物を捕らえ、ご満悦の様子で声を上げて笑っている。

 その姿を見ながら、どこか遠くの景色を見ているような心地がした。何も今に限ったことではない。ずっとそうだった。

 それは、家康があまりに偉大な存在だからだろうか。いや、そもそも、疎遠なのだ。正妻の子ではなく、側室の子として生まれた三男の秀忠のことを、徳川家の後嗣になる男子だとは誰も思っていなかったのだから。

(今でも思う。なぜ、自分が二代将軍なのかと)

 正妻の子である長兄の信康が生きていれば、今頃、自分はこんな場所には立っていなかったはずだ。

 その時、秀忠の傍らに控えていた青山忠俊が、そっと声をかけてきた。

「秀忠様も、どうぞ遠慮なさらず鷹をお放ちください」

 秀忠は曖昧な微笑で返す。

「私はいいのだ。今日は、父上に存分に楽しんでいただきたい」

 秀忠は、鷹の扱いも苦手だった。ここぞという時に鷹を放っても、たいてい思い通りには飛んでくれず、獲物を取り逃がす。鷹狩の名手である家康の横で、その嫡男たる秀忠が下手な技を披露したら、家臣たちもどう言葉をかければいいのかと、困るだけだろう。余計な気を遣わせるだけなのは、目に見えている。

「さようでございますか。しかし、せっかくですから……」

「鷹が獲物を捕らえる様を見るのも、心苦しいからな」

 なおも勧めようとする忠俊の言葉を遮ろうと、つい、本音が出てしまった。そっと家康の方を見やったが、家康はすでに秀忠から離れ、鷹が捕らえた獲物を確かめるため、馬に乗って野を駆っていた。

 家康に本音を聞かれていなかったことに、ほっと小さく息をつく。

 武家の男子として、鷹狩はたしなみの一つ。強き猛禽が弱き獲物に喰らいつく様を「心苦しい」などと言っては、武家の棟梁たる将軍としてまるで示しがつかぬ。秀忠は、取り繕うように、青山忠俊に向かって、しいて明るい声で言った。

「今度は、竹千代も伴っての鷹狩を催したいものだな」

 すると、忠俊は言った。

「ですが、きっと竹千代様も、同じようなことを言うでしょう」

「同じようなこと?」

 忠俊は、深刻な顔つきになって言った。

「鷹が獲物を捕らえる様を……強き者が弱き者に喰らいつく様に、竹千代様は、お心を痛めるに違いありません」

「なぜそう思う」

「以前、そのようなことがありましたから。大蟷螂が雀を襲っているさまを見て、竹千代様はひどく怯え、悲しまれ……竹千代様は、お心が優しすぎるのです」

 秀忠は「そうか」と返すにとどめた。忠俊は低頭して、言葉を足した。

「私は、竹千代様のことを悪く思っているわけではありません。もちろん、竹千代様を三代将軍にと望まれた家康様のお考えにも、秀忠様にも、そむくつもりはございませぬ」

「うむ」

「ただ……竹千代様は将軍となられるには、あまりにお心がお優しく、それが傅役としては案じられてならぬのです」

 忠俊は、ここまで言ってしまった以上、問わずにはいられないと言った様子で、秀忠を改めて仰ぎ見て言った。

「家康様はなぜ、果敢な国松様ではなく、繊細な竹千代様を将軍後嗣にお選びになったのでしょうか。そのご深慮を、秀忠様は、どうお考えですか」

 秀忠は黙したまま、目をそらす。父が何を考えているかなど、わかるはずもなかった。

(私にわかるのは、父上が私のことを信頼していない、ということだけだ)

 そうとは言えないから、代わりに福のことを問うた。

「福は、何と申しておる。竹千代が将軍となることを」

「は、福にございますか?」

 福のことを問い返されるとは思わなかったのか、忠俊は返答に迷うように沈黙した。

 ちょうど、また家康の鷹が見事に獲物を仕留めたのか、遠くで、どっと歓声が起こった。秀忠は、その歓声の方を見やることもなく、忠俊の答えを待った。

 忠俊は、慎重に答えた。

「福は〈竹千代様ほど、将軍にふさわしき御方はいない〉と信じて疑っておりません」

「ほう」

「福は……あの者は、なかなかに凄まじい女子かと」

「凄まじい、か」

 返す言葉が、苦笑まじりになってしまう。

 秀忠の苦笑を受けて、忠俊は、日頃から思うことが積もり積もっていたのか、抑えられなくなったように言った。

「天下分け目の関ヶ原の戦で功のあった、稲葉正成の正妻、という立場で竹千代様の乳母に抜擢されておきながら、蓋を開けてみれば、稲葉正成とは離縁しておりますし、それでいて、息子の正勝を竹千代様の小姓に上げ、重用させている。その上、江様とは、すこぶる折り合いが悪い」

 江の名が出て、秀忠は頷き返す。傅役となって、江と福の間に立たされる忠俊の心労は察するにあまりある。それが、凄まじい、という言葉にも表れているのだろう。

「忠俊には、苦労かけるな」

 そう言ってから、秀忠はふっと口にした。

「しかし、福がいなければ、竹千代はすでにこの世にいなかったやもしれぬ」

「は……?」

「竹千代が生まれた時、今にも息絶えそうだったことは知っているか」

「話には、聞いております」

 秀忠は、武蔵野の空を見上げて言った。

「竹千代は、徳川家にとって、待望の男子だったというのに、産声を上げた日、城が歓喜に包まれることはなかったからな」

 

(つづく)