*
「まことにおめでとうございます。若君様のご誕生にございます」
江の出産を告げた家臣の表情は、その言葉とは真逆で、思いつめた様子だった。
江はこれまでに秀忠との間に四人の女子を産んでいた。今までは安産で、「姫君様にございます」と告げる家臣の表情に、また男子を得られなかった、という落胆は感じられたものの、新しい命の誕生に明るい笑顔を見せていた。
瞬時に、母体か赤子に何かがあったのだと察して、秀忠は立ち上がった。
「産室ヘ、案内せよ」
何が起きたのかと問うよりも、一刻も早く、江と赤子の姿をこの目で確かめたかった。その思いに、家臣は「しかし産室は……」と言葉を濁す。慣習として、お産は血の穢れとされ、男子が安易に産室に足を踏み入れることは憚られる。産穢に触れれば、穢が明けるまでの間、秀忠は身を慎まねばならず、政務にも支障が出ると案じたのだろう。
だが、そんなことよりも、妻と子の身の方が大事だ。秀忠は迷うことなく「構わぬ」と言うと、江戸城西の丸に設けられた産室へと向かった。
そうして、産室に足を踏み入れた時、家臣の思いつめた表情の理由を知った。
産後の体を横たえた江の隣で、産婆が赤子を抱いている。その腕の中から聞こえる泣き声は、今にも消え入りそうなほど、か細い声だった。
引き攣るように泣く赤子の顔は蒼白く、細い四肢は震えている。取り上げた産婆が、慣例通りに「ご立派な若君様にございます」と口上する言葉が、あまりにも空虚に感じられるほどだった。
徳川家の待望の男子が、このような虚弱な姿で生まれたことに、居合わせる誰もが、沈痛な面持ちで押し黙っていた。江は、体を横たえたまま、目すら開けなかった。
その時、場に、よく通る声が響いた。
「お乳付けに参上いたしました!」
静まり返った産室に響き渡る声を見やれば、乳母の福が部屋の入口で手をついていた。
乳母としての初仕事、乳付けの儀に参ったのだ。
場にそぐわぬほどの明るい声に、まるで、自分の存在感を誇示するかのごとき濃い蘇芳色の打掛姿。福の無遠慮な登場に、秀忠は眉を顰めた。
福の後ろには、一人の少年がひっそりと控えていた。福の長男の正勝、当時は幼名の千熊だった。乳母子、つまり、乳兄弟として生涯、若君に仕える忠誠を示すべく、ともに登城したのだろう。
福は、何の躊躇いも遠慮も見せずに産婆から赤子を抱き取ると、慣れた手つきで胸元をはだけて乳を含ませた。福は、千熊を含め、三人の男子の母だと聞く。その経験をふまえれば、丈夫な赤子とは程遠い姿に、動揺を見せてもおかしくないであろうに、福は、少しも表情を変えなかった。
しかし、赤子はその乳すらも、うまく飲み込めずに噎せた。喉が詰まったのか、蒼白い顔はたちまちにして青黒くなり、産婆が小さな悲鳴を上げ、場に緊張が走った。秀忠も「いかがしたか!」とたまらず声を上げて、身を乗り出した。
すると、福は、すぐさま膝立ちとなり、赤子の顔を下に向けて背中を強く叩いた。主君の実子であるにもかかわらず、少しの逡巡もなく、平手で何度も何度も背を叩いた。目をつり上げて、福は叫ぶように言う。
「若君様! 吐き戻すのです! さあ、さあっ! この世に生まれたからには、何としてでも、生きねばなりませぬぞ!」
振り上げる福の掌が赤くなっている。産着に包まれた赤子の背にも痣ができるのではと思うほど叩き続けた後、けぽっと小さな音とともに、乳と緑色の液体が混ざった吐物が床に落ちた。
途端、みるみる赤子の顔に血の気が戻り、息を吹き返した。
「若君様!」
福は歓喜の声を上げ、赤子に頬をすり寄せた。赤子はそれに驚いたのか、それとも、胸に詰まっていたものが全て吐き出されたからなのか、大きな泣き声を上げた。
その高らかな声に、秀忠は安堵の脱力をして、その場に腰を落とした。産婆も、周りにいた侍女たちも喜び合い、涙を滲ませる者までいた。
福は、赤子を抱きしめたまま言った。
「若君様! よくぞ、よくぞ……ご無事に生まれてくださいました!」
冷静に考えれば、生まれたばかりの赤子であるから、言葉がわかるはずもないのに、福は赤子に向かって、ずっと真剣に語りかけていた。
秀忠は、江を見やった。「よかったな」と言いかけて、その言葉をのんだ。
母親である江は、黙したまま、床に落ちた我が子の吐物を冷ややかに見ていた。今、目の前で、生まれたばかりの我が子が死にかけたというのに、動揺も涙も見せず、ただ眉根を寄せて押し黙っていた。
その姿に、秀忠は察した。
江は、許せなかったのだ。
己の体が産み落とした待望の男子が、徳川家の嫡男たる子が、今にも死にそうなくらい虚弱な体で生まれてきたことを。
由緒正しき血筋、美しい見目、才知、そして戦国の世に生まれた運命を受け入れる強さ。全てを持っていた江にとって、やっと手に入れた男子が、こんなにも弱々しい子であることは、とうてい受け入れられない、疵そのものだったのだろう。
*
「憐れなものよ……」
秀忠は、竹千代が生まれた日を思い出しながら、一人、呟いた。
家康が放った鷹が、秋空を高らかに飛んでいく。
傍らで黙していた忠俊は、秀忠の呟いた言葉が、虚弱な体で生まれた竹千代に向けられていると思ったのだろう。
「お気持ち、深くお察しいたします」と真面目な顔で低頭すると、続けて言った。
「福は、竹千代様が三代将軍となられると決まったことに歓喜しておりますが、傅役といたしましては、もしもこの先、徳川将軍家に反逆を起こす者が現れた時、竹千代様は果たして将軍として戦で立派に采配を振れるのかと、案じられてなりませぬ」
秀忠は、黙したまま頷いた。否定はできない。先日、江が声高に言いつのった言葉が、間違ってはいないことは、秀忠自身も重々わかっている。
〈あの子は、この世を生きるには、あまりに優しすぎる。ましてや将軍など、かえって苦しむだけでありましょう〉
繊細な子として生まれた竹千代が将軍になれば、苦しむだけ。それは、この青山忠俊も同じように思っているのだろう。いや、忠俊に限ったことではあるまい。徳川家臣の多くが、そう思っているに違いない。そしてその、竹千代を認められない、という全ての者の感情が、そのまま、自分に向けられているような気がしてならない。
(将軍になるべきは、私ではなかったのだから……)
秀忠は、青天を飛んでいく鷹を見上げる。飛翔する勇猛な姿に、眩むような思いがして、そっと額に手を当てた。
憐れなるものは、誰のことなのか。
竹千代か、江か、それとも、秀忠自身のことなのか。自分でもわからなかった。
そうして、ふと思う。
なぜ、福という女子は、竹千代が将軍にふさわしいと信じてやまないのか。
乳を与え育てたがゆえの愛情か、憐憫か。それとも、乳母としての自分の地位に固執しているだけなのか。いずれにせよ、凄まじい女子、という忠俊の所感は、その通りだと思う。
万人が否と思うことを、正しいと信じてやまない女子なのだから。
三
年が明けた正月、江戸城本丸御殿黒書院において、年賀の拝謁に参列する諸大名の前に、秀忠は竹千代を伴った。
二代将軍たる秀忠が、嫡男竹千代を伴って拝謁の場に出たということは、三代将軍となる嫡男は竹千代であるということを、諸大名に向けて宣言することと同じであった。
その年賀の拝謁から数日も経たぬ頃、家康が危篤に陥ったという知らせが届いた。
「大御所様……家康様が、駿府において鷹狩の最中、ご体調を崩されたとのこと! 城に運び入れられたものの、起き上がることもままならず、急ぎ、秀忠様をお召しにございます!」
夜更けに早馬で到着した使者は、秀忠の御前で跪くなり、そう告げた。
家康の危篤の知らせに、秀忠はただちに駿府城へ向かうと決めた。家康は齢七十五、起き上がることもままならぬ病状となれば、死を覚悟して、遺言を告げるべく秀忠を呼んでいることは明らかだ。
急ぎ、駿府まで付き従う家臣と従者を召し出し、夜道も駆けられる駿馬を用意させた。夜が明けてから江戸を発つ、などという猶予はない。
にわかの秀忠の出立に、江も、寝間着の上に打掛を羽織った姿で見送りの場に現れた。
「秀忠様、夜道の遠駆けとなります。くれぐれもお気をつけなさいませ」
秀忠は江の方を見やり「留守を頼む」と頷き返す。
灯台の燈だけが揺れる闇に、江の立ち姿が浮かび上がる。寝間着の上に打掛を羽織るという急ごしらえの身なりであっても、その立ち姿は凛としている。もともとの姿が美しいがゆえに、燈の影が落ちる姿は、どこか妖艶にすら感じられた。
燈の影が揺れて、微笑が浮かんだ。
「家康様の言質を得る、最後の機にございましょうぞ」
江が何を言わんとしているのか、秀忠は察した。
――三代将軍を、国松に。
その言質を、危篤の家康の口から得たいのだ。
燈に浮かび上がる微笑があまりに美しくて、戦慄を覚えた。返す言葉を発する唇が、引き攣りそうになる。
「遅れるわけにはいかぬ」
なぜ、その言葉が出たのか。
これは、江の言葉に対する答えではない。ならば、父の臨終に遅れるわけにはいかぬと言いたいのか。いや、それとも違う。
秀忠は、一歩、慄くように引き下がって、江から離れた。江の微笑は、少しも変わらなかった。
江戸城を出ると、駿府を目指して、馬を鞭打った。
潮の香りがする。品川あたりを過ぎたのだろうか。月はなく、景色など何も見えない。わかるのは、周囲に付き従う家臣たちの騎馬の蹄の音に、荒い息遣い。木々の枝葉も、星明かりには葉陰一つ落とさず、先の見えない闇に、ひたすら馬を駆り続ける。
夜風を切る。止まるわけにはいかない。一刻も早く、駿府へ向かわねば。
(遅れるわけにはいかぬ)
昂る鼓動と息に、江に向かって言ったその言葉が、幾度も反響している。
夜道は、いつしか、関ヶ原へ向かう道中と重なっていた。
秋の長雨にぬかるむ行軍だった。徳川家臣団の主力といえる三万の兵を率いていた。関ヶ原へ向かう途上、信州上田城の攻略に思いのほか苦戦した。山険しき木曽路に三万の大軍が停滞した。関ヶ原の戦に遅参した理由は、挙げればいくらでもある。
秀忠が関ヶ原に到着した時にはもう、戦は終わっていた。
累々と横たわる屍には、烏や禿鷹が群がって、血と泥と肉片の腐敗した匂いが充満していた。無数に転がっている折れた旗印は、皮肉なくらい鮮やかな色彩で、目に焼き付いて離れなかった。
勝利を掲げて凱旋する家康の後を、必死で追いかけた。
天下分け目の関ヶ原の戦に遅参した自分は、もう二度と、家康のもとへ遅れることは許されなかった。
夜を通して駆け抜けた秀忠は、その翌日、駿府城に入った。
秀忠が病床の枕元に駆け寄った時、家康の息はまだ続いていた。
「父上!」
秀忠が家康の手を取って呼びかけると、閉じられていた瞼がうっすらと開いた。
「秀忠か……」
「病臥されたとの知らせを受け、江戸より馳せ参じてございます」
家康は無言のまま頷いた。秀忠が取った家康の手が、返事の代わりに強く握り返す。よく間に合ったな、そう言ってくれたような気がした。
「父上……」
この秀忠、此度こそ間に合いましてございます。と言いかけた時、家康が口を開いた。
「必ず……」
かすれた声に、秀忠は耳を寄せた。ほとんど吐息が漏れるのと変わりないほどにか細い声だったが、秀忠の耳にはしっかりと届いた。
「必ず、竹千代を、三代将軍とせよ。その証に、あの歯朶具足を与えるのだ、よいな」
「父上……」
秀忠は、茫然と顔を上げた。
そのまま、病床の傍らに置いてある徳川家の葵の御紋が入った鎧櫃を見やる。その中には、家康が愛用した歯朶具足が入っているのは、秀忠にもわかる。
これまで、秀忠はこの目で、歯朶具足を幾度も見てきた。なぜなら、戦場において、必ず家康が身に纏っていたものだから。
歯朶具足の名の由来である、金色の歯朶の葉の前立が、大黒天の頭巾を模した兜に輝いている甲冑だった。かつて、小牧長久手の戦において、家康はこの具足を着用して勝利を収めた。以来、縁起の良い甲冑として、家康は、関ヶ原の戦でも、豊臣家との最終決戦である大坂の陣においても、この甲冑を身に纏っていた。
徳川家が天下統一を果たすための要の戦で、この歯朶具足は家康を守ってきた。それを、三代将軍となる竹千代に受け継がせよという。
歯朶具足の入った鎧櫃を前に、二代将軍として秀忠は思う。
(私は、この具足を、身に纏ったことはない)
関ヶ原の戦、大坂の陣……世の趨勢を決した戦において、この歯朶具足を纏い、采配を振っていたのは、家康だ。
(父上は、この具足を、私ではなく、竹千代に譲りたいのか)
家康は、秀忠の手を握ったまま、繰り返した。
「必ず、竹千代を、三代将軍とせよ。証として、あの歯朶具足を……」
この先、何があろうと、竹千代を将軍に。そう繰り返す父から手を握りしめられて、秀忠は思った。
(やはり、父上は、私のことを、信頼したことはないのだ)
死に際に、二代将軍である秀忠の治世が続くことを願うのではなく、三代将軍は必ず竹千代とせよ、と命じる。この家康の遺言が、父親としての感情を如実に示している。
「必ず、竹千代を……」
同じ言葉を繰り返す父を、秀忠は無言のまま見下ろした。
否と言ったならば、この死にゆく父は、どんな顔をするのだろう。今まで、一度も逆らったことのない息子から、最期の願いを拒まれたならば。
そんな冷ややかな感情が胸によぎった時、耳元で江の言葉が囁かれるような心地がした。
〈秀忠様は、家康様に逆らったことなどございませぬものね〉
誇り高き戦国の姫君の言葉は、秀忠の胸を抉るようだった。
江と祝言を挙げた頃は、そんなことは少しも思わなかった。十七歳の秀忠にとって、江は、輝く人、そのものだったから。何もかもに自信が持てずにいた秀忠にとって、眩しいほどの妻だった。
秀忠は、最初から徳川家康の後嗣だったのではない。ましてや、二代将軍になるなど、思いもしていなかった。
秀忠には、信康と秀康という立派な二人の兄がいたのだから。
ところが、長兄である信康が、時の権力者であった織田信長に、敵方と通じていると疑われ、自害した。そこから秀忠の運命は変わってしまった。次兄である秀康は他家へ養子に出され、三男であった秀忠のもとに、突如として徳川家康の後嗣という立場が転がり込んだ。
けれど、秀忠は幼い頃から温厚で、弓馬の道が武士の心得であるというのに、武芸の稽古が終わった後に、庭先で一人、季節の草花を愛でる方が好きだった。戦国の世、武功を挙げてこそ、男子としての存在価値があるというのに。
そして、この自分の姿に、家康も家臣たちも、誰もが失望の目を向けていることに気づかぬほど、秀忠は鈍重ではなかった。
全ての目が言っているのだ。「ああ、信康様が生きていたならば」と。
だから、江を妻に迎えた時、初めてその姿を見た瞬間に、心を奪われた。
織田信長の妹を母に持つがゆえの、輝きというのだろうか。何をするにも凛として臆すことがなく、物事をはっきりと見極め、逡巡することがない。江から満ち溢れる全てを、秀忠は欲しいと思った。
この妻に愛されたならば、自分はきっと、誰もが望むような武家の嫡男になれる。そんな気がしてならなかった。
それなのに、江は、微塵も愛してはくれなかった。
竹千代が生まれた日の、江の冷ややかな目が、今も忘れられない。
その目は、まるで、自分に向けられているようだった。秀忠の妻になったがゆえに、この虚弱な子を産んでしまったのだと、江は言っているようで。
それは、竹千代が成長するにつれ、確信に変わっていった。温厚で、何をするにも自信が持てず、人と争うことを嫌い、武芸の稽古には涙を滲ませる。
自分に似てほしくないところが、鏡のごとく、竹千代には映っていた。
一方で、国松は、何をしても江に似ていた。利発な言動、何事にも物怖じせずに挑んでいく姿、武芸の稽古では目を瞠るほどの成長ぶりで指南役を喜ばせた。きっと、江が男子だったなら、こんな子だったのだろうと思わせる姿だった。
思えば、国松が生まれた時、江は晴れやかな笑顔を見せていた。城中に響くほどの大きな産声に、肉付きの良い四肢。これぞ待望の男子という姿で生まれた国松を抱き、江はようやく満たされたかのように言ったのだ。
〈この子は、私の子です〉
我が乳で育てたい、という望みを、秀忠は許した。
(江の願いを叶えたい……)
ただ、それだけだった。
そして今、まさにそう思ってしまう。
今ここで、家康の手を突き放し、最期の願いに否と言い返して、国松を三代将軍に、と宣言して家康に認めさせてしまいたい。そうすれば、きっと、江は、江戸城へ戻る秀忠のことを、この世で最も輝く、美しい笑顔で迎え入れてくれるだろう。
けれど、息を引き取ろうとしている父親を前に、頬が引き攣るばかりで、何も言葉が出ない。涙一つ、零れ落ちなかった。握る手を、今すぐ突き放してしまいたいのに、それができない。そんなことをしたならば、死にゆく父が、憐れでならないから。
きっとこんな自分を、江は声高に批判するはずだ。
この世を生きるには、優しすぎる、と。
握る手に額を押し当てて、秀忠は固く目を閉じる。涙の代わりに、震える声が、零れ落ちていた。
「仰せの通りに……」
この世を生きるには優しすぎる二代将軍には、そう答えることしか、できなかった。