四
戦国乱世を生き抜き、豊臣家を滅亡させ、天下を名実ともに徳川家のものとした家康は、七十五歳でその生涯を閉じた。
当然、喪に服す間、慶賀である竹千代の元服式など、執り行うことはできない。家康とともに上洛して華々しく元服をする、という話は、まるで最初からなかったかのように、竹千代の元服は無期延期となったまま、年月は過ぎていく。
家康の死から二年が経ち、竹千代は元服の適齢ともいえる十五になっていたが、それでも元服の儀は延ばされたままだった。
秀忠は居室で、独り、佇んでいた。上段の間には、鎧櫃から出されて組み立てられた歯朶具足があった。
具足は、鎧櫃に腰掛けるように座位の姿勢に組み立てられている。こうして、誰もいない場で、この歯朶具足と向き合うと、今にも具足が立ち上がり、こちらへ向かってきそうな圧迫感を覚える。顔に装着する漆黒の頬当は、目元の部位がくり抜かれ、その底知れぬ洞の闇の中に、こちらを見据える目があるような気がしてならない。
その目は、誰の目か。
関ヶ原の戦に遅参した秀忠に向けられた家康の目のようにも、秀忠の背後にあった大御所家康の存在を仰ぎ見ていた家臣たちの目のようにも、そして「三代将軍を、国松に」と認めさせることもできぬまま家康を看取った秀忠に向けられた、江の目のようにも思えた。
家康の死以来、江は、まるで秀忠に対する当てつけのように、国松の居室に入り浸り、秀忠と言葉を交わすことも少なくなっていた。
江が訪れる国松の居室に、国松を後嗣にと望む家臣たちが集っていることも、そしてその数が、日に日に増えていることも、秀忠は感じ取っている。
(ならぬ、このままでは……)
これ以上、江が国松に偏愛を注ぎ続けると、大御所家康という重石がなくなった今、国松を擁立しようとする家臣たちと、竹千代の将軍後嗣としての立場を守ろうとする家臣たちの間で、対立が起こりかねない。それは、ひいては家臣団の分裂につながり、徳川治世が揺らぐ要因になるであろう。
(最悪の場合、江と国松を切り捨てる覚悟を決めねばならぬ……)
そんなことが自分にできるのか? 父親の最期の願いすら突き放すことができなかった自分が。
歯朶具足に対峙する秀忠の耳に、不意に、よく通る声が響いた。
「秀忠様、福にございます」
耳障りなほど朗々とした声に、秀忠は、眉間に皺を寄せて振り返る。庭に面した簀子縁で、福が手をついていた。
「呼び出した覚えはないが」
秀忠が返すと、福は顔を上げて、さらりと言う。
「ええ、呼び出されて参ったのではありませんので」
秀忠は半ばあきれて「何用か」と言った。
「竹千代様のご近況を伝えに参りました。竹千代様の乳母が、お父上様たる秀忠様にお目通りを願うのに、それ以外の理由がありますか」
全く動じない態度に、こちらの方が間違ったことでも言ったかと思ってしまう。なんと図太い女であるか、と言いそうになるのをこらえて、秀忠は言った。
「前触れもなく、ここへ来られるのは、困る」
「困る、なぜにございましょう」
「なぜ……」
私は、二代将軍だぞ。とこの女子を前に言い返したところで、かえってむなしくなりそうだった。乳母ごときにまで軽んじられる二代将軍か、と。それに、こんなところを、江にでも見られたら、また何を疑われるか。
「そなたと私が、二人きりで会っている姿を、快く思わぬ者もおる」
江の名は出さなかったが、その意を伝えた。どこまで察したのかはわからぬが、福は、にこりと笑んで言った。
「では、今すぐ青山様をお呼びいたしましょう。竹千代様にかかわる、大事なお話にございますゆえ。その方が、都合もよろしいでしょう」
傅役の青山忠俊を呼び寄せようという福に、秀忠は「次からでよい」と即答した。
堅物の忠俊のことだ。秀忠直々に急ぎで呼び出されたとなれば、血相を変えて駆けつけるに違いない。かえって人目について、面倒だと思った。
「竹千代の近況を伝えに参っただけであろう。手短に話せ」
福は「かしこまりました」と一礼して秀忠の御前に進み出る。
改めて、二人が座って向き合うと、福は口を開いた。
「秀忠様は、国松様が鉄砲の修練をなさっているのを、ご存じですか」
「国松が? ああ、知っている」
国松は近頃、鉄砲に興味を示し、指南を受けている。秀忠自身、鉄砲は得意であるため、国松が鉄砲の修練に熱心になっているのを、好ましく思っていた。
しかし、竹千代の話ではないのか? と見やると、福は続けた。
「では、先日、国松様が竹千代様のいらっしゃる西の丸に向けて、鉄砲を放ったことは」
「何?」
秀忠は耳を疑った。
竹千代は、居室を本丸御殿から西の丸に移していた。これまでは、本丸奥御殿で、庭を挟んで国松の居室と向かい合っていたが、三代将軍になるべきは竹千代、と家康が明言した後、西の丸に独立した御殿を与えたのだ。
その竹千代の御殿がある西の丸に向かって、国松が鉄砲を放つとは、いかなることか。福は、厳しい口調で言った。
「国松様は、西の丸の堀にいる鴨を鉄砲で仕留め、江様に献上なさったのです」
その返答に、秀忠は「なんだ、そんなことか」と、安堵するとともに、鼻で笑ってしまった。てっきり、福の言い方からして、竹千代の御殿を狙い撃ちにでもしたのかと思ってしまったのだ。それならば徳川家を揺るがしかねない一大事であるが、たかが、堀の鴨を仕留めただけの話ではないか。
「鴨を仕留めた場所が、たまたま西の丸の堀だっただけのことであろう」
「そのようなことではありませぬぞ!」
福は言い返すと、身を乗り出して言った。
「よいですか、西の丸は、将軍後嗣、竹千代様の居所なのでございますよ! その西の丸に向かって、国松様は鉄砲を放った。これは、徳川将軍家に対する謀反と同じ!」
「何を大げさな。兄と弟であるぞ」
「兄と弟であるからこそ! 秀忠様は、家康様が申されたことを忘れましたか。〈弟といえども、兄の家臣同然〉つまり、此度のことは、家臣が主君の居所に向かって、鉄砲を放ったと同じ! これを、秀忠様は、笑ってお見逃しになると?」
福の剣幕に、秀忠は、気圧されつつも、何もそこまで目くじらを立てることではあるまいと、若干の苛立ちを込めて言い返す。
「ならば福は、私に何をしてほしいというのだ。仕留めた鴨を料理した膳を前に、箸でも投げつけて、国松を叱ればいいのか」
すると、福は目を丸くしたが、すぐに「ほほ」と口元に手を当てて笑った。何がおかしいのだ、と睨むと、福は悪びれることもなく言った。
「それもようございますね。いずれ、そのように徳川家の実紀にでも記させましょう。その方が、竹千代様のお立場にも、後世、箔がつくというもの」
(この女は……)
と言いそうになるのを、秀忠は舌打ちに変えた。
とんでもない乳母をつけたものよ、と思ってしまう。江とは折り合いが悪い上に、こうして乳を必要としない年頃になっても、当然のごとく竹千代の側仕えを続けて、ことあるごとに、しゃしゃり出てくる。
福は、秀忠の苛立ちを気にすることもなく言う。
「家康様がお亡くなりになって以来、竹千代様のご元服が延びに延びる中での、国松様の慢心たる行動。このままでは、家康様がお望みであった、長幼の序も覆されかねませぬ。どうか、父君たる秀忠様のお言葉で、今一度、兄と弟のけじめをはっきりと示してほしいのです」
「ようは、それを言いたかったのか」
秀忠がそう返すと、福は「さようにございます」と手をつく。
「どうか、一日も早いご元服を。乳母たる私も、傅役である青山様も、竹千代様ご自身も、よもや元服まで国松様に越されるのでは、と不安が募るばかりにございます」
「ふん、〈竹千代様ご自身も〉か?」
秀忠の返しが思いがけなかったのか、初めて福は動じた様子を見せた。秀忠は、問うた。
「竹千代は、元服が延びていることを、まことに不安がっているのか」
福は、視線を泳がせる。秀忠は、続けた。
「むしろ、西の丸に居を得てからというもの、国松と比べられることも減って、穏やかに花鳥を愛でて暮らしているというではないか」
「まあ、誰がそのようなことを」
微笑んで返す福に、秀忠はさらりと言った。
「青山だ」
「…………」
「近頃は、当たり前のように武芸の稽古を拒み、庭の草花や鳥を描いていることが多いとな。将軍後嗣として、先が思いやられてならぬと、涙ぐみながら言っておった」
「ですが、秀忠様……」
言葉を続けようとする福を、秀忠は目で制すると、立ち上がる。上段に飾られている家康直伝の歯朶具足の前まで歩み寄った。そのまま、歯朶具足を見つめて言った。
「案ずるな、竹千代は、三代将軍とする。それが父上のご遺言だからな。その証に、この歯朶具足を、元服の儀において与えるつもりだった」
福は感動したように「秀忠様……」と声を出した。それを「だがな、福」と遮った。
「私は、迷っている」
「それは、まさか国松様を後嗣にと!」
「いや、そうではない。竹千代の元服を、いつまで延ばせるかだ」
「意図して、竹千代様のご元服を延期されていたということですか?」
福は、腰を浮かせる。そのまま、秀忠が立っている上段まで上がりかねない勢いに、秀忠は「落ちつけ」となだめる。
秀忠は、福に向き直ると言った。
「私には、信康と秀康という、立派な兄がいた」
「存じております」
福は、何を唐突に、と秀忠を見る。それがいったい、竹千代の元服の延期にどうかかわりがあるのかと、その顔は問うている。秀忠は、淡々と続けた。
「信康は若くして死に、秀康は他家へ養子に出された。そうして、徳川家の後嗣の立場が私に転がり込んだ。そう、まさに転がり込んできたのだよ。望んでもいない立場が」
福は黙したまま聞いている。秀忠は、過ぎ去りし日を思うように、視線を遠くにやる。
「幼い頃から、風邪はよく引き、武芸の稽古は苦手。弓弦もうまく引けず、馬に跨れば落馬する。こんな自分は早々に廃嫡された方がよかったであろうに」
秀忠は、福を見やって、自嘲の笑みを浮かべる。
「誰かに似ていると思ったであろう」
福はやや返答に詰まった後「はい」とだけ答えた。秀忠は薄い笑みを浮かべたまま言った。
「自分の嫌いなところばかりが似ている我が子というものは、見ていて哀しくなるものだな」
「…………」
「元服をすれば、竹千代には、将軍となる運命が待っている。似つかわしくない者が将軍に立つ苦しみがわかるだけに、それを少しでも先延ばしにしてやることが、父親として、あの子のために与えうる情なのだ」
「父親として与えうる情、にございますか」
「おかしいか、我が子の元服を先延ばしにする父親など」
すると、福は、少しの迷いも見せずに答えた。
「いえ、おかしいとは、微塵も思いませぬ。以前、家康様が同じようなことをおっしゃっていたと思ったまでのこと」
「父上が?」
福は頷くと、背筋を伸ばして言う。
「今さら、隠したところで仕方がありませんので申し上げます。私は以前、伊勢参りと称して江戸を出て、駿府城に参りました。竹千代様のお立場が、あまりに不憫でありましたので」
「ふん、やはりそうであったか」
以前、家康がにわかに江戸へ鷹狩に来訪した折、江が声高に、福の画策だと言っていたことを思い出す。
「私は、駿府城において、竹千代様ほど将軍にふさわしき御方はいない、と家康様に申し上げました。そうしましたら、家康様も、同じく思っていると。ゆえに、秀忠様を二代将軍としたのだと、そうおっしゃいました」
「どういうことだ」
秀忠は、福の言っている意味がわからなかった。福は、言った。
「家康様は、戦のない泰平が続くことを願っておられました。その泰平の世にあるべき徳川将軍とは、力で制する者ではない。人と争うことを好まぬ男でなければつとまらぬ、と」
「え……」
「家康様が、ご長男の信康様亡き後、他家に出された次男の秀康様を呼び戻すことなく、三男の秀忠様を後嗣になさったのは、秀忠様のような、人と争うことを好まぬ者ならば、泰平の世を築くことができる。そう信じたからなのです。それが、父親としての情なのだと」
「父親として……」
「家康様は、この福が嘆願したからではなく、最初から、竹千代様を三代将軍にと望まれていたのです。果敢な国松様ではなく、あなた様によく似た、竹千代様を」
秀忠は、福から顔をそむけるように、歯朶具足を見た。
秀忠を見据える漆黒の洞の奥に、まなざしを感じた。自分のことを信頼してくれる父親の目を、初めて見たような思いがした。
大黒天の頭巾を模した兜に、輝く金色の歯朶飾り。雲の切れ間から陽が射し込むように、金色の歯朶の葉が煌めいて滲んだ……と思った時には、頬に、涙が伝い落ちていた。
零れる涙を福に気づかれたくなくて、秀忠は、歯朶具足に顔を向けたまま、目元を拭う。
福は、改まって言った。
「秀忠様は〈自分の嫌いなところばかりが似ている我が子というものは、見ていて哀しくなるものだ〉とおっしゃいましたが、それは、江様も同じかもしれません」
秀忠は、小さく洟を啜って福の方を振り返った。
「江も、同じだと?」
福は、頷き返して言った。
「我が子を見ていると、まるで、自分を見ているようになるのは、江様とて同じかと。自分によく似た国松様が、弟として生まれたがゆえに、祖父の家康様に叱責され、父親の秀忠様には後嗣として認めてもらえず……徳川家の妻となった自分までをも、侮られているように思うのかもしれませぬ」
「侮る……」
その言葉に、秀忠は思い出す。かつて秀忠が過ちを犯した時、江に激しく詰られたことを。
「私は、侮ったことなど、一度もない」
福に言うというよりは、この場にいない江に言っていた。
ただ、愛されたかった。いや、愛したかっただけなのだ。
眩しくその姿を仰ぎ見るのではなく、同じ目線で、同じものを見てみたかった。江に求めるものは、ただそれだけなのだ。国松に乳母をつけずに、自らの乳で育てたいという願いを聞き入れたのも、江を妻として愛したかったからなのだ。
だが、それが結果として、江の国松への偏愛を生み、疎まれる竹千代はますます自信を失い、乳母の福に頼りきってしまう子になった。そして、秀忠と江、夫婦の間は歪んでいくばかり。
何をどうあがいても、秀忠は江の求めるような、強く自信に満ち溢れた夫にはなれない。そして江もまた、秀忠を静寂で包み込んでくれる妻にはなれない。
(私たちは、永遠にわかり合えない夫婦なのか……)
秀忠は、ため息とともに言った。
「所詮、政略で結ばれた夫婦であるからな。似ても似つかぬ者同士が夫婦になったがゆえの苦しみや不満を、私たちは互いに抱いているのであろう」
「夫婦というものは、そもそも、わかり合えぬものにございましょう?」
秀忠は「ほう?」と福を見やる。福は、言った。
「政略であろうと、相愛で結ばれた夫婦であろうと、他人であることに変わりないのですから。他人であるのに、わかってほしいと願ってしまうから、苦しくなってしまうのです」
そのどこを見るでもない目は、別れた夫と過ごした日々を見ているのだろうか。
「夫婦とは、わかり合えぬもの、か」
秀忠はそう呟くと、一つ息をついて言った。
「竹千代と国松の生まれた順が逆であれば、どれほど救われたであろうな、私も、江も」
福は少し思案してから、真顔で言った。
「国松様が先にお生まれになっていたならば、私は国松様の乳母になっていたということ。私は、江様によく似た国松様とうまくやっていける自信がありませぬ」
その言葉に、秀忠は、あっけにとられた。
「そなたでも、自信がない、などと申すのだな」
「それは、そうでございましょう。私とて、人ですよ」
福がやや口を尖らせて言い返す。秀忠は、苦笑した。
「いや、すまぬ。凄まじい女子だとばかり思っておったのでな」
「まあ、秀忠様までそのような」
秀忠様まで、と言うことは、福自身、周囲からそう思われていることを自覚しているということか。そう思いながら、以前、青山忠俊が言っていたことを思い出す。
〈天下分け目の関ヶ原の戦で功のあった、稲葉正成の正妻、という立場で竹千代様の乳母に抜擢されておきながら、蓋を開けてみれば、稲葉正成とは離縁しておりますし、それでいて、息子の正勝を竹千代様の小姓に上げ、重用させている。その上、江様とは、すこぶる折り合いが悪い〉
それが、多くの者が福に対して抱く思いなのだろう。秀忠自身もそう思っていた。父は、家康は、とんでもない乳母を見出したものよと。
しかし、福は、竹千代が将軍にふさわしいと信じてやまない。その思いが揺らいだことは、一度もない。
(それは、福自身が、この世を生きる上での苦しみを、知っているからではなかろうか)
謀反人の娘と後ろ指をさされて育ち、戦国の世で夫との離縁を経験し、女独りで子を育てながら生きていくために乳母になると決めた。この世を生きていく上での苦しみを思い知っているからこそ、竹千代を信じられるのだ。強き者が弱き者を制する世が終わりを告げ、人と争うことを好まぬ者が継承する新しい世を、見たいと願うのだ。
秀忠は、独り言つ。
「竹千代は、国松よりも先に生まれることによって、よき乳母に出会えたということか」
福は、改まって秀忠に手をついて、それに応えた。
「私は、独り身になって、強く思ったことがあります。誰もが生きる術を失わない、たとえ女子であろうと男子であろうと、健やかな者であっても病める者であっても、それぞれに生きる術がある世こそ、真の泰平なのだと。そしてその世にふさわしき為政者は、人の痛みがわかる者でなければ、つとまらぬのです」
秀忠は「真の泰平か」と頷いた。そうして、福を見据える。
「真の泰平の世を継承できるのは、竹千代だと、そなたは信じているのだな」
福は、一瞬の躊躇いもなく、言った。
「むろんにございます。私は、竹千代様の乳付けをしたあの日、いえ、竹千代様の息を吹き返らせた瞬間、自分の生涯をかけて、この御方をお守りするのだと決めたのですから」
乳付けをしたあの日、喉を詰まらせて死にかけた竹千代の背を、強く叩き続けた福の声が、秀忠の耳の奥によみがえった。
〈さあ、さあっ! この世に生まれたからには、何としてでも、生きねばなりませぬぞ!〉
福の腕の中で竹千代は息を吹き返したのではない。竹千代は福の腕の中で、生きると決めたのだろう。この苦しみに塗れた世を、生きていくのだと。そして、その選択をした竹千代を、福は生涯をかけて守り抜く覚悟なのだ。