将軍直々の使者を受けて、忠長は素直に江戸へ参府した。

 登城した忠長は、家光の御前に現れるなり、挨拶の口上もなく言った。

「兄上、何を考えているのです」

 前置きもなく言われ、家光は訝しむ。何を考えているのかなど、こちらが問いたくて呼び出したのというのに。控える忠長の家臣たちが、ぞんざいな忠長の態度に冷や汗をかいている。家光側の家臣たちも、不快感を露わに気色ばんだ。

 すぐさま正勝が忠長を諫めようとしたのを、家光は「よい」と目で制してから、忠長に問い返す。

「何を考えているとは、どういうことか」

 すると、忠長は小さく笑った。緩んだ口元と赤らんだ顔に、家光は眉間に皺を寄せた。

「忠長、まさか酒を飲んできたのか。将軍御前に召されたというのに」

「将軍御前、ええ、将軍御前でしょう。兄というだけで将軍となった家光様の御前だ」

「忠長様、お言葉が過ぎますぞ」

 さすがに正勝が厳しい声で諫めた。しかし、忠長は、薄笑いを浮かべたまま言った。

「絲姫……いえ、大姫様を、兄上はどうなさるおつもりで?」

 思いがけない言葉に、家光は戸惑った。

「大姫を、どうするかだと? 将軍の嫡女として、しかるべき家柄との縁組を考えているが。そのことと、そなたの……」

 そなたの乱行とどう関わりがあるというのか、と言おうとしたのを遮るように、忠長は言った。

「ならば、加賀金沢の、まえ光高みつたか殿に輿入れさせてはいかがかと。せっかくの江戸参府、この機にぜひ進言したかった」

 忠長の思わぬ提案に、家光は何も言い返せなかった。

 加賀前田家は、外様大名の中でも最大の百万石を有する大大名だ。徳川家との縁故も深く、前田光高の母は、秀忠の娘、たま姫である。将軍嫡女の輿入れ先として、政略の上でも、申し分ない相手だ。

「輿入れ、か」

 家光の呟きに、忠長は鋭く反応した。

「それは、輿入れを考えていない、ということですか」

 驚いた家光に、忠長は突くように言った。

「とある者から聞き捨てならぬ話を告げられました。大姫様と徳川御三家の縁組を調えて、婿を将軍に据えようなどと家光様はお考えと」

 その言葉に、居合わせる家臣たちの間にも、少なからぬ動揺が広がった。家光も驚きを隠せなかった。このことはまだ家光自身も迷っており、福の他には、誰も知らぬはずだ。

「それは……誰がそのようなことを」

「ということは、本当なのですね」

「…………」

 窮した沈黙に、忠長は大きくため息をついた。

「嘘でも『違う』と言えばいいものを。黙しては肯定しているのと同じではないですか。兄上は、いつもそうだ。本当に、生きるのが下手な人だ」

「忠長様、控えられよ!」

 青ざめた正勝が、声を上げた。忠長は「はっ」と笑う。

「福の息子殿に諫められるとは、どういうことであろうか」

 忠長の不遜な言い方に、正勝は頬を引き攣らせる。

 家光は「もうよい、皆、下がれ」と命じた。将軍後嗣が絡む大姫の話で、居合わせる家臣たちの間に、いらぬ動揺が起きている。これ以上、この話を広げたくはない。それに家臣たちがいる前で、忠長の不逞ぶりをさらしたくはなかった。

「ここからは、将軍と臣下ではなく、兄と弟として話がしたい。皆、下がれ!」

 家光の厳命に、家臣たちは低頭すると、一人、また一人、と下がっていく。最後に残った正勝が、青ざめたままの顔を家光に向けた。

「家光様、私はここに残りたく存じます」

 その唇は蒼白く、微かに震えていた。家臣を斬り殺すほどの乱行を起こした忠長だ。二人きりにすることを危ぶんでいるのだろう。だが家光は「構わぬ、下がれ」と言いきった。

 正勝も退出して二人きりになると、忠長の方から口を開いた。

「誰がどう見ても、兄上よりも私の方が優れているのに。兄上は、大姫の縁組を利用してまで、私を将軍にしたくはないのですか」

「まさか、それが乱行の原因だというのか」

 将軍になる可能性を閉ざされることへの怒りが乱行になったというのか、そう問いかける家光に、忠長は薄笑いのまま言った。

「さあ、どうでしょう」

 そのはぐらかすような言い方に、家光は声を厳しくした。

「駿府における聞くに堪えぬ乱行の数々、真偽を問わんと参府を命じたのだぞ! 少しは反省の弁を述べれば、大事にせず許してやろうと思ったものを」

「許す? 兄上に、何を許してもらわねばならぬのです」

「何を、だと」

「弟に生まれたというだけで臣下とみなされ、何をするにも兄上の許しを乞わねばならぬ。この屈辱を、これまで、幾度味わったことか。私は、生まれてこのかた、報われたことが一度もない」

「報われたことがないなど。そなたは、母上に愛されたではないか」

「愛された?」

 忠長の顔から、ふっと、薄笑いが消えた。

「愛されたのではなく、自分の姿を重ねられただけですよ」

「重ねられた……」

「幼き頃、私が周囲に褒められるほど、母上の笑顔は輝いていた。まるで自分を褒められているかのような恍惚な目をして。母上の望む通りに育つことが、いつしか、私の喜びとなり、誇りとなり、柵となっていたというのに」

 忠長はそう言うと、家光を睨みつけた。

「母上の期待に応えられぬことは、自分の存在を否定されることと同じだった。だから、必死に、母上の望む全てのことをやりこなしてきたのに、それなのに、将軍にだけはなれなかった……」

 忠長は声を詰まらせて、うつむいた。

「忠長、そのようなことを……」

 家光が言葉をかけようとすると、忠長はうつむいたまま言った。

「母上が亡くなって五年が経つというのに、いまだに、夢枕に母上が立つのです。『どうして、私の望むことが何一つできなかった竹千代が将軍となり、私によく似た国松は臣下のままなのか』と言って、泣いているのです」

 その声は、最後の方はもう潤んでいた。落ちる涙を兄には見せたくなかったのだろう、肩を震わせたまま、忠長は顔を上げようとしなかった。

 しかし、その震える肩が、いつしか、くつくつと嗤っていることに気づいた家光は「忠長?」と呟いた。忠長は、顔を上げた。

 涙で頬を濡らしながら、口元に笑みを浮かべていた。

「死んだ後も、母上は、責め苦のごとく私に期待をかけ続けている。それなのに兄上は……いや、福は、あらゆる手段を使って、私に将軍を継がせたくないときた!」

 その哀れな笑みのまま、忠長は言いつのった。

「福は、あの女は、私の前途を閉ざしてばかりだ。おじい様を……駿府城にいらした家康様に訴えて、竹千代を将軍にという言質を取ったのも、父上を説得して、将軍の証である歯朶具足を与えさせたのも……全部、福だったではないですか!」

「それは……」

「兄上は、幼い頃からずっと、福の袖を掴んでいた。今もなお、福の言いなりで、自分の後嗣を選ぶのも福の意のままだ。大姫のことも、福の考えなのでしょう!」

「大姫のこと、まさか、福から聞いたのか」

 すると、忠長は、哀れな笑みを引き攣らせて言った。

「いいえ、福の息子からですよ」

 その瞬間、青ざめた稲葉正勝の顔が浮かんだ。福から、何かの話の流れで正勝は後嗣のことを聞き、それを忠長に告げたというのか。まだ大姫の話は決したわけではないというのに。

 家光は、正勝に対して湧き上がる怒りをこらえて、深い息を吐くと立ち上がった。

「全て承知した。そなたの処遇については、父上とも相談の上、追って沙汰する。今しばらくは、蟄居謹慎するように」

 それだけ言うと、家光は退室した。

 廊に出ると、正勝が低頭していた。

「家光様……」

 顔を上げた正勝は、真っ青を通り越して、もはや白い顔をしていた。

 普段なら、どこか具合でも悪いのではないか、と案じてやるものを。蒼白になっている理由がわかるだけに、家光は無言のまま正勝の前を通り過ぎた。

 

 忠長乱行の報告を聞いた秀忠は「将軍の意に従えぬのであれば、言語道断だ」と忠長に対する強い憤りを示した。

 父、秀忠の憤慨を受けて、家光は、忠長を甲斐国に蟄居させることに決めた。忠長の乱心が落ち着けば、頃合いを見て秀忠の許しを得て、蟄居を解くつもりでいた。

 ところが、忠長が甲斐へ蟄居した頃から、秀忠が胸痛を訴えるようになった。

 秀忠の病状は、悪化の一途を辿った。

 翌年の正月の年賀の挨拶には、かろうじて諸大名を御座所に召しての拝謁の儀を行えたものの、ついには薬も飲めなくなり、その月の二十三日に、危篤となった。

 父、秀忠の危篤と聞いて、家光は江戸城西の丸の居室に駆けつけた。

「父上!」

 病床に横たわる秀忠は、家光の声にわずかばかり頷き返した。そうして、枕元に座した家光の手を取って、掠れた声で言った。

「た、だながを……」

 忠長、の名だと察して、家光は手を握り返し、耳を澄ませた。父が、死に際して、蟄居された忠長の罪を解こうとしているのだと思った。

「ただながを……ゆるしては、ならぬぞ」

「忠長の蟄居を、解いてはならぬと?」

 驚いて問い返す家光に、秀忠はうっすらと目を開けた。

「それが……しょうぐん、だ」

「それが、将軍……」

 頷いた秀忠の目から、一筋の涙が零れ落ちた。

 将軍の意に従わなかった忠長を生かすことは、徳川幕府の将軍権威を脅かす存在になりうる。それは、すなわち、再びの乱世を招くことにつながる。

 忠長という名の、哀れな息子を思って流された涙が、一滴、枕を濡らした時、家光の手を握る秀忠の力が抜け落ちた。

 

 

 秀忠が没した後、忠長の蟄居が解かれることは、永劫になかった。

 忠長が、自害したのだ。

 忠長を許してはならぬ、という秀忠の遺言を受け、家光は忠長の身柄を蟄居先の甲斐から移すことを決め、上野国の高崎城に幽閉した。所領五十万石の召し上げも決まり、この先の希望を完全に見失ったのだろう。忠長は、幽閉された翌年の十二月、高崎城において自害して果てた。二十八歳だった。

 忠長の死を受けて、家光の御前に、稲葉正勝が参じた。

「忠長様付きの家臣たちの配流処分を、どうか、お考え直しいただきたく」

 正勝は懇願するように家光を仰ぎ見て、蒼白い顔で訴えた。

「あまりに重すぎる処罰と存じます。同じ徳川家に仕える身として、どうか、寛大な御心を……」

 家光は「それはならぬ」と即答した。

 忠長付きの家臣たちの中には、将軍家光のことを、主君忠長を死に追いやった仇と思う者も少なからずいる。謀反を危惧した重臣たちの意を受け、忠長の近臣の配流処分を決めたのだ。

 そして正勝の弟の稲葉正利もまた、忠長の近臣として配流処分の対象となっていた。正勝が弟の処遇を訴えにきたであろうことは、血相を変えて参上した時から察していた。

「そなた、弟の正利のことを言いたいのであろう」

 家光がそう問いかけると、正勝は低頭して言った。

「忠長様にお仕えしたがゆえに、弟の前途が閉ざされるかと思うと、あまりに、憐れでなりませぬ。兄と弟……ただそれだけの違いにございます」

 絞り出すような声で訴えた正勝に、家光は言った。

「兄として、弟に憐憫をかけたいと?」

 途端、憤りが込み上げてきて、そのまま声を震わせた。

「忠長は、将軍の弟であるがゆえに自害したのだぞ。それなのに、兄として弟に憐れみをかけたいなどと、よくも、私の前で言えるな!」

 正勝は、蒼白の頬を引き攣らせた。家光は、その姿を睨みつけた。

 忠長が臣下であれば、まだ許せる余地があった。だが、〈弟といえども、兄の家臣同然〉なのだ。家臣ではない、家臣同然……ほぼ同じ、という立場は、心を許した途端に牙を剥かれかねなかった。それが、将軍の弟なのだ。

「兄として易々と弟を思いやれる正勝には、私の苦しみはわかるまい!」

 家光はそう言うと「下がれ」と正勝を追い払うようにした。

「ですが!」

 なおも訴えようとする正勝が、縋りつかんばかりにして言った。

「あの弟は、家光様の乳母となった福が産んだ弟にございます。家光様は、正利に与えられるはずだった乳で育ったのです。本来ならば、私ではなく、あの弟が乳兄弟として、家光様のお側仕えをするべきだったのです! どうか、どうか憐憫を、お情けを正利におかけいだきたく……!」

「何を、申すか!」

 まるで、家光が正利から福の乳を奪ったかのような言い方に、家光はかっとなって言い返した。

「そもそも、忠長の乱行の一因は、いや、忠長が自害して果てたのは、正勝のせいでもあるのだぞ!」

「それは、いったい、どういうことにございましょうか」

 正勝の目が困惑で見開かれる。家光は、拳を握りしめて言った。

「大姫の縁組のことだ」

「大姫様のご縁組のこと?」

 全く心当たりがないとでもいうような口ぶりに、家光はもう怒りを抑えられなかった。

「大姫を将軍の嫡女として、御三家の男子と縁組をしようとしたことだ。それを忠長に漏らしたのは正勝であろう。ゆえに、忠長は将軍後嗣となる道を閉ざされたと思いつめ、数々の乱行に及んだのだ!」

 結局、大姫と御三家の縁組の話は、他の家臣たちの動揺をも招いて諦めざるをえず、大姫は加賀金沢の前田光高のもとへ輿入れすることになった。

「それなのに、この期に及んで、兄と弟の情に訴えかけて処遇を軽減したいなど、図々しいにもほどがあるぞ」

 正勝は戦慄くように口を開いた。途端、大きく咳き込んだ。体を屈めて激しく咳き込む正勝を、家光が冷ややかに見やった時、座す畳の上に、血飛沫が散った。正勝は咄嗟に袖で畳に散った血飛沫を覆い隠したが、体勢を変えた途端、大量の吐血をした。

「正勝!」

 家光は目を疑って、駆け寄った。正勝は真っ青な顔で、近づかないでくれとばかりに、這うようにして下がろうとする。その間も、咳き込みは続き、口元を押さえる袖が真っ赤に染まっていく。

「誰か! 誰かあるか!」

 家光は声を大にして叫んだ。廊に控えていた小姓が、吐血する正勝の姿を目にして息をのみ、すぐさま侍医を呼ぶべく駆けていく。

 騒ぎを聞きつけたのだろう、ややあって、侍医とともに福が駆けつけた。

「正勝!」

 血で汚れたまま倒れている正勝の姿に、福は家光の御前であるのも忘れたかのように、肩を揺さぶった。

「正勝、正勝! 正勝……!」

 悲痛な叫びを続ける福を、小姓が「侍医のお見立ての妨げとなりますぞ!」と引き離す。侍医が厳しい顔で正勝の脈をとる。その間、正勝は蒼白のまま、目を開けることはなかった。

「福……」

 立ち尽くす家光に、福は顔を上げた。

「家光様、これはいったい、いかなることでしょうか」

「私が、正勝を責めたがゆえに……」

 そう言うと、家光はその場に崩れるように膝をついた。

 

 その後、自邸に運び入れられた正勝の病状は快復せず、年が明ける頃には、昏睡状態になっていた。

 病床を見舞うために正勝の自邸に下向した家光に、看病していた福が沈痛な面持ちで言った。

「江様がお亡くなりになった年の暮れに、正勝の妻も病で没し、それから幾何もせず正勝も胸を患っている様子にございました。しかし、ここまで悪化させていたとは……」

「そうであったのか」

 家光は、床に臥す正勝を見やる。正勝は目を閉じたままだった。血の気の引いた唇には、生気を感じられなかった。耳を澄ませ、ようやく聞き取れるほどの微かな吐息の音が、まだ生きていることを示していた。

「体調が優れぬと、少しも気づけなかった」

「この子は、何事も、感情の起伏を見せようとせぬ子でしたゆえ」

「…………」

 正勝のことを、この子、と呼ぶ福の横顔を、家光は黙したまま見た。初めて、家光の前で母としての姿を見せたような気がした。これまで、家光が見ていた福の姿は、乳母の福だったのだと、そんな当たり前のことを、いまさらながら思い知った。

 家光は、正勝の肩に手を置いて語りかけた。

「正勝、目を開けよ」

 正勝は、微かな吐息を漏らすばかりで、目を開けなかった。

「正勝、目を開けよと申しておる」

 正勝は、微動だにしない。家光はたまらず、正勝の肩を揺さぶった。

「正勝、目を開けよ、将軍の命であるぞ。正勝、そなたの快復を願って、家康公ご着用の猩々しようじようの御陣羽織を与えんと、ここに持参したというのに……どうして、目を開けぬのだ!」

 家光はそう叫ぶと、正勝の胸の上に打ち伏した。微かに上下する胸の動きは、今にも止まってしまいそうだった。家光は、正勝の胸を拳で叩いて叫んだ。

「何たる、不忠者であるか。将軍よりも先に逝こうとする気か……!」

 それでも、正勝は二度と、目を開けてくれなかった。

 

(つづく)