第五話 絵巻アバンチュール

 

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 日曜日の朝、連翹寺家の玄関先では、フォード車がブロロロロと派手なエンジン音を立てていた。

「早く乗り給え」

 正周はエンジン音に負けぬように大声を張り上げ、春先らしい青い背広で、啓吾に向かって手招きをする。啓吾はというと、絣の着物に袴に下駄といった装いで、慌てて車に駆け寄った。

「全く、日曜日くらいゆっくりさせてくださいよ」

「いいから」

 啓吾が乗り込むと、正周は車を動かした。轟音と共に通り過ぎていく風を浴びる。まだ肌寒さが残るが、あちこちで桜の花が綻び始めていた。

「春だねえ」

 その声も、大きく張り上げないと聞こえない。湯島から向かったのは、日本橋浜町である。路肩に車を停めると、正周は勝手知った様子で足を進める。

「あ、いたいた」

 正周の視線の先には、縞紋の小紋の上に薄紅の羽織を着た凛の姿があった。

「今日の用事とは、凛さんのことですか」

「そうだよ。ここ、覚えているだろう」

 凛が待っていたのは、かつては多聞寺のあった所である。廃寺であった多聞寺の境内で、祈り猫こと、猫に取り憑いた峰という女に会った場所だ。今はあの佐竹が営む真新しい料亭があった。凛は居心地が悪そうに目を伏せている。

「凛さん、よく来てくれましたね」

 正周は笑いながら近づく。凛は戸惑いながら、ええ、と小さく頷く。

「……私もいつか、来なければと思っていたので」

 先日、あの地蔵尊に参った後、正周は峯斎のもとを訪ねた。その際に、凛の話になったのだという。

「凛さんが、太一君のことを気にしているようだと先生がおっしゃるので、ここは一度、お引き合わせしようと思って」

 正周はその日のうちに太一が引き取られた建具屋に出向き、日曜日に訪ねる約束を取り付けた。

「もしも凛さんが来られなかった時のために、太一君には内緒にしていてね。私と啓吾君だけ行くと伝えてある」

 凛は緊張しているのか、自らの胸の上に手を置いて、ぐっと拳を握る。

「あの時……撥ね除けてしまったから……」

 凛が、その身を永富家の令嬢、絹子の霊に明け渡していた時、凛を呼び戻す為に太一に引き合わせたことがあった。凛はお陰で正気を取り戻したが、追い出されそうになった絹子が太一を拒んだことがある。

「太一にひどいことを……」

 正周は首を横に振る。

「あの時、太一君は貴女の無事を喜んでいて、自分がされたことを悲しんでなんかいなかった。もう一度、きっと会いたいと言っていたんです」

 啓吾もその時のことを覚えている。懐かしい姉分に駆け寄った太一だが、けんもほろろに突き返された。それでも、「姉ちゃん、生きてた……」と声を上げて泣いていた。

 人形町の建具屋が近づいて来た。すると凛の足取りが重くなる。店が見える所まで来ると、凛は足を止め、大きく目を見開いた。啓吾と正周が凛の視線の先を見ると、そこには客人を待ちわびている太一の姿があった。

 先日会った時よりも少し背が伸びているようだ。絣の着物に下駄を履き、遠くを見ようと跳ねている。正周は大きく手を振る。

「太一君、待たせたね。約束を果たしに来たよ」

 正周が、やや芝居めいた仕草で、後ろにいる凛の姿を太一に示した。太一は、大喜びで駆けて来た。が、数歩手前で足を止める。

「姉ちゃん……皐月姉ちゃんだ」

 凛はぐっと唇を引き結び、深く頷いた。

「太一……この前、ごめんね」

 絞り出すように言うと、太一はふるふると頭を振って、勢いをつけて駆けだすと、凛の首元にしがみついた。太一が声を上げて泣き、凛もまた、肩を震わせて泣いていた。

 建具屋の夫婦は、太一の泣き声に驚いて飛び出して来たのだが、懐かしい人との再会と知って安堵したのか、微笑みながら一行を手招いた。

「店先で騒がねえで、中へどうぞ」

 主の清助に招かれて、三人は太一と共に店の中へ入った。茶を出しながら、女将の夕は、太一の笑顔を嬉しそうに眺める。

「太一から、大好きなお姉ちゃんがいたことは聞いていました」

 太一の母、峰は太一を残して落籍された。その後、妓楼に置き去りにされた太一を世話していたのが禿だった凛だ。当時は「皐月」という源氏名を名乗っていた。

「この子は、学校に行く前から字も読み書きできるし、箸も上手に使える。どこで習ったんだいって聞くと、皐月姉ちゃんに習ったって言ってね。大したもんだと思っていたのさ」

 凛は、いえ、と小さく首を横に振りつつ、太一の溌剌とした顔を見て微笑む。

「私も太一も、災いが福に転じて良かった」

 火事から逃げる時、凛は太一を背負って吉原から逃げ出した。以来、足抜け禿として、身を隠しながら生きて来た凛であったが、今は峯斎の養女となり、逃げずに済むようになった。長い歳月をかけて、ようやく落ち着きを取り戻し始めている。

「また会えるよね」

 太一は凛の袖を掴んで離さない。凛は、うんと頷いた。

「もう大丈夫。これからはいつでも」

 太一はその言葉を聞いて心底嬉しそうに、凛に抱き着いていた。

 人形町の建具屋を出て、車を停めたところまで三人でそぞろ歩く。

「ようやく、宿題が一つ片づいたねえ、啓吾君」

「何ですか」

「太一君から頼まれていた、皐月姉ちゃんを捜して欲しいという一件だよ。こうして引き合わせることができて、私はほっとした」

 そもそも、安請け合いをするからだ……と、毒づきたいところではあるが、太一の嬉しそうな顔を見ると、啓吾までいいことをしたようで嬉しかった。

 路肩に止められた車までやって来ると、正周はくるりと凛に向き直る。

「乗って行かれますか」

 運転席の後ろにある後部座席は、一応、二人乗れる作りになっている。凛は躊躇してから、「ご遠慮します」と頭を下げた。

「余り、借りを作りたくないので」

 はっきりとした口調で言う。正周は面食らったように目を見開き、はて、と首を傾げた。

「そんなつもりはありません。ただ、便利なので」

「ええ、貴方に他意がないのは分かります。ただ……貴方の後ろの方との相性が悪い」

 凛がついと正周の背後を指さした。啓吾も凛の指さす先を見ると、正周の背後には黄金色に輝く十二単の女人の姿があった。そして凛の背後には、その女人に目を合わせようとせず、やや斜に構えている屈強な男がいる。

 ああ、ここにいるのはあの絵巻の中にいた、連翹宮と夜叉なのだ。夜叉にとっては相変わらず、連翹宮のお節介で散々な目に遭ったことと、護られたことへの借りがない交ぜになっているようだ。一方の連翹宮は、ただただ陽気な善意でお節介を焼こうとする。

 何とも今の正周と凛によく似ている。

 凛は作ったような笑顔のまま、じっと正周を見据え、正周はというと、拗ねたように不貞腐れる。

「分かりました。今回、車に乗せるつもりはありませんが、いずれまた、貴女や峯斎先生には関わりたいし、関わるつもりです」

 すると凛は眉を寄せ、背後の夜叉はさながら不動明王のような憤怒の顔をする。その間に挟まれる啓吾は、己の後ろにもまた、あの右京亮がいるのかもしれないと思いつつ、二人の間に割って入った。

「まあまあ、これも御縁でしょう。悪縁かもしれませんが……少なくともここには刃も血も炎もない。今生で良かったですね」

 我ながら、正周と同じくらい意味不明な言葉を連ねてしまった。すると、二人が揃ってこちらを見た。

「何の話だい、啓吾君」

 正周にだけは言われたくない。一方、凛の方はというと啓吾の背後を見やり、ふうっと諦めたようにため息をつく。

「おじじ様にはお世話になったので、貴方には文句を言うつもりはありません」

 どうやら、祖父に免じて、凛の矛先は啓吾に対しては甘いらしい。「恐縮です」と小声で言いつつ、一つ咳払いをして胸を張る。

「とりあえず、凛さんの矜持も分かりましたし、若様の親切も分かりました。私は帰って、大学の課題をやりたいのですが」

 すると二人は暫しにらみ合い、そして互いににっこりと企みを込めた笑みを残し、

「ではまた」

 と、挨拶を交わした。

 ブロロロロと、エンジンをかけ、車が動き始める。

「啓吾君まで乗らないなんて言わないだろう」

 正周は眉を寄せる。啓吾はええ、と頷く。

「僕は今更、意地を張りませんよ」

 ひょいと乗り込む。エンジンの音の合間に、正周は何かぶつぶつと文句を言っている。「どうしてあんな風に言うんだろう」「仕方ないのか、私が世間知らずだから」「でも、貸し借りなんて無粋な物言いを」と、凛の態度を愚痴っているらしい。

 信号で止まった時、ぐるりと後ろの啓吾を見やる。

「もしや啓吾君も、私に何か思うところがあるのかい」

「いや……僕は大抵の文句はその場で言っていますが……」

 再び信号が変わり、車は走り出す。

 エンジン音と風、そして町の喧噪を通り過ぎながら、正周の後ろ姿を見ている。

 いつも文句を言いながら巻き込まれているけれど、この人と共に歩きながら、奇妙なことに向き合って来た。そこで見つけた答えは、決してただの霊異ばかりではなく、現に生きる力にもなっている。

 車は連翹寺家に到着し、ようやく振動と音から解放された。ふうっと一息ついて見やると、正周はまだ少し不貞腐れている。

「ご機嫌斜めですか」

「いや……彼女が悪いというよりも、私は私に少し、懐疑的なんだ、今」

 哲学的な言い回しを試みようとして、結局、ただの愚痴らしい。

「まあ……時々、独り善がりでもありますし、お節介でもありますし、人を巻き込むことに躊躇もしませんが……」

「随分、言ってくれるな」

「僕は、感謝してますよ、若」

 すると正周は、パッと顔を明るくした。

「そうかい」

「ええ。ついでに一つお願いが」

「何だろう」

「大学を卒業したら、毎報社に勤めたいと思っています」

 正周はゆっくりと瞬いて啓吾をじっと見つめた。

「ああ。君はそうするだろうと思っていたよ。随分と楽しそうに仕事をしていたから」

「いや……若の秘書にするつもりらしいと、女中さんたちから聞いていたので……」

 正周は、はたと気付いたように、ポンと手を打った。

「そんないいアイディアがあったとは。ああ……しかし、君が記者になって、取材であちこちに行けば行くほど、面白い話も増えると思うと、惜しいなあ……」

 凛の言葉に少しは堪えているかと思ったが、相変わらず、啓吾のことは都合よく使うつもりらしい。

「さっさと金を貯めて、寮からも出ますから。よろしくお願いします」

 そう言って踵を返すと、正周は啓吾の後を追って来る。

「一緒に絵巻の中までアバンチュールしたじゃないか」

「アバン……何ですか、それは」

「フランス語だよ。冒険というんだ。あれはなかなかの大冒険だった。また行きたいんだが……どういう仕組みだったと思うかい」

 やれやれ、まだまだ若様のわがままは続きそうだと思いつつ、聞こえないふりをした。

 

(了)