第五話 絵巻アバンチュール
*
日曜日の朝、連翹寺家の玄関先では、フォード車がブロロロロと派手なエンジン音を立てていた。
「早く乗り給え」
正周はエンジン音に負けぬように大声を張り上げ、春先らしい青い背広で、啓吾に向かって手招きをする。啓吾はというと、絣の着物に袴に下駄といった装いで、慌てて車に駆け寄った。
「全く、日曜日くらいゆっくりさせてくださいよ」
「いいから」
啓吾が乗り込むと、正周は車を動かした。轟音と共に通り過ぎていく風を浴びる。まだ肌寒さが残るが、あちこちで桜の花が綻び始めていた。
「春だねえ」
その声も、大きく張り上げないと聞こえない。湯島から向かったのは、日本橋浜町である。路肩に車を停めると、正周は勝手知った様子で足を進める。
「あ、いたいた」
正周の視線の先には、縞紋の小紋の上に薄紅の羽織を着た凛の姿があった。
「今日の用事とは、凛さんのことですか」
「そうだよ。ここ、覚えているだろう」
凛が待っていたのは、かつては多聞寺のあった所である。廃寺であった多聞寺の境内で、祈り猫こと、猫に取り憑いた峰という女に会った場所だ。今はあの佐竹が営む真新しい料亭があった。凛は居心地が悪そうに目を伏せている。
「凛さん、よく来てくれましたね」
正周は笑いながら近づく。凛は戸惑いながら、ええ、と小さく頷く。
「……私もいつか、来なければと思っていたので」
先日、あの地蔵尊に参った後、正周は峯斎のもとを訪ねた。その際に、凛の話になったのだという。
「凛さんが、太一君のことを気にしているようだと先生がおっしゃるので、ここは一度、お引き合わせしようと思って」
正周はその日のうちに太一が引き取られた建具屋に出向き、日曜日に訪ねる約束を取り付けた。
「もしも凛さんが来られなかった時のために、太一君には内緒にしていてね。私と啓吾君だけ行くと伝えてある」
凛は緊張しているのか、自らの胸の上に手を置いて、ぐっと拳を握る。
「あの時……撥ね除けてしまったから……」
凛が、その身を永富家の令嬢、絹子の霊に明け渡していた時、凛を呼び戻す為に太一に引き合わせたことがあった。凛はお陰で正気を取り戻したが、追い出されそうになった絹子が太一を拒んだことがある。
「太一にひどいことを……」
正周は首を横に振る。
「あの時、太一君は貴女の無事を喜んでいて、自分がされたことを悲しんでなんかいなかった。もう一度、きっと会いたいと言っていたんです」
啓吾もその時のことを覚えている。懐かしい姉分に駆け寄った太一だが、けんもほろろに突き返された。それでも、「姉ちゃん、生きてた……」と声を上げて泣いていた。
人形町の建具屋が近づいて来た。すると凛の足取りが重くなる。店が見える所まで来ると、凛は足を止め、大きく目を見開いた。啓吾と正周が凛の視線の先を見ると、そこには客人を待ちわびている太一の姿があった。
先日会った時よりも少し背が伸びているようだ。絣の着物に下駄を履き、遠くを見ようと跳ねている。正周は大きく手を振る。
「太一君、待たせたね。約束を果たしに来たよ」
正周が、やや芝居めいた仕草で、後ろにいる凛の姿を太一に示した。太一は、大喜びで駆けて来た。が、数歩手前で足を止める。
「姉ちゃん……皐月姉ちゃんだ」
凛はぐっと唇を引き結び、深く頷いた。
「太一……この前、ごめんね」
絞り出すように言うと、太一はふるふると頭を振って、勢いをつけて駆けだすと、凛の首元にしがみついた。太一が声を上げて泣き、凛もまた、肩を震わせて泣いていた。
建具屋の夫婦は、太一の泣き声に驚いて飛び出して来たのだが、懐かしい人との再会と知って安堵したのか、微笑みながら一行を手招いた。
「店先で騒がねえで、中へどうぞ」
主の清助に招かれて、三人は太一と共に店の中へ入った。茶を出しながら、女将の夕は、太一の笑顔を嬉しそうに眺める。
「太一から、大好きなお姉ちゃんがいたことは聞いていました」
太一の母、峰は太一を残して落籍された。その後、妓楼に置き去りにされた太一を世話していたのが禿だった凛だ。当時は「皐月」という源氏名を名乗っていた。
「この子は、学校に行く前から字も読み書きできるし、箸も上手に使える。どこで習ったんだいって聞くと、皐月姉ちゃんに習ったって言ってね。大したもんだと思っていたのさ」
凛は、いえ、と小さく首を横に振りつつ、太一の溌剌とした顔を見て微笑む。
「私も太一も、災いが福に転じて良かった」
火事から逃げる時、凛は太一を背負って吉原から逃げ出した。以来、足抜け禿として、身を隠しながら生きて来た凛であったが、今は峯斎の養女となり、逃げずに済むようになった。長い歳月をかけて、ようやく落ち着きを取り戻し始めている。
「また会えるよね」
太一は凛の袖を掴んで離さない。凛は、うんと頷いた。
「もう大丈夫。これからはいつでも」
太一はその言葉を聞いて心底嬉しそうに、凛に抱き着いていた。
人形町の建具屋を出て、車を停めたところまで三人でそぞろ歩く。
「ようやく、宿題が一つ片づいたねえ、啓吾君」
「何ですか」
「太一君から頼まれていた、皐月姉ちゃんを捜して欲しいという一件だよ。こうして引き合わせることができて、私はほっとした」
そもそも、安請け合いをするからだ……と、毒づきたいところではあるが、太一の嬉しそうな顔を見ると、啓吾までいいことをしたようで嬉しかった。
路肩に止められた車までやって来ると、正周はくるりと凛に向き直る。
「乗って行かれますか」
運転席の後ろにある後部座席は、一応、二人乗れる作りになっている。凛は躊躇してから、「ご遠慮します」と頭を下げた。
「余り、借りを作りたくないので」
はっきりとした口調で言う。正周は面食らったように目を見開き、はて、と首を傾げた。
「そんなつもりはありません。ただ、便利なので」
「ええ、貴方に他意がないのは分かります。ただ……貴方の後ろの方との相性が悪い」
凛がついと正周の背後を指さした。啓吾も凛の指さす先を見ると、正周の背後には黄金色に輝く十二単の女人の姿があった。そして凛の背後には、その女人に目を合わせようとせず、やや斜に構えている屈強な男がいる。
ああ、ここにいるのはあの絵巻の中にいた、連翹宮と夜叉なのだ。夜叉にとっては相変わらず、連翹宮のお節介で散々な目に遭ったことと、護られたことへの借りがない交ぜになっているようだ。一方の連翹宮は、ただただ陽気な善意でお節介を焼こうとする。
何とも今の正周と凛によく似ている。
凛は作ったような笑顔のまま、じっと正周を見据え、正周はというと、拗ねたように不貞腐れる。
「分かりました。今回、車に乗せるつもりはありませんが、いずれまた、貴女や峯斎先生には関わりたいし、関わるつもりです」
すると凛は眉を寄せ、背後の夜叉はさながら不動明王のような憤怒の顔をする。その間に挟まれる啓吾は、己の後ろにもまた、あの右京亮がいるのかもしれないと思いつつ、二人の間に割って入った。
「まあまあ、これも御縁でしょう。悪縁かもしれませんが……少なくともここには刃も血も炎もない。今生で良かったですね」
我ながら、正周と同じくらい意味不明な言葉を連ねてしまった。すると、二人が揃ってこちらを見た。
「何の話だい、啓吾君」
正周にだけは言われたくない。一方、凛の方はというと啓吾の背後を見やり、ふうっと諦めたようにため息をつく。
「おじじ様にはお世話になったので、貴方には文句を言うつもりはありません」
どうやら、祖父に免じて、凛の矛先は啓吾に対しては甘いらしい。「恐縮です」と小声で言いつつ、一つ咳払いをして胸を張る。
「とりあえず、凛さんの矜持も分かりましたし、若様の親切も分かりました。私は帰って、大学の課題をやりたいのですが」
すると二人は暫しにらみ合い、そして互いににっこりと企みを込めた笑みを残し、
「ではまた」
と、挨拶を交わした。
ブロロロロと、エンジンをかけ、車が動き始める。
「啓吾君まで乗らないなんて言わないだろう」
正周は眉を寄せる。啓吾はええ、と頷く。
「僕は今更、意地を張りませんよ」
ひょいと乗り込む。エンジンの音の合間に、正周は何かぶつぶつと文句を言っている。「どうしてあんな風に言うんだろう」「仕方ないのか、私が世間知らずだから」「でも、貸し借りなんて無粋な物言いを」と、凛の態度を愚痴っているらしい。
信号で止まった時、ぐるりと後ろの啓吾を見やる。
「もしや啓吾君も、私に何か思うところがあるのかい」
「いや……僕は大抵の文句はその場で言っていますが……」
再び信号が変わり、車は走り出す。
エンジン音と風、そして町の喧噪を通り過ぎながら、正周の後ろ姿を見ている。
いつも文句を言いながら巻き込まれているけれど、この人と共に歩きながら、奇妙なことに向き合って来た。そこで見つけた答えは、決してただの霊異ばかりではなく、現に生きる力にもなっている。
車は連翹寺家に到着し、ようやく振動と音から解放された。ふうっと一息ついて見やると、正周はまだ少し不貞腐れている。
「ご機嫌斜めですか」
「いや……彼女が悪いというよりも、私は私に少し、懐疑的なんだ、今」
哲学的な言い回しを試みようとして、結局、ただの愚痴らしい。
「まあ……時々、独り善がりでもありますし、お節介でもありますし、人を巻き込むことに躊躇もしませんが……」
「随分、言ってくれるな」
「僕は、感謝してますよ、若」
すると正周は、パッと顔を明るくした。
「そうかい」
「ええ。ついでに一つお願いが」
「何だろう」
「大学を卒業したら、毎報社に勤めたいと思っています」
正周はゆっくりと瞬いて啓吾をじっと見つめた。
「ああ。君はそうするだろうと思っていたよ。随分と楽しそうに仕事をしていたから」
「いや……若の秘書にするつもりらしいと、女中さんたちから聞いていたので……」
正周は、はたと気付いたように、ポンと手を打った。
「そんないいアイディアがあったとは。ああ……しかし、君が記者になって、取材であちこちに行けば行くほど、面白い話も増えると思うと、惜しいなあ……」
凛の言葉に少しは堪えているかと思ったが、相変わらず、啓吾のことは都合よく使うつもりらしい。
「さっさと金を貯めて、寮からも出ますから。よろしくお願いします」
そう言って踵を返すと、正周は啓吾の後を追って来る。
「一緒に絵巻の中までアバンチュールしたじゃないか」
「アバン……何ですか、それは」
「フランス語だよ。冒険というんだ。あれはなかなかの大冒険だった。また行きたいんだが……どういう仕組みだったと思うかい」
やれやれ、まだまだ若様のわがままは続きそうだと思いつつ、聞こえないふりをした。