第二話 降霊茶会

 

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 啓吾は紙袋を抱えて、毎報社のドアを開けた。

「おお、雲戸」

 上条が自らの机についたまま、軽く手を挙げる。

「お疲れみたいですね」

 常には忙しくとも、無精ひげを生やしていても、元気そうな上条であるが、今日はひどく顔色が悪く、ぐったりと疲れている。啓吾は、上条の隣に置かれた丸椅子に座り、紙袋をずいと示す。

「連翹寺の若様から、差し入れです」

「お、あんぱん」

 上条は一つ取り出して、はむっとかじりついて息をつく。

「もしよろしかったら、みなさんも」

 啓吾が他の記者たちにも声を掛けた。

 啓吾が毎報社に行くと言ったところ、正周が「差し入れでも買ってくれ」と、心づけをくれた。社の近くにある木村屋であんぱんを買いこんで来たのだ。

「なんか、生き返るな……」

「上条さんが、そんなにあんぱんが好きだとは知りませんでした」

「今日はとりわけな」

 食べているうちに、上条は少し顔色が戻ってきたように見えたので、啓吾は改めて切り出した。

「実は、聞きたいことがありまして」

「申岡公章氏の件だろう」

「よくご存じですね」

「昨日、あの男が倒れた時に、連翹寺の若様がいたという話を小耳に挟んだんだが、何処で何があった」

 上条に問われているうちに、気付くと啓吾の周りにはぐるりと三人の記者が集まっていた。啓吾はやや緊張しつつ口を開く。

「あのですね、こっくりさんを……していまして」

「は」

 全員が首を傾げるのも無理はない。

「若様の研究とやらでは、Table Turningというそうで」

 啓吾は昨日、緑青堂で行われた「Table Turning」という占いの話と、その場に居合わせた面々のこと、そして、申岡が倒れた時のことを話した。

「誰かに突き落とされたとか、襲われたとか」

「いえ……庭で煙管をふかしていて、帰ろうとして一人で転んだと。その場で見ていた人もいますので」

 すると、居合わせた記者たちは、はあっと苦いため息をつく。

「憎まれっこ世に憚るとはこのことだな」

 そう言ったのは、もっさりとした白髪に、黒い眼鏡をかけた古参の記者、石野である。

「申岡とは一体、どういう人なんですか」

 啓吾の問いに、石野はあんぱんを呑み込んでから、顔をしかめて腕を組む。

「申岡公章といえば、お偉方の汚れ仕事を引き受けるどぶ攫いのような輩でな」

 石野の口ぶりは、蔑みが込もっていた。

 申岡公章は、江戸の生まれだという。若い時分から破落戸を集めて任侠一家を気取って来たらしい。幕末の動乱のどさくさで、権力を握った者たちに取り入り、彼らにとっての厄介者を片付けることで、のし上がって行った。今では一端の実業家を気取っているが、やっていることは変わらない。

 昨今では、お偉方の不正を暴こうとした記者を追い回して隅田川に落として死なせた。また、さる御大尽の妾になるのを拒んだ女を大勢で捕まえた挙句に強姦した。飲み屋のつけに文句を言った店主を殴り倒して、立てなくした……など。

「幕末の頃なんぞは、もっとひどい有様だったとか」

 上野戦争、会津戦争はもちろん、その後に続いた内乱でも、兵士のみならず女子どもまでも殺して歩いたと自慢していたという。

「新政府が立ち上がってから力を持つまでは、あちこちで小競り合いがあったからな。剣呑な連中が幅を利かせているのも無理はないのかもしれないが……お前さんの話を聞く限り、奴は一人で転んだんだな」

「ええ……まあ……」

「でも、さっき警察に行って聞いた話では、昨晩、破崩坊という男が自首したらしい」

 啓吾は驚いた。破崩坊はあの時、三鈷剣を盗んで逃げたと思っていたのに。

「何の罪で自首したんですか」

「申岡を呪った……と」

 破崩坊は、昨晩遅くに警察にやってきた。そして本名を名乗ることもせず、出自も明らかにしていない。ただ、「申岡に呪いを掛けたのは私だ」と言っている。取り調べで動機を問うと、突如として目を閉じて何かを唱えたかと思うと、子どもの声で「熱い、苦しい」と言って、泣き疲れたようにその場に突っ伏す。次に顔を上げた時には、さながら七十を過ぎた老人のように背を丸め、「私の命は最早、どうなろうとも構わない。命に代えて子らを守るしかない」と、掠れた声で言って目を閉じる。次いで顔を上げると、今度はさめざめと女の声で泣き、「我が子の屍をこの手で埋めた」と語る。さらに、目を爛々として怒りを露わにし、野太い声で「我らはただ、暮らしていただけだ。それが全て壊された」と、怒鳴る。

 そして、さながら今、焼かれているかのように「熱い、熱い」とのたうち回り、暫しあってから、「殺せ、殺せ」と、幾つもの声色で言い、突如として糸が切れた操り人形のようにその場に突っ伏す。

 一人、語るごとに一つずつ年を取っていくように、破崩坊の見目は一晩で十は老け込んだという。

 警官たちは不可解に思いながらも、ひたすらに憑依されたような破崩坊の言葉を、調書に記し続けるしかない。聞いている者たちも疲れ果てた。

「俺は石野さんと一緒に警察に行って話を聞いたんだが、その時、取調室から出て来た中年の警官なんぞ、出て来るなり嘔吐して倒れたんだ。俺たちも、警官たちの話を聞いているだけで、何だか草臥れてしまってな」

 そう言いながら、上条は紙袋に残っていたあんぱんをもう一つ取り出してかじりつく。

「でも結局、呪った証拠はないし、罪にはならない。破崩坊は釈放されるって」

「盗みの話は出なかったですか。緑青堂から古物が一つ、消えたのですが」

「いや、そんな話はなかったな」

 緑青堂は三鈷剣が盗まれたことについて、警察に届けていないようだ。曰くつきの品であることもあり、捜すことを諦めているのかもしれない。

「では、申岡氏のことは、事件にすらならないということですね」

 啓吾が問うと、記者の石野は、眼鏡をずり上げながらうん、と頷く。

「まあ……私としては、破崩坊という占い師よりも、申岡氏を捕らえたほうがいいようにも思うけれどね。奴には、鬼やらいの噂がある」

 あの三鈷剣の箱の中に入っていた紙と同じ言葉を聞いて、啓吾は思わず身を乗り出した。

「鬼やらい……って、何ですか」

 すると石野は苦い顔をして口を噤んだ。しかし、傍らにいる上条や他の記者たちも、「聞きたいです」とせがみ、石野は苦い顔で口を開く。

「あの男が、人を……刀を持たぬ無辜の民を殺したって話さ」

 新政府は、民の統治のために戸籍を作った。その大半は、幕府が作った人別帳から作り上げられた。しかし、その人別帳に載らない人々がいる。藩から抜けた人や、芸人、山伏などをはじめ、定住することなく動いていた者だ。彼らの中には新たな政府が立ち上がったことを知らない者もいたが、一部には、新政府への反発から、戸籍に入ることを嫌う者もいた。

 政府の力を強めたい者の中には、過激な思想を持つ者も少なくなかった。とりわけ、急先鋒だったのは、亡くなった先の雉尾伯爵である。

「籍を持たない者は、まつろわぬ者。民ではなくて人外。そして、内乱を起こすのは、人外の中に潜む鬼の仕業だ。奴らは片づけた方がいい」

 生前、雉尾は悪びれもせずに言い放った。雉尾は勲功華族であり、政権中枢とも近い。その人物が言えば、「黒も白になる」ほどの力を持っていた。雉尾のもとで幅を利かせていた申岡は、嬉々として雉尾の言い分に従った。

「そういう輩は御国に仇為す。我らが鬼やらいをしましょう」

 申岡は、「鬼やらい」だと称して、山中にあった隠れ里で人を殺めた。しかし、未だ新政府の中では名もない民である以上、「何処で誰を殺した」という情報が欠けている。

 雉尾は、「これは天下泰平のため。御国のための鬼やらい。そもそも、国民として数えられていない者の命を奪ったとて、罪になろうはずもない」と、申岡を庇ったという。

「暴動とか、事件と呼ばれる中には、半ば内乱のようなものも少なくない。今では考えられないような無法がまかり通ってもいたろうからな」

 なるほど、と頷く若い記者たちを前にして、石野は苦い顔で腕を組む。

「ただ、その鬼やらいにはもう一つ……別の話もあってな」

 今から十年ほど前のこと。まだこの毎報社がレンガ造りになる前の冬、石野は社を出たところで一人の男に声を掛けられた。草臥れた着物で、伸びた髪が目元まで覆い表情はよく見えない。ただ見るからに困窮した様子であった。「話を聞いて欲しい」と懇願され、仕方なく中へ招き入れた。

 古い小間物屋をそのまま買い取っていたので、小上がりに畳敷きという設え。そこに火鉢を置いて、古参の記者と共に話を聞くところによると、男は十年ほど前に、里を焼かれ、同胞を殺されたという。その時、襲って来た男が、羽振りの良い身形でいるのを見かけた。それが、申岡だったという。

「あの申岡という男は、暴動の鎮圧などではない。ただ稀なる宝を捜すために里を襲ったのです」

 男は泣かんばかりに訴えた。

 何でも旧幕の書物に、里に「稀なる宝」があると記されていたらしい。男は申岡に「隠し財産があるはずだ」と詰め寄られた。しかし、「そんなものはない」と応えると、目を斬られた。それでも分からないと答えると、里の者を殺して回り、火を放った。

 しかも、辛くも逃げた者たちを、未だに追い、宝を捜しているという。

「本当に宝があれば差し出しても構わない。しかし、そんなものはない。どうか、助けて欲しい。あの男が正しく裁かれるよう、力を貸して欲しい」

 泣かんばかりに頭を下げられた。しかし、当時の毎報社は新聞社としての力も弱い。書いたところで眉唾ものだと言われる上、政府に睨まれるだけだ。石野も、当時の上役たちも渋い顔をして、「いずれ時を待って」と応えるしかなかった。

 石野は、その時のことを思い出したように、ぐっと奥歯を噛みしめる。

「口惜しかった……。あの連中は、鬼やらいなどと言って、ただ金目当てに人を殺していたに過ぎない。だが、当時の我らには何もできなかったし……今も力及ばぬ。己の無力さを痛感するよ」

 一通り話を聞き終えると、皆、知らぬ間に息を詰めていたことに気付き、一斉に力が抜けたようにため息をついた。

「申岡は、この先も罰せられないのでしょうか」

 啓吾の問いに、石野はううん、と唸る。

「政府のお歴々は口を噤んでいるが、亡き雉尾伯が使っていた申岡に、眉を顰める者は少なくない。しかし申岡の罪が露わになれば、今の政府の信頼が揺らぎかねない。だから、野放しになっている。申岡が死んで、事がうやむやになって欲しいと思っている連中は、政府に少なからずいるだろうよ」

 新聞の黎明期から、政治に目を向けて来た石野の言葉は、若い記者や啓吾にとって、余りにも重い。

「今はあの申岡も少しは大人しくなっているように見えるが、古参の連中と共に、自分の若い頃と同じような血気盛んな連中を子飼いにして、四谷に住まいしている。昨今では、あの怪談の稲荷よりも避けて通りたいと言われているよ」

 啓吾は、暫し黙り、石野の話を反芻した。その「鬼やらい」の様子は、啓吾が三鈷剣の箱から感じたあの風景に似ている。

「石野さん、その時の男とは、その後、会いましたか」

「いや、それきりだ」

「もしや、破崩坊ではありませんか。右の目が見えていないとか……」

「髪に隠れていたが、確かに右の目が白かったような……それが、申岡を呪ったと自首をした男なのか」

「はい」

 すると上条は腕を組む。

「しかし、呪いで殺したわけじゃないのだろう。倒れただけだ。お前さん、流石はあの若様と一緒にいるだけあって、そういうことまで信じるのかい」

 啓吾は、いえ、と言い淀むが、傍らにいた石野は、

「或いは、呪いかもしれないと思う」

 と言った。他の記者たちも怪訝そうに石野を見る。

「いや、時代が変わったからと言って、突然に道理までもが切り替わるわけじゃない。事件の捜査をしている警察の連中や、殺された人の遺族が、夢枕に立ったとか、勘が働いたとかいう話があるだろう。それは馬鹿に出来ないことがある。呪いとまではいかずとも、亡霊くらいはいるだろうよ」

 何となく、そうですねえ、と皆がぼんやりと頷き合う。

 するとそこへ、啓吾と同じくアルバイトの学生が飛び込んで来た。

「今、申岡が四谷に戻りました」

 どうやら張り込みをさせられていたらしい。額に汗を浮かべている。

「目が覚めたのか」

「そうみたいです。人力車で来て、降りてからはしっかり歩いて屋敷に入りました」

 皆が、「やれやれ、逞しい」と、ややがっかりした顔をする。

「げに恐ろしきは、幽霊よりも人の業ってか」

 上条は苦笑交じりに小唄のように言い、周りの記者たちも「その通りですね」と苦い顔で黙り込んだ。啓吾も今や、亡霊よりも、あの呪物が見せた申岡の顔の方が余程、恐ろしいと思う。

 そして皆、それぞれの持ち場に戻り、啓吾も上条の隣で徐に書類の整理を始める。すると何かを書きかけた上条が顔を上げた。

「しかしもし、破崩坊という祈祷師とやらがその生き残りなら、呪い殺したくなるのも分かるけどな」

「警察は、破崩坊の証言を記録に残すでしょうか」

 啓吾は、破崩坊にとってその「記録に残す」ことこそが自首の目的ではなかったかと思えた。たとえ己が囚われたとしても、あの男に殺された者がいたこと、呪うほどにあの男を憎んでいる者がいたことを、公式な記録に刻みたかったのではないか。

「罪になれば記録するかもしれないが、何せ申岡が目を覚ましたし、破崩坊も釈放された。呪ったと言っても、本人の思い込みだと片づけられるだろうから、記録には残るまいよ」

 啓吾は心なし、肩を落とす。その様子を見た上条は、啓吾の顔を覗き込む。

「どうだい、いっそ例の記事にしてみるかい」

「どういうことです」

「いや、このままなかったことにしたくないって、そういう顔をしているからさ」

「でも、どう書きますか。下手をすれば社にとっても良くないのでしょう」

「そうさな……幕末の頃、鬼として殺された者たちの恨みを背負った生き残りの呪術者が、権力者の手先を呪い殺す話……なんだか御伽噺のようだな」

 上条は苦笑しながら頭を掻いて、啓吾の肩をトンと叩いた。啓吾も、そうですね、と言いつつ首をひねる。

 まるで、いつぞや見た、連翹寺家の祖先に繋がる絵巻、「連翹宮物語」のようだ。

 帝の皇女、連翹宮を襲った鬼は、朝廷を守る武士たちによって追われ、山奥へ逃げて行った。そして不動明王によって鎮められた……という物語である。

 その時ふと、破崩坊が降霊に失敗しながら吐いた言葉を思い出す。

「忘れるな。いつか無量無辺の火焔を出だし、その身を地獄の業火に突き落としてくれようぞ」

 よく似た言葉を聞いた。確か、易者の峯斎に、凛という少女の行方を尋ねた時のこと。凛の腕に不動明王を表す梵字の痣があると言ったら、不意に「不動尊の遍身より無量無辺の火焔を出だし」と、唱えた。そして、凛の痣については、「あの痣には鬼が封じられている」と言っていた。

「……鬼の生き残りは、破崩坊だけではないのかもしれませんね」

 すると上条は、お、と声を上げた。

「おや、面白い記事になりそうかい」

「記事に……なりますかどうか」

 上条の問いかけに啓吾は首を傾げ、いつものように資料の整理を手伝って、毎報社を出た。

 啓吾は本郷の連翹寺家へ帰る道すがら、考える。

 鬼畜の所業を為した申岡は、「鬼やらい」をしたとして、権力者との繋がりを強めていた。破崩坊は自らの身と、生き残った者たちの為に、道理を通すことを願っていたのかもしれない。だから石野のような記者にまで会いにきた。しかしそれが叶わなかったことで、「呪い」を決意したのではないだろうか。だが、それもしくじった。それでも尚、道理を通すべく自首をした。しかしそれも出来ず、申岡の罪は公にならない。

 となると、再び残された道は「呪い」しかない。

 思い巡らせながら歩くうち、連翹寺家の前までたどり着くと、坊主頭に黒羽織の男が連翹寺家の塀を見上げて立っていた。

「破崩坊……」

 思わず呟くと、破崩坊自身と共に、その背後に憑いている亡霊たちも一斉にこちらを見た。啓吾は思わず目を伏せた。

「視えているのですね」

 破崩坊の声もまた、幾重にも重なって聞こえる。既に亡霊と一体化しているようだ。ゆっくりと歩いてこちらに向かってくると、目を逸らしていても、澱んだ空気が重く圧し掛かってくる。

「来るな」

 啓吾は目を伏せたまま、後じさりする。

 その時、

「啓吾君、こっちへ」

 声の方へ目を向けると、連翹寺家の門から出てきた正周が駆けてきて、啓吾の腕を掴んで自らの後ろにかばう。

「破崩坊さん、どうしたんです。たった一晩で、随分、面差しが変わられた」

 啓吾も恐る恐る、破崩坊を見る。すると正周の言葉の通り、十以上は年を重ねたように、背も丸まっていた。が、その面差しは幾重にも重なる霊の顔で定かには見えない。

 破崩坊は、正周を前にして、十歩ほどの距離を取ったまま、それ以上こちらには近づこうとしない。ゆっくりと手を持ち上げて正周を指さす。

「やはり、貴方のせいだ」

「何のことです」

「あの日、私は霊を降ろし、申岡を殺すつもりだった。それなのに霊が跳ね返されてしまった。貴方が立ち去った後に、死霊を呼び寄せたものの、失敗に終わった」

「貴方自身が手を下すのではなく、何故、亡き人々を巻き込むのですか」

「彼らは、それを望んでいるのですよ。そのために怨霊となって尚、この世に留まっている。しかし、一人一人では弱いので、私が手を貸しているのです」

 そう言いながら破崩坊は両手を広げ、死霊たちを、さながら外套のように纏う。

「それで、御坊はこれからどうなさる」

 正周の問いに破崩坊は首を傾げて笑ってみせた。

「私は本来、そこの貴方のご友人のように、視えて、聞こえるだけの者でした。その力を世に役立てるべく修行を積んで来た。しかし、正しい力ではあの男を追い落とすことは出来ない。故に呪術を学んだのです。ようやくその機会が訪れた。それなのにしくじった。力が弱まったのかと案じていました。しかし、失敗の理由が貴方なのだと分かった。これから心置きなく、己の想いを遂げるまで。どうか次は邪魔をなさるな。それだけを伝えたくて参りました」

 そう言うと、両手を合わせ、深々と頭を下げる。その仕草は懇願しているように見え、啓吾も正周も何も言うことができない。

 破崩坊はそのままゆっくりとふらりふらりとその場を立ち去って行った。

「大丈夫かい」

 正周に声を掛けられ、啓吾は大きく息を吐く。体の芯に震えが残っているが、辺りを覆う黒い霧は消えている。

「破崩坊は、あれほどの怨霊を抱えていれば、命を落とすかもしれません。そして、その命と引き換えに、申岡を呪い殺そうとしているのでは……」

 自らの同胞を失った悲しみを癒すこともできぬまま、恨みと共に生きて来た。それは余りにも悲痛な生き方に思えた。

「君は、どうしたい」

 正周は啓吾に問う。

「僕がどうしたいって……」

「君は、破崩坊のことを怖がっていたけれど、今、彼を止めたいと思っているように見えたから」

 啓吾は唇を引き結び、首を横に振る。

「しかし、為す術もありません」

 すると正周は、いや、と否定する。

「とりあえず人としてできることをしよう。申岡氏に用心するように言えばいい。今、申岡氏は何処に」

「恐らくは、四谷の屋敷にいると……しかし、若様が再び破崩坊の邪魔をすれば、怒りの矛先が若様に向かうかもしれない」

「私は亡霊を祓えるのだろうから、破崩坊については心配ない」

 確かに、あれほど恨みを抱えた亡霊を、一瞬で祓ったのだ。

「それに、申岡氏のような人は、存外私のような立場の者には危害を加えないものだよ」

 明るく言って、ドンと胸を打つ。こんなにも正周の言葉が頼もしく感じる日が来るとは思わなかった。

「さあ、行こう」

 啓吾は立ち上がり、正周と共に四谷に向かった。

 

(つづく)