第二話 降霊茶会
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申岡の死は、新聞紙面の小さな記事になった。やくざ者の内輪もめの末に起きた火事ということになったらしい。
「申岡が病に倒れたので跡目のことを巡って言い争ったって書いてあるけどな」
上条は納得していないようである。
「這う這うの体で逃げ出した若い連中が言うには、剛造っていう男が、いきなり脇差で申岡の首を掻き切ったそうな」
年が近い古参にもかかわらず、他の若手を重用していたことを恨んでいたと、理屈がついている。
「だが、剛造の様子はいつもと違っていたというんだ。刺しても刺しても倒れず、向かって来るのが怖かったとさ。しかも親父が死んだ途端に、古参の連中が怒り狂い、同士討ちをしたと」
警察が屋敷を検めたところ、七人の男たちが死んでいた。女たちを含めて十人余りは火傷や怪我を負っていた。
「死んだ七人はいずれも、古参の連中で、それこそ石野さんが言っていた鬼やらいに関わった奴ららしい。存外、呪いはあったのかもしれないな」
上条は軽い口調で言う。
「しかし、あれだけの大火事で、よくも隣に飛び火しなかったもんだ」
正周が言うには、いわゆる呪いによって放たれる「妖火」の類いは、普通の火のように飛び火はしないらしい。
上条はそんなことは知る由もなく、言葉を接いだ。
「申岡が殺されたことに、悲しむ者はほとんどいない。しかも、内輪もめともなれば、恨む先すらない。汚れ仕事を請け負う者がいなくなり、がっかりする連中はいるかもしれないが、それだけだ」
それだけ……という言葉に、啓吾は苦さを覚える。自らの命と魂を引き換えに、呪いという形で復讐を遂げた破崩坊は、記事にならないし、人々の記憶からも忘れられる。遺体すらも残らないのだ。
新聞社を出た啓吾の足は、谷中へと向かった。
まだ仄かに木の香りがする山門をくぐり、寺に入る。本堂へ向かう敷石の両側には、春の花々が咲き、梅の香りがしていた。読経の声が聞こえ、鳥の囀りが響く。
この寺の住職は、母の兄である敬円である。本堂で本尊を前に端座する伯父、敬円の背を確かめてから、裏手に回って庫裏に行く。本堂から聞こえて来る読経の声を聞きながら、縁側に腰かけてぼんやりと空を見ていた。
久しぶりにこんな穏やかな心地でいられる気がする。
霊異が視えるということは、時に霊たちの心に触れることになる。とりわけ今回のように、憎しみや悲しみを抱え、悪霊となってしまった者の心に触れると、命を削られるように苦しい。少しでも癒すことが出来ればと願っていたのだが、啓吾の力では何も出来なかった。
その時ふわりと塗香の香りがして、振り返ると袈裟掛けの伯父、敬円がいた。いつの間にか読経の声が止んでいたことに気付かなかった。敬円は静かに啓吾の傍らに腰を下ろした。
「山門をくぐった折には、ひどく心乱れた様子だったが、少し落ち着いたようだな」
「……はい」
啓吾は幼い頃から、人に見えぬものを視て、よく泣いていた。話しても信じてもらえず、周囲に心を閉ざしたこともある。そんな時、母はいつも京で修行中の伯父に文を書いて相談していた。
十三歳になった頃のこと。学校を終えて神田の長屋に帰る途中、「啓吾」と、声を掛けられた。三つの時に会って以来なのだが、伯父はすぐに気付いた。
「会えて良かった」
伯父、敬円はそう言って、啓吾の手を取った。その瞬間に身を覆う黒い霧が晴れ、体が軽くなり、視界が明るくなった。
その頃の啓吾は、霊異が視える力と上手く付き合えなかった。学ぶことは好きだったが、良い成績を取ると、妬み嫉みを受け、怠惰を気取っていると、今度は同じように堕落へ誘う黒い霧が覆う。祓う術もなく過ごしていたのが、伯父に会ったことで軽くなったのだ。
啓吾が思わず涙を流すと、伯父、敬円は黙って啓吾を抱きしめた後、自らの懐にあった数珠を啓吾に手渡した。
「遠からず、東京に来るから。それを持っていなさい」
敬円から渡された数珠は、以来、啓吾に纏わる雑霊を祓い、日々の暮らしを助けてくれた。
最近では、数珠がなくとも、雑霊の類を拾うことはなくなったが、流石に今回は、亡霊たちの残滓が、なかなか離れなかった。
「今回ばかりは、つくづく己の力とやらが、疎ましくなりました」
最近では、幼い頃には持て余していた力とうまく付き合えるようになったと思っていた。正周の好奇心に付き合ううちに、この力も悪くないと思い始めていた。
しかし今回、破崩坊と出会い、その悲痛な思いに触れた。
「あの人の記憶や亡霊たちの想いも伝わってきた。でも何も出来ない。ただ、視えるだけ……」
破崩坊も、かつては視えて聞こえていただけだった。しかし、自らの里を焼かれ同胞を亡くし、憎しみを募らせた。そして、亡霊たちの声を聞くうちに想いを叶えたいと願い、呪いにまで手を伸ばした。自らの命を賭して、生きている者に乗り移り、七人もの人を殺し合わせ、火を放つ。苛烈なまでの復讐を遂げた。
「僕も、いつかあんな風に、憎しみに囚われて暴挙に出るかもしれないと……」
父や母、妹、伯父、友人……大切な人を奪われれば、怒り狂うだろう。その狂気に突き動かされてしまうことは、人として当然だ。
敬円は啓吾の背を大きな掌で撫でる。
「何もかも、出来ると思うな」
諦めの言葉だが、その声音は優しい。
「出来ることもあれば、出来ぬこともある。一人の力で為せることなど、ほんの一握り。そしてそれは、私やお前のような力のあるなしにかかわらず……」
敬円は子どもの時と同じように、啓吾の手を取った。
「所詮、我らは視えるだけ。時に霊の心を知ることもあるが、それとて、人と人とが向き合うこととさほどは変わらぬ。悪心を抱く者を前にして、恐ろしいと思うのも当然。そして、誰かを悼む想いも同じ。非力な己を、責めるのは、いっそ傲慢というもの」
そうかもしれない。
人とは違い、視えるからこそできることがあると過信していた。しかし、視えるだけなのだ。むしろそれで「何かを為そう」として、呪いに走った破崩坊を思えば、己の出来ぬことを受け入れた方が良い。
「お前のお祖父様、私の父様は、かつてこの力を稀なる宝とおっしゃった。そして、同じような力を持つ人々の力になりたいからと、家を出たきり戻られず……」
敬円は唇を噛みしめ、ぐっと息を呑む。啓吾はふと、その言葉に首を傾げる。
「稀なる宝と、おっしゃったのですか。この力のことを」
「そうだ」
隠れ里には「稀なる宝」があると言われていた。それを理由に申岡は破崩坊の里を襲ったが、結局何も見つからなかった。破崩坊もまた、「宝なぞない」と言っていた。
もしも伯父が言うような意味で「稀なる宝」について語られていたのだとしたら、隠れ里で殺された人々こそが、稀なる宝だったのかもしれない。啓吾と同じように、視る力を持ち、静かに隠れ里で暮らしていた人々。それをかつての幕府は、「稀なる宝」として、時に重用したのかもしれない。その一方で、人別帳には載せず、人の外に置いてもいた。
少し時代が違い、状況が違えば、啓吾も、敬円も、破崩坊と同じ道を辿ったのかもしれない。
「伯父さん、どうか……破崩坊の後世を祈って下さい」
せめて、灰となって消えたあの男が、幾ばくか救われるように、願うしかない。
「祈ることしかできないが、そうするよ」
啓吾はゆっくりと立ち上がり、伯父に頭を下げた。
連翹寺家へと帰る道すがら、ふと空を見上げた。
よく晴れた春の陽気で、青い空に白い雲が浮かんでいる。ぼんやりと歩いていると、トン、と後ろから肩を叩かれた。振り返るとそこに正周がいた。そしてしみじみと啓吾の顔を見ると、うん、と頷いた。
「少し、顔色がいい」
啓吾は自分の顔をひと撫でした。
「顔色、悪かったですか」
「ずっと重苦しかったようだから」
どうやら正周にも心配を掛けていたらしい。この人は、啓吾のように霊が視えるわけではないが、人の様子はよく気付く。
「御心配をおかけしました」
「うん……まあ、私もTable Turningに誘った責任がある」
「そうですね、元はといえば若のせいでした」
ははは、と笑うと、正周も微笑んでから、ふと表情を暗くする。
「しかし、今回ばかりは私も少し怖かったよ。目の前で人が灰になったんだ……」
破崩坊は正に正周の腕の中で消えた。
「それでも私は、霊異は人が言うほど恐ろしいものだと思っていない。むしろ人を、心を救うと思っているんだ。今回の件も、破崩坊は呪ったとしても、元はといえば、人の醜悪さが招いたことだろう」
欲と狂気に塗れた男を、同じく欲に塗れた権力者が遣い、守り、多くの人を傷つけた。
「霊異の方が余程、ましです」
啓吾は心底そう思う。
「良かった。これで君が私と共に霊異を捜し歩くことを、まっぴらだと言ったらどうしようかと思っていた」
「え、いや、ましだと言ったんです。何も、喜んで捜したいわけでは……」
「懲りたなどと言わずにいてくれれば、それでいいんだ」
陽気に言って歩き始める。正周の周りにはいつも光が躍っている。そういえば、伯父の数珠がなくても暮らせるようになったのは、この人に会ってからかもしれない。
「勘弁してくださいよ」
啓吾はそう言いながら、正周の後を歩いた。