第三話 ハイカラ電話

 

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 翌日も、その翌日も、凛は連翹寺家に現れなかった。

「もしや、君が会ったと思っていたのはただの幻だったのではないのかい」

 正周は残念そうに言う。啓吾も、或いはあれは全て己が見た幻だったのではないかと、疑念を抱き始めていた。

「まあ、昼日中に来られても、僕も大学に行っていますし、夕方も毎報社ですからね。若様も大学の研究室に行っているでしょう」

「いや、私は何処にも出かけずにここで待っているよ」

 今回は、これを研究の材料にしているらしく、家で一日中、来るとも知れぬ凛のことを書斎と電話室を行き来しながら待っているらしい。正周は大学の研究者ということになっているが、恐らく当分は博士という肩書はつかないだろう。そのことについて、子爵も夫人も既に何の期待もしていないらしく、「やれやれ」といった様子で薄目で見逃しているようだ。「長男の正幸様がしっかりしていらして良かった」というのが連翹寺家に仕える面々の共通認識である。

 そうして迎えた日曜日。

 昨夜は、遅くまで毎報社で仕事をし、それが終わったところで、社内で打ち上げと称した飲み会になった。散らかったデスクに、スルメイカや塩豆を広げて、どぶろくを飲んだ。散らかしたまま帰るわけにはいかないからと、潰れた先輩たちを後目に片づけをしていたら夜中になったので、とぼとぼと歩いて帰ってきたのだ。

 おかげで日は高くなっているものの、頭はがんがんと痛み、寝台で何度も寝返りを打っている。すると遠くから「お~い」という聞き覚えのある呼び声が聞こえる。啓吾は耳を塞ぎ、蹲るのだが、その声は耳で聞いているというよりも、頭の中に直に響いてくる。

「まったく……」

 ため息と共にむくりと起き上がる。浴衣を脱ぎ捨てて開襟シャツにズボンを履き、顔を洗って、心ばかり髪を整える。そして、大きく伸びをしてから頬を一つ叩いた。

 寮を出て本館に向かおうかと思ったのだが、本館から門の方へと金色の糸がすっと伸びているのに気付いた。

「来たのか……」

 啓吾はそのまま門の方に向かう。門を出て通りを見ると、青い小紋に黒羽織を着た若い女が、連翹寺家の高い壁を見上げて立っていた。啓吾が黙って見ていると、その視線に気づいたのか、顔を隠して遠ざかろうとする。

「待って。凛さん……ですよね」

 啓吾の声に、凛は足を止める。

「覚えていますか」

 すると凛はゆっくりと振り返る。そして、ばっと頭を下げた。

「先だっては、申し訳ありません」

 啓吾は、凛が何に謝っているのか分からず、首を傾げた。凛は更に言葉を続ける。

「永富家での一件、貴方とご友人には、多大なお力添えを頂いておきながら、何も言わずに姿を消したこと、申し訳なかったと思っています。ただ、私としても居たたまれず……」

 苦い顔をして唇を噛みしめる。今更、そんなことを怒るつもりは毛頭ない。

 もしあの永富家の一件の後、凛があの家に居座っていたのなら、「資産目当ての詐欺師」などと罵る輩もいただろう。絹子嬢の遺体が見つかってすぐに姿を消したのは、むしろ正解だったと思っている。

「今日、ここに来てくれたのは、そのためではないですよね」

 啓吾に問われて、凛は小さく頷いてから、しみじみと啓吾の顔を見た。

「……ではやはり、あれは夢ではないのですね」

「お待ちしていました。僕も、若様も」

 凛は目を伏せて、一瞬の躊躇の後に、覚悟を決めた様子で顔を上げた。

「一度、きちんとお話をしなければならないと、思っていましたので」

 緊張しているのか、手元の巾着をぐっと強く握っている。

「どうぞ、お楽に。当家の若様がお待ちです」

 凛は恐る恐る門の中へと足を踏み入れた。

 出迎えたのは、女中の信である。

「あら、お客様ですか」

「はい。若様と僕の知り合いです」

 信の視線は凛の頭のてっぺんから足の先まで辿る。この家の若様に関わろうとする若い女が何者かを確かめているのだろう。そして、信にぐいっと腕を掴まれ耳打ちされた。

「何方ですか」

「ああ……以前、若様の研究でお会いしたことのある人で」

「このところ、若様が毎日、門前まで出ては誰かを待っていたけれど、もしやあの人……間違っても松木原の薫子さんには黙っていなければ……」

 信は誤解したまま、心得たとでも言わんばかりに、啓吾に頷いて見せる。啓吾は苦笑して信に一礼をすると、凛を連れて長い廊下を歩き始めた。正周の書斎の手前、電話室前まで来ると、凛がふと足を止めた。

「ここ……夢の中で見ました」

 凛は自らが視た光景を確かめるように立ち、廊下を見渡す。

「どうやら貴女は、この電話からあの老僧に引っ張られてしまったようですよ」

 凛は、ほうっと一つ息をつく。

「そうなんですね。私はまた、のべつ幕無し、あちこちの家に生霊を飛ばしていたのかと……」

 どうやら凛もまた、不安を覚えていたらしい。啓吾は、こちらへ、と手招きをして、正周の書斎の前まで来た。

「若、御客人です」

 内側から勢いよく戸が開き、正周は顔を覗かせる。

「待ちかねていましたよ。さあどうぞ。お久しぶりです、御達者でしたか」

 その声は廊下に響き、恐らくは女中部屋まで届いたであろう。啓吾は、やれやれ、と肩を竦めつつ、中へと足を踏み入れる。凛もおずおずと前に進み、正周に深く頭を下げた。

「ご迷惑をおかけしました」

「迷惑などありませんよ。まあ、女中が一人、驚いていましたが。そんなことより、貴女はとても興味深いことばかり起こして下さる」

 凛は、勧められるままにソファに腰かけながら、はい、と小さく頷く。そこへ、女中の由紀がお茶とお菓子を運んで来た。凛は顔を上げて由紀を見ると、慌てて自らの顔を隠す。由紀はというと、客人に興味津々であるが、顔を隠されたことに怪訝そうに眉を寄せ、緑茶と落雁を置いて下がった。

「あの方……」

 凛は由紀の去った方を見て問う。

「ああ、彼女は夜な夜な幽霊を視たと。貴女はその記憶があるのですか」

 正周は問いつつ、自らの手帳に書き記す。

「はい。確かに私は、あの方にお会いしています……」

 そして一つ大きく息をすると、覚悟を決めたように口を開いた。

「私は今、先にお騒がせをしました、永富家の御当主、祐太郎氏からのご推挙をいただき、電話交換手の仕事をしています」

 最初にこの家を視たのは、松木原家からの電話を繋いだ時のこと。若い女性が出てから、「暫しお待ち下さい」と、繋いで良いかどうかの確認に、電話口を離れた気配があった。その瞬間に、「お~い、お~い」と呼ばれた。声が男の人になっていたのだが、凛は慌てて、「はい」と、返事をした。次の瞬間、くらりと眩暈を覚え、目を開けると、見知らぬ屋敷の中に立っていた。

「何処だか分からなかったのですが、その時は誰に会うこともなく、そのまま吸い込まれるように元の交換手の席に戻りました。その時、隣にいた同僚が、居眠りをした私を起こしてくれたそうです」

 なるほど、その時はすぐに戻ったので、由紀は凛を見ることはなかったのだ。

「しかし、次第にあの時の電話の声が気になってきました。聞き覚えがある声に思えて……」

 その夜、眠りにつくと、夢を見た。

 昼に視たのと同じ洋館の廊下に立っていた。自分を呼ぶ声が聞こえて来るのだが、それが何処からかは分からない。しかも、立っている場所から動くこともできない。そこへ、若い女性が姿を見せたので、「ここは何処ですか」と問うと、女性から「連翹寺子爵家です」と教えられたところで目が覚めた。

「それ以来、夜、眠りにつく度に、ふとあの声を思い出しては、同じ館の夢を見ました。先日はその……誰に呼ばれているか分かったので」

 あの時、凛は三鈷剣から浮かび上がった老僧を見て、「おじじ様」と呼んだのだ。その後に啓吾と話し、この連翹寺家のことを知り、訪ねて来たのだ。

「一つ、聞いてもよろしいですか」

 啓吾の問いに凛は小さく頷いた。

「おじじ様とは、誰ですか」

 凛は、躊躇するように、手を開いては閉じ、開いては閉じしてから、目の前に置かれた茶を飲んだ。

「無理にお話しにならなくても構いません」

 思わず啓吾が言ったのは、凛にとってそれは苦い記憶のように思えたからだ。しかし凛は、啓吾をひたと見据えてから、今一度、力強く頷く。

「あの方は、私が幼い時分に、私と母を助けて下さった方なのです」

 凛は、母と共に信州の城下町に住んでいた。母はその時、小さな商家に住み込みで働いていた。母の話によれば、父は凛が幼い頃に亡くなったのだという。何に追われているのかは分からないが、逃げているらしく、凛が覚えているだけでも三度、住まいを替えていた。

 凛の七つの祝いを終えて暫くして、母は病に倒れた。元から体は弱かったのだが、心臓を患って、どうにも枕が上がらなかった。

 商家の人々は親切に、離れを貸してくれたのだが、肩身は狭かった。母は誰かにせっせと文を書いていたのだが、その返事はなかなか届かなかった。

「そんな時に、私たちを訪ねて来たのがおじじ様でした。名は定かではありませんが、虚無僧のような姿でした」

 母はその人のことを知っていたようで、商家の離れを借りて、母の薬代を出し、看病もしてくれた。しかし、母が文を出していたのはその人ではなかったようだった。

「母は、里にも文を出しているが返事がないから、もしもの時はこの子を頼む、と繰り返していました」

 ほどなくして母は世を去り、老僧と共に弔いをした。そしてある夜、老僧は凛の手を取り、逃げるように住まいを後にした。

「ここを去らねば、と、言われました」

 それから凛は、老僧と共に城下町を出て、街道を避けて山道を歩いた。

 そんなある夜、山中の小さな宿に立ち寄った。すると老僧は、その日に限って眠る前に、凛に向き合った。

「これから何があっても、ともかく生き延びることを考えなさい。必ず助けはあるから、と、念を押すように言って、私の右手首に、お護りだからと、梵字を書きました」

 懐から小さな珠を取り出すと、それを梵字に押し当てて、真言らしきものを唱えた。するとその珠は、まるで溶けるように凛の手首の中へと消えた。

 微笑みながら「これで大丈夫」と言った。何故かその夜は、大きな葛籠の中へ入れられた。

「ゆっくり眠りなさい。そして、目覚めたら何があっても迷わず、ここを発ちなさい、と」

 しかし翌朝、目が覚めて葛籠を出ると、老僧は亡くなっていた。

「何があったのか……その時の記憶は、思い出そうとしても靄が掛かったように思い出せません。おじじ様は、迷わず発てと言われたけれど……」

 途方に暮れていたし、宿の女将も困惑していた。そこへ、農村に娘を買いにきていた女衒の男が、弔いの金と引き換えに吉原に連れて行くと言い出した。怖くもあり、不安もあった。しかし、老僧を弔いたいと思ったので、女衒の申し出に従うことにした。

「元より、亡くなった人の霊が視え、声が聞こえていたけれど、それ以後はよりはっきりと視えるようになりました」

 おかげで、何処にいても孤独に苛まれることはなかったし、危ないことも避けられた。

「この痣は、危ないこと、近づいてはならないものがある時は、まるで強く腕を引くように痛むのです」

 吉原の妓楼で暮らしている時も、通りの向こうに、禿に悪戯をする酔客がいれば、違う道へ導かれる。意地悪な姉女郎に煙管の火を当てられた時も、不思議と熱さを感じることもなかった。

「ただ、煙管の火を受けたことで、梵字がはっきりと見えるようになっただけで……」

 すると、その夜に奇妙な夢を見た。

 小さな集落に火が放たれる。そこから逃げ惑う人々が、男たちに斬られていく。そして火の中で燃える御堂には、不動明王像がある。逃げていく人々の中には、凛の母の姿もあった。

「母様」と呼ぼうとして目を開けると、妓楼も燃えていることに気付いた。凛の傍らには、遊女である母と生き別れた少年、太一が眠っていた。禿である凛と、子どもの太一はいずれも妓楼にとって「お荷物」でしかない。誰も助けてくれないと思い、必死で太一を連れて階段を駆け下りた。皆と同じ方へ逃げようとすると、ぐいっと裏口へ腕を引かれるような気がした。振り返っても誰もいないが、そちらに行くしかないと思い、妓楼の裏手に出た。

 混乱の只中、真っ直ぐに大門の外に続く道が見えた。凛はそのまま、太一の手を引いて逃げ出した。

「あれは、おじじ様が導いて下さったのではないかと思って……しかし、おじじ様は、霊はもちろん、夢の中でも姿を見せて下さったことがない。だから先日、夢うつつで見かけた時に嬉しかったのです」

 凛はそこまで話して、ふうっと大きく息をつくと、落雁を摘まんで口の中へ入れた。

 啓吾は暫し黙ったまま、目の前の凛のうつむきがちな顔を見やる。

 祈り猫の一件からこちら、ずっと捜してきた。永富家の絹子として会った時にも、凛の過酷な来し方についてはうかがい知ることが出来た。しかし、思った以上に流浪していたのだと分かった。

 掛ける言葉も見つからぬままでいると、傍らの正周もまた、嘆息する。

「よくぞ、今日までご無事でいらした」

 正周の言葉に、凛はやや驚いたように目を見開き、次いで自嘲するように笑う。

「無事というか……おじじ様の言う通り、助けられているのです」

 正周は啓吾に目配せをする。啓吾はその意図を察して、傍らに置いていた桐箱をついと凛の前に差し出した。啓吾の目にはその桐箱が、凛の手首の痣と金の糸で結ばれているのが視える。

「どうやら、貴女が持つべきもののようです」

 凛は首を傾げつつ、桐箱の蓋を開ける。そこには不動明王像の三鈷剣が入っていた。

「これは……おじじ様が持っていらしたものです」

 古びた墨染に頭陀袋という装いだった老僧は、その袋の中に細長い刀のようなものを持っていた。

「護身用かと思ったのですが、刃としてはなまくらだと。おじじ様が死んだ時、頭陀袋の中から消えていたので……」

 この三鈷剣は、破崩坊が呪いに用いたものだ。しかしそれ以前には、破崩坊が持っていた。破崩坊は、隠れ里を襲い、不動明王像を壊した時に持ち出したと思っていたのだが、そうではなかったのかもしれない。

「貴女を葛籠に入れた後、御坊はその盗人に襲われたのでしょうか」

 正周の問いに、凛は眉を寄せる。

「すみません……思い出せません」

 それは答えたくないというよりも、本当に記憶から消えているように見えた。

 ただ、これまでの話から、凛が破崩坊が話していた「隠れ里」に所縁があるらしいことは推察できた。

 すると正周は、ずいと身を乗り出した。

「お母様は、どちらの里のご出身でいらしたのでしょう」

「私が物心ついた時には、既に出た後でした。はっきりと聞いたこともありません」

「何か、お里に所縁の思い出などはお話しになりませんでしたか」

 凛は暫しの間があってから、

「子守唄です。母も幼い頃に聞いたからと」

 そして記憶を手繰るようにか細い声で、歌い始めた。

〽ねんねんころりよ おころりよ……

 始まりは、ありふれた子守唄に聞こえた。

 

〽……木も草も 天に賜るものなれば 此処ぞ吾らの栖なるべし

 

 その詞で終わり、凛はふと柔らかい笑みを浮かべた。

「覚えているものですね。これと言って、里を示すような詞でもありませんが」

 だが啓吾はふと首を傾げた。

「木も草も……って、何処かで聞いた」

 正周はすぐさま立ち上がり、戸棚から桐箱を取り出すと、中から絵巻を広げて見せた。それは連翹宮物語である。

「これだ」

 正周が指さしたのは、鬼が山へと去っていくところに記された歌である。

 

 木も草も吾大君の国なれば

 いずくか鬼の栖なるべき

 

 啓吾はその歌を読みながら、首を傾げる。

「どういう意味でしょう」

「鬼退治の為に詠まれた歌だと聞いている。帝の治める国故に、逆らう鬼の栖はないと……鬼を祓うための歌だ」

 正周は凛を振り返る。

「貴女の歌は、木も草も 天に賜るものなれば 此処ぞ吾らの栖なるべし と、歌っている」

「……そうですね」

 凛はやや、正周に気圧されたように身を引きながら小さく頷いた。

 正周は、改めて絵巻を眺める。

「私はずっと思っていたんですよ。こんな風に都を追われた鬼は、何処に住まうのかと。しかし、貴女の歌が言うとおり、この天地は、帝ではなく、天のもの。何処に住もうが構わない。そういう希望の歌ですね」

 正周は嬉しそうに語る。一方の凛は、苦笑する。

「私はずっと、なんという皮肉な歌かと思っていました」

 手にした三鈷剣の箱を眺める。

「母も私も、ずっと安らいで住める場所を探していた。確かに何処でも、天に賜った場所だと思えば故郷かもしれない。でも……どうして私たちはこんな風に、逃げ惑うようにしか生きられないのかと、泣いたことを覚えています……すると母は、困った顔で言いました。稀なる宝を賜ったから、と」

「稀なる宝とは」

「人の見えぬものが視え、まじないをすること。同胞には、その力で天下の御役に立つ方もいるのだと、母は言っていました」

 稀なる宝という言葉は、あの申岡が捜していたものだ。それはやはり、霊異を視る力のことだったのだ。そして、破崩坊のいた隠れ里は、恐らくは凛の母の故郷なのだろう。

「もしや、破崩坊という右目の見えぬ御仁をご存じではありませんか」

 正周の問いに、凛は暫し黙り、眉を寄せて記憶を手繰っているようだった。しかし、首を横に振る。

「破崩坊という名は聞いたことがありません。右目の見えぬ人は……ああ」

 凛は顔を上げて正周を見る。

「峯斎先生のお知り合いです。私は今、峯斎先生のもとで暮らしております」

 啓吾は思わず正周と顔を見合わせた。

「それはまた、どういう経緯で……」

 永富家の絹子の一件で会った二人が、どういう経緯があったのか気になった。

「……正直、永富家を出た後に、行くあてもなかったので」

 働こうにも、身元を示すものもない。何せ、戸籍すらない。当て所なく宿を転々としていたら、再び訪れた赤坂不動で峯斎と会った。

「お不動様の御縁故に、付いて来いと言われまして……峯斎先生は、それから私の戸籍のために、自らの養女にして下さいました」

 正周はなるほど、とずいと身を乗り出した。

「峯斎先生は、以前は随分と古びた長屋にお住まいでしたが。今は……」

「いえ。芝の数寄屋造りの住みよい家でございます」

 峯斎は、ぼろ長屋に住んでいたが、維新の前にはさる御大家に仕えていたと聞いている。出会った時には浪々の体であったが、易者としての顧客には、実業家や政治家もいると聞いている。屋敷を構えられるほど、名の通った易者であったのかもしれない。

「その右目の見えぬ人と会っていたのを、凛さんはお見かけしたんですか」

「はい。年のはじめに訪ねて来られて。私を見かけて、達者で何よりと仰いました」

 初めて会ったのに、そう言われたことが不思議ではあった。しかし、峯斎のもとには色々な人が訪ねて来るので、さほど気にしていなかった。

「もしや、峯斎先生は凛さんに所縁の方ではありませんか」

 正周の問いに、凛は少し目を伏せてから、首を傾げた。

「そう……かもしれません。先生の言葉の端々に、そう感じることがなくはないのですが……聞けなくて」

 そこまで言って凛は己の手を合わせて、怯えを抑えるように、ぎゅっと握る。

「今、信じられないほどに穏やかな暮らしなのです。余計なことを聞いて、今の暮らしを壊したくない。だから、過去の一切を切り捨てても構わないのです。今日、こうして参りましたのは、ただ一つ、確かめたくて……」

 凛は細い体から、絞り出すような声で言った。

「交換手という仕事に就けたのは、永富様や、峯斎先生に所縁の方々もご推挙下さったおかげなのです。もし、私が交換手としてあちこちに生霊を飛ばすとしたらと思うと、恐ろしくて。或いはカメラの時と同じく、辞めるべきかと思い悩んでいたのです……」

 凛にとって、ようやく手に入れた居場所を失うかもしれない不安を抱えて、ここまで来たのだ。啓吾はそのことを痛感して、正周を見やった。正周の顔から好奇心が消え、真摯な表情に変わっていた。そして、うん、と深く頷いた。

「大丈夫ですよ。貴女はその桐箱に呼ばれていらしたのです。だから、その箱がそちらに渡れば、落ち着くはずです」

 すると、凛はほうっと安堵の息を吐く。

 今の彼女にとっては、母に所縁の隠れ里や、三鈷剣の縁起などよりも、今を守ることこそが大事なのだ。その様は、何よりもこれまでの凛の軌跡の厳しさを思わせた。

「ありがとうございました。そのことが分かれば、私はもう十分です」

 凛は、桐箱を抱えて深々と頭を下げると、そのまま立ち上がる。啓吾もまた見送りの為にソファを立った。

 正周はまだ話を聞きたそうであったが、恐らく凛はこれ以上は何も話さないだろう。

 啓吾と正周は、凛と共に長い廊下を共に歩いていく。

「また、いつでも気楽に遊びにいらして下さい。これもまた、御縁ですから」

 正周は言うが、凛は曖昧にほほ笑むだけである。気楽に、と言うには、この家の構えは堅牢すぎると啓吾は思う。

 ふと見ると、凛の周りに赤い焔にも似た光が纏わりついているのが視える。それはさながら不動明王の焔にも似て、まるで凛を守ろうとしているようだ。凛は今日、終始、袖の中に手を隠すようなそぶりをしているが、右手首には変わらず、梵字の痣が覗く。亡くなった老僧は、命を懸けてこの人を守ろうと思ったのだろう。その遺志が今も、こうして残っているのだ。

 門までたどり着くと、凛は改めて深く頭を下げた。

「ありがとうございました」

 そして、くるりと二人に背を向けて、真っ直ぐに背筋を伸ばして歩き去っていく。

「まさか、峯斎先生のご養女になっていたとは」

 そして、正周は腕組みをして尤もらしく頷いた。

「やはり一度、峯斎先生には会いに行かねばなるまい」

「どうしてですか」

「私は、破崩坊の最期を伝えるべきではないかと思うんだ」

 それは、啓吾も思わないではない。あの最期について、所縁のある人には伝えねばなるまいが、誰に伝えればいいのか分からなかった。それが期せずして訪れた凛により、破崩坊と峯斎が繋がった。

「しかし、峯斎先生は転居なさってたんですね」

 正周は、ふふふと笑う。

「私は存外、顔が広くてね。昨今、芝によく当たる易者がいるという評判を聞いていたのだ。一度、会いに行こうと思って、住所を聞いてある。恐らくは峯斎先生だろう」

 蛇の道は蛇というべきか、好事家が多いというべきか、奇妙な人の奇妙な話は、あっという間に正周に届くものだ。

「そうですね。僕も峯斎先生には会いたい」

 峯斎は恐らくこれまで凛に関わる霊異について、解き明かす答えを持っている気がする。

 凛の背が道の向こうに消えると、正周は大きく伸びをした。

 

〽木も草も 天に賜るものなれば 此処ぞ吾らの栖なるべし

 

 先ほど凛が歌っていた子守唄の一節を歌い、天を仰ぐように両手を広げる。

「この天地が、誰にとっても栖であれば、つまらない諍いはなくなる。そう思わないかい」

 帝の治める国から追われる鬼。

 それが、正周が持っていた連翹宮物語には描かれる。しかし似た詞章でありながら、凛の歌は、天の下に境のない世が描かれているように、啓吾にも思えた。

 正周と同じく天を見上げ、啓吾はその青空の眩しさに目を細めた。

 

(つづく)