第一話 デカダン芸者

 

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 柱に掛かる時計が、ボーンと午後の八時を告げる。

 啓吾はふと目を開ける。

 見慣れた壁一面の本棚で、自分が正周の部屋のソファに横たわっているのに気付いた。掛けられた毛布をどけて体を起こすと、マホガニーの机に置かれたステンドグラスのランプが灯っている。

「あ、目が覚めたかい」

 本の隙間から正周が顔を出した。

「いや、え、寝ていましたか」

「ああ、そうだよ。小鈴さんの話を聞くと言ってこの部屋に戻ってから、ずっと」

 どうやら、正周の部屋に入り、小鈴と向き合って座ったつもりだったのだが、そこからストンと眠りに落ちていたらしい。小鈴の話は、夢の中で見せられていたようだ。

 正周は机から離れて、啓吾の向かいのソファに腰を下ろすと、テーブルに置かれたクッキーを食べる。そして目を見開いた。

「本当だ。味がしない。ということは、小鈴さんが召し上がったんだね、小鈴さん」

 正周は辺りを見回すが、もちろん何も見えない。

「もしや、既に消えてしまったのか」

「いえ……」

 啓吾は首を横に振る。

 小鈴もまた、語り終えて疲れたのか、姿形こそ微かに薄くなっているが、静かにソファに端座している。

 小鈴にはまだ心残りがあるのだ。

 啓吾に言わせれば、まだ二十歳の身空で、結核に罹り、隔離された小さな小屋で一人で亡くなったとあれば、心残りは山ほどありそうだ。しかし、小鈴の中に恨みつらみは残っていない。

「少なくとも、この部屋でクッキーを食べられる悪霊はいないですよ」

「どうしてそんなことが言えるんだい」

「悪霊の類は、若様が祓ってしまうでしょう」

 すると正周は眉を寄せる。

「その力とやらは、私はまるで感じたことがない。実感がないのに、見ることもできず……実につまらない」

 そう言いながら、小鈴が食べ残した味の抜けたクッキーを食べている。

「あ、そうだ。君にそれを」

 そこには、握り飯と漬物に煮つけの小鉢がのった盆があった。

「助かります」

 傍から見れば眠っているだけに見えるのに、霊と話をするとすっかり疲れてしまう。かぶりついた握り飯には、甘辛く煮た昆布が入っている。もぐもぐと食べていると、正周は啓吾の向かいに座る。

「暮れに亡くなったということは、まだ小鈴さんは四十九日も過ぎていないのだな」

 これまで、四十九日を待たずして旅立ってしまう潔い霊もいるし、それを過ぎても留まる霊もいる。

「恐らくは、今回の一件で今、上条さんが困った立場になっているのが気がかりなのだと思うのですが……」

「つまり、例の帳簿の出処について、どう証言をするかだね」

 一介の記者が、どうやって馳島の裏帳簿の写しを手に入れたのか。

「まあ、一番簡単なのは、八千代さんに言伝されたと言うことだろうけど……」

 恐らく上条もそれは分かっている。しかし、それでは八千代にも迷惑が掛かると思って黙っているのだろう。それに、八千代に会ったのは、既に記事が出た後だ。警察が調べれば嘘だと分かってしまう。

「それに、本音では、小鈴さんの手柄なのだと言いたいんですよ」

「ならば、小鈴さんに証言してもらうのがいい」

 またぞろ正周はおかしなことを言いだした。啓吾は眉を寄せる。

「警察に行ってもらうって言うんですか。警官には視えませんよ」

 するとソファの小鈴の影が少し色を増す。

「行くよ、あたし。それで何とかなるのかい」

「なりませんよ」

「お、小鈴さん。私の声が聞こえますか」

 正周は啓吾の後ろに立って、啓吾の向かいの空間に向かって声を掛ける。小鈴は、聞こえるよ、と頷く。

「例えばほら、この啓吾君の中に入れますか」

「え、僕に憑依させるんですか」

「そうだよ。それで手紙を書いてもらうというのはどうだろう」

 いつぞやの髑髏のように……ということなのだろう。それも仕方ないか、と思ったのだが、小鈴の方が顔を顰める。

「憑くってのは、余り気が進まないねえ……」

 隙あらば生きている人を乗っ取ろうという霊の類もいるのだが、小鈴はおよそそういう邪念がない。

 三人揃って暫く腕を組んでいたのだが、はたと気付いたように小鈴が手を打った。

「ちょいと手だけ借りることはできるかい」

 と言うが早いか、啓吾の隣に座る。自分の手を重ねた。すると、啓吾の意志と関わりなく、目の前に置かれた握り飯の脇にあるお新香を取った。

「手だけ使えるもんですか」

「そうだね。これならいけそうだ」

 啓吾と小鈴が盛り上がっていると、察しのいい正周が、さっさと便箋と万年筆を支度してテーブルに置いた。

「これでいいかい」

 すると小鈴は、ちょっと眉を寄せる。

「こんな舶来のものだと、あたしが書いたものじゃないみたいだけど……」

 啓吾がそれを正周に伝えると、正周はすぐさま、筆と紙を支度した。こういう時の正周は手際が良い。

「では、やってみよう」

 啓吾はふうっと息を吐き、右手をずいと前に差し出す。すると小鈴はさながら書の先生が弟子にするように、啓吾の手を取って、筆を動かし始めた。

「前略 上条様」

 そうして始まる文には、染野やの女将、田鶴が、長らく馳島の支援を受けていたこと。そこで使われていた金は、いわゆる賄賂によるものであったこと。不正な金で養われてきたことを知った己の忸怩たる思いと、その馳島に逆らうことが出来ずにいた、置屋の娘たちのこと……。また、上条の話を聞き、馳島の悪事を世に知らしめることが、世のためになると知ったこと。命短い身の上で、せめてもこれを届けたいと思ったこと。

 それらを縷々書き綴り、その悪事告発のための裏帳簿を、女将の目を盗んで書き写し、一言不動の裏に隠したことも記した。

「何卒、よしなに申し上げそうろう かしこ 小鈴」

 さらさらと、優しい文字で綴られ、その末尾には、小さな鈴の絵が描かれた。

 啓吾は改めて文を見返し、正周にもそれを見せた。正周は黙ってその文を読み、深々と頷いた。

「後は、私が何とかしよう」

 正周は、胸を叩いてみせた。

 

 

 警察署から出て来た上条は、幾度も首を傾げつつ、迎えに来た啓吾の所へと歩み寄って来た。

「どうでしたか」

 啓吾が問うと、上条は頭を掻いた。

「いや、事なきを得たけれど……」

 

 この日の午後、毎報新聞から警察へ向かった上条は、例の帳簿の出処について、問い詰められることになっていた。

 さてと、どう話すか。これまで繰り返した通り、「一月の四日に、一言不動の裏で拾った」と、伝えるしかない。その言葉に嘘はない。とはいえ、通りすがりに拾うようなものではないし、うっかり置いてあるはずもない。誰かと示し合わせたのでは、と問われるのは当然だ。

「年の瀬に死んだはずの芸者から、浅草寺で声を掛けられた」

 そう言えたならどれほど楽だろう。

 思い悩みつつ歩いていると、警察署の前に連翹寺正周が立っていた。

「上条さん」

 気さくに声を掛けられ、上条はどうも、と挨拶をする。すると正周はにやりと笑った。

「小鈴さんから、お手紙です」

 ついと差し出された。上条はそれを広げてみる。そこには、あの帳簿にあったのと同じ小さな鈴の絵が描かれている。内容は、あの置屋の状況や、上条と話したことなど、小鈴にしか書けない話ばかりだ。

「これは……」

 上条が訝しく思いつつ問うと、正周はやや胸を張る。

「私の知り合いに、古典で言うところの憑坐のようなことができる人がいてね。小鈴さんの霊に代わって書いてくれたんだ」

 以前の上条であれば、ふざけたことをと一蹴するところだが、あの日、浅草寺で小鈴に出会ってしまった今は、そういうこともあるのか、と思わざるを得ない。この内容も、鈴の絵も、確かに小鈴が書いたと思うに足るものだ。

「上条さんは、この手紙を受け取って、あの一言不動に行った。そういうことにすれば、上条さんの盗人の疑いは晴れるし、小鈴さんの御手柄にもなるでしょう。これ以上、置屋の姉芸者さんたちを煩わせずに済む。それでもまだ警察が貴方を疑うなら、私の名前を出して下さい。多少は力になれるはずです」

 上条としては、華族の名を借りて助けられるのは不本意だ。ともかく手紙を受け取って背広の胸ポケットにしまった。

 警察では、やはり「どうやって裏帳簿を手に入れたのか。偶々なわけがない」と、問い詰められた。そこで上条は、小鈴からの手紙を差し出した。

「元々、取材していた時に知り合った芸者から聞きました」

 取り調べに当たった二人の警官は、その手紙を黙って読んでいた。

 すると二十代半ばの若い警官が、

「この女は不届きだ。金を貰って養われておきながら、金主たる先生の秘密を記者なんぞに漏らすような真似を」

 と、言い出した。上条はムッとした。

「養われている者は、悪事を見ても黙ってろって言うのなら、警察も法律もあったもんじゃねえな」

 勢い啖呵を切ると、「何だと」と、胸倉を掴まれた。一触即発というところで、白髪の警官が、まあまあ、と二人を宥め、改めて手紙をしみじみと読んだ。

「病に倒れることがなければ、或いは踏み切れなかったかもしれないな……生きていくのに、不本意ながらも力に屈することは、往々にしてあるものだ」

 そっと手紙を畳んでから、上条の顔を見た。

「この芸者は、お前さんになら、信頼して預けられると思えた。それは、凄いことだなあ」

 そう言われて初めて、小鈴が自分を信じてくれたのだと痛感した。

「今わの際につまらん嘘はつかん。本官は、長らくこの仕事をしていて、弱い者たちの最期の祈りを受け取ることがある。これは、そういうものだろうね」

 白髪の警官の言葉に、上条は思わず涙ぐみそうになったほどだ。

 調書を取った末に、上条は無罪放免となったのだという。

 

 警察署の前で、茜色に染まり始めた空を見上げて、上条は深く吐息する。

「生きているうちに会ったのはたった二度。その僅かな間に、どうしてそんなに俺を信じてくれたのやら……聞きたくても、もう聞けないんだなあ」

 啓吾は、そうですね、と言いつつ、上条の周りに小鈴の姿を捜してみた。しかしここにはいない。既に世を去ったのか……とも思うのだが、何処かにまだ気配があるような気がする。

 上条はふと、歩みを止めた。

「しかし、あの若様は奇妙な人だな。憑坐に手紙を書かせたって。一体どんな人なのか、見てみたい」

 啓吾は苦笑する。まさか、「憑坐」だと解説をしていたとは思いもしなかった。まあ、当たらずと言えど遠からずといったところだ。

 その時、ドドドドドという派手な音が響き渡り、通りを歩く人々の目が音の方へと注がれる。啓吾には聞き覚えのある音で、上条と共にそちらを振り返る。すると案の定、視線の先にはフランス製のクレメント号自動車が姿を見せた。そこには当たり前のように背広姿の正周がいた。

「おお、恙なく御用は済みましたか」

 正周の問いに、上条は「おかげさまで」と、エンジンの音に負けぬように声を張る。

「二人とも、乗って」

 正周の言葉に、啓吾と上条は顔を見合わせて頷き、よいしょと車に乗り込んだ。すると正周は慣れた手つきでハンドルをさばき、ドドドドドと、車は動き始めた。

 てっきり本郷の屋敷へ帰ると思ったのだが、どうやら方向が違う。毎報社の方でもない。やがて大きな隅田川が見え、その川沿いを車が走っていく。一軒の茶屋の横に車を横づけする。

「さ、ここから歩いて行こう」

 一月末の黄昏時。

 正周の後に続いて行くと、浅草寺が見えて来た。五重塔の上にたなびく雲が、傾き始めた日に照らされ、赤く染まる。そして、空が青から紫へと色を変えていく。

 日が沈む前にと、人々が帰路を急ぐのに逆らうように、正周は足を進める。啓吾と上条も正周の背を追うように参道を歩いて行くと、本堂の前まで来た。

 そこで啓吾はふと足を止めた。

 本堂の前、階段の下に黒留袖に日本髪を結った芸者姿の小鈴がいた。

 正周は啓吾が足を止めたのを見て、

「やはりね」

 正周は我が意を得たりと言わんばかりに深く頷いてから、ゆっくりと上条に向き直る。

「上条さん、今日は浅草寺の縁日でね。不動明王様の大護摩の日なんですよ。常よりご利益がありそうなので、きっと、小鈴さんもいらっしゃると思って」

 上条は、はあ、と応じつつも、首を傾げている。

 啓吾の目には、その上条に向かって、お座敷よろしく丁寧に三つ指をついて、頭を下げる小鈴の姿が視えている。そのことを伝えたいが、伝えられずに口を引き結ぶ。

 啓吾はいつだって、視えているものを、視えぬふりをして、逃げ回る。「そういう時代じゃないから」「怖がられるから」と、言い訳をしながら、知ろうとさえしなかった。一方の正周は視えないものにも目を向けようとして、知識を蓄えていく。時に傍迷惑ではあるけれど、こうして上条の為に、その知識を使ってくれることもあるのだ。

「上条さん、もう少し前へ」

 啓吾が促すと、上条は戸惑いつつも前へ足を運ぶ。

「一体なんだって言うんだい。おかしなことを言っていたから、御祈祷でも受けろって言うのかい」

 怪訝そうに眉を寄せつつ、上条は一歩、前へ進み出た。すると、ひらりひらりと空から雪が舞い始めた。

 黒留袖の小鈴の霊は、雪を仰ぎ見て、静かに袖を翻す。すると先ほどまでの黒留袖ではなく、白い振袖に変わる。

 歌舞伎の早替えでもこうはいくまい……などと、啓吾が的外れなことを考えていると、小鈴の手にある黒い傘をばさりと広げて見せた。

 

〽花も雪も払えば清き袂かな ほんに昔の事よ 我待つ人も我を待ちけん

 

 地唄の「雪」である。

 憂き世を捨てた尼が、昔を思う唄。かつては恋しい人を待ち、心悩む日もあった。しかし今は、穏やかで静かな心で安らいでいる。

 小鈴はそんな唄を口ずさみながら、傘を手に、雪の中で静かに舞っている。

 思わず啓吾はそれに見とれていたのだが、ふと隣に立つ上条を見た。

 上条もまたその場に立ち尽くして、目の前をじっと見ている。

 

〽落つる涙の氷柱より 辛き命は惜しからねども 恋しき人は罪深く

思はぬ事の悲しさに 捨てた浮き 捨てた憂き世の山かづら……

 

 小鈴は傘を畳んで舞を終え、ゆっくりと顔を上げる。

 憂き世への未練を捨てる舞を終えた小鈴の顔は、どこか晴れ晴れとしていた。

「ありがとうございました」

 雪がつむじ風のように渦を巻いて小鈴の身を包み、その姿をかき消していく。

 ああ、小鈴は逝ったのだ……

 この舞を、奉じたかったのか……いや、恐らくは上条に見せたかったのだ。

 啓吾が隣を見ると、上条は立ち尽くしたまま、涙を浮かべていた。

「雲戸、俺はどうかしているかもしれない」

「……はい」

「今、雪の中で小鈴が舞っていたような気がしたんだ……」

 上条は涙を堪えるように、低い声で言った。啓吾は、はい、と頷いた。

「きっと、舞っていましたよ。上条さんに、見せたかったんですよ」

 上条は、そうか、と、唸るように言うと、それきり口を引き結んで黙り込んでいた。

 雪は止み、空はすっかり夜の帳が降りていた。

「送りましょうか」

 正周の言葉に、上条は首を横に振る。

「いや、そぞろ歩いて帰ります」

 片手を上げて、背を向けた。

 隅田川沿いのデカダン酒場に行くのか。その背には寂しさを感じさせた。

「彼には、視えたのかな」

 正周の問いには、少し嫉妬に似た響きがあった。啓吾は苦笑する。

「さあ……視えたというか、感じたというか……若、もしかして、自分も視たかったんですか」

 啓吾の問いに、正周は、寒い、と肩をすくめて車の方へと走っていく。正直なところ、冬の夜に自動車に乗るのは、風が冷たくていただけない。しかしまあ、ここまで急ぎ連れて来てくれた恩には報いねばならない。

「乗せていただきます」

 啓吾は渋々、正周の車に乗り込んだ。

 ブロロロロロと、エンジンのかかる音がして、車は動き出す。

 暗い隅田川を見ながら、寒さに凍えつつ襟を立てる時、ふと小鈴の舞が蘇る。

 唄う声には、上条への微かな想いがあった。その想いの未練を舞いながら断ち切っていく強さが、白い雪の中で、美しく心に残った。

 きっと、上条にもその光景が視えていたのだろう……と、信じたい。

 

〽捨てた憂き世の山かづら……

 

 啓吾はふと口ずさむが、上手く唄えるわけもなく、声はエンジンの音に吸い込まれていく。遠ざかるデカダン酒場の通りを見やり、小鈴の翻る白い袖を思い出していた。

 

(つづく)