第二話 降霊茶会
薄暗い部屋の中で、六人で一つのテーブルを囲んでいる。
上野桜木の古物商「緑青堂」の奥の間。畳敷きの部屋に舶来の絨毯を布き、雨戸は締め切られている。猫足のテーブルには、燭台に置かれた蝋燭の火が揺らめき、文字を記した紙を照らしていた。啓吾は、正周と共に小銭の上に指を置き、それが滑って示す文字を辿っていた。
Table Turning……というらしい。
二人の他には、古物店の主である丑川と、その顧客である四十代の平川夫人と、同じく顧客と思われる厳めしい顔つきの五十代くらいの白髪交じりの男、申岡と老爺である。何とも奇妙な組み合わせだ。
今朝のこと。帝大へ向かおうとしている啓吾を呼び止めた正周がまたぞろおかしなことを言いだした。
「Table Turningをしてみないかい」
なんでも英国で流行っている占いの一種で、昨今では日本でも「こっくりさん」という名で呼ばれ、狐や狗、狸などの雑霊を呼んで占うと言われている。大の大人が改めてやることだとは思わなかったが、正周曰く、「最近では、帝大の哲学者も関心を持って調べている」とのこと。怪しい研究をする者は、正周だけではないらしい。
「研究者の端くれとして、やってみないといけないと思うんだ。それで、君の意見を聞かせてくれたまえ」
結局、大学の授業の終わりに引きずられていき、こうして参加する羽目になった。
しかし、降霊術を使った占いなどと大層なことを言っているが、先ほどから、明日の天気であるとか、この店の先行きであるとか、小さな質問をしているだけである。啓吾の目から視ても、さほどの霊を降ろしているわけではなく、時々、小さな雑霊が手を動かすことこそあれど、大方、無意識に手で押し合うことでコインが動いているように見えた。
「ああ、もういいよ」
と、申岡が大きな声で言った。
「先ほどから、大した話は聞けないじゃないか。余興としては今一つだな、丑川」
居丈高な態度に、緑青堂の主、丑川は苦笑する。
「えらいすんませんなあ」
丑川は、年の頃は六十ほど。元は上方の京で古物商を営んでいたが、得意先の公家が東京に出るというので、明治の初年にこちらに移って来た。元武家から出て来た御宝を、新参の実業家や成り上がりが高く買うので、「京におった時よりも色々とよろし」と、得意げである。申岡という男も、新手の取引相手らしい。ただ、丑川はどうも申岡が苦手なのか、時折、愛想笑いが引きつっている。
しかし、申岡の方は他人の顔色などお構いなし、不服を満面に浮かべる。
「そこの坊主が、金になる話を聞かせてくれるというので来たのに」
申岡はぼやき、同じテーブルにいる坊主頭の老爺を示す。すると老爺はつるりとした頭を撫でて、伏し目がちに静かにほほ笑んだ。
老爺の名は、破崩坊という。右の目が白濁して、よく見えていないようであった。何でも昨今、実業家たちの間でも話題に上る占い師だとか。正周は、この緑青堂に祖母のお遣いで茶杓を取りに来た時に、破崩坊に会ったらしい。その際、今回の「降霊茶会」を店主から聞いて、参加することになったのだという。
「これは雑霊を使った占いでございますから、大層なことはできぬのです。さようでございましょう、先生」
破崩坊は正周に問いかける。破崩坊は正周を「心霊研究の学者」として扱う。そのため、正周も咳払いをして、学者らしく胸を張る。
「おっしゃる通り。英国では日常の些事を占うことが多いとか」
すると、正周の傍らにいた平川夫人が、ハンカチで口元を覆いながら首を傾げる。
「私は、亡くなった息子に会いたくて来たのですが……」
平川という書家の夫人で、日本髪に江戸小紋に黒羽織姿である。緑青堂の客の一人で、破崩坊の噂を聞いてやって来たようだ。
すると破崩坊は、さようですか、と穏やかに頷いてから、テーブルの面々を眺める。
「もし、差し支えなければ狐狗狸さんなるものを終えて、このやつがれが、降霊術を披露しましょうか」
啓吾は会話を聞きながら、じっと破崩坊を見つめていた。正直なところ、「視る力」を金儲けに使うこの男を胡散臭く感じていた。啓吾は幼いころから同じく視える母や伯父から、「視る力を私欲に使うな」と固く禁じられていたからだ。
「邪心が混じれば、忽ちに雑霊や悪霊の餌食になる。視る時には、無心になれ」
それが自らの身を守る術でもあった。
破崩坊は、雑霊や悪霊の餌食となっている風はない、穏やかな人に見える。それ故に、占いで相場を見るなどとは端から嘘で、見知った情報を語っているだけなのではないかと啓吾は思っているのだ。
「若様、もうよろしいのでは」
啓吾は正周に耳打ちをする。正周は、こうした手法であれば、霊が視えない自分にも視えると期待していたようだ。結局、狐狗狸さんでも何も視えなかったので、やや落胆した様子である。
「もう少ししたら失礼するよ」
吐息交じりに応える。
破崩坊は、改めて居住まいを正すと、静かに目を閉じて手で印を結び、真言らしき言葉を唱え始めた。するとドン、と部屋の空気に重さが増すのを啓吾は感じた。
突然、薄暗い部屋の中、平川夫人の傍らに十二歳くらいの詰襟を着た少年が立っているのが視えた。
「お母様、お母様」
呼んでいるのだ。
破崩坊は本当に降ろした……。
啓吾はそのことに驚き、少年の霊と破崩坊を交互に見やる。啓吾以外には、詰襟の少年の姿は視えていないようだ。
少年はテーブルにいる人々を見回し、一瞬、啓吾に目を留めたが、次いで破崩坊の傍らに寄ると、すっとその身を重ねるように破崩坊の膝の上に座った。
破崩坊が口を開く。
「お母様、どうか悲しまないで。御自分をお責めにならないで。僕は寿命だったんだよ。今はもう、安らかでいるから」
その声は、破崩坊のものではない。まだ高い少年の声で、口ぶりは優しく穏やかだ。すると、平川夫人はほろほろと涙を流す。
「声が……あの子の声です」
「そうだよ、お母様」
平川夫人は破崩坊の方へ身を乗り出し、
「正春ちゃん」
と、声を掛ける。破崩坊は目を閉じたまま、供えて欲しい好きな本、好物のお菓子や母の手料理など、当人しか知らないであろう
話を縷々述べると、平川夫人は幾度となく、うんうん、と頷いた。
「どうか、お達者でいらして下さいね」
母を労わるように言い終えると、少年は立ち上がり、破崩坊に向かって頭を下げると、そのまますっと姿を消した。
「帰られました」
本来の破崩坊の低い声である。
正周はずいと啓吾に身を寄せる。
「今のは、本物の霊の声かい」
啓吾は、黙って頷いた。
まさに降霊術だった。啓吾は視えて聞こえても、その声までを伝えることはできない。この破崩坊は取り憑かれるのではなく、自らの身を貸すことができる。しかも、降ろした霊をきちんと天に帰すことまで出来るらしい。胡散臭いと思っていたのだが、なかなかどうして本物だと思った。
すると破崩坊はゆっくりと周りを見回した。
「では、お次は」
その視線はぴたりと申岡に向けられた。
「申岡様に」
申岡は、ふん、と鼻で笑う。
「金になる話を聞きたい。誰を呼ぶ」
「さて、何方が参られるかは分かりませんが、所縁の御方をお呼びしましょう」
破崩坊は先ほどと同じように印を結び、何やら唱え始める。所作は同じだが、その言葉の響きは少し異なるように聞こえた。唸るように祈っているが、啓吾が視る限り、何かが降りて来る気配はない。
だが、先ほどから啓吾の背後にある戸の外から、カタカタと箱が鳴るような音が聞こえている。そして、男、女、幼い子や老人の地を這うような低い叫び声が、幾重にも重なって響いて来る。ただの声ではない、阿鼻叫喚というべきか。啓吾は声の恐ろしさに思わず身を縮めたが、声の主たちは部屋には入って来ない。
破崩坊に目をやるが、その元にも降りて来ないのだ。やがて破崩坊は手を合わせたまま、目を開いてテーブルをぐるりと見回し、はたと気付いたように正周を睨んだ。
当の正周は破崩坊の祈りと共に目を閉じて手を合わせている。正周は、無自覚に「悪霊」の類を祓ってしまう稀有な力を持っている。もしかして、破崩坊が降ろそうとしているものは、今、背後で叫び声を上げている悪霊で、正周によって祓われているのかもしれない。そして、そのことに破崩坊も気付いたのだろうか……。
啓吾は、破崩坊と正周の様子をちらちらと窺うが、正周は何も気付いていない。破崩坊は、大きく息をつくと、更に強い声で呪文を唱えた。しかし、先ほどの平川夫人の息子のように霊が立ち現れることはない。
破崩坊は不意にガタっと椅子を蹴って立ち上がり、ずいと申岡の方へ身を乗り出すと、口を開いた。
「そなたが為した全てのことは、この身に深く刻まれている。忘れるな。いつか無量無辺の火焔を出だし、その身を地獄の業火に突き落としてくれようぞ」
低い音ではあるが、声は破崩坊のものだ。左目だけが、燭台に照らされて光を帯び、表情も憎悪に歪んだ。
啓吾はぞくりと寒気を覚える。しかしそれは、霊によってもたらされる恐れではなく、破崩坊自身から発せられた怒りや憎しみが、辺りの空気を重苦しくさせているのだ。
片や指を差された申岡の方は、不敵な笑みを浮かべた。
「茶番に付き合う気はない。儂は、儲け話のためにここに来た。怨霊如き、この申岡が蹴散らしてくれるわ」
かかか、と喉を鳴らすように嘲笑った。
破崩坊は、憑き物が落ちたように、ストンと椅子に腰を下ろして、突っ伏した。
「破崩坊」
丑川が案じるように声を掛ける。破崩坊は顔を上げるが、その額には脂汗を掻いている。懐紙を出してそれを拭うと、ふうっと一つ息をした。
「申し訳ございません、本日はこれ以上、難しいかと」
破崩坊は頭を下げてから、正周を見る。正周は破崩坊を案じるように首を傾げる。
「大事ありませんか。随分と顔色が悪い」
「いえ……お心遣いありがとうございます」
破崩坊は自らの降霊が上手く行かない理由が正周にあると気付いたのだろう。だが当人がまるで無自覚なことに戸惑っているようでもあった。
「では、本日はこれで。もしよろしければ、粗茶でも差し上げます」
丑川も破崩坊の言葉に従い、散会することにしたらしい。締め切られていた雨戸が開け放たれると、薄暮時の春先の風が吹き込んで来た。どこからともなく梅の香りがする。
「いい香りだねえ」
正周は暢気に言い、外を眺める。その横で、平川夫人は破崩坊の手を取って何度も礼を述べた。申岡は不貞腐れた顔で庭に降りると、向いにある茶室待合に腰かけて煙管で煙草をふかしていた。
丑川が平川夫人を見送りに出ると、正周は縁側に佇む破崩坊のもとに歩み寄った。
「我々もこれで失礼を」
と、挨拶をする。破崩坊は振り返って正周と啓吾を交互に見やる。
「己を過信してはなりませんな」
独り言ちてから、自嘲するように微笑んだ。
「道中お気をつけて」
正周は、はいと頷いて、啓吾と共に部屋を出ようとすると、申岡の迎えと思しき、着流し姿の若い男が入って来た。正周と啓吾はその若い男に会釈をして、廊下を歩き始める。
「若はがっかりなさったのでは」
「確かに少し残念だ。だが、破崩坊さんの術は実に興味深い」
その時ふと、啓吾は廊下に面した一つの扉が気になった。女中が通りかかったので呼び止めた。
「ここには何があるのですか」
年若い女中は一瞬の躊躇の後、
「納戸でございますので、古物の御品を仕舞ってあります」
と応え、忙しなく奥の間の片づけに向かう。
「どうしたんだい、啓吾君」
「いえ、破崩坊が何か唱えている間、ここから声が聞こえた気がして……」
が、正周が妙な関心を持つと面倒なので、「気のせいですね」と、話を切り上げて玄関へ向かった。
その瞬間、奥の間の方で、わっという叫びともつかぬ声が聞こえた。
「何があったんでしょう」
ただならぬ声に、二人は慌てて今来た廊下を戻って、先ほどの奥の間に入ってみると、縁側から望む庭で申岡が仰向けに倒れていた。
「どうしたんですか」
正周は声を上げつつ、縁側から庭に飛び降りた。申岡の傍らには、先ほどすれ違った付き人と、青ざめた丑川がいる。
「歩いていると急に倒れられたのです」
丑川は待合で煙草盆を片付けようとしており、丑川の妻と女中もテーブルに置かれた茶碗を下げに来ていたらしいが、
「私どもも見ておりましたけど、突然にそこで」
と、言う。破崩坊は縁側に佇んだままでいる。啓吾は縁側で破崩坊の隣に立っていたのだが、不意に、
「しくじった……」
男の低いしゃがれ声がした。その時、破崩坊の肩先から黒い影が立ち上る。よく視ると影ではなく、背には幾人もの死霊がしがみついているのだ。そして、死霊の一人が、啓吾を見た。
しまった……
そう思うが早いか、死霊はずいと啓吾の目の前にやって来て、啓吾の目を覗き込む。
「視えているのだな」
その声は、人の声というよりも、獣の唸りにも似ている。既に人としての形が崩れ、ただ黒い霧のようなものにギラギラとした目だけが幾つもついている。男なのか女なのか、それすらも分からない。啓吾は答えずにじっとしている。すると、死霊の声はどんどん耳元で大きくなる。
「我らは殺された、奪われた、苦しい、口惜しい、恨めしい……」
死霊でも、人としての意識を残している者は言葉が通じる。しかし、妄念だけになっている者は、声も言葉も通じない。啓吾は憑かれぬように目を閉じ、腹に力を籠め、ぐっと足を踏みしめる。死霊は一つ、二つ、三つと、啓吾の品定めをするようにぐるぐると身の周りを回っている。耳を塞ぎたくなるような雄叫びが聞こえ、手に汗が滲む。
「どうしたんだい、啓吾君」
声が真っ直ぐに聞こえ、ついと手を引かれた瞬間、周りを包む黒い影が爆ぜた。啓吾はその場に膝から崩れ落ち、手をついて肩で息をする。顔を上げると、目の前に正周が立っている。啓吾は、額に浮かぶ汗を拭いながら、正周を見上げる。
「君まで倒れたかと……」
啓吾は周りを見回す。そこは変わらず丑川の屋敷だが、傍らにいたはずの破崩坊がいない。
「破崩坊は」
「え」
啓吾と正周が首を巡らせるが、姿が見えない。
「すまん、手伝ってくれ」
見ると、申岡の付き人が、倒れた申岡を抱えて、家の中に運び入れようとしていた。啓吾は申岡の足を持ち上げて、縁側から座敷へと上げる。丑川の妻は先ほどこっくりさんをしていた部屋の次の間に床を延べた。
申岡は意識こそないが、息はしている。
「卒中か何かやろか……」
丑川は案じるように呟き、眉を寄せる。
やがて女中が医者を連れて来ると、医者は申岡の様子を診て、うむ、と頷く。
「強く頭を打ったので、気を失っておりますが、脈も問題ありません。遠からず目を覚まされるでしょう」
丑川はホッと息をつく。
「良かった。うちで何かがあったら……」
どうやら、申岡の手下の面々に恨みを買うかもしれないと案じていたらしい。付き人は申岡の傍らで手を突いて、丑川に頭を下げる。
「暫く厄介になります。親父が目を覚ましたら連れて帰ります」
丑川は、ああ、はい、と、返事をした。
思いがけないことになったが、とりあえず一段落したようだ。
「私たちもそろそろ失礼します」
正周が切り出し、啓吾も丑川に挨拶をする。すると丑川は恐縮したように駆け寄り、二人の見送りに廊下までついて来た。
「騒ぎに巻き込みましてすみません」
「いえ……そういえば、破崩坊さんはどうして急に帰ってしまったんでしょうね」
「巻き込まれたくなかったのでしょう。申岡氏に呪うようなことを言っていたから」
「丑川さんは、破崩坊さんとは古いお知り合いなのですか」
「いえ、二年ほど前ですやろか。さる元御大名のお茶会にいてたんです。わての亡うなった父のことを、えらい詳しく話さはって……」
父が好んでいた煙管の羅宇の色まで話し、亡くなった時の委細も語った。
「捜しても見つからんかった、父の宝の備前の茶碗の在処を言い当てた時には、正直、ぞぞぞと寒気がしました」
はじめのうちは、胡散臭いと疑ってもいたのだが、余りにも色んなことを言い当てる。これはさすがに本物なのだろうと思い、時折、人に悩み事を相談された時に、破崩坊を紹介することもあった。
「そしたら、あの申岡さんまで、金儲けのことも聞けるんやったら、会いたいと言わはって……」
申岡は、丑川にとっても招かれざる客であったらしい。そして声を潜める。
「あの人らとは、余り深く関わりたくない。任侠やなんて」
丑川は肩を竦めて、歩みを進めると、例の納戸の戸が開いているのに気付いて足を止めた。
「何で開いてますのや」
丑川は首を傾げながら戸を閉めかけて、え、と何かに驚いたように中へ入る。二人も中を覗くと、床に無造作に投げ捨てられた桐箱があった。丑川はそれを拾い上げる。
「これ……中がない」
丑川が手にした桐箱の中には紫の袱紗が敷かれ、入っていた物の跡が残っている。長さは両掌に納まる小刀くらいだろうか。すると正周がしみじみと観察する。
「これは……三鈷剣のような形ですが」
啓吾も共に覗きこむ。
「何ですか、それは」
「柄が独鈷のようで、刃が三つに分かれている。よく、不動明王が手にしているものだよ」
「さすが先生、ようご存じで。恐らくは破却された不動明王像の一部だと思います。本体は木彫やったのやもしれませんが、この剣は鋼でして」
啓吾はずいと身を乗り出した。
「もしや、あの破崩坊が持ち去ったのでは」
すると丑川が、はたと気付いたように顔を上げた。
「せや、あの人、この三鈷剣のことをえらい気にしてはった」
ある日、ふらりとこの緑青堂に立ち寄った破崩坊が、不動明王像を捜していると言った。色々と品を出したものの、首を傾げ、「欠けていても構わない」と言うので、遂に、部品だけの三鈷剣を出すと、「これだ」と、来歴を尋ねた。
「骨董の出所は、余り大っぴらにするものやなし。破崩坊にもそう言いました。すると破崩坊は、剣を手に取ってじっと目を閉じてから、分かりましたって……せや、その後に、申岡さんに会ってみたいて言ったんや」
「申岡さんからではなく、破崩坊さんの方から言われたんですか」
「……ええ、先に破崩坊が会いたがっていて、その後に申岡さんが、金儲けの話を聞いてみたいって。二人とも、互いに会いたいようやったけど、改めて席を設けるのも大仰や。それならと、今回の降霊会に声を掛けたんです」
正周は、ふむ、と頷いた。
「破崩坊さんはあの通り不思議な力をお持ちだ。この三鈷剣から、申岡さんのことを探り当てたということですね。つまり、出所は申岡さんだった、と」
正周の言葉に丑川はしまった、という顔をしたが、渋々と頷く。
「そうです。せやけど申岡さんもこれをどうして手に入れたのかは言わんかって……」
啓吾は恐る恐る桐箱に手を伸ばすと、丑川がずいとそれをこちらに差し出したので、つい、受け取ってしまった。
その瞬間、火の中を逃げ惑う人々と、それを斬りつける男の姿が視える。戦……いや、相手は丸腰である。幼い子も、女も老人も、血を流して倒れていく。刀を揮いながら高笑いをしている黒い洋装の男の顔は、あの申岡である。
そして、幼い子どもの骸を抱え、全身に傷を負って右目から血を流しながら、不動明王像の前に座り込み、燃える村を見て叫ぶ男の顔は、破崩坊その人に視えた。
「啓吾君、どうしたんだい」
正周の声に我に返って目を開くと、桐箱から無数に赤黒い手が伸びて、自らの手首を掴んでいるのが視えて、わ、と叫んで桐箱を取り落とす。箱はカタンと落ちて、壊れた。
「すみません、無作法を」
すると丑川は口を引き結び、小さく頷く。
「いえ、勘のええ御人は、この品をえらい嫌います。うちの細君も、元は宮司の家の娘やって、これを見るなり縁起が悪い言うてました。わても早う手放したかってんけど……」
丑川は、箱を拾いつつ、袱紗の下にある紙に目をやる。「鬼やらいの品」と、武骨な筆で記されている。
じわりと怒りのような感情が湧く。どうやら先ほどの箱に残る恨みの残滓が、絡みついているようで、心がざわついた。
「啓吾君、顔色が悪いよ。大丈夫かい」
正周が、宥めるように背を摩る。すると少しだけ怒りが鎮まり、啓吾は一つ息をつく。丑川は、やれやれと吐息した。
「申岡さんは倒れはるし、物はのうなるし、その上、学生さんまで倒れはったらえらいことや」
啓吾は、すみません、と言いつつ立ち上がる。正周は丑川を振り返る。
「申岡さんが目を覚まされるまではご苦労ですが……我々はこれで失礼を。何か出来ることがありましたらお声かけ下さい」
啓吾は半ば正周に支えられるようにして丑川の屋敷を出た。
「申岡さんは、破崩坊の呪いにやられたと思うかい」
正周に問われ、啓吾は歩きながら考える。
「呪ってはいましたが、恐らく失敗しています」
破崩坊が縁側に立っていた時、「しくじった」と言った。恐らく申岡を殺したかったのに失敗したことを指していたのだろう。
「破崩坊はあの三鈷剣から、亡霊を降ろしたかったんだと思います」
三鈷剣の箱に残された亡霊の残滓は、申岡と破崩坊の因縁を感じさせた。破崩坊は、申岡に復讐を試みようとして、今日の「降霊会」を催したのだろう。
手始めに、皆の警戒心を解くべく、平川夫人の息子を降ろした。
続いて、呪物の中にいる亡霊たちも降ろすつもりだった。事実、あの男が呪文か真言か知れぬ言葉を唱えている間、啓吾の背後から亡霊たちが部屋に入ろうとする気配があった。しかし遂に、入ってくることはなかった。
「若様がいたので」
「私が祓ってしまったというのかい」
「だからあの場で破崩坊は、芝居がかった呪いの言葉しか言えなかった」
しかし、この好機を逃すわけにはいかないと、思いつめていたのかもしれない。
正周と啓吾が立ち去った後、申岡が付き人と去る前。その僅かな合間に、破崩坊は、再び呪いを掛けようとした。しかし慌てていたこともあり、完全な降霊術にまでは至らなかった。結果として、申岡は転んで頭を打ったものの、命を失くすまでには至っていない。そこで破崩坊は、三鈷剣と共に姿を消した……。
「恐らくそういうことではないかと」
「彼と申岡の間には何があったのだろうね」
「……あれはさながら、戦のような……」
視たものの記憶を手繰ろうとすると、耳の奥に残る声の残滓が蘇り、啓吾は眉を寄せる。幾度も大きく息を吐いて心を落ち着かせようとするのだが、先ほど、破崩坊に纏わりついていた亡霊たちの姿を思い出して、ぞくりとする。
あれは、これまで視た中でも、かなり強い怒りと怨念だ。
啓吾はふと足を止めた。
「若。今回、これは近づかない方がいいです」
正周も足を止めて、啓吾を振り返る。
「そんなに危ないのかい」
「はい。霊を視て……こんなに怖いと思ったのは初めてかもしれない」
これまで、怒り狂う怨霊に遭ったこともある。質の悪い雑霊に憑かれたこともある。それらも怖いと感じたことはあったが、次第に「そういうこともある」と慣れてきた。しかし、今回は、これまでの比ではない。
「手に負えないものには、近づかない方がいい。危ないと思うんです」
すると正周は暫しの沈黙の後、うん、と頷いた。
「分かった。そうしよう」
啓吾は、正周があまりにもあっさりと諦めたことに驚いた。
「いいんですか」
「いいとも。君がそこまで言うのは初めてだ。君子危うきに近寄らずと言うしね」
「怪力乱神は語るのに」
「怪力乱神は、時として面白い。しかし、危うきはよろしくない」
珍しく物分かりが良すぎる。が、啓吾は胸をなでおろした。
「ただ……気になるは気になるけどね」
正周は少しだけ不服そうに言う。確かに、啓吾としても、今回の件については分からないことだらけで気にはなる。
「明日、毎報社で色々と聞いてみます。それでいいですか」
正周は、うん、と頷いた。
啓吾は正周と並んで歩きながら、薄暮の町を歩く。その時ふと、啓吾の脳裏に三鈷剣の箱によって視えた光景が蘇る。
最もおぞましかったのは、亡霊たちの姿ではない。むしろ高笑いをしながら人を殺して回っていた申岡の姿。
「亡霊よりも、人の方が怖い……」
啓吾は誰にともなく独り言ちた。