第三話 ハイカラ電話

 

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 その日、啓吾はいつものように大学の授業を終えてから、銀座の毎報社に向かった。

 昨夜の幽霊騒ぎは深夜にまで及んだ。子爵夫人はお気に入りの由紀が怯えていることに困惑しつつ、

「こういう時に、少しは役に立ちなさいな」

 と、正周に言う。正周は、

「私とて役に立ちたいのですが……」

 と、不貞腐れて、手にした文献を眺めながら、幽霊が出たという場所に盛り塩をし、祓いの真似事をした。更に、自らの部屋にあった水晶の数珠を由紀に渡した。

「当面、これを持っていなさい。必ずやその正体を暴いて見せましょう」

 さながら、黒岩涙香あたりが書いた探偵小説で犯人を捜すかのような口ぶりである。

 しかしながら、その推理はさほどの洞察力を発揮しているわけではない。

「お由紀さんだけが見ているということは、むしろお由紀さんに所縁の人なのではないか」

 というのが正周の考えである。しかし、見つけた当の由紀が、「見知らぬ女」だと言っている。そして、幽霊も由紀に対して恨みつらみを言うのではなく、「ここは何処か」とだけ問うている。昨夜の二度目の時は、由紀と目が合うなり、「すみません」と言ってかき消えたという。

 やはり、「うっかり出てきた」ように思う。

 幽霊などというものは、恨みつらみを伝えるためにおどろおどろしく登場するのが、怪談の常である。しかしそれは、人間が怖がらせようとして語るからそうなるのであって、当人たちの中には、「驚かせるつもりがなかったのに、驚かれる」という、ちょっと間抜けな霊もいる。

 要は人と同じだ、と、啓吾は思っている。

 ともあれ、幽霊騒ぎで寝不足になってしまった。おかげで先ほどから、原稿の清書をしながら猛烈な眠気に襲われている。古参記者の字は読みづらいと評判が悪く、植字工が読めるように清書するのも啓吾の仕事の一つだ。それなのに、書いている先から啓吾の字まで歪んでいく。

 するとそこへ、記者の上条が顔を覗かせた。

「おお、丁度良かった。お前さんこの記事、知っているか」

 見るとそこには、新たな鉄道敷設の記事が載っていた。

「連翹寺正幸氏に、このことで話を聞きたいなあ」

 正周の兄、正幸の妻は、鉄道事業に関わる実業家の娘である。正幸もこの件には出資していると、啓吾も耳にしたことがあった。

「それならば正式に、会社の方に聞いて頂いた方がいいですよ。僕みたいな書生に言っても仕方ないじゃありませんか」

「いや、だから、正幸氏が在宅の折に、偶然、俺が遊びに行くという体で。とりあえず、予定だけ聞いてくれないか。電話ででも、すぐに」

 啓吾は仕方なく立ち上がり、社の電話室に向かう。

 正幸は多忙を極めており、今日は横浜、明日は神戸、その先には北京や台湾、パリにも飛び回っている。最近は顔を合わせることもない。

 啓吾は受話器を取った。

『はい、こちら交換手』

「本郷三番にお願いします」

『畏まりました』

 暫しの間があって、

『もしもし』

 と聞き覚えのある由紀の声がした。

「お由紀さん、雲戸啓吾です。すみませんが、正幸さんが次にお帰りになるのは何時になりそうか、ご存じですか」

『はい、女中部屋に皆さまのお食事の予定表がございますので、ちょっとお待ちを』

 パタパタという足音が聞こえる。するとすぐに、

『お~い、お~い』

 と男の声がした。

「誰ですか」

 誰かがふざけて呼んでいるのか。

『こちらへ来い』

 何を言っているんだろうと思った次の瞬間、啓吾はふと眩暈に襲われた。眉を寄せて目を固く閉じ、再び開けると、見覚えのある廊下と階段がある。そして、廊下の向こうから、由紀が手元の書付を見ながらこちらに歩いて来るのが見えた。

 どういうことだ……と、思うより先に、再び強い眩暈に襲われ、目を開けた。

「おい、お前さん、電話をしたまま寝るなよ」

 そこにいたのは上条である。はい、と返事をすると、受話器の向こうから、

『啓吾さん、啓吾さん』

 と、由紀の声がする。

「あ、は、はい」

『正幸様は、来週の水曜日には御屋敷にお戻りの予定です。その日のお夕食から、一週間はこちらにおられます』

「分かりました、ありがとうございます」

 電話を切ってから、啓吾は暫し己の身に今起きたことを反芻する。

 電話をかけて、由紀と話した。待っている僅かな間に、誰かが自分を呼ぶ声がして、気付いたら連翹寺家の廊下に立っていた。そして、上条に起こされて再び戻ってきた……。

「電話で、あちらに行っていた……」

 文明の利器が、まさか生霊の通り道になっているなんてことが、あるはずがない。

 だが、そうとしか思えない。

 上条の机まで行き、正幸の予定を報告しながら、啓吾は先ほどのことが気になった。

「上条さん、電話にまつわる怪談……とか、どうですか」

 すると上条は、ははは、と声を上げて笑う。

「面白そうだね。当世風だ。どういう話だ」

「電話を掛けると、掛けた先の家に生霊が飛んでいく……とか」

「そんなことになれば、何処もかしこも大騒ぎだ。うちの社も生霊だらけになるな」

「……ですよね。忘れて下さい」

 上条の言う通りだ。

 もしも、こんな風に電話が繋がった先に生霊が出るというのなら、あちこちでそんな噂が広まるはずだ。写真に魂を吸われるという評判と同じかそれ以上に、電話を怖がる人がいてもいい。しかしそうはならない。

 

 翌日、啓吾は大学に出向いたものの、折あしく講義を担当する教授が風邪で寝込んだとかで、休講になっていた。

 遊びに出かける金もないので、早く寮に戻ったのだが、やはり昨日の電話の件が気になって、連翹寺家の本館の廊下で、電話室の前を行ったり来たりする。

 そして、自分があの時に見た景色を確かめる。

「確かに、ここからだ」

 台所へと続く廊下が見えて、女中部屋から出て来る由紀の姿も見える。

「どうなさいました、啓吾さん」

 由紀に問いかけられて、苦笑する。

「ああ、昨日、会社から電話をしたでしょう」

「ええ、正幸様の件で」

「その時……」

 僕の姿を見ましたか、などと言えば、またぞろ由紀が怖がってしまう。啓吾としても、自らが生霊を飛ばしていたなどとは余り考えたくはない。

「いや、いつも、電話はお由紀さんが出るんですか」

 由紀は、はい、と頷いた。

「私がいれば、私が出ることが多いです。音がしたらすぐに走りますので」

 なるほど、と頷きつつ腕組みをしていると、不意に背後から、

「お~い、お~い」

 と、呼ぶ声がする。え、と思って振り返るが、目の前の由紀は首を傾げる。

「どうかなさいましたか」

「あ、いや……」

 声は変わらず聞こえているが、由紀は気にする様子がない。

「何か、呼ぶ声がした気がして……」

 すると由紀は耳を澄ませるように眉を寄せ、顔を顰める。

「また、怖がらせようとなさらないで下さいよ」

 そう言うと、忙しなく二階へと階段を上がって行った。

 由紀が立ち去ってからも、声は聞こえている。「お~い」とこちらを呼ぶ声だ。相変わらず姿は見えないが、その声には聞き覚えがあった。由紀が電話を切らずに離れた間、同じ声が受話器から聞こえていた。

 啓吾はゆっくりと声の出所を探るように廊下を歩く。男の声は遠くからこちらへ来いと呼びかけているようだ。

「……やはりここか」

 声は、正周の部屋から聞こえている。

 扉に手を掛けるが、それは開かない。書籍と怪しい蒐集物の魔窟と化したこの部屋は、片づけをする時には正周が立ち会わなければ、ガラクタとゴミの区別がつかないので、おいそれと女中が掃除をすることはできないのだ。

「うっかり、呪具の類を壊すと、何が起きるか私にも分からないから……」

 という正周からの注意を聞いてから、誰も部屋には近づこうとはしない。

 結果として、正周が出かける時には鍵を掛けて行くのが常になっているのだが、鍵の管理が不安になった正周は、それを女中部屋に預けている。最早、鍵を掛ける意味はあるのかないのか分からない。

 啓吾は暫しの逡巡の後、女中部屋へ向かう。一仕事を終えた芳と信が、お茶で一服しているところであった。

「あら、啓吾さん、学校は」

「教授が風邪で休講でして。すみませんが、若様の部屋にある本を取りたいのですが」

「ああ、そうですか」

 信は戸棚の引き出しを開けて、ひょいと鍵を取り出して啓吾に渡す。「啓吾さんなら大丈夫」という、この家の人たちの圧倒的な信頼を前に、悪さをする気など毛頭ないのだが、何だか妙に居心地悪く感じることもあり、「すぐに返します」と言い置いた。

 廊下に出て、再び正周の部屋の傍まで来ると、ずっと「お~い」という呼び声がする。啓吾は鍵を差して回し、ゆっくりと戸を開く。明り取りの窓から差し込む日に照らされて、静かに埃が舞っている。

 その日差しの下に、一人、僧侶が立っていた。日差しに照らされて、その影はゆらりゆらりと揺れて、消えそうだ。が、啓吾の姿を見ると、両手を合わせて深々と頭を下げた。

「これを、持つべき人のもとに」

 その声は朗々と響き、指さす僧侶の足元には桐箱があった。啓吾が足を進め、桐箱を手に取ると、僧侶の姿は煙のように立ち消えた。啓吾は桐箱の蓋を開ける。そこにあったのは、あの三鈷剣であった。

 先日、悪霊を引き連れた男、破崩坊が、自らの復讐を果たすべく、使った呪いの道具である。

 啓吾は、破崩坊の身が消えた後、現場に残された三鈷剣を拾った。悪霊を宿し、挙句に破崩坊の命を奪った凶器だというのに、引き寄せられるように掴んでしまったのだ。だが、剣は呪いを遂げたせいか、邪悪な気配は感じなくなっていた。

 一応、元の持ち主である「緑青堂」の丑川にも問い合わせたところ、「縁起が悪い品ですので、差し上げます」と、空の桐箱まで送って来た。そのことを知った正周は大いに喜んだ。

「貴重な呪具だろうから、私が持っていても構わないかい」

 いっそ捨てたいとさえ思っていたので、これ幸いと正周に預けたのだ。

「何も憑いていないと思っていたのに……」

 先ほどの僧侶の姿の人影は、破崩坊ではなかった。正体不明の老僧があの時、電話の向こうから自分を呼んだ声の主だったらしい。

 啓吾は改めて箱を見やる。

 先日は、この箱からもいくつもの血だらけの手が伸び、黒い霧のように、恨みの残滓が漂っていた。しかし、今はまるでその気配はない。怨霊の類は破崩坊が連れ去ったとして、一体あの老僧は何者か……。

 三鈷剣を見つめたまま、立ち尽くしていると、

「おや、啓吾君。来ていたんだね」

 正周が姿を見せた。その手にはまた、何やら出所不明な和綴じの古書がある。

「お由紀さんが視た霊とやらが何なのか知りたくてね。色々と調べてみたんだが、やはり生霊を飛ばすとなると、飛ばす側と飛ばされる側との間に何かしら引き合うものが要るようなんだ。恋心故に生霊を飛ばした六条御息所のためしもある。人であったり、物であったり、そういう何かが要るんだよ。だが、今のところ屋敷の中で心当たりを探ってみたが、答えは出ないままで……と、そういえば、君はどうしてここに」

 鍵を掛けて出かけたはずが、開いていたことも疑問に思わず、啓吾が中にいることに、ようやく初めて問いかけた。

「これ、この部屋にあったんですね」

 啓吾が三鈷剣を指さすと、正周は、ああ、と頷いた。

「私は日ごろ、霊異に関心を持っている。けれど、霊異は即ち人の生き死にに関わる話でもある。そのことに対して、畏怖というか、畏敬というか……そういうことを忘れてはならないとも思う。その戒めの意味もあって、ここに置いたんだよ」

 いつもは好奇心に駆られて動いている正周ではあるが、流石に先の破崩坊の一件は、重く受け止めているところもあるのだろう。

「それで、君はどうして三鈷剣を見ていたんだい」

 正周に問われて、啓吾は、はい、と一つ息をついた。

「お由紀さんが、幽霊を視たという日。何方からか電話がありませんでしたか」

「電話……」

 その言葉に正周は、ポンと手を叩く。

「電話を通じて霊が来たという説はないか」

 何というか、こういう時は異常に察しがいい。

「飽くまでも、そうかもしれないという……」

 話をしている途中で、正周は呼び止める間もなく部屋を駆け出し、再び戻って来た時には、手に帳面を持っていた。

「電話室には、誰から電話があったか、皆が記しているのだ。あの日は……ここ」

 記されているのは、子爵夫人に宛てた電話で、松木原伯爵夫人からの電話であった。正周は、首を傾げる。

「お由紀さんが視たのは、若い女の霊だから夫人ではないよな。もしかして……」

 正周の脳裏に過ったのは、恐らく正周の自称許嫁である松木原薫子だろう。しかし、すぐさま頭を横に振る。

「いや、あの人ではないな。生霊を飛ばすくらいなら、直接訪ねてくる」

 確かに彼女なら、生霊を飛ばす間があったら、ここまでやってくるに違いない。

「薫子さんなら、お由紀さんもすぐに分かるでしょう」

「そうだな」

 険しい顔で首を傾げる正周に、啓吾は改めて向き直る。

「実は、僕も電話をしたんです。昨日」

 啓吾は帳面をめくり、自分の名が記されたところを指した。

「正幸様のご予定を知りたいと、先輩に言われましてね。お由紀さんが調べる少しの間、待っていました。そして……気づいたら、僕自身がそこに立っていたんです」

 正周は目を見開いた。

「君が、生霊を飛ばしたということかい」

 凄い、と声を上げ、啓吾の周りをぐるぐると回る。啓吾はふうっとため息をついた。

「その時、受話器から奇妙な男の声がしたんです。その声と同じものが聞こえたので、辿って来たら、これが」

 啓吾は手元の三鈷剣を指さした。

 正周は、え、と言うなり顔を強張らせ、恐る恐る三鈷剣を眺める。

「まだ、何か憑いているのかい。君は大丈夫だったのかい」

 案じるように歩み寄り、肩を掴み、背を摩る。啓吾は、大丈夫です、と言いながら正周を押しやった。

「憑いているのは、見覚えのない老僧でした。これを元の持ち主に返して欲しいと言われたのです」

「元の持ち主といって、緑青堂の丑川さんには断られたし、申岡氏は亡くなった……その前となると、破崩坊はもういない」

 啓吾は、はい、と頷いてから、首を傾げる。

「もしかして、この三鈷剣に所縁の人が、ここに現れたのかもしれません」

 正周は帳面を捲りながら、その正体を探ろうとする。しかしそこに並ぶ名は、大半が子爵や子爵夫人、正幸らの仕事や付き合いの名ばかりである。例の三鈷剣に所縁と言われても、直ぐには思いつかない。

 すると正周は、ポンと手を打った。

「啓吾君、この桐箱から糸は出ていないかい」

 何かを思い出したように言いだした。

「糸……ああ、なるほど」

 啓吾と正周が初めて会った時のこと。

 正周の祖母が落とした「連翹宮物語絵巻」が納められた桐箱を拾った啓吾は、桐箱から伸びる金の糸を辿って正周に出会った。その糸は、正に「縁」を示すものであったと啓吾は考えている。

 この三鈷剣に縁があるとするならば、桐箱から何かしらの糸が伸びているかもしれない。

 啓吾は箱を持ちあげて目を凝らす。すると角度によっては、糸のようなものが見えなくもない。

「試しに、電話室に持って行こう」

 正周は次第に面白がり始めている。そして、箱を捧げ持って廊下を歩き、電話室まで向かう。しかし、電話機に向かって糸が伸びていることはなかった。

「もう一度、よく考えてみよう。君は電話をして、お由紀さんと話をし、待っている間に男の声に呼ばれた……」

「まあ、そうですね」

「そのほかに何かなかったかい」

 啓吾は頭の中で何度か電話の手順を反芻する。

 毎報社の電話室に入り、受話器を取って、交換手に繋ぐ。連翹寺家の番号を伝え、繋がると、「お話し下さい」と交換手が言い、由紀と話した。その間に、「お~い」と呼ぶ声がした……。

 そこまで聞いた正周が、ハタと気付いたように顔を上げた。

「交換手……交換手ということはないか」

 啓吾は、ああ、と声を上げた。

 昨今、電話機の設置が増えており、交換手が足りなくなったらしい。そのため、女性交換手の採用を始めたところ、大変、人気の職業になったという。二十歳前後の若い娘が、大手町にある電話交換局の周りを、色鮮やかな小紋に羽織といった装いで闊歩する姿は、すっかり話題になっていた。わざわざ大手町を経由して銀座に来るという先輩記者が、「眼福だね」などと言っていた。

「しかし、交換手となると、特定は出来ません」

 すると正周は、よし、と言うと脱ぎ捨てていた帽子を取った。

「行こう」

「何処へ」

「大手町。交換局だよ」

 たった今、特定できるはずがないと言ったばかりなのだが、その声は全く届いていないらしい。

 大股で歩き始めた正周の後を、啓吾は小走りで追いかけた。

 

(つづく)