第四話 センチメントな再会
啓吾にとって、初めて聞く祖父の話だった。祖父が、「視える」力を持った我が子たちを思い、申岡たちの無法に怒りを覚え、峯斎の子や同胞らの為に動き、命を落とした。
啓吾の目に思わず涙が零れ、無造作に手の甲で拭う。何かを言いたいと思うのだが、声も出なかった。
すると、傍らの正周が啓吾の背を摩りながら、峯斎を見据えた。
「……つまり、凛さんは峯斎先生の孫娘で、それを助けたのが、啓吾君のお祖父様であられたのですね」
「左様です」
「これはなんという、奇縁であることか」
正周は深く納得したように頷いた。
「峯斎先生の同胞である岩斎は、片目の見えぬ男……破崩坊ですね」
峯斎は己の両手を強く握り、深く頷いた。
「あの男は、申岡の死の一月ほど前、儂の元を訪れた」
岩斎は、長い逃亡のうちに、更に深い恨みと憎しみ、後悔を抱えているように見えた。そして、怪しげな修験者の元に出入りしていたのか、暗い影を背負っていた。
「申岡への復讐をしたい。力を貸して欲しい」
峯斎に頼んで来た。しかし峯斎は凛を養女として迎えたばかりであった。苦難続きであった凛のために、穏やかな暮らしをさせたいと思っていた。
「何とか岩斎も思いとどまってくれ」
峯斎が頼むと岩斎は冷ややかに、憫笑した。
「貴方は、あの場を見ていない。私は今も夢に見る。長らく里を離れていらした貴方には、身を抉られるような苦しみは分からないのだ」
峯斎は絶句するしかなかった。
焼け跡を見ただけでも、胸を突かれたのだ。朋輩が殺される様を目の当たりにし、自らの目を失った岩斎の悲しみは察するに余りある。
「力を貸して下さらぬのなら、せめて邪魔をして下さるな」
岩斎はそう言って出て行ったのだ。
啓吾と正周は、顔を見合わせる。
「私たちが岩斎……破崩坊と名乗っておられた方と会ったのは、恐らくその後でしょう」
正周の力によって、一時はその志を果たすことができなかった。しかしその後、申岡の任侠一家を同士討ちに追い込むほどの呪いをかけた。
「その時、三鈷剣は呪いの道具として使われていました」
正周の言葉に、啓吾は改めて目の前にある三鈷剣を見つめた。
「祖父は、三鈷剣に囚われていたと、先生はおっしゃった。それはつまり……祖父もまた、あの呪いに関わったのでしょうか」
「いや、儂が啓照殿に聞く限り、そうではないようだ」
「そもそも何故、囚われてしまったのでしょう」
「我らの里の不動明王像を創った仏師は、啓照殿に所縁の方であったと思われる」
啓吾はその時、過日の夢を思い出す。伯父によく似た仏師が不動明王像を彫る姿である。それが先祖であるのか、前世であるのかは判然とはしない。ただ「所縁」は確かにあると思われた。
「触れて御覧になるか」
啓吾は剣を見つめたまま躊躇した。
破崩坊が死んだ後に残されたこの剣を、思わず拾い上げた。その時、何故かこれに呼ばれたような気がしたのだ。しかし、我に返った時、破崩坊が砂の如く崩れ去るのを思い出して恐ろしくなり、川へ投げ捨てようとした。正周に止められ、譲り渡して以後、これに近づく時には出来るだけ何も視ないようにしてきたのだ。
「儂がおる故、おかしなことは起きるまい」
峯斎の言葉に、啓吾は小さく頷く。
もしも、剣を通して祖父のことが分かるのならば知りたいと思った。一つ大きく息をすると、そっと箱を引き寄せた。震える手で中から三鈷剣を取り出してみる。ずしりと重く、手のひらに冷たい感触が伝わった。
啓吾は静かに目を閉じた。
*
啓吾が目を開くと、何処とも知れぬ薄暗い部屋が広がっている。
そこには、緊張した面持ちで座っている男がいた。髭を蓄え、髪も伸びかけたその男は、墨染を纏っている。それはあの老僧、啓照であった。傍らの布団には、幼い少女が寝息を立てていた。着物も古びて、顔も汚れ、疲れ果てているように視える。するとそこへ、どどど、と、荒々しい足音が聞こえた。
老僧は寝ぼけ眼の少女を起こして、少女の手首をぎゅっと強く掴み、短く経文を唱えた。それから大きな葛籠を開けると、その中へ少女を入れた。
「今宵はここで眠りなさい。何があっても出て来てはいけないよ」
頷く少女の頭を撫でると、蓋を閉じて、押し入れの襖を閉じた。啓照は襖を背にして静かに端座する。そこへ、申岡と三人の男が長脇差を手にして乗り込んで来た。
「貴様、逆賊の一味だろう。あの里から逃げた女の所から、財物を持ち去ったのを見たと聞いた」
刃を向けられた啓照は、それでも静かに顔を上げ、申岡を見据えた。
「逆賊とは何ぞ。そなたが追っていたのは、何の力も持たぬただの女である。この老いぼれに刃を向けたとて、何も起きない。そうして人を殺めたことで手に入れた力なぞ、いずれ巡って自らを殺めることになろう」
申岡はふっと口の端を上げて笑った。
「説教がましいことを言う。死んでからも言えるものなら言えばいい。俺はこのままもっと、上へ行く」
そう言うと迷うことなく刃を振り下ろし、一刀のうちに啓照の首筋を掻き切った。血しぶきが辺りに飛び、啓照はどうと床に倒れた。
次の瞬間、啓吾の視界はぐるりと回り、真っ暗な御堂の中にいた。その目の前には、たった今、斬られたはずの啓照が端座していた。
「そなたが、話を聞きに参ったのか」
夢の中にいる啓照と目が合ったように思えて、啓吾は戸惑って辺りを見回した。しかし、辺りには誰もおらず、何もない。ただ己と啓照だけが、向き合っているのだ。
「もしや、私が視えておられるのですか」
啓吾が問うと、啓照は深く頷いた。
どうやら、啓照の記憶を手繰るうちに、その記憶の内側に入ったようである。
となると、目の前にいるのは、啓照の死霊であろうか。初めて会う祖父の姿に、啓吾は戸惑いながらも啓照と向き合った。顔かたちや佇まいは、谷中の伯父によく似ていた。
「貴方は、あの申岡に斬り殺されたのですね」
確かめるように問うと、啓照は、うむ、と唸るように頷き、啓吾に向かって頭を下げる。
「そなたの母や祖母、伯父である敬円らには、苦労をかけてすまなかった」
「これまで、どうして姿を見せられなかったのですか」
「私は長らくこの御堂に囚われていたのだ」
斬られると分かった時、せめて背後にいる幼子を守りたいと思い、同時に残して来た子らの為にも、平穏な世を祈った。すると、斬られて倒れていく身から離れ、気づけば、この御堂の中に引き寄せられていたのだ。
「御堂の中に今は誰もおらぬが、その時、大勢の者がここで泣いていた」
それは、隠れ里で命を落とした者たちの霊であった。二十人余りが肩を寄せ合っていた。彼らは心残りを抱えて世を去ることが出来ずにいた。
「はじめは戸惑い、途方に暮れたが、やがてこの者たちを成仏させるのが、己の使命であり、ひいては幼子とそなたら……妻子を守るためになるのだと信じることにした」
かつて寺でしていたのと同じように、死霊となった彼らの恨みつらみを聞き、悲しみを慰めた。心が癒された者たちは、そのまま成仏して御堂から姿を消した。
どれほどの時が流れたのか、既にその感覚は失われていた。
やがて、御堂の中にいる者は六人になったが、彼らは怒りや悲しみから逃げられぬままであった。
「その者たちの怒りや恨みは、時折、御堂そのものを揺るがすほどであった」
啓照は、御堂の外には何があるのか気になった。扉を開けようとするが、開かず、出ることも出来ない。ただ、御堂の格子の向こうを見ると、申岡の様子が視えた。
「その時になってようやく、この御堂が三鈷剣の中にあるのだと気付いた」
申岡の周りには、常に悪意と殺意が渦巻いており、それに呼応して中の者の心も乱れた。どうにか鎮まって欲しいと願っていたところ、外側から憎悪に呼応するような声が響くようになり、残された者たちはその声に引きずられて外へ出た。
「気付いた時には御堂は空になり、ようやく扉は開いたのだ」
そして初めて、外に出ることが出来たのだという。
「あの者たちは、何処へ行ったのか」
啓照の問いに啓吾は声を詰まらせた。
恐らく、その者たちは破崩坊によって召喚されたのだ。三鈷剣を手に入れた後、破崩坊が身に纏っていた黒い霧の正体こそ、剣に封じられ、成仏が叶わなかった者たちの霊であったのだ。そしてあの日、破崩坊と共に申岡とその一党を呪い殺し、魂ごと霧消することを選んだのだ。
啓照は啓吾の沈黙の意図を察し、改めて手を合わせた。
「御坊はこれからどうなりましょう」
三鈷剣に封じられていたのだとしたら、これから天に還り、輪廻の中へ入るのか。或いは霧消するのか。その行方が知りたかった。
しかし啓照は苦笑する。
「御坊と呼ばれるか」
啓吾は戸惑いながら、はい、と頷く。
祖父と呼ぶには遠すぎる。故につい、堅苦しい言葉にならざるを得ない。
すると啓照は、ふむ、と唸りつつ言葉を接いだ。
「恐らく、この勤めをもって、私はようやっと人並みに死ぬことが叶うようだ」
斬られたことへの恨みはない。未練すらなかったのに、皮肉にも、縁のある三鈷剣の力に引きずられ、死ぬことすら出来ずにいたのだと思うと、祖父が憐れにも思える。だが、当人は気にしていないようだ。
「縁とはかくも、巡るのだな」
手を伸ばし、啓吾の手に触れた。啓吾の手には、その武骨で大きな手が温かく感じられる。
「そなたが生まれ、紅葉のような小さな手を見た時、これを守らねばならぬと思った。それはただ傍にいることではない。かような無法を止めねばならぬと思ったのだ。何も、出来なかったが……」
もしも破崩坊が呪いを掛けた時、もっと多くの霊が三鈷剣の中に留まっていたとしたら、被害は申岡一味だけに留まらず、そばに居た啓吾や正周も危うかった。
「それでも、悪霊とならなかった人々が心穏やかに逝けたのは……お祖父様の御力があったればこそと、思います」
啓吾が思い切って呼びかけると、啓照は照れたように微笑んだ。
「ありがとう」
その微笑みを見た時、啓吾はこれまで抱いていた「祖父」の印象が変わる気がした。
視える者を疎んじて、妻子を捨てて行方を晦ました気難しい元僧侶ではない。祖母が言っていたように、「為すべきこと」を為そうとして足掻いて来た一人の人なのだ。
「叶うのであれば、母さんと伯父さんに会って下さい」
啓照はやや目を見開き、深く頷いた。
「二人には許しを請わねばなるまい。無事に峯斎殿に孫をお届けできた。最期に、娘や息子に会えたのならば、未練もない。妻の元に参ろうと思う。連れて行ってくれるか」
「はい」
そうして互いに笑い合った。
啓吾がゆっくりと目を開けると、目の前には目を閉じて祈り続ける峯斎と、心配そうに啓吾を見つめる正周がいた。三鈷剣はその場にあるが、啓照は三鈷剣の傍らではなく啓吾の背後に座っていた。
「先生、戻りました」
啓吾が声を掛けると、峯斎は啓吾の背後を見て、啓照の姿を見つけたのだろう。安堵したように吐息してから、静かに頭を下げる。
「これで、啓照殿を無事にお返し出来た」