第一話 デカダン芸者
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小鈴は、今年で二十歳になるのだという。
「染野やに入ったのは、十の時。元々、孤児だったから」
母は早々に亡くなっていた。労咳だったと聞いている。父は、車夫をしていたのだが、ある時、帰って来なくなった。お人よしの江戸っ子で、他の車夫がやくざ者に絡まれていたのを庇ったところ、殴られて死んだのだと、近所の人が教えてくれた。弔いを済ませた後に、親戚から置屋に売られた。
「染野やの田鶴さんは、業突く張りだと言われているけど、私にとっては唯一の頼れる大人だからね。ごはんも寝床もくれる。いい人だったよ」
見番に紹介された師匠のもとで踊りと唄を習い、三味線を覚えた。はじめのうちは竿を持つのもやっとだったが、やがて大きくなるにつれて、上手くなった。料理屋の女将や幇間たちにも褒められて、それが何より嬉しかった。
「馳島先生は、その頃にもよく置屋に出入りしていたから、知っていたよ。私はてっきり、お母さん……田鶴さんのいい人なんだと思ってたんだけど、ちょっと違ったみたいでね」
昔は田鶴といい仲であったらしい。しかし、馳島は若い娘が好きだった。そのくせ、吉原の女を買う気はない。そこで、芸者の置屋である染野やを訪ねては十四、五の半玉を見つけると「あの子」と、田鶴に言う。
芸者は芸を売る。身を売る吉原とは違う。しかし、田鶴は「そんなのはお題目だ」と言って憚らず、馳島に逆らわずに半玉を差し出す。その娘が嫌がると「それなら吉原に売るよ」と、怒鳴った。吉原の遊郭で大勢の客を取って、死んでいった娘の話なぞを聞かされていると、「それよりましか」と、諦めてしまう。
小鈴も、十四の年に田鶴に言われるまま、馳島の寝所に行った。姉芸者たちが、「目を閉じて、歌を歌っていれば終わるよ」と言ったので、その通りにした。その後、何度か馳島に呼ばれたが、愛想よくする気も、媚びる気もなかったので、姉芸者の言うようにいつも、頭の中で歌を歌っていたら飽きられたらしい。すぐに次の子に関心が移ったのでほっとした。
それからは、ただ芸を鍛錬することだけに努めた。暇を見つけて稽古に励むと、踊りは性に合っていたらしい。
「なかなか舞が上手だね。これから、お前さんに声を掛けるよ」
料理屋の女将に言われた時は嬉しかった。
しかし、酒を飲んで酔っている男たちは、ちゃんと踊りを見てはくれない。それでも、踊っていれば心は晴れた。
置屋での暮らしは豊かとはいえない。宴席に出ればご相伴に与れるし、料亭の勝手口でおこぼれにも与った。
「染野やさんは、芸者を大事にしないね。他の置屋に移れたらいいのに」
料理屋の女将は、染野やの困窮ぶりを案じていた。その頃、染野やの芸者の数は、三人ほどになっていた。
小鈴が十九になった時のこと。また馳島が若い半玉に手を出した。十四になった駒乃は嫌がり暴れ、馳島を蹴って逃げ出した。馳島は怒って田鶴に当たり、出て行ったという。
「こんなことで馳島先生からのお金が途絶えたら、どうしてくれるんだい」
田鶴は駒乃を叩いて叱り、罰として晩御飯を抜いた。姉芸者たちも、ため息をついていたのだが、小鈴は項垂れる駒乃を見て、涙が出た。どうして自分が泣いているのか分からなかったが、はたと気付いた。
「あたしも、ほんとは逃げたかったんだ」
芸者は、身を売らずに芸を売る。他の置屋の芸者たちはそう言って、自分の芸に誇りを持って振舞っている。それなのに、染野やでは逆らえば食べる所も寝る所も無くなるから、馳島の無理無体にも黙って従っている。
涙を拭うと、今度は怒りが湧いて来た。
「あたしたちは芸を売るんです。先生に媚びなくてもいいじゃありませんか。お客さんは他にもいます」
小鈴は田鶴に歯向かった。すると田鶴は嘲笑う。
「何が芸だい。さほどの芸でもないくせに」
田鶴は一度だって小鈴の舞を見たことはない。舞ったところで良し悪しも分からない。
「お母さんが馳島先生に媚びて食いつなぐのは結構。だからって、あたしたちはあたしたちで芸を磨いてここにいるのに」
田鶴は腹を立てて小鈴を叩き、姉芸者たちが諫めに入った。布団部屋に押し込められた小鈴のもとに、姉芸者の八千代がやって来た。
「仕方ないよ。諦めな」
しかし小鈴は、せめて駒乃を他の置屋に引き取ってもらう術はないものかを考えていた。数日の後、小鈴がお座敷から帰ったら、置屋に駒乃の姿がなかった。
「駒乃は何処ですか」
田鶴は、さあ、としらばっくれた。八千代に聞いたら、昼に女衒がやって来て、吉原に連れていかれたのだという。田鶴は、馳島から駒乃を売った金の一部をもらったらしい。小鈴は田鶴に詰め寄ろうとしたが、八千代に止められた。
「仕方ないって言ったろう」
置屋の中には、澱んだ諦めだけが満ちている。心のどこかに蓋をして、同時に心ごと壊れていくような怯えがあった。
「デカダンって、こういうことかもね」
八千代が、煙管煙草をふかしながら言った。昨今流行りの「デカダン」は、虚しい心の表れなのだと、先日のお座敷で小説家を名乗る男が言っていた。気取った風情で言っていたのを思い出し、小鈴は鼻で笑う。
「あの人たちは、そういう風情に酔いたいだけでしょ。あたしたちのこんな気分を味わったことなんかないわよ」
金を払って芸者を呼んで、酒を飲んでいるような男が、金の力で黙らされ、つい数日前まで一緒に寝起きしていた駒乃が売られたことに、口を噤んで従うしかない有様を、味わうことなんかできない。
居た堪れなくなった時、決まって向かうのは、浅草寺。幼い頃、母と共によく来ていた。
「悲しい時、辛い時、ここに手を合わせてごらん。観音さんが救ってくれるから」
その言葉を覚えていたから、これまでにもここに来た。人気がなければ、観音さんに見せるつもりで踊った。酒席の酔客や、馳島の前で踊るよりも、ずっと無心になれた。
だが、その日は観音さんだけではない客がいた。
賽銭箱の陰から拍手をした男は、傷だらけだった。
「上手いなあ」
素直な賛辞をもらったことが、嬉しかった。そのまま行き倒れになりそうだったので、慌てて交番に駆け込んだ。
「あんた、何処の誰だい」
交番の巡査が男に問うと、「毎報の上条」とだけ答えていた。そのまま気を失うように眠っていたので、後は任せて立ち去った。
相変わらず、気怠い日々は続いていたが、ふと、あの時の賽銭箱からひょこりと顔を出した男のことを思い出すと可笑しかった。「毎報の上条」という言葉を頼りに、毎報新聞を読んでみた。すると、紙面のそこここに、「上条」の署名があることに気付いた。そこには、馳島が紡績会社からの賄賂を受け取っていた不正について糾弾する記事もあった。
「政治家は、お金をもらってはいけないなんて、知らなかった……」
座敷では当たり前のように、政治家が金を受け取っている。芸者たちは、「お座敷で何を見ても聞いても、口外してはいけない」と教えられてきたが、その善悪について考えたことはなかった。
だが、今初めて、あれが罪だと知ると、これまでの記憶の景色が、まるで変わって来る。
「馳島の金は、不正の金だ。あたしたちもそれで暮らして来たんだ」
その事実に愕然とした。
それから半年余りたったある日、再び浅草の町中で上条を見かけた。座敷に出向かねばならないのに、思わず声を掛けた。
「お礼に一杯」
と言われて、一も二もなく応じた。
座敷を怠けたことなど、これまで一度もない。叱られるかもしれないけれど、構わないと思った。
すると、上条は眉を寄せて、「馳島を知っているか」と呼び捨てにする。小鈴にとって馳島は、大嫌いなのに逆らえない「偉い先生」だった。しかし上条は言う。
「間違っていたら、間違っているって言うのが記者の仕事でね。お江戸の時分じゃなかったろうが、ありがたくも文明開化。民がお上に物申すのが、デモクラシーだよ」
その言葉は、小鈴の中の埋火を掘り起こしたような気がした。静かに心の奥で滾っていた思いが、怒りの炎になっていく。
「間違っていたら、間違っているって言う」
小鈴が拙い言葉で、これまで見たお座敷での金の受け渡しを伝えても、上条にとってさほどの情報にはならない。だが、もっと確かなものが置屋にあるのを小鈴は知っていた。
馳島は田鶴のもとを訪ねる時は、いつも決まって料亭で金を受け取った後、夜遅くまで算盤勘定をして、委細を帳簿に書き留めている。馳島は芸者たちのことを馬鹿にしているし、逆らうはずがないと思っているので、その算盤勘定を隠すこともしなかった。事実、小鈴もそれが「悪事」などとは、上条に出会うまでは知らなかったし、田鶴も知らないようだ。そのため帳簿は、鍵もない長火鉢の引き出しに入っているのだ。
小鈴は田鶴の目を盗んで少しずつ書き写した。全部のやりとりは、小鈴が実際にお座敷で見たよりもはるかに多い。気づけば、大福帳一冊分ほどの厚さになっていた。それを丁寧に風呂敷で包んで、行李に入れた。
「いつ、どうやって渡そうか」
こんなものが漏れたと知れたら、馳島は怒り心頭だろう。置屋も潰れるかもしれない。
馳島が罰せられるのならば良いが、芸者たちの居場所がなくなるのは困る。
怒りはあるが、怖さもある。
秋口に入る頃のこと、咳をすると血痰がでることがあった。疲れやすくなり、微熱もあった。これまで、不調を訴えたところで座敷を休めた試しもないので、田鶴には黙っていた。しかし、夜になって激しく咳き込んだのを聞きつけた田鶴が、小鈴が血を吐いたのを見た。
「結核かい。他の子たちにうつされたらたまらないからね」
首根っこを掴むようにして、裏の掘っ立て小屋に閉じ込められた。小鈴がこの置屋に来た時にも、同じように閉じ込められていた人がいたのを知っていた。顔を見ることもなく、そのまま亡くなった。
結核は死の病。誰もが怖いと思うのは仕方ない。母もその病で死んだ。しかしまさか、自分もなるとは思っていなかった。
そうなると、心残りはあの帳簿である。
「私の行李をここにちょうだい」
八千代は、行李を持って来ると、それをずいと小屋の中へ押し入れた。
「悪く思わないでね」
口を袖で押さえたまま、一言だけ言われた。
行李の中には、あの写しと、母の形見の浅草寺の守り袋が入っていた。小鈴は守り袋を手に握り、静かに祈る。
「命が絶えるのは仕方ない。でも、ただ一つ。せめて、私が生きた証が欲しい。誰かの役に立ちたい」
そんなことを思っていたなんて、自分でも気づかなかった。もっと美味しいものが食べたいとか、綺麗なものを着たいとか、豊かに暮らしたいとか、そういうことを願っていると思っていた。だが、心の奥底に、誰かの役に立ちたいという願いが宿っていたことに、驚き、そして可笑しかった。
「何もできないくせに」
自嘲するように思い、ふと行李の中の帳面を見る。
「……これだけでも、あの人に」
小鈴は食事を差し入れに来た八千代に頼んで、「一晩、一瞬でいいから」と、閂を開けて欲しいと頼んだ。八千代は哀れに思ったらしく、夜、田鶴が寝た後に開けてくれた。
「帰って来てよ」
「分かってる」
このまま逃げたとて、どうせ行き倒れるだけだ。それに八千代が叱られてしまう。とはいえ、この帳簿を何処に置けば上条に渡せるのか悩んだ。その時ふと、一つだけ願いを叶えてくれるお不動さんがあると聞いたことを思い出した。教えてくれたのは、三味線上手な他の置屋の芸者だ。恋仲を取り持って欲しいと願いをかけて叶ったと言っていた。
夜の暗がりの中、一言不動のお堂の後ろに帳簿を隠した。
「これが、あの人に届くまで守って下さい」
その帰りに暗がりに聳える浅草寺にも手を合わせた。
「どうか、あの人に届きますように。少しでも役に立ちますように」
何度も息切れをして咳き込み、肩で息をしながら戻ると、八千代は半泣きの顔で待っていた。
「どうして帰って来たのさ」
「姉さん、叱られちゃうでしょ」
「……逃げて良かったのに」
「行くあてなんか、ないよ」
元より身内もない。その上、病もあれば、たとえ身内でも遠ざけるだろう。
「ただ一つだけお願い……毎報の上条という人に会えたら、一言不動に行ってって伝えて」
社名と名字しか知らない。手紙を書いても届かないかもしれない。今の身では捜し回ることもできない。懇願するように言うと、八千代は、「分かったよ」と、返事をした。
出来ることはやった。
後は、一言不動と観音様にお任せするしかない。母の遺した守り袋を抱いて、ただただ眠る。咳をするのも疲れるし、食べるのも辛い。手足を動かすことも重いけれど、頭の中では慣れ親しんだ唄だけ聞こえる。
置屋から漏れ聞こえて来る三味線を聞きながら目を閉じていると、ふっと体が軽くなった気がした。
ゆらゆらと揺蕩ううちに、ふと目を開けると浅草寺にいた。隣を見ると、上条が手を合わせている。
ああ良かった。伝えたいことがあった。
「あら、上条さん」
声を掛けると、上条が振り返り、
「おお、小鈴」
と、気さくな様子で返事をした。
これは、夢か現か分からない。ただ、自分の装いはお気に入りの縞紋に、黒の天鵞絨の羽織。恥ずかしくない恰好で会えて良かった。
「心願成就ってあるのね」
ずっと守り袋を抱いていたからか。これまで小銭しか賽銭を入れていなかったのに、観音様も懐が深いものだ。ともかく、伝えよう。
「本堂裏の影向堂の脇に一言不動があるの。その小さいお堂の扉の中に、渡したいものを隠してあるから」
それだけ言ったところで、自分の手が霞むような感覚がある。
ああ、やはりもう死んだんだ。でも、こうして言葉を伝えられて良かった。
「私が立ち去って、たっぷり十を数えてからにして。そのまま知らないふりでいて」
上条は、分かった、と手を合わせる。
これで気が済んだ……
そう思っていたのだが、
「少しだけ、心残りがあるみたい……」