第一話 デカダン芸者

 

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 上条が追っていた馳島の賄賂と、社名と額が一致するところがある。しかも、上条が思っていた以上にその数は多い。

 帳面の間に一通の封書が挟まっている。慌てて開くと、そこには「不正を知り、馳島の裏帳簿を書き写したものである。どうか役立てて欲しい」と細いながらも、はっきりとした筆致で書かれていた。そして、封書の隅には、雄々しい文面とは不似合いに可愛らしい小さな鈴の絵があった。

「小鈴……こんなことを」

 上条は帳簿をどう扱うか迷った。芸者の仕事は、お座敷での秘め事を口外してはならない。こんなことをしたと知れれば、浅草で芸者を続けることは難しくなるだろう。小鈴に悪い影響を及ぼしかねない。しかし、ここまでの情報があれば、馳島の不正を暴く大きな力になる。ここは、小鈴の名を出さず、帳簿の出処を隠したまま、ともかく裏取りの取材をしてみようと決意した。

 調べ始めてみると、この帳簿はかなり正確で、記された企業と馳島との間には金銭の授受があり、公の事業への参画や事業の優遇など、様々な不正があることが分かった。それぞれの企業の内部からの証言もあり、記事としての信ぴょう性は高まった。

「これは見事なすっぱ抜きだ、御手柄だぞ上条」

 毎報社の上司や先輩たちも高揚し、一面に大きく載せた。読者はもちろん、世論の怒りに火がついた。警察も動き始めるに至った。すると当然、帳簿の出処について上条は問われることになった。しかし小鈴に迷惑をかけぬよう、その名を決して口にしなかった。

 だが、動き出した警察の中には、馳島の息がかかった者もいた。

「お前が、裏帳簿を盗んだのではないか。盗人として引っ張られても文句は言えまい。そうではないのなら、帳簿の出処を話せ」

 警察署に連れていかれて恫喝されたこともある。

 先輩の記者が掴んだ話では、馳島は「染野や」という置屋の女将、田鶴に裏帳簿を預けていたらしい。だから、今回の件が漏れたのは、田鶴の裏切りだと怒り心頭。しかし、田鶴の方は「まるで心当たりがない」と、警官に泣きながら言っているという。

 馳島も捕まり、置屋の女将にまで手が伸びているのだとしたら、警察が小鈴のことに気付くのも時間の問題だ。

 ともかく一度、小鈴に話を聞いてみようと、上条は、「染野や」を訪ねた。すると、丁度、中から一人の芸者が出て来た。

「すまないが、小鈴さんはいるかな」

 芸者は、唇を引き結んだ。

「小鈴は、いません……亡くなりました」

 上条は血の気が引く想いがした。取材を仕掛けた車夫が消えた話もある。もしかして、自分に裏帳簿を渡したせいで、女将や馳島から折檻でも受けて死んだのかと思った。

「いつ、亡くなったんだ」

「……暮れに。もう、御弔いも済ませました」

「そんな馬鹿な……」

 年明けすぐに、浅草寺で会ったのだ。絶句していると、その芸者はふと首を傾げた。

「もしかして、貴方は毎報の上条さんですか」

 不意に問われて、ああ、と頷くと、芸者はふと声を潜めた。

「小鈴が、亡くなる前に言っていたんです。もしも毎報の上条という人に会えたなら、一言不動に行くように伝えてって……」

 それだけを言うと、芸者は涙を拭いつつ頭を下げて、小走りに去って行った。

 まだ小鈴が死んだことが信じられず、浅草界隈の料理屋にも足を運び、小鈴の話を聞いて回った。すると、顔見知りの幇間、八助に、仲見世辺りで声を掛けられた。

「小鈴さんといい仲だったんですかい」

「そういうわけじゃないんだが……死んだって、本当かい」

「ええ。何せ、あそこの女将は業突く張りでね」

 小鈴が倒れたのは、昨年の秋口の頃。はじめは風邪かと思われたのだが、実は結核にかかっていたのだという。女将はすぐさま、

「他の子にうつされたんじゃたまらない。噂も御免だよ」

 と、置屋の裏手にある粗末な小屋に追いやった。薬も高いし、何より置屋から結核が出たなどと知れたら、お客が減るからと、ろくに医者に見せようとしない。

「あっしもそれを聞いて、小鈴ちゃんの為に、あれやこれやと差し入れたけど、結核は怖いからね、看病できるわけでもない。それで……結局、あっという間。暮れに亡くなったのさ。寒い日だったからね。ありゃ、病じゃなくて凍え死んだんだ」

 やはり、亡くなっていたのだ。

 とすると、年明けすぐに上条が浅草寺で出会ったのは誰だったのか……

 考えても答えは出ないまま、今日に至っている。

 

 上条はここまで一息に語り終えると、ふうっと大きく息をついた。

「……どうにも説明がつかない。俺はおかしくなったのかな」

 上条の問いに、啓吾は口を噤む。

 恐らく、啓吾に視えているこの陽気な芸者の霊は、小鈴なのだろう。悲しい最期であったというのに、微塵の恨みつらみも感じない。一方の上条は、小鈴の死に戸惑い、思い悩んでいる。

「それに、当然ながら帳簿の写しの出どころを問われていてね。明日もう一度、警察に話をしに行くんだが、幽霊話をどうにか合理的に説明せんと、俺が置屋に盗みに入ったことになるようで」

「それは大変ですね」

 上条は、ううん、と唸りながら腕を組む。正周は、首を傾げる。

「幽霊話をそのまましても良い気がしますけどねえ。何より、幽霊が話しかけてくれたことで、あれほどの汚職事件が動いているなんて、凄い」

 むしろ正周は、上条がそうした霊異に出会ったことが羨ましいらしい。しかし、ふとあることに気付いて首を傾げる。

「しかし、裏帳簿を隠すなんてこと、幽霊に出来るんですかね。こう……風呂敷包が空を浮いて、あの一言不動の裏に入り込むなんて」

 確かに、幽霊が物を持って移動したとすれば、物だけがふわふわと浮いていそうだ。

「いや、それはさすがにありますまい」

 正周は、ああ、と思い出したように手を打った。

「そういう場合はそれこそ、幽霊は誰かの体を借りるんじゃありませんか。ねえ、啓吾君。ほら、先だっての髑髏の件の……」

「ええ、まあ、そうですね」

 正周の声をかき消すように頷いた。啓吾が憑依されて、万世橋の袂の髑髏を掘り返した一件のことを言っているらしい。すると啓吾の傍らにいる小鈴は、ころころと鈴が鳴るように笑う。

「嫌ですよう、そんな風に幽霊が物を運んでいたら、浅草は大騒ぎですよ。あれは私が隠したんです。まだ体が動くうちに……」

 詳しく話を聞きたいところだが、とりあえず、啓吾はついと膝を上条に向けた。

「もしかしたら、帳簿は本人が運んだのかもしれませんよ」

「その方が納得いくな」

 上条は暫し黙り、腕組みをする。

「しかし、正月に境内で会った時の小鈴は、本当にはっきりと見えたんだ。幽霊って透けたりしているものだろう。ほら、全生庵の幽霊画なぞ、そういう風だろう」

 幽霊画蒐集で知られる全生庵のことを思い出したらしく、上条は言い募る。啓吾もそれは見たことはあるし、足元が掠れたように見える幽霊は確かにいる。しかし今、ここにいる小鈴の姿は、啓吾が人と見違えるほどにはっきりしている。

 考え込んでいた正周が、うむ、と尤もらしく頷いた。

「小鈴さんは、境内で舞っていらしたとおっしゃいましたね」

「ええ」

「古い本によれば、観音様への信仰深い人には御利益があると。恐らくは、上条さんが観音様に参られた時に、その御利益もあり、小鈴さんとお話ができたのかもしれません」

 古い観音の縁起について記した本を出して来て、「ほらここ」と、上条に示してみせる。上条は、はあ、と頷きながら眺めている。ついでに小鈴の霊もそれを覗き込んだ。

「そうかあ、あたしがあの時、上条さんと話せたのは、観音様の御利益だったのねえ。奉納っていうわけじゃないけど、あそこで舞ってて良かった」

 幽霊当人も、その御利益の理由が分からぬものなのか、と、啓吾は興味深く聞いていた。だが、上条は正周の話を聞いて、

「観音様もケチだな。そんな御利益より、病にならず生きていれば良かったんだ」

 と、悔しそうに唇を噛みしめる。暫しの重い沈黙の後、深く大きな吐息をした上条は、紅茶をぐっと飲み干すと、テーブルのクッキーを口に放り込み、美味いな、と、感想を述べつつ立ち上がった。

「流石は研究者。俺の話を馬鹿にせずに聞いてくれて有難かったです。こんな話をした途端、俺の記事まで胡散臭く思われるんじゃないかと思って、誰にも言うに言えずにいたんでね、少し気が楽になりましたよ」

 正周も立ち上がり、案じるように上条を見やる。

「とはいえ、親しくしていた方を亡くして、上条さんもお辛いでしょう。確たる話が出来ずに申し訳ない。ただ……私の知人に、そうした事例にとても詳しい人がいるから話を聞いておきます。明日、警察に行くのは何時ですか」

「夕方です。ま、最終的には通りすがりに拾ったとか、狐に化かされたとでも言っておきますよ」

 ははは、と笑う。啓吾は正周を残して、上条を見送りに立つ。すると小鈴はそれについて来る。

「ねえ、私の話を聞いてくれるかしら。少しは役に立てると思うの」

 小鈴の声に、啓吾は小さく頷く。すると、途端に啓吾の肩にずん、と微かな重みが加わる。どうやら、上条からこちらに憑き直したらしい。

 玄関を出て門の近くまで来ると、上条はふと足を止めた。

「俺がおかしくなったって思うか」

「いいえ。僕も、若様に付き合っているうちに、霊だとか、そういうこともあるかもしれないと思っているので……それに小鈴さんは、いわゆる怪談なんかで祟る霊の類ではなくて、むしろ、上条さんの力になりたかったんだと」

 上条はふっと寂しげに笑った。

「分かってるよ。芸者のくせに気さくで、色気もねえ安居酒屋の酒を楽しそうに飲んでた。俺はあの人が、あんな風に死んでたことを知らなくて悔しいんだ。嘘であってくれと思ってた。この手柄を肴に飲みたかった。それが……虚しいんだ」

 そう言うと、軽く手を挙げて門を出て行った。小鈴はその背を見送りながら、目には涙が浮かんでいた。

「私も、祝杯を挙げたかったな」

 そして、気を取り直したように伸びをすると、啓吾の顔を覗き込む。

「さてと、私の話を聞いてくれるのかしら」

「そのつもりですよ」

 啓吾はそう言ってから、くるりと踵を返した瞬間、わ、と声を上げる。

「わ、若」

 啓吾のすぐ後ろに正周が立っていた。

「君は、誰と話しているのかな」

 面倒になりそうな気がして、啓吾はついと目を逸らす。しかし正周はその態度を見逃さない。

「君の隣に小鈴さんがいらっしゃるんだね。こんにちは、小鈴さん」

 相変わらずそういう勘は鋭いが、やはり姿は見えていないらしい。正周の視線は、啓吾の左側に向けられているが、小鈴は今、啓吾の少し後ろに立っている。

「若、ともかく一度、僕が話を聞くので」

「いいとも。私の部屋で話しなさい。クッキーも残っているし」

 小鈴が「まあ」と声を上げた。

「あれは美味しいわ。さっき少しだけ頂いたけど、残っていて勿体ないと思ったのよ」

「貴女が食べると味がなくなる……」

 啓吾がぼやくと、正周は目を輝かせる。

「何と、そういうことが起こるのか。私は味のなくなったのを食べてみたい。ささ、小鈴さん、私の部屋へ」

 またしても正周の好奇心を刺激したらしい。正周に先導されて、小鈴は歩いて行く。

 啓吾は渋々と二人の後をついて行った。

 

(つづく)