界隈外より

 

 

 夫が荷造りしているのを見ている。調査だとか、学会だとか、展示の監修だとか、とにかく出張の多い人である。出発前夜、いつも「あー荷造りめんどくさい」と散々渋った挙句、なぜか「俺の荷造りを見ていてほしい」と言うので、服や下着を並べて日数と照らし合わせている姿を、寝転がりながら見る。手伝いはしない。「撮影があるのにそのTシャツはさすがに子どもっぽいのではないか」などと、たまに口を出す。心配になるくらい、あっさり従う。

 夫のデスクに小さなアンモナイトがいくつかスタンバイしていたので、「それ持ってくの?」と聞いた。すると、「水族館にお邪魔してイカについて教えてもらうことになってるから、手土産にしようと思って」と言う。手土産の常識を覆してきた。相場は菓子折りだろう。私が笑うと、解せない顔をしている。夫にとっては決してウケ狙いなどではないのだ。実際、とても喜ばれたらしい。アンモナイトがとらやの羊羹と互角の働きをする界隈で、夫は生きている。

 

 夫が出張に行っている間、私は黙々と原稿を書いたり、映画を2本連続で観たり、新大久保でカンジャンケジャンを食べたりする。最近は化石にほとんど残らない内臓部分を見つけるため、CTスキャンでアンモを輪切りにすることにご執心の夫であるが、食べ物としてはカニ味噌やエビ味噌といった内臓系をあまり好まない。豚足や鶏の丸焼きなどの生き物そのまま系も怖がって食べない。この手のものが大好物の私としては、「フン、甘ったれめ」と勝ち誇った気持ちだ。ビニール手袋をつけて、醤油漬けにされた渡り蟹の身と内臓を甲羅ごと潰して絞り出し、今ごろ北海道の山奥でアンモナイトを掘り掘りしているであろう夫の無事を祈りながら食らい尽くす。

 10日ぶりに帰宅した夫は、山に大量発生した毛虫にやられて顔から足まで全身ブツブツになっており、あまり無事とは言えない姿だった。

 

 新種発見といえば、土から掘り起こし、「こっ、これは!」と取り上げる瞬間ばかり思い浮かんでしまうが、夫の様子を見ていると、その実態は案外地味なものである。新種を見つけることより、それを論文として発表することの方がメインであり、労力が要るようだ。だから、「あそこの博物館に保管されてるアレってたぶん新種だよな……」と研究者たちが気づいていながら誰も着手できず、長年そのままになっているアンモナイトが全国に多数存在するらしい。新種側が待たされるなんてことがあってよいのだろうか。夢があるんだかないんだかわからない話である。

「たくさんあるなら、どんどん論文書いていけばいいじゃん。なんでみんなやらないの?」

 素朴な疑問を投げかけると、夫は「うーん」と唸った。

「みんな忙しくて手が回らないんだろうね。新種の論文って大変なんだよ。新種を見つけました、だけじゃ駄目なの。いや、絶対に駄目ではないけど、論文としてちょっと物足りない。どんな生態をしていたか、とか、その新種が見つかったことで進化の過程がわかった、とか、そういうのを論じなきゃいけないわけ」

「なんだか世知辛いねえ。そいつがこの世に存在していた、それがわかっただけで十分素晴らしいことなんじゃないの」

 あたかも人情家という面でわざとらしく嘆いてみせたところ、「そう! 本来はそうあるべきなんだよ!」と、夫は興奮気味にジレンマを露わにした。素人の無責任発言にいちいち本気になるでない。

「それって、いざ論文書いてみたら、他の人も同じタイミングで書いてて被っちゃったりしないの?」

「意外と被らないもんよ。あの人が今あのアンモ研究してるらしいってわかったら手を引いたり、結構空気読んでるよ」

 研究者というと浮世離れしたイメージがあるが、意外としっかり社会をやっているようだ。

 

 去年、夫と二人で静岡に行った。ホテルの近くの居酒屋に入ると、「海つぼ」という初めて名前を聞く貝があった。私は初めて名前を聞く食べ物があると必ず注文する人間である。調べてみると、バイ貝のことをこの近辺で海つぼと呼ぶらしかった。歯応えがよく、美味しかった。

 食べ終わったあと、夫が「この貝の殻、持って帰りたい」と言い出した。模様が可愛いのだと言う。不規則な水玉模様の殻をおしぼりで拭き、丁寧にティッシュに包んだ。ホタルイカの沖漬けも食べた。すじなどを処理しないまま漬けられていたので、夫は「立派なくちばしだ!」と喜び、それもティッシュに包んだ。

 会計の際、店主と軽く雑談していると、そこそこの酔っぱらいとなっていた夫が、「これ、持って帰るんです!」と、ティッシュを開いて海つぼの殻とイカのくちばしを見せた。突然そんなことを言われても何が何やらであろうと察した私がフォローとして、「彼はイカとかタコとか、そういうやつの研究者なんです」と、実際はアンモナイトなのだが、わかりやすいかと思ってそのように伝えた。しかし、店主は酔っぱらいの悪ノリと理解したようで、「ほお、じゃあ前世はイカですね!」などと、まるで取り合わない返答をした。感じよく送り出されたあと、歩きながら二人で腹を抱えた。夫の興味関心も、界隈の外では謎に生ゴミを持ち帰る酔っ払いの奇行でしかない。

 

 ここ数年、私の頭にちらほら白髪が現れるようになった。まだ目立ちはしないが、髪をめくるとぴょこんと一本出てきたりするので、見つけ次第ぶち抜いている。「白髪があったら教えてよ」と夫に言うが、指摘してくれたことはない。後頭部は夫の担当だと言っているのに、まるで見ていない。一億年前に化石化したアンモナイトの観察に夢中なのは結構だが、現在進行形の妻の老化も切実である。

 ソファでくつろいでいると、斜め後ろから、ちょうど夫のスマホの画面が見えた。インスタのストーリーを、次、次、とスライドして、写真を切り替えている。突如、アンモナイトの写真に添えられた「神アンモ」というゴシック体が目に飛び込んできたので、思わず噴き出した。

「いやちょっと、神アンモって何」

「ふふ、これは凄いよ。欠けもないし、なかなかこういうの採れない。まさに神アンモだよ」

「神コスパ」だという居酒屋の紹介だったり、「神コスメ」なんて触れ込みでメイク動画が流れてきたりすることはあるが、「神アンモ」は初めて見た。

 インスタに誰かが掘り起こした神アンモが出てくる界隈で、夫は今日も生きている。二人でひとしきり笑ったあと、スマホに視線を戻す夫。その左耳の後ろに白髪が一本あることを、私は知っている。

 

(了)