さらば、関根
振り返れば、意味ありげなことが続いた週だった。
例えば、私はそのころ靴屋で働いていたのだが、「お葬式で履ける靴ありますか?」という客が次々来店し、黒のパンプスが一気に3足も売れた。一日一足でも売れるのが珍しい商品だったのであまり在庫がなく、最後の客に至ってはサイズが合わないものを無理やり買っていった。
よく聴いているラジオ「伊集院光 深夜の馬鹿力」は、伊集院氏と師弟関係にあった三遊亭円楽師匠が亡くなった直後の放送だった。その中で、YO-KINGの『Hey! みんな元気かい?』が流れたので、あまりの懐かしさに聴き入った。中学生の頃、私がMDに録音していたのはYO-KINGが楽曲提供したKinKi Kidsバージョンだった。「Hey!」とか陽気に言ってるわりにどこか寂しげで、友達へ向けた曲なのになぜか距離を感じる。その不思議な雰囲気に惹かれて一時期よく聴いていたが、真意は計りかねる曲、という印象があった。それが時を超え、30歳を過ぎた今、YO-KINGの淡々とした歌声で腑に落ちた。あの頃の私にわかるはずがない。あの頃の私は、友達と毎日会えることが当たり前だったのだから。
曲が終わると、伊集院氏は選曲したディレクターに「元気じゃねえっつってんだろ!」と元気よく怒鳴った。ふっと笑った勢いで潤んでいた目から涙が少し飛び出た。
関根が起き上がれなくなったのは、その週末のことだった。
老うさぎの関根は足腰が弱り、寝そべる時間が増えてはいたものの、寝たり起きたりは問題なくできていた。それが夜中、座っている姿勢を保てずごろんと倒れ、脚をバタバタさせ、数回に一回なんとか起き上がる、という状態になった。抱き上げてみると、軽い。確かにここ最近食欲が落ちていたが、ある程度は食べていたし、そういうことは今までも度々あったので、あまり深刻に考えていなかった。朝になるともはや自力ではまったく起き上がれなくなり、ずっと横になっていた。顔つきもぼんやりして、好物のおやつを口元に近づけても食べない。
夫は仕事だったので、一人で病院に連れて行き、いつもの先生に見てもらった。この先生は優しい上に腕毛がめちゃくちゃ濃く、そのふさふさによって動物たちから親近感を持たれているに違いないと私は勝手に思っていた。関根は歳の割に食欲旺盛だったので、先生は体重を計るたびに「減って……ない⁉」と数値を二度見し、「頑張ってるねえ!」と背中をぽんぽん撫でてくれた。関根はなんのこっちゃという顔をしていたが、私はそれが嬉しかった。
レントゲンを撮った結果、肺炎という診断だった。注射を打ってもらい、薬をもらった。野菜ジュースで栄養補給するように言われた。
「無理に飲ませると誤嚥する恐れがあるのでね、ぬるま湯を少し口に入れて、モグモグできるか確かめてから薬と野菜ジュースを与えてあげてください」
「あの、モグモグしてくれなかった場合はどうしたらいいんでしょうか」
私は先生の指示をメモしながら尋ねた。すると、先生は深い瞬きをゆっくり繰り返して言った。
「うさちゃんは本来、体温が38℃あるんですね。それが33℃に低下しています。これはもう、人間でいうと危篤状態です。この2、3日ということが多いにあり得る、ということです」
もはや、どうしたらいいんでしょうか、などという段階ではなく、覚悟をしておくべき、ということらしかった。昨日の夜、起き上がれなくなった関根を見て、私はすでに覚悟していた。しかしそれは「関根もいよいよマジ介護だな」という先を見据えた覚悟であって、2、3日なんていうあまりにも短い残り時間への覚悟ではなかった。
職場に電話をかけた。関根を飼いはじめてからずっと、関根が理由のときは仮病を使って仕事を休んでいた。ペットのことで休むなんて、と思われるのを恐れていたからだ。でも、今回ばかりは違った。他人にどう思われようが私にとってこれはとても重要なことで、圧倒的に正しいことなのだ、という自信のような決意のようなものが自然と湧きあがってきた。
「うさぎが危篤なので休みます」
言ってやった。それは店長にではなく、関根と過ごしてきた日々への表明だった。
先生はああ言っていたが、なんだかんだで復活するのではないかと思った。関根はこれまでも何度か病気をして、もうダメかと思うところから生還している。今回もきっとそうなる。不死身のうさぎだとか何とか言って、夫と一緒に復活した関根を祭り上げる未来が見える。
関根の様子を見守りながら、同時に、テレビを観ていた。いつも通り過ごすことで何かを引き寄せたくて、それをテレビに託した。私はテレビを見る。だって、関根はきっと復活するから。覚悟なんてするものか。
その日は、そのまま関根のケージの前で眠った。
早朝。水を飲ませようとすると、身を乗り出して自らシリンジを咥えるくらい、関根は元気になっていた。水に溶いた薬と、野菜ジュースを与えるとごくごく飲んだ。うさぎに野菜ジュースは甘すぎるので、今まで与えたことは一度もなかった。今回は緊急の栄養補給で特別というわけなのだが、「こんなにうまいものがこの世にあったのか」とでも言うようにガツガツ飲むので思わずにやけた。うさぎにとって野菜ジュースは禁断の味らしい。おやつも少し食べた。目がぱっちり開いているし、鼻もひくひくさせている。
夫が仕事帰りに追加の野菜ジュースと好物のチンゲンサイを買ってきた。そして、「ちょっとマシになったの〜」と関根の顔を覗き込む。昨日と違って、目に輝きがあった。これは絶対に復活する。夫と確信し合った。
しかし、関根はそのあと、また何も飲まなくなった。
夜、音が聞こえた。歯を鳴らしているような、喉が鳴っているような音。それが関根の異変だと認めるのに、数秒かかった。慌てて寝室で仮眠していた夫を呼ぶと、飛び起きてきた。私が抱きあげて、夫が抱いて、また私が抱いた。関根はあくびをするように何度か大きく口を開けて、そして、動かなくなった。私の腕の中で、関根は10年10ヵ月の生涯を終えた。
牧草なんかを収納していたバスケットにタオルを敷いて、関根を寝かせた。花の代わりに供えたのは、夫がさっき買ってきたチンゲンサイである。
「いや、長寿長寿。これだけ生きたら十分だろ」
笑いながらぼたぼた泣く。かと思えば、冷静に火葬について調べたり、関根が元気だった頃の動画を見て、二人でまた泣いたりした。こんな日でも、一日は終わる。寝る前にコンタクトレンズをこすり洗いしながら、関根が死んだ日を終わらせようとしている自分を不思議に思った。関根をベッドの横に置いて、隣で眠った。
翌日、仕事に行く夫を見送り、私と関根だけで日中過ごした。
前の月から、関根視点で書くエッセイの連載がウェブサイトで始まったばかりだった。
「わたくし、連載2回目で死んでしまいました」
なんつー話だよ、と半笑いで書き進めてみると案外悪くない気がして、そのまま一気に書き上げた。私は記憶力に自信がない。たぶん、いろんなことを忘れてしまうだろう。だから、関根の生き様も、死に様も、できることならすべて残したかった。文章に書いたあとは、写真を撮った。いろんな角度から、いろんな距離から撮った。それでもまだ足りない気がして、絵も描いた。「関根の鼻ってどんなんだっけ?」といつかわからなくなるのが怖かった。手触りは自分で覚えておくしかないから、たくさん触っておいた。でも、もうどんなに触っても、「きったね、きったね」と人をバイ菌扱いして体を舐め回す関根はいない。どんなに詳細に記録しても、それは関根と私のすべてではない。
その翌日、関根を車に乗せて、札幌の葬儀社へ向かった。ちゃんと喪服も着た。飼い主として、関根の葬儀を全身全霊でやり遂げる所存だった。
札幌までは車で1時間。出発したときは晴れていたのに、高速に乗ってから急に土砂降りになった。「関根がごねてるんじゃないの」と言って、夫と笑った。でも実は出かける前、朝食を食べながら「行きたくない」と泣いてごねたのは、私なのであった。
いつも食べていた牧草と、破壊して遊んでいた藁ボール、生きていたら飛びついて食べるであろう山盛りのドライフルーツと、チンゲンサイ2株。それらと一緒に、関根は旅立った。葬儀社を出ると、またすっかり晴れていた。
関根を見送りながら、夫がいてよかったと思った。もし夫がいなかったら、私は道ゆく人に誰かれ構わず縋りついて、「一緒に泣いてくれませんか」と頼み込んでいたかもしれない。危なかった。夫がいてよかった。夫と抱き合って泣けてよかった。同じ悲しみを持つ人がこれからもそばにいて、その人に触れるということは、関根に触れることと、限りなく近いような気がした。
うさぎを飼っている人たちの間では、うさぎが亡くなったことを「月に帰った」なんて言ったりする。でも、関根は月に帰らない。なぜなら、私が餅嫌いだからである。わざわざ飼い主の嫌いな餅をつくために、一旦宇宙空間に出てまで月に帰るような真似はしないだろう。関根はいつも素っ気なかったが、きっとそれくらいの空気は読む。だから、関根はこれからもうちにいる。私と夫のそばで、好き勝手に過ごしている。そういうことにさせてもらう。
今までありがとう。そして、さらば、関根。
(つづく)