不都合な記憶をなかったことにする天才

 

 

「不都合な記憶をなかったことにする天才」とは、大学時代の友人による私への評である。学業を疎かにし、恋愛を幾度も破綻させ、何に打ち込むでもない日々を過ごしながら、それ相応の焦燥も自己嫌悪もなく、悟ったような面で怠けている。そんな私をどうにか肯定しようとしてくれた友人の愛が生んだこの天才呼ばわりを、私はまんざらでもない顔で受け取った。

 私も人の子なので、悩んだり落ち込んだりすることは多々ある。しかし、それをトカゲの尻尾さながら断ち切り、日々の思考から排除するスピードと切れ味が、我ながら尋常ではない。居合が速すぎて、他人からは落ち込んでいるのが見えないのかもしれない。

 私は友人によく言っていた。

「だって、大抵の後悔や心配事は自分さえ忘れてしまえばなかったことになるじゃん」

 

 一体、いつからこんな思考になったのだろう。こう見えて、本来は割と考えすぎる質だと思う。過去のしくじりに囚われたり、まだ見ぬ未来を案じたりして、胃がずんと重くなる感覚は常に持ち合わせてはいる。

 一方で、幼少期から心を快適にするための工夫は惜しまなかった。例えば、5時間目の授業の提出物を家に忘れてきたとする。授業までの間に何か策を講じることができるのなら試行錯誤する意義もあるが、もはや万事休す、叱られるのが確定しているのであれば、そのことでずっと頭をいっぱいにして過ごしたところで精神が削られるだけで得るものがない。提出物の件は一旦なかったことにして、午前の授業を受け、給食をおいしくいただき、あとは叱られるときに叱られるのみ。これで憂鬱な時間を最小限にできる、という論法である。

 

 なかったことにする作戦に味を占めた私は、悩んでも仕方がないことはどんどんなかったことにして、平穏を守るようになった。そもそもの記憶力が弱いのか何なのか、大抵のことは忘れようと思えばそのまますっかり忘れることができてしまう。とはいえ、何度切り捨ててもゾンビのように蘇る記憶もある。中学の時、校外学習の宿泊先で髪を乾かしていたら、嫌いな奴から「ドライヤーの風は外側じゃなくて内側から当てるんだよ」としたり顔で言われた。ドライヤーを使うたび、当時と同じ熱量で腹が立つ。内側から風を当て、髪が乾くころにはまた忘れている。

 

 あまりに忘れるので、ふと恐ろしくなることがある。不都合な記憶を切り落とす際、その周辺にあった不都合ではない記憶までをも一緒くたに抉り取っているような気がする。だから、昔からよく日記をつけていた。誰にも見せることのない日記である。矛盾しているようだが、本当は楽しかったことも悲しかったことも恥ずかしかったこともすべて覚えておきたいのだ。都合のいいことしか覚えていないなんて、人としてあまりにも深みがない。でもすべてを保存しておくと動作に支障が出るから、日記という外付けハードディスクにバックアップする。が、不都合なことを思い出すので読み返したくはない。一生読み返さないのだとしたら、もう忘れたも同然かもしれない。

 

 先日、居酒屋のカウンターで隣になった人と話が盛り上がり、LINEを交換した。楽しい夜だったはずなのに、翌朝、目が覚めた私は額を枕にドリルした。調子に乗って話しすぎた気がする。私は初対面の人と話すのが好きな方だが、初動を誤ることが多い。見ず知らずの人に対して、あんなに自分のことをべらべら話してしまった。そんな自分が嫌だ。恥ずかしい。たまらず、相手のLINEをブロックして削除した。証拠隠滅である。これで私としてはなかったことにできる。酒場での出会いは連絡先を交換したところでどうせ一期一会になることが多い、とはいえ、万が一、相手が私にLINEを送ってくれていたら、それは本当に申し訳ない。せめてもの気持ちで、「あなたとの楽しい酒で、私は無事に成仏することができました。ありがとう、さようなら」と、酒場の地縛霊だったことにして念を送ってみたが、そんなものは届くわけがないので、相手からすれば普通に生身の無礼者である。

 

 切り捨ててきた記憶がどこかで暴れ回っているのではないか、という妄想に駆られることがある。当たり前だが、私は自分の記憶しかなかったことにできない。私のことなんてとっくに忘れているだろう、という前向きな諦念の一方で、私が忘れてしまった都合の悪い私が、今も誰かに笑われ、誰かを傷つけているのではないかと、思い浮かべては悶絶する。でも、もし私の知らない私が他人の中で無数に、多彩に生きているのだとしたら、私の人生は、私が思っているよりずっと豊かなのかもしれない。他人を外付けハードディスクにして、自分だけ身軽に生きている。なんて狡い人間だろう。

 

 なかったことにして済ませようとするこの性質は、はっきり言ってエッセイと相性が悪い。書いて誰かに読ませてしまった時点で、なかったことにはできなくなるからだ。もちろん、エッセイというのは事実を全て書く必要はないし、自分にとって不都合なことは書かなくてもよい。しかし、今は不都合でないことが、いつか不都合に転じる可能性は十分あり得るし、不都合なのになぜか書かずにはいられないこともある。

 あの居酒屋で会った人に申し訳なさを感じながらも、私は今日も別のカウンターに座っている。と書いてしまったら、それはもうなかったことにはできない。喜んでLINEを交換しておきながら即削除する非道な人間であるという事実が、ここに残ってしまった。それでも私はきっとまたお手軽に成仏して、何食わぬ顔で生き直すのだろう。だから、いつも薄っぺらいことしか書けない。薄っぺらいことしか書けないと嘆いていることが、さらに薄っぺらくて救いようがない。

 という苦悩もまたなかったことにして、今日も今日とて食欲は漲る。夜は爆睡。ドライヤーを使うたび腹は立つが、それも書かずにはいられなかったことだ。本当は忘れたいことも、絶対に忘れたくないことも、書きたいように書いて残していく。そうすることで、これからも安心して薄っぺらく生きる。だって私は、不都合な記憶をなかったことにする天才なのだから。

 

(つづく)