執筆業など、フリーランスで活動する人を多くフォローしているので、毎年2月になるとSNSのタイムラインが確定申告に対する阿鼻叫喚の声で埋め尽くされる。

「確定申告嫌すぎる」

「確定申告爆発しろ」

「確定申告のことを考えると体調が悪い」

「確定申告にやられている皆さん、うちの猫でも見て落ち着いてください」

 もはや風物詩と化したその騒ぎを指先で上へ上へと追いやっていると、憂鬱な気分が押し寄せる。といっても、確定申告が嫌だからではない。私は事務作業が得意な方である。

 書類を作るとか、公的な手続きとか、その手のことをあまり苦痛に感じない。確定申告についても、面倒は面倒だし、人より知識があるわけでもないが、やれば終わるのだからさっさと終わらせればいい、という比較的前向きな精神で毎年取り組んでいる。着手するまでの腰の重さでいうと、執筆の方がよっぽど重い。

 恥ずかしい話、「型破りな芸術肌の人は事務作業が苦手」というステレオタイプに囚われている。確定申告を極端に嫌がっている人を見ると、難なくこなせる自分が型にはまったつまらない人間のように思えて憂鬱になるのだ。海外旅行や洒落た食事など、他人のキラキラしたSNSと自分の冴えない日常を比べて落ち込む、みたいな話はよくあるが、私にとってのそれが、確定申告に絶望する人々なのである。確定申告が嫌だと嘆く投稿の向こう側に、くしゃくしゃに丸めた原稿用紙の山に埋もれながら一心不乱に書き殴る小説家や、雑多なアトリエで寝食を忘れ一日中キャンバスに抽象画を描き続ける画家の姿が見える。

 今年は例年以上の早さで確定申告を終わらせたので、劣等感に拍車がかかった。正しく納税するための手続きを抵抗なくこなす私は、公権力に抗う意思を放棄した、創造性とは無縁の、自ら望んで首輪をつける国家の犬なのだろうか。考えすぎなのはわかっている。猫でも見て落ち着いた方が良い。

 

 大学を卒業してから、10年近く経理の仕事をしていた。4人しかいない部署の中で、経理担当は私一人だった。簿記の級は持っていない。事務職で採用になり、ちょうど前任の経理担当者が退職するところだったので、その後釜を任された。

 小学生の時点で算数につまずき公文式をリタイアした人間なので、自分の通帳では見たことがない桁の数字がずらずら並ぶ光景に初めは恐れ慄いたものである。しかし次第に、経理における数字とは基本、「合う」「合わない」の2種類なのだと心得た。電卓とエクセルさえあれば、数字はただの記号と何ら変わりない。

 その感覚に、思い当たるものがあった。子どもの頃、スーパーファミコンの中古ソフトを親戚からいくつか譲り受け、その中にあった「炎の闘球児ドッジ弾平」という漫画原作のドッジボールのゲームで弟たちとよく遊んでいた。ストーリーモードを中断するとパスワードが表示されるのだが、そのパスワードというのが数多の登場キャラクターからランダムに選ばれた5人の顔面であった。私と弟たちは原作を読んだことがなく、キャラの名前を全く知らなかったので、パスワードが出るたびに5人の顔を必死でチラシの裏に描き写すことでどうにかゲームを進めていた。愛着のないキャラクターの顔を記号として捉え記録するあの作業は、数字が記号に思えるあの感じに似ていた。絵が雑でパスワードが「合わない」と、ストーリーに戻れないところも含めて。

 

 経理には「継続性の原則」というものがあり、会計処理の方法がずっと変わらないことが求められる。前日と同じように仕分けをして、前月と同じように請求書を処理し、前年と同じように決算書を作る。一人で担当していたから、誰かと足並みを揃える必要も、協力し合う場面もほとんどない。「合う」「合わない」だけに翻弄されながら、自分で作ったスケジュールを黙々とこなす日々。それを退屈だとは思わなかった。同じことの繰り返しほど、気楽なことはない。好きなことより得意なことを仕事にしたほうが良いという説があるが、そういう意味では、私にとって経理は天職だったのかもしれない。

 

 勤めている間に、一度だけ税務調査が入った。税務署から調査官がやってきて、数年分の経理書類をチェックするのである。修正が必要な箇所があれば追加徴収が課されるので、部署内は多少張り詰めた雰囲気があった。変化の乏しい経理の仕事の中では、ここ一番のビッグイベントである。

 地下の書庫で保管していた数年分のファイルをダンボールに詰め、5階の会議室まで運び、年度ごとに机に並べた。午前の日が差し込んで、私がコツコツと数年にわたって作ってきたファイルの山が文字通り日の目を見た。上司はピリピリしていたが、私はその光景にしみじみと感動した。

 数日にわたる調査は指摘事項もなく無事に終わり、調査官が私に言った。

「とてもよく整理されていますね。お一人で担当されているとは思えません」

 社内で完結する仕事ばかりしてきたので、外部の人から褒めてもらうのは初めてに近い経験だった。小躍りしそうなほど嬉しいのを堪えて、「ありがとうございます」と謙虚な職人のような面で頭を下げた。

 後日、税務署関係の仕事をしている友人にそのことを話したら、友人は悪い顔をして言った。

「調査官ってわざと褒めるんだよね。気持ちよくさせて、隠してることうっかり喋らせるの。そういう仕事なんだよ」

「なるほど、そういうことか」笑って受け流しながら、喉の奥がぎゅっと締まったのがわかった。調査官が褒めるとか滅多にないことだよ、凄いよ、なんて反応を期待していた私がバカだった、と落ち込みかけたが、私は、私がバカだったで済ませるほど物分かりの良い人間ではない。もし書類が滅茶苦茶だったら、さすがにあんな風には褒めないだろう。あの調査官の目は嘘をついている人間の目ではなかった。彼は人を陥れることのできない不器用な人間なのだ。調査官としての使命と良心の狭間で苦悩した末、きっと今頃、田舎に戻ってのんびり釣りでもしているに違いない。私の名誉のため、そういうことにした。

 

 そのあと接客業を挟んで、今また事務系の仕事をしている。パソコンで黙々とリストを作ることもあれば、一日中、書類を三つ折りにして封筒に入れる作業に明け暮れることもある。経理より一層、オートマチックな仕事だ。ライン工場を設計するように、最も効率的な書類の並べ方や手順を探り、最適な動きを完成させたあとは体に仕事を任せるだけで、頭はあらゆる雑念から解放される。その境地は、空調の行き届いたオフィスで行われるお手軽な滝行とでも言おうか。無心で続けてハッとした時には、目の前に大量の封筒がうずたかく重なっている。私はやはり同じことを延々とやるのが得意だ。内職で天下を取れるかもしれない。

 

 しかし、そんな能力は執筆にはまるで活きない。今日もやらねばならない原稿になかなか着手できず、ソファの上でひっくり返って、最近はまっている麻辣湯の店を東京の隅々まで検索しながら、午後4時半のチャイムを聞いて絶望的な気持ちになっている。

「朝起きられないからライターになりました」という人がいる。「書いていなければきっと死んでいました」という人がいる。私はこんな風に夕方までひっくり返って、「作家の才能がないのだろうか」と落ち込んでいる。人には人の地獄があるというが、これが私の地獄だとしたら、いくらなんでも生ぬるい。

 締切りに追われて徹夜すると、わかりやすく脳の働きが低下し、何も文章が思い浮かばなくなった挙句、体調を崩して寝込む。私はめちゃくちゃな生活を送る才能がない。丸めた原稿用紙が散らばっていない方が集中できるし、栄養があるものを3食しっかり食べないと調子が悪いし、昼夜は逆転しない方がいい。確定申告だって、どう考えても得意に越したことはない。それでも、型破りな芸術肌への幻想はなかなか捨てきれない。

 私にしか破れない型を、亡霊のように探し回る人生だ。

 

(つづく)