正直者のえびサラダとココスのカリカリポテト

 

 

 随分前の話になる。一人で買い物をしていたとある日曜の昼下がり、腹を空かせた私はファッションビルの最上階にあるダイニングカフェに入った。席に案内され、木製のクリップボードに挟まれた一枚のメニューの中から、カルボナーラにすぐさま照準を絞る。とりあえず空腹を満たせれば、とだけ考えていた。しかし、メニューを眺めるうち、前菜の中に「えびとほうれん草のサラダ」を見つけたことで風向きが変わった。ランチセットでもないのにわざわざサラダを単品注文するのは私にとって少々贅沢な部類に入るが、何を隠そう、えびは私の大好物である。せっかく洒落た店に入ったのだ。毒を食らわば皿までじゃないが、パスタ食らわばサラダまで、サラダ食らわば白ワインまで、というわけで、休日の昼を楽しむ方向にシフトチェンジしてそれらを注文、心ときめかせながら店内を眺めて待つこと数分。

 まずは白ワイン、そのあとすぐに、えびとほうれん草のサラダが運ばれてきた。しかし、様子がおかしい。えびの姿がない。一匹たりともない。生のほうれん草だけが真夜中の原っぱの如く、皿の上で静かに重なり合っている。運ばれてきた時、店員は確かに言った。「お待たせいたしました。えびとほうれん草のサラダでございます」と。

 えびをのせ忘れたのだろう。普通に考えればそうなる。すぐに指摘すればいいことだが、普段は図々しいくせにお店にクレームをつけることだけどうにも苦手な私は、一旦落ち着こうと白ワインを一口飲んだ。指摘するのであれば、実は自分に否があったなんてことは万が一にも避けたい。自分の認識に誤りがないか、今一度考えてから臨みたいところだ。

 

 不思議だったのは、「えびとほうれん草のサラダでございます」と言いながら置いたサラダにえびがのっていなかったら、さすがに店員も気づくのではないか、という点である。平然と置いたということは、これは店員にとって違和感のないサラダであると考えられる。つまり、えびがのっていないタイプの「ほうれん草のサラダ」が存在し、私は間違えてそちらを注文してしまった可能性はないだろうか。というわけで、メニューを再度確認してみるも、そのようなサラダは見当たらない。となると、これはやはり「えびとほうれん草のサラダ」として提供されたもので間違いないらしい。

 メニューに写真は載っていないので、「えびとほうれん草のサラダ」がどのようなものなのか、私は知らない。それなのにこの店の「えびとほうれん草のサラダ」が私の思う「えびとほうれん草のサラダ」と同じ姿形をしていると決めつけるのは些か早計ではなかろうか。私はほうれん草をめくってみるべきだと考えた。えびはサラダの最前面に配置されるはずという考えは、えび好きの私によるえび贔屓の思い込みかもしれない。フォークでほうれん草をめくってみる。皿の底があるだけだ。

 最後の可能性として、私はほうれん草にかかっているドレッシングに注目した。もしかすると、このドレッシングがえび味である可能性はないだろうか。すり潰したえびがふんだんに使用され、口に入れた瞬間えびの風味が広がる、そんな「えびとほうれん草のサラダ」もあるかもしれない。意を決して、一口食べてみる。普通のイタリアンドレッシングのように思える。もう一口、二口食べる。やはりえびの風味はない。

 

 そうこうしているうちに、カルボナーラが運ばれてきた。

「以上でご注文はお揃いでしょうか?」

 言うならもうここしかないというタイミングだが、私はそれを易々と逃した。すでに数口食べてしまったものをどうにかしろというのはいかがなものか、という新たな迷いが生まれてしまったからだ。

 去っていく店員の後ろ姿を名残惜しく見つめながら、私の脳内にある考えが浮かんだ。もしかすると、これは「正直者にしか見えないえび」なのではないか。いつも見栄を張ることばかり考えている私のような人間には見ることができない、透明のえび。そうだ、きっとそうに違いない。

 

 数週間後、私は同じ店をもう一度訪れた。どうしても、答えが知りたかったのだ。

 

「お待たせいたしました。えびとほうれん草のサラダでございます」

 

 店員が皿をテーブルに置く。ほうれん草の上に鎮座した大きめのえびが5匹、燦然と輝いていた。

 

 

 あれから幾年もの月日が流れた。年齢を重ねたこともあり、以前より度胸のついてきた今日この頃ではあるが、先日、また私を悩ませる事態が巻き起こった。

 

 私は夫と共にココスを訪れた。それぞれのメイン料理、そして我々の大好物であるカリカリポテトを注文した。カリカリポテトとは、その名の通り、とてもカリカリに揚げられたポテトである。カリカリポテトにおけるポテトの役割は、カリカリの衣のための台座にすぎない。極細のポテトにもはやホクホクなどという芋らしい食感は皆無。だが、それがいい。フライドポテトカリカリ至上主義者である我々にとって、ココスのカリカリポテトはまさに、理想のフライドポテトである。

 しかしこの日、我々のもとに運ばれてきたカリカリポテトはいつもと様子が違っていた。全体の7割くらいが、カリカリとは言い難い、へにょへにょポテトだったのである。

「これは……替えてもらおう」

 夫はすぐさま言ったが、私が「いや……」と止めた。確かに、我々は今まで何度もココスのカリカリポテトを食べており、いつもと仕上がりが異なるのは間違いないという自信はある。しかし悩ましいのは、その全てがへにょへにょポテトなわけではなく、カリカリポテトも多少は混じっている点だ。それに、へにょへにょポテトだとしても、まったく食べられないというわけではなく、一応、フライドポテトの体は成している。我々はカリカリポテトが好きすぎるあまり、カリカリ判定が厳しくなってはいないだろうか。いつの間にか、求めるカリカリのレベルが高くなってはいないだろうか。指摘しようものなら、「そんなにカリカリを食べたいなら、ファミレスじゃなくて高級店にいけよな」と裏で嘲笑されはしないだろうか。高級店のカリカリってなんだろうか。

 思い詰めた私の脳内には、「正直者にしかカリカリしないポテト」という概念が浮かびはじめていた。しかし、夫は折れない。

「だって、商品名カリカリポテトだよ。カリカリポテトなのに、へにょへにょなんだよ。それはさ、もはや別物じゃん」

「そうかもしれないけど」

「俺、ちょっと耐えられない。だって、カリカリポテトを食べにきたんだよ。それなのに、あんまりだよ。悲しすぎるよ。カリカリポテトが食べたいよ」

 夫の悲痛な叫びに胸を痛めた。私だって、本当はカリカリポテトが食べたい。ホクホクとした芋の持ち味を最大限台無しにした、あのカリカリポテトが食べたい。

「大丈夫。嫌な感じにならないように言うから、俺に任せて」

 凛々しい表情で私を見つめる夫。少女漫画なら「ドキッ!」となりそうな余韻があった。しかし、我々が求めているのは「ドキッ!」ではなく「カリッ!」である。

 夫が通りかかった店員を呼び止める。

「すみません、ポテトなんですけど、ちゃんと揚がってない部分があるみたいで」

「そうでしたか、申し訳ございません。作り直しますね」

 店員は快い受け答えで、皿を持って裏に下がっていった。

「ほー、やるなあ!」

 私は感心した。カリカリでいっぱいだった私の脳内には、「カリカリポテトがへにょへにょなんですけど」という低レベルな文言しか思い浮かんでいなかった。しかし、なるほど、ちゃんと揚がっていないという言い方であれば、こちらの正当性が増す。確かに、ぬるい油をくぐらせただけのような、べちゃっとした白いポテトも一部混ざっていた。このような「うまいこと言って切り抜ける」役回りは普段なら私が担うところなのだが、絶対にカリカリポテトが食べたいという信念が、夫の底力を引き出したようだ。カリカリポテトは時に人を強くする。

 しばらくすると、新しいポテトが運ばれてきた。もう、見ただけでわかる。正真正銘のカリカリポテトだ。一口食べて、「これこれー!」と二人で視線を合わせる。夫のおかげで、正直者のえびサラダの悲劇を繰り返さずに済んだ。

 先ほどの店員がちょっと心配そうな顔でやってきて、「大丈夫そうですか?」と尋ねた。

「はい! とってもカリカリです!」

 作り直してくれた店の人に対するせめてもの礼節と思い、120%の笑顔と声量で元気に答えた。カリカリ宣言は思いのほか店内に響き渡り、少し恥ずかしかった。

 

(つづく)