寿司を習いに行ったことがある。29歳の頃だ。三十路を目前にして、何かやらなければという焦りがあった。日頃の行動力が乏しいばかりに、こういう節目で何かしなければという強迫観念が人一倍強い。
「20代でやるべき20のこと」というようなネット記事を読んでみたりもしたが、旅行も語学学習も、どうもしっくりこない。考えれば考えるほど、20代のうちでなければならないことなど何もないような気がしてくる。消費期限が29日の豚肉が、30日の0時0分00秒に腐るわけがないように、30歳になった途端、何かがごっそり失われるなんてことはなかろう。30歳になった途端、タピオカ屋にバリアが張られて入り口で弾き飛ばされるなんてこともなかろう(こういう例えでタピオカ屋しか出てこないのは、知らず知らずのうちに失っているものがありそうではある)。

 半ばヤケに近い考えに至った私は、この機会に寿司を握ろうと決めた。寿司が好きだからである。思い返せば、高校時代に初めてアルバイトをしたのも回転寿司だった。その店はいつも人手が足りなくて、私は高熱が出ても休むことなく意識朦朧としながら働いた。あれを寿司への情熱と呼ばずして何と呼ぶかというとブラックバイトなんて言葉が今ならある。

 寿司教室は市内にある老舗寿司店で行われた。カウンター席といくつかのテーブル席がある店内。キッチンスペースに入ると流し台が組み込まれた大きな作業台があって、その上を一周するように程よく使い込まれたまな板がずらっと並んでいた。少し身を乗り出せば、カウンター席と向かい合う。自分は今、回らない寿司の「こっち側」にいる。そう思うと俄然興奮してきた。クッキングスタジオなどで行われる教室もあったが、ロケーションにこだわって正解である。

 しかし、予想外の事態も同時発生していた。
 作業台の周りに集まっている生徒たちが、おじん。見渡す限り、おじん。10人の生徒のうち、私以外は全員60代から70代と思しきおじんであった。20代のうちにやるべきことという観点で選んだ教室の景色としては、あまりにも白髪交じりである。一体どういうことなのか。

 おじんたちの会話を小耳に挟んだところ、どうやら釣りの話題である。それで合点がいった。釣りを趣味としているおじんたちが、釣った魚で寿司を握りたいと集まっているのだ。なるほど、寿司は料理教室のジャンルと捉えていたが、釣りの総決算とも言える。釣って捌いて握る。その一連を会得することで、彼らは釣り人として完全体になろうとしているわけだ。実に上昇志向なおじんたちである。

 アウェイな状況だが、場違いなところに迷い込んでも平然と存在し続けるのは私の特技のひとつである。場違いであればあるほど、あえてそこにいてやろうという反骨心が湧き、「どうだ、場違いだろう?」と開き直った顔をしてその場に留まる。ある種の筋トレのようなもので、私はこれを繰り返すことで面の皮を厚くしてきた自負がある。周りに余計な気を遣わせている可能性があるので偉そうに言う話ではない。
 まあとにかく、私もおじんたちも寿司を握りたいという熱き思いを抱いてここに集いし同志である。それは紛れも無い事実なのだ。年齢などさしたる問題ではない。さあ、同志たちよ、共に学ぼうではないか。
 私は心の中でおじんたちと勝手に結束し、意気込みを高めた。

 この店の大将でもある講師の先生は、おじんたちと同年代と見受けられた。朗らかな雰囲気ではあるが、「皆さんどうぞ楽しんで」というよりは、「私が教えるからにはそれなりのものを握れるようになってもらいます」というプロとしての気概を言葉の節々に感じる人物であった。私は確信した。この先生についていけば間違いない。

 シャリの代わりにおからを使う教室も多いらしいが、先生は本物の酢飯で練習しなければ感覚が掴めないと考えているらしく、それぞれに丼一杯ほどの酢飯が配られた。この酢飯を使って、握っては崩し、握っては崩し、と繰り返し練習するのである。食べ物で遊ぶような罪悪感があったが、それが遊びとなるか学びとなるかは我々の取り組み次第である。

 シャリの適量を覚える練習から始まった。まずは、酢を混ぜた水で手の平を濡らす。手に酢飯が付かないようにするためであるが、水気が多過ぎても酢飯がバラバラになってしまうので加減が必要だ。次に、右手でシャリを適量掴み取り、俵型に軽く丸める。この適量というのが思った以上に難しい。そして、ぎゅっと固めてもいけない。空気を含ませてふんわり握るので、我々が想像するよりシャリの実際の量は少ないものらしい。
 掴んで丸めたものをいくつかまな板に置いて、それを先生に見てもらうのだが、「量が多過ぎる!」と全員が指導を受けた。難しかったが、先生に確認してもらいながら繰り返しやっているうちに、少しずつ適量がわかってきた。先生も私のまな板の上で整列するシャリ玉に対し、「まあこんなもんかな」と一応の及第点をくれた。

 その程度のレベルでしかない私だが、この教室においては優等生と言って差し支えないだろう。おじんたちの不器用さときたら、目を見張るものがあった。
 あるおじんはまな板にミニクロワッサンみたいな大きさのシャリ玉を並べ、またあるおじんは指の跡がくっきりわかるほどシャリを握り潰していた。「大き過ぎ!」「力入れ過ぎ!」と先生が指導して回るのだが、一向に改善が見られない。観察していると、どうやら寿司を握りたい気持ちが先走っている様子で、先生の話をちゃんと聞いていない。「ハイ! わかっておりますよ!?」と返事の威勢だけは良い。そして、またミニクロワッサンを大量生産する。他人の心配をするような立場ではないが、あまりにも先行きが不安である。

 シャリを握る段階に入った。寿司の「握る」動作といえば、軽く丸めた左手に右手の指二本を押し当てるアレをイメージするが、実はアレ以外にも、真ん中を凹ませたり、上下を返したりと、数多くの手順がある。そして、「握る」という言葉に反して、実は握ってはいけない。「握る」というより「整える」の方が近い。空気を含ませるためにも、決してギュッ、ギュッとやってはいけないのだ。
 実際にやってみると、手順が多い分、それに気を取られて力加減まで意識することができない。「これは手順を覚えるのが先だな」と判断した私は、一旦先生の手本を見ることに集中した。先生の手元の動きに食らいつくようにして、手順を追いかける。

 一方、おじんたちは大はしゃぎであった。あるおじんは「これがやりたかったんだ!」という喜びを二本指に込め、全力で酢飯をギュウギュウしていた。また、あるおじんは職人の軽快なリズムを意識しているのか、妙に素早かったり勿体ぶってみたりといった奇怪な動きをみせていた。手に水をつける仕草にやりがいを見出したおじんもいた。必要以上に水をつけてノリノリで両手の平をパチン! なんてやるので、まな板も練習用の酢飯もビチャビチャになっていた。
 他のおじんも格好ばかりそれっぽくして、まるで手順を守っていない。例えるなら、ダンスの振り付けを覚えずに格好だけつけているようなものだ。振り付けを覚えないうちにキレを表現しようとしても、それはただキレよく暴れているだけである。
 めちゃくちゃなブツを生み出しながらも、当の本人たちは超楽しそうなのがまた恐ろしい。およそ学級崩壊の様相である。
 そんな状況下でもどうにか自分の寿司に集中しようとする私の耳に、「食べないの! 汚いでしょう!?」という先生の声が飛び込んできた。何事かと思わず顔を上げると、隣のおじんが手についた酢飯をモグモグ食べていた。私が学級委員長ならとっくに泣いている。

 その後もおじんたちの大暴れは続いた。先生がわさびの説明をしているときに、「知り合いに和食屋をやってる奴がいましてね、そいつが言うにはわさびって……」などと割り込んでうんちくを語り出したり、先生が今日捌くアジを見せるとやたら色めきだって、「ほう! 先生これは近海物ですか?」と教えを乞う体を装った有識者アピールを繰り出したりする。仕舞いには、「僕はアジをたくさん釣るんですよ。教室で使うなら今度持ってきましょうか?」なんて言い出す始末で、最初こそ威厳を保っていた先生も、おじんたちのペースにすっかり気押され、もはや力なく笑うばかりであった。

 そんな中ではあったが、一同はアジを捌き、新たに配られた本番用のシャリを使い、本日の集大成である握り寿司をどうにか完成させた。おじんたちの寿司がとんでもないことになっていたおかげで、自分の寿司が幾分マシに見えたのが唯一の救いである。

 テーブル席で、おじんたちと並んで寿司を食べる。空気を含んでいるとは言い難いシャリだったが、まあ悪くはない。
 寿司を食べ終われば、おじんたちはまた釣りの話などはじめるだろう。巻き込まれては敵わんと思い、私は急いで残りの寿司を平らげ、逃げるように店を出た。
 
 ああはなるまい、と思った。しかし、ああはならなかったから何だ、とも思った。その狭間でぼんやりしながら、私の30代は幕を開けたのであった。

 あの日、同じ釜の酢飯を食ったおじんたちよ、達者でやっているか? 寿司を握って誰かを笑顔にしているか?
 私はあれ以来、一度も握っていない。

 

(つづく)