夫は古生物学者である。山奥でアンモナイトを採集し、それをじろじろ眺めることを生業としている。
そのような人間を配偶者に持つということは、自宅はさぞアンモナイトだらけなのであろうと思われるかもしれない。実際、研究者やマニアの中には自宅に化石を大量に陳列し、家族を困惑させる者も少なくないらしいが、我が家は案外そのような事態にはなっていない。夫のお気に入りが一つ、テレビの横に鎮座しているのみである。
かく言う私も夫と付き合いはじめた頃、アンモナイトが所狭しと並ぶ光景を期待したクチである。「やっぱり家にアンモナイトわんさかあるんですか?」と事前に聞いて、「僕はあんまり置かない派ですね」との回答をもらっていたが、いやいや、その「あんまり」が普通の人にとっては「わんさか」ですよ貴方ってパターンじゃないの、などと思っていた。
しかし、実際に夫の部屋を訪れると「あんまり」は本当に「あんまり」で、置かれていたアンモナイトは今と同じお気に入りの一つだけであった。インテリアはニトリの家具でこざっぱりと揃えられ、部屋の角には電球があっちゃこっちゃ向いているタイプのスタンドライトがあり、「へえ、古生物学者も間接照明とか置くんだ」という偏見でしかない感想を抱いたものである。
いつも横でアンモアンモ言っている夫なので、私としては自宅のアンモがお気に入りの一個だけで済んでいることが逆に不自然に思えるくらいなのだが、訳を聞けば、「何個でも置いていいことにしたら際限なくなるから、一個だけって決めてる」とのことであった。なるほど、このたった一つのアンモナイトが防波堤となっていたわけである。
「それに、家に置きたいくらい良い化石ってことは、研究材料としても良い化石ってことだから、やっぱり職場に置くことになっちゃうんだよね。断面を見たくて切ることもあるから、無闇に愛着持たないようにしてる」
食用の子豚に名前をつけてはいけない、みたいな話である。テレビの横にあるアンモナイトはその絵を描いて自著の表紙にしたくらい愛でているので、今後断面が気になっても切るに切れないに違いない。
一昨年、夫が北海道の博物館から東京の研究所に転職することになり、夫の所持するアンモナイトが職場から運び出され、一旦自宅に置かれる期間があった。そこで私は初めてその全貌を目の当たりにしたわけだが、それはもう驚くべき数であった。自宅の一画に積み重なるコンテナの山を呆然と見上げながら、私は夫が「置かない派」であることを神に感謝し、夫は「本当はまだこの3倍ある」と誇らしげに言った。
そんな夫であるが、アンモナイトは置かない代わりに、ポケモンのぬいぐるみやゼルダのフィギュアは部屋にたくさん並べている。根本的に私より収集癖があるのは間違いない。
夫がよく収集するものとして空き箱がある。私が頂き物のお菓子の箱などを捨てようとすると、「待った!」とすかさず止めに入り、「これはアレを入れるのにちょうどいいかもしれない……」などとぶつぶつ言いながら持ち去る。結局使わずに溜め込んでいる空き箱も多い。学生時代から空き箱を回収しがちで、「相場くん、ほら空き箱があるよ、もらいなよ」といじられていたというから、筋金入りの空き箱コレクターである。中でも、尊敬する古生物学の偉い先生から贈られたというお菓子の箱は一番のお気に入りで(確かに一際お洒落な柄で作りも頑丈、一級品のお菓子が入っていたに違いない)、そこにはガチャガチャや食玩で集めたアンモナイトのフィギュアが入っている。
「空き箱を見ると、ここに何入れよう!? ってワクワクしない?」
目を輝かせながら空き箱の無限の可能性について同意を求められたが、残念ながら私はクッキーの空き箱を見てもクッキーがもうないとしか思えない。
そんな夫が最近どハマりしていたのが、コンビニで売っているたまごっちの食玩である。卵の殻を模したチョコレートの中に、たまごっちのキャラクターをドット絵で表現したフィギュアが入っている。夫は昔のゲームのドット絵が好きである。「技術的な制約がある中で最大限の表現をしていて、キャラクターの魅力が凝縮されている」とのことである。
全部で10種類くらいあるのをコンプリートしようと必死になっていた。人気商品らしく、日によって売り切れていたりして、仕事帰りや休日にコンビニをハシゴしてまで探し回っていた。夫は食べると催す体質で、私はそれをロケットペンシルと呼んでいるのだが、先日も近所で町中華を食べた帰り道、私を置いてコンビニへと駆け込んだ。しかし、そのコンビニにはトイレがなかったらしく、すぐに戻ってきて、「トイレなかった! たまごっちもなかった!」と言い残し今度は自宅に向かって走っていった。そんな緊急事態でもたまごっちの確認を怠らなかったことについては感心せざるを得ない。
楽しんでいる夫には悪いが、私はこういう商品を集めたくなる気持ちがわからない。コンプリートしたとて、数多の消費者と同じものが揃うだけである。そこに自分だけの景色はない。こういう了見の狭さがいつか自分の首を絞めることになるような気はしている。
「この、たまごっち本体からキャラが飛び出してるデザインが良いんだよ。しかも、作りがなかなか丁寧」
無事に全員集合したたまごっちたちを整列させながら、夫はその魅力を熱弁した。共感はできないが、そんな夫を微笑ましいとは思う。
「たまごっちが全員集合したからって何なのさ?」
わざとらしく鼻で笑いながら茶化しても、夫は屈することなく、「可愛いから集めたい、ただそれだけだよ」と、ごもっともなことを返す。そして、「ほのかさん、みみっちね。俺まめっち」と言って私の方にみみっちを置き、まめっちと向かい合わせた。
「なに? タイマン?」
私が抗争の構えを示すも、夫はただみみっちとまめっちを向かい合わせにしたかっただけらしく、満足げに笑っていた。
私は何かを収集したことが今まであっただろうか。服や本のように、着る、読むなどの目的があるわけではない、ただ収集することが目的の収集。
一つだけ思い当たるものがあった。グラウンドの砂の中に混じっている透明のキラキラした粒。小学生の時、暇さえあればグラウンドにしゃがみ込んで、砂金取りのごとく地道に集めていた。集めたものは小さい瓶に入れ、時々眺めていた。集会や体育の時間に、「そこ、土いじりしない!」と先生に注意され、「いや、キラキラのやつ探してただけだし」と内心イラついたのを覚えているが、今思うと、砂の中からキラキラを探す行為はどう考えても土いじりの範疇である。
検索してみたところ、どうやらあのキラキラの粒は石英という鉱物の一種らしい。当時はガラスの欠片だと思い込んでいたが、そんな危険なものが小学校のグラウンドにばら撒かれているわけがない。転べば惨劇待ったなしである。
まさか小学生の自分が鉱物を集めていたとは意外であった。奇しくも、化石を採集する夫と多少近い部類のことに熱中していたわけである。それが判明したからには、私ももっと愛しむ心を持って、みみっちとまめっちを向かい合わせるべきなのかもしれない。
(つづく)