言葉にうるさい

 

 

 はじまりのような記憶がある。それは物心がついた時とはまた違うもので、現在の自分と地続きの、あの時から私は私だったとはっきりわかる、最も古い記憶のことである。

 

 小学校に入ってすぐの頃だったと思う。数人の友達と近所をほっつき歩いていると、住宅街が途切れて景色が緑になった辺りに、小さめの階段を見つけた。下りてみると、そこは用水路だった。「なんだこれー」とか言いながら、興味津々で見て回る一同。家の近くにこんな場所があったのか、と私も俄かに興奮した。そんなに大掛かりな造りではないが、コンクリートで舗装され、しんと涼しいその空間は、子どもの目にはまるで要塞のように映った。

 

 しばらくすると、声の大きい誰かが言った。

 

「俺らの秘密基地にしよう。ここ、誰も知らないから!」

 

 いいね、そうしよう、と皆が基地の設立に盛り上がる中、私は「はあ?」と思った。

 

 誰も知らない? そんなわけあるか。だって、ここはコンクリートで舗装されている。つまり、人工的に作られた場所だ。その時点で、誰も知らないなんてことはあり得ない。作った人がいるわけだから、管理している人も当然いるであろう。それを誰も知らない秘密基地とは、ちゃんちゃらおかしい話である。

 

 とはいえ、それを声高に主張する度胸はなかった。すっかり興醒めしながらも、私はおとなしく秘密基地ごっこに参加したのだった。

 

 もし、この記憶が私の頭からすっぽり抜き取られて、他人の幼少期の記憶とシャッフルされた上、「さあ、どれがあなたの記憶でしょうか」とクイズを出されたとしても、確実に正解する自信がある。本当に大人気ない話だが、今の私が子どもに混じって同じ状況に置かれたとしても、その無邪気さを微笑ましく思うよりもまず真っ先に「そんなわけあるか」が浮かぶに違いない。それくらい、根強いものがあるのだ。なんというか、私は子どもの頃から言葉にうるさい。

 

 これもまた小学生の頃だが、「昨日、親と札幌に行った」と話す子がいた。「札幌」とはつまり「札幌駅」のことである。市の中心部であり、店などもたくさんある場所だ。私は無性に苛立った。都会で遊んだことを自慢されたからではない。「札幌」という言い方がどうしても気に食わなかった。というのも、私たちが住んでいる場所も、中心部から車で30分かかる郊外とはいえ住所は札幌市なのである。現在地が札幌であるのに、「札幌に行った」という言い方はおかしい。この場合は省略せず、「札幌駅に行った」と言うべきではないか。家に帰っても苛立ちが収まらず、母に話して同意を求めたが、何をそんなにキレているのかわからないという態度をされたのでさらに腹が立った。今となってはあまりの細かさに笑えもするが、一方で決して的外れではないだろうという自負もやはりある。

 

 両親の呼び方についてもそうだ。私は幼少期からずっと「パパ」「ママ」呼びなのだが、これがなぜか肩身の狭い思いをさせられる。小学生になると、「お父さん」「お母さん」呼びの者たちが勢力を伸ばし、「パパ」「ママ」呼びが明るみに出ようものなら、容赦なく嘲笑された。その基本姿勢は「やーい、マザコン」の一点張りなのだが、はっきり言って何の根拠もない。「ママと呼んでいるだけの人と、お母さんと呼びながら小学生にもなっておっぱい吸ってる人だったら、どちらがよりマザコンでしょうね?」と心の中では何度も言い負かしていたが、実際の私は揶揄されることを恐れ、家の外では「お父さん」「お母さん」呼びを徹底していた。踏み絵に屈したキリシタンのような屈辱である。

 驚くべきことに、この「ママ呼びマザコン説」は子どもの間だけのものではなく、大人になっても短絡的に信じ続ける者が絶えない。その手のことに対する度胸がついてきてからは「ママ呼びマザコン説」を唱える者に出会ったら完膚なきまでに叩きのめすことにしているが、未だに全滅させられていないのは誠に遺憾である。

 

 

 大学時代、同級生とテレビ番組の話をしていた。

 

「バラエティで、高級な店の料理が用意されて、ゲームに勝った人しか食べられませんっていうのあるじゃん。食べられなくて悔しがってる人の存在って面白いかなぁ」

 

 私の素朴な疑問に対し、彼は言った。

 

「あれは面白いというか、食べられないのをこんなに悔しがるくらいおいしいんだって思わせることが大事なんだよ。この店の料理には価値があるって印象づけるためにやってんの」

 

 内容の真偽はどうでもいい。腹が立ったのはその言葉尻である。彼は私と同じ学部に通う大学生であり、別にテレビ関係者でも何でもない。ということは、その情報は何かで読んだか、誰かに聞いたか、とにかく、どこかで聞き齧った知識である。

 それならば、「らしいよ」と言え!

 

 

 こんなふうに苛立つのは、自分だけは適切に、仔細に物事を捉えられていると信じてやまないからなのだろう。矛盾を指摘し、本質を振りかざし、優越感に浸っている。まるで自分だけが中州にいて、流されていく人たちを眺めているかのように、安堵している。私はこれからもずっとそこに立ったまま、どこにも行けないのかもしれない。

 

 とは言え、今日も今日とて気になるものは気になる。食事の支度をしていると、食品のパッケージに印刷された「地球を守ろう」というスローガンが目に留まった。傲慢。地球を舐めるな。人間の営みにより自然環境が変わったとしても、たとえ人類が絶滅したとしても、そんなことは地球の歴史の一部にしかならない。環境が変わって困るのは地球ではなく人間なのだから、書くとしたら、「人間が住むのに適した地球環境を守ろう」であるべきだ。

 などと難癖をつけながら、顔のある地球を両腕が抱きかかえているロゴとしばし見つめ合う。

「……誰の腕だよ」

 軽く鼻で笑って、燃やせるゴミとプラスチックをしっかり分別し、ゴミ箱に入れた。

 

(つづく)