あみだで選ばれし男
今から約45年前、札幌の短大生だった母は友人からこんな提案をされる。
「私の彼氏の友達連中みんな彼女いなくて寂しそうだから、バレンタインにうちらでチョコ送ってあげない?」
友人の彼氏は札幌市から車でおよそ3時間の旭川市に住んでいた。無論、その彼氏の友達連中というのは顔も何も全く知らない人々なわけだが、母を含む仲良しグループの面々はおもしろがって提案に乗っかり、それぞれの担当を決めるため、バレンタインあみだを実施した。紙に人数分の線を引き、線の先に男性陣の名前を書く。もしこれが某SF映画なら、母があみだのスタート地点を「ど・れ・に・し・よ・う・か・な」と迷うたびに、写真の中で私が消えたり現れたりしたに違いない。母が選んだあみだを下へ下へと辿っていくと、そこには長瀬と書かれていた。母は「いい苗字だ」と思ったそうだ。
あみだで選ばれし男こと父は、猛烈社員だった。
早朝から夜中まで働き、時には連日会社に泊まり、顧客に呼び出されたら昼夜問わず駆けつけ、取引先とゴルフに行き、毎週水曜の休みでさえ返上する日々だった。その仕事漬けっぷりは、幼児の私が童謡『ぞうさん』を「とうさん、とうさん、なーにがすきなーの、あーのね、しごとーがーすーきなのよー」と嫌みな替え歌にして口ずさむほどだったという。
ずっとそんな感じだったので、小学生の時、友達の家で遊んでいたら公務員のお父さんが夕飯前に帰ってきて仰天した。私は父と夕飯を食べることなど滅多になかったからだ。たまに家にいてもしょっちゅう電話がかかってきて父は席を立つ。その背中から発せられる「はい長瀬でしたっ」という独特の名乗りとよそ行きの声色が、やたら記憶に残っている。
たくさんいた新卒同期は次々と辞めていき、もはや同世代で会社に残っているのは父だけだった。それでも父は、母にさえ、決して仕事の愚痴を漏らさなかったという。ひとたび不満を口にすれば耐えられなくなると、自分でわかっていたのかもしれない。
2歳の双子の弟たちが風邪をこじらせて同時入院するという大ピンチに見舞われた時でさえ、父は仕事を休めなかった。これにはさすがの母も愛想を尽かす寸前だったらしい。しかし、点滴もままならないほど病室で暴れ回る双子を前に母の精魂が尽き果てた頃、父が突然病室に飛び込んできて、どこからか手に入れてきた小型テレビをすばやく設置し、また仕事に戻っていった。そのテレビでアンパンマンの録画を見せることで双子は大人しくなり、無事入院生活を乗り切ることができたという。この件は父の逆転ファインプレーとして我が家で語り継がれている。
そういえば、家族で楽しみにしていた予定が父の仕事でドタキャンになり非難轟々だった時も、父は唐突にカメを2匹買って帰ることで見事我々の怒りを鎮めてみせた。時折そういうトリッキーな挽回の仕方をしてくるので、仕事人間である以上にユニークな父という面がギリ勝っていた。今ならわかるが、きっと父も必死だったのだろう。
父は電化製品好きである。裕福な家庭でもないのに、我が家にはかなり早いうちからパソコンがあったし、コンポが欲しいと言えば、数日後にはテーブルの上にパンフレットが山積みになっていた。携帯の機種変なども同様。難色を示す母と対照的に、父はいつも前のめりだった。
私が大人になってからも父の新しもの好きは相変わらずで、Siri的なものが世に出始めて間もない頃、久しぶりに実家に帰ったら、母が普通の顔して「オッケーグーグル。テレビつけて」と唱えたので度肝を抜かれた。指示通りにテレビがついて私が「おお!」と声をあげると、父は「スゲェだろ!」とご満悦だった。
これは父の仕事の関係もあるのだが、実家の屋根には世間に先駆けてソーラーパネルが取り付けられた。その頃は太陽光発電を一般家庭に普及させるため、余分に発電した電力を電力会社が高額で買い取ってくれる仕組みがあった。父から「我が家は発電所になりました」という宣言があり、名刺の束を渡された。
「おまえを所長に任命する」
名刺には『長瀬発電所 所長 長瀬ほのか』と書かれていた。当然ながら使う機会などない。忙しいくせに、こういう小ネタを仕込む手間は惜しまない人である。
私の酒好きは父方の遺伝である。父は会社の飲み会のあと、大抵ベロベロに酔って帰宅した。インターホンが鳴って画面を見ると、父の鼻だけがどアップで映る。ふざけてカメラに顔を近づけているのだ。「今日もやばそうだ」と覚悟しながらドアを開ければ、頭にネクタイを巻いて寿司折をぶら下げた父が「帰ったぞぉ!」と大声で叫ぶ。どかどか階段を上がって、寝ている弟たちを起こして寿司を食えと言う。いつもそんな調子なので面倒ではあったが、基本陽気なだけなので適当にやり過ごせばよかったし、お土産が食べられるのは嬉しかった。「ひゃっほう!」とソファを飛び越えてすっ転び、テレビ台に肋骨をぶつけて骨折した時はさすがに呆れたが、何を隠そう、私も飲んだ翌日顔面が血まみれだったことがあるので今はもう責められない。
年頃の娘というのは往々にして父親を毛嫌いするものらしいが、私にはそういう時期がまるでなかった。根っからのずぼらゆえ、世間でよく言う洗濯物を分けるなんてことも思いつきもしなかった。今になって考えてみると、そもそも嫌いになるほど一緒にいられなかった、ということなのかもしれない。
父に叱られた記憶はほとんどない。破茶滅茶だった弟たちは小さい頃から家でも外でも盛大に怒鳴られていたが、私は比較的大人しかったこともあり、何も言われなかった。学生時代は心配性の母に干渉されることがとにかく鬱陶しかったので、私を信用して放任してくれる父のことは良き理解者と思っていた。滅多に顔を合わせることのない父からの信用は私の支えとなっていたが、それをいいことにつけ上がり、母や弟たちにきつく当たる要因となっていたようにも思う。
その罪悪感もあって、今では夫婦喧嘩の話を聞くと母の肩ばかり持ってしまう。あの頃の私と同じように、父も母に甘えているところがあるのだ。しかし、父にも言い分があるだろうし、母の話ばかり聞いて父が孤独を感じていないか心配になる時もある。しかし、どうにも照れ臭くて優しい言葉をかける気にはなれない。昔からの名残で、父とは語り合わずとも分かり合えていると思ってしまうのは、娘のエゴだろうか。
とっくに定年を迎えている父だが、再雇用でまだ働いている。勤続40年以上。その間に社長が2度代わり、現在の社長は私と同年代だという。いまや父は社員の中で最も古株となった。そこまで長く勤めてきたことが素直にすごい。社長の方針で会社の労働環境は大幅に改善され、昔の壮絶さが嘘のように、働きやすい職場へと変貌したらしい。
「ノー残業デーとかあるとみんな効率的に働こうって意識するようになるんだなぁ。それでちゃんと仕事も回るし、今の方がいいと思うわ!」
猛烈社員時代を変に誇るでもなく、今の働き方をいいと言えるあたり、なかなか話のわかる爺である。最近では海外実習生の世話も任されているらしく、「これ見てくれよぉ」と笑いながら見せてきたLINEグループには、ミャンマー語がずらずらと並んでいた。
「大変なんだぞ、翻訳アプリ使ってよぉ」
そんなことを言いながら、いかにも若社長が選びそうな今風のデニムの作業着を羽織って、すっかり白髪混じりになった父は、やっぱり朝早く出掛けていく。
母曰く、父は赤ん坊の私を見て、「こいつ、口がちっちゃくて可愛いなぁ!」とよく言っていたらしいが、今ではそのちっちゃかった口で酒をガブガブ飲んだり、たまにゲロ吐いたり、気に食わない奴をボロクソにこき下ろしたりしている。突如エッセイストとか言い出し、こんな風に好き勝手なことを書いたりもしている。母は私の書いたものについて逐一コメントしてくるが、父からは変な犬が「ヤッタね!」とか言ってるスタンプが送られてくるだけである。でもたぶん、それでちょうどいい。
近所のバーで飲んだ帰り際、店の人がハーゲンダッツをくれた。体温で溶けないよう、蓋の端をつまむようにして家路につく。この持ち方、何かに似ている。あ、寿司折だ。それで、父のことを思い出した。頭にネクタイこそ巻いていないが、あの日の父もこんな風に愉快な気持ちで一人帰っていたのだろうか。今日は楽しくて喋り過ぎたかもしれない。酔っ払うとふざけ倒してしまうところも、私と父はよく似ている。でも私はハーゲンダッツ食えとか言って夫を起こしたりはしないから、幾分マシだろう。なんてことを考えつつ、実家から遠く離れた東京の夜道を歩く。あみだを辿るように、わざと千鳥足に拍車をかけながら。
(つづく)