関根と私は、たまたま同じ空間で暮らしているだけの同居人みたいな生活を送っていた。

 関根は実に素っ気ないうさぎであった。うさぎは犬などと違って飼い主との触れ合いをそんなに求めないものらしいが、特に関根は私に懐く様子が微塵もなかった。いつもスンとした顔で佇み、名前を呼んでも反応しない。甘えてくることもない。おやつのドライフルーツをあげる時だけは目の色を変えて寄ってきたが、恐らくその視界の中におやつの提供者である私の姿はない。関根は私という存在を、「牧草が増える」「水が満タンになる」「たまにおやつが出てくる」等の現象として捉えていた節がある。
 
 関根はかなりの出不精で、せっかく部屋に放っても、一目散にケージへ帰っていった。なので一緒に遊んでやる、みたいなことにもならなかった。これでは運動不足になると思い、ケージに入れないように鍵を閉めてみると、開けろ開けろと乱暴に扉をかじっていた。とにかくケージの中でまったりしているのが好きらしかった。

 関根がそういう態度だったので、むやみに構わないようになった。極度の面倒くさがりである私としては、必要最低限の世話だけこなして、あとは放っておいて良いのであれば、それに越したことはない。
 長年ペットを飼いたいと思っていた割に、ペットに癒されたいとはあまり思っていなかった。ペットを溺愛する自分が想像できないのだ。ではなぜ飼いたかったのかと問われると自分でもよくわからない。なんでかわからないが飼いたかった、としか言いようがない。そういう私の元に関根のような素っ気ないうさぎがやってきたのは、必然といえば必然なのかもしれない。

 うさぎは綺麗好きな動物らしいが、関根はとりわけ潔癖だったのではなかろうか。おとなしく触られていたかと思えば、私の手が離れた瞬間、「きったね、きったね」とでも言うようにすぐさま毛繕いを始める。失礼極まりない話だ。
 うさぎの毛繕いを見たことがあるだろうか。「さあ、やりますか」とでも言うように前脚をチャッチャと擦り合わせたあと、目を閉じて、まるで人間が顔を洗う時のような動きで一心不乱に顔をゴシゴシやりはじめる。耳は片方ずつ寝かせて、髪を梳かすように上から下へと擦る。体をいろんな方向にくねらせながら、腹やら脚やら隅々まで丁寧に舐めていく。その一連の仕草は物事を斜めにしか見ないことでお馴染みの私でさえ否定し切れないほど可愛らしく大変見応えのあるものであった。

 省エネな付き合いを続けていた関根と私だが、ごくたまにペットと飼い主らしい瞬間もあった。「うさんぽ」をした時などがそうである。
 うさぎを散歩させることは「うさんぽ」として界隈に浸透しているが、うさぎは本来、室内を歩かせるだけで運動量としては十分足りるらしい。うさぎと外で戯れたいという人間の勝手な欲望にうさぎを巻き込み、その様子を写真や動画に収め、SNSなどで披露し喜んでいるチャラチャラとした気構えの飼い主たちと自分は違うのである、という屈折したプライドによって長年うさんぽを差し控えていた私だったが、そもそも動物を勝手にペットとして家に閉じ込めている時点で人間のエゴなのだから、そのエゴを自覚した上で、うさぎの安全に最大限配慮し、限りある時間の中で楽しい思い出を作ろうとすることは飼い主の姿勢として何ら間違っていないのではないか、と多くの飼い主が早々に思い至るであろう落とし所に大変長い月日をかけてやっと思い至り、関根が6歳の頃、満を持してうさんぽデビューを果たすことになった。
 
 関根にハーネスを装着し、近所の公園に連れて行った。うさぎを散歩させている自分を想像するとメルヘンすぎてどうもしっくりこなかったので、バランスを取るために缶ビールを一本持参した。
 見知らぬ場所に連れてこられた関根は地面にじっと座ったまま耳だけをいろんな方向へ向け、しばらく警戒していた。エアコンとは違う大いなる風に、関根の毛がフワフワとそよいでいた。
 次第に慣れてきた関根は、土や草の匂いをくんかくんかと嗅ぎ回り、思いのほか精力的に動き回った。いつも食べている牧草よりずっと濃い緑色の芝生に囲まれていると、部屋の中では特別主張してこない関根の茶色い毛色がぐんと引き締まって見え、地に足のついたその配色はまさにアースカラー。関根は今、大地そのものとなった! などと勝手に圧倒的スケールでお送りしつつ、私は気分よくビールを頂いた。
 犬が主流の散歩界隈において、関根はちょっとした珍獣扱いを受けた。犬の飼い主は皆、こちらにだんだん近づいてくる過程で「小型犬……ではない!」と綺麗な二度見を決めた。幼児を連れた母親は「本物のうさちゃん、初めてだねえ! 可愛いねえ!」と情操教育を施し、幼児は母親にしがみつきながら関根をじろじろと見た。一人でタラタラ歩いていた爺さんは怪訝な顔をして「それ、ねずみか?」と言った。関根が注目されて、私は大変愉快であった。
 私が関根以上に出不精なこともあって、関根が生涯でうさんぽをした回数は10回にも満たないくらいであった。それでもずっと部屋の中にいるよりは、多少うさぎなりの見聞が広がったに違いない。

 芸も愛想もない関根だが、役に立つこともあった。
 私は子どもの頃から夜中に物音がすると何者かの侵入を想像しがちで、逃げるルートを模索したり、台所の包丁を先に取るための作戦を練ったりして眠れなくなることがよくあったが、関根が来てからそのようなことはなくなった。関根が夜中うるさいからである。
 牧草をポリポリポリポリ食べる音。その牧草の反対側がケージにチンチンチンと当たる音。水を飲む音。水のボトルの気泡の音。謎にザザッと横っ飛びする音。掘れない地面を必死にカシャカシャ掘っている音。関根の生活音が真夜中の静寂を掻き消して、私は安心して目を閉じることができるようになった。本当に侵入者がきたら物音に気付けないというデメリットはある。関根に番犬のような活躍は期待できない。
 
 あの頃の私は、「起きたら関根は死んでいる」と頭の中で唱えながら眠っていた。死んでいると思わないで死んでいたら心臓に悪いからである。それに、世の中は大抵予測通りにはいかない。だから、死ぬぞ死ぬぞと思っていた方が、逆に死なないのではないかと考えたのである。
 物騒なまじないをかけられていることなど露知らず、朝目が覚めると関根はいつも通りスンとした顔でそこに佇んで、一匹と一人の同居生活は相も変わらず続いたのであった。

 

(つづく)