札幌市郊外にある母方の祖父母の家に向かう道中、必ず古い会館の前を通る。一軒家よりちょっと広いくらいの、二階建ての小さな会館である。近くに小学校があり、私は5年生までそこに通っていた。途中で転校したせいか、学校の風景はあまり思い出せない。しかし、会館のことは不思議とよく覚えている。玄関で靴を脱ぐと、白い床がひんやり冷たかった。左側にはトイレがあって、右側は奥まで廊下が伸びていて、正面の襖を開けると畳の部屋がある。私はその和室で公文をやっていた。やっててよかったでお馴染みの、あの公文式である。
どうして公文に通うことになったかというと、騙されたからである。母は私にこう言った。
「なんでも知ってる物知り先生が、いろんなことを教えてくれるよ!」
学習塾をここまで拡大解釈して伝えた親が未だかつていただろうか。
母の術中にはまり、私は物知り先生とやらに興味を持った。頭の中に、眼鏡と笑顔とポニーテールが印象的なおじさんの姿が思い浮かんだ。『どうぶつ奇想天外!』の千石先生である。
『どうぶつ奇想天外!』は、動物の面白い生態や感動の物語を紹介する子どもに人気のバラエティで、テレビの視聴に厳しかった長瀬家における数少ない推奨番組の一つであった。動物学者の千石正一先生は、番組内で熱帯雨林だの砂漠だのと世界中を飛び回り、珍しい生き物を全国のお茶の間に紹介してくれていた、まさに「なんでも知ってる物知り先生」たる人物であった。千石先生のような物知り先生に、みのもんたを介さず、直接あれこれ教えてもらえる教室があるのならばそれは是非とも行ってみたい。
というわけで、我が子を少しでも賢くしてやりたい親心ゆえの詐欺まがいの手口により、私はまんまと公文式の教室へと連れ出されたのであった。
初回の日、教室の襖を開けた母の後ろで私は一瞬フリーズした。どうも様子がおかしい。子どもたちが机に向かい、黙々とプリントを解いている。チンパンジーの賢さや、猛毒のカエルについて語り合う雰囲気は一切感じられない。千石先生のようなエキセントリックな風貌の人物も見当たらず、母が「先生」と呼んでいるのは、ふっくらとした穏やかそうな年配の女性である。ジャングルの生態系に詳しそうには見えない。
そうこうしているうちに、算数がどうとか国語がどうとかの話が始まったので、さすがに察した。「話が違う!」と大暴れしても筋が通る展開ではあったが、私は子どもの頃から大変プライドが高く見栄っ張りであったため、騙されたことを大っぴらに認めるのが癪だった。ここまできてジタバタするのも惨めである。私は自らの運命を受け入れ、流れに身を委ねることにした。あたかも学力を向上させにきましたという体で澄ましていると、先生がこちらに向かって優しく微笑んだ。
まあ悪いようにはならないだろう。そんな予感がした。
学校の成績は良い方だったが、他の教科と比べて算数が苦手だったので、算数だけ習うことになった。公文式では学年に関係なく、できるようになれば上の学年の問題にどんどん進み、難しければ戻ってじっくり取り組む。基本的にはプリントの計算問題を解いて、答え合わせをするという流れである。
解き終わったプリントを持っていくとその場で採点してもらえるのだが、先生の丸つけのスピードには惚れ惚れするものがあった。
「そうです、そうです。はい、それでいいんです」
穏やかな口調で褒めながら、計算は鬼のように速い。私はいつも先生の丸つけに釘付けになっていた。
先生が採点に使う赤の色鉛筆にも惹かれた。自分がお絵かきで使っているものより、芯が太くて色も濃い。先端に糸がついていて、引っ張るとくるくる剥がれて芯が出る。ガリガリと削りカスを出しながら色鉛筆を削るしかない私にとって、その仕組みは大変スマートで画期的に見えた。近所の文具店などでは見かけないものだったので、きっと特殊なルートでしか手に入らない、公文の先生だけの特別な色鉛筆に違いないと思っていた。
全問正解すると、プリントに花マルが与えられる。先生がささっと描くその花マルは、躍動感があって、それでいて洗練されていて、全てを包み込むように大きくて優しい。よくできましたという評価の証であること以上に、芸術として先生の花マルが好きだった。家でこっそり真似して描いてみたが、どうしても先生と同じようには描けなかった。
騙されたにしては順調に通っていた、ある年の冬。ちょっとした事件が起きた。周囲を騒がせるでもなく、自分だけで完結した事件なのであるが、公文と聞いて最初に思い出すくらいには鮮明に覚えている出来事である。
雪国の子どもは真冬、なかなかの重装備をしている。上下繋がったスキーウェアに、耳まで覆う帽子を被り、手袋をはいて(手袋を「はく」というのは北海道弁である)、靴はスノーブーツで、その上からスノーカバーをつける。スノーカバーというのは、靴の隙間から雪が入らないようにするためのカバーで、片側にゴム紐がついていて、それを靴底に引っ掛け、膝下まで覆うようになっている。私もそのような全身モコモコの出で立ちで登下校をしていた。
ある日、学校帰りに公文の教室へ向かう途中、突如尿意を催した。学校に戻るという手もあったが、私の通っていた小学校は坂の上に位置し、戻るには急勾配の坂を上る必要があった。勿論、雪道である。それで会館に向かう方が早いと踏んだのだが、思いのほか限界が近い感覚となり、全力で走った。どうにか到着したものの、そこからが大変である。トイレに行くためには、両足のカバーを外し、スノーブーツを脱ぎ、つなぎのウェアを脱ぎ、という工程がある。で、単刀直入に言うと漏らした。小学生になって漏らしたのはその一回きりだったはずだ。
絶望的な状況だが、意外にも冷静にそのあとの対処を考えている自分がいた。家に帰るのが正解なのはわかる。しかし、そのためには先生に一旦帰宅する旨を伝える必要があり、となれば漏らしたことも報告する運びとなるだろう。他の生徒もいる中でお漏らしの報告をするのはさすがに気が引ける。
試行錯誤の末、私は一か八か強行突破することにした。
「こんにちは?」といつも通り教室に入り、ウェアの上半身だけを脱いで、下半身は穿いたままプリントに取り掛かった。ズボンは濡れていたが、ウェアは厚手なので表面には達していない。多少染みたとしても、雪で濡れたとか何とか言ってシラを切ればどうにかなるだろう。周囲の視線を気にしながら、できる限り平静を装い、その日のプリントを終わらせて先生に渡した。先生もまさか尻がビショビショのまま素知らぬ顔で授業を受ける不届き者に花マルを与えているとは夢にも思わなかったことであろう。
結局、そのまま誰にも指摘されることなく教室を出ることに成功し、「おしっこって案外漏らしても大丈夫なんだな」とほくそ笑みながら帰った。お漏らしが恥ずかしい記憶ではなく成功体験として残った稀有な例となったが、もしバレていたら恥ずかしくて二度と教室に行けなかったはずなので、今思うとかなり危うい賭けである。
そんなこともありながら、公文に通い始めて数年が経った。ずっと学校の授業より先を進んでいたが、ある時、先生から「少し前に戻ってみようか」と言われた。それまで順調だっただけに、私は動揺し、静かに不貞腐れた。いつも褒めてくれた先生から、初めて否定されたように感じたのだ。それから何だか調子が狂い、集中力を欠き、よく考えればわかるような計算も間違えるようになった。するとまた少し前の単元に戻ることになり、あれよあれよという間に低学年のシンプルな足し算まで転落してしまった。さすがにそのレベルなら余裕で全問正解できたが、先生の花マルがあんなにも屈辱だったことはない。
見栄っ張りの私は、親や友達に低学年レベルのプリントを見られることを何より恐れた。ファイルの奥の方に隠してコソコソ持ち歩きながら、どうしてこんな惨めな思いをしなくてはならないのか、と腹を立てた。お漏らしをしながら堂々と授業を受けるような恥知らずのくせして、こういうことに関しては妙に気位が高い。自分の向上心のなさを棚に上げ、「こんな仕打ちを甘んじて受けるような私ではない」と武士のような発想に至った。ただし、決意したのは切腹ではなく退会である。
私が「やめる」と宣言すると、母はすぐに先生に電話してくれた。騙してまで入会させたくせに、あっさりやめさせてくれるところが母らしい。
母曰く、先生はとても残念がっていたという。先生の優しい顔が浮かんで申し訳ない気持ちになったが、心が武士モードだったので決意は揺らがなかった。
その後、算数の苦手が尾を引いて、中学に入ると数学で早々に躓き、高校ですっかり落ちこぼれた。言わんこっちゃないという話である。
大学生の頃、文具店で先生が使っていた糸つきの赤い色鉛筆を見つけた。なんてことはない、そこそこ大きい文具店ならどこでも置いている商品だ。ちょうど教育実習を控えていたので、先生みたいに丸つけができるかもしれないと思い一本購入したが、残念ながら実習中に採点を任されることはなく、使えずじまいであった。
家で一人、誰のためでもない花マルを描いてみる。やっぱり先生のようにはうまく描けない。
先生は私が公文をやめた数年後、癌で亡くなったと聞いた。祖父母の家に向かう道中、あの会館の前を通ると先生のことを思い出す。会館に入って、靴を脱いで、襖を開ければ、先生がまだいるような気がしてならない。たぶん、私に人生で最もたくさん花マルをくれた人。
先生、ありがとう。急にやめちゃってごめんね。
(つづく)