八
インターホンに応え、阿刀宅の玄関ドアを開けると、酷く不機嫌そうな顔があった。
笠門は腰をおり「申し訳ない」とまず詫びる。足元では、ピーボが同じく、頭を下げている。
芦口晃はあきらめの表情で、靴を脱いだ。
「仕事は昼過ぎからなんで、まあ、いいっすよ。で? 確認したい事って?」
笠門はリビングに芦口を招じ入れ、言った。
「犬の散歩についてなんです。散歩はいつもあなたがやっていたんですよね」
「この部屋、あんまり入りたくないんですよね」
露骨に顔を顰めてみせる。
「人が死んだ部屋ですからねぇ。申し訳ない。でも、これが最後です。それで、散歩の件は?」
「主にボクがやってました」
「阿刀さんはどうでしたか?」
「彼も時々はやっていたようです。飼い主としてはどうなんだろって感じでしたけど、犬の方はそこそこなついていたみたいですから。ちょっと可哀想だったなぁ。で、散歩がどうしたんです?」
「気になりますか」
「は?」
「実は阿刀さんの件なんですが、事故死ではなく、他殺という事で正式に捜査が再開されるんですよ」
芦口は「うえっ」と声を上げ、廊下に飛びだした。
「つまり、殺人ってこと? ここで、人が殺されたって?」
「実は容疑者はもう浮かんでいるんです」
「ああ、そうなの。それは、良かったんじゃない?」
「ところが、その容疑者にはアリバイがありましてね。阿刀さんは午後七時半頃帰宅して、犬の散歩に出た。散歩の様子は防犯カメラに映ってました。帰宅したのが八時十五分くらい。その後、八時三十分頃、やって来た犯人に殺害された――と考えられています。その時間、容疑者は職場にいて目撃者も多数いる」
「……なら、ダメじゃないですか」
「そう。だけど、防犯カメラの映像には顔がちゃんと映ってはいない。だから……」
「替え玉かもって事ですか」
「そう。君は飲みこみが早い。犯行は阿刀さんの帰宅直後の七時半頃。殺害してから犬を散歩させていたのは、犯人自身。八時十五分に犬をゲージに戻し、ここを出て、八時半のアリバイを作った」
「なんかドラマみたいな展開っすね」
芦口に少し余裕が戻ってきていた。
「だけど一つ問題があってね。いま、阿刀さんのラブラドールを保護してくれている人が言うんだ。犬は人を信用しきれていない。だから、見知らぬ人が傍に寄ってきたら、吠えるなり何なりで抵抗するだろうとね」
「まあ、そんな事もあるかもですね」
「犬と初めて会った容疑者が、散歩に連れていけるはずないだろう?」
「……あっと。そうなるかな」
「あの犬を散歩に連れていける人間は、二人だけ。一人は飼い主である阿刀さん。もう一人は、普段から世話をしている君だ」
芦口はちらりと玄関に目を走らせる。
「待って下さい。まさか、ボクが……。いや、それはないっすよ。だって、替え玉とか無理ですもん。体格違いすぎるでしょう」
「確かにそうだ。君は阿刀さんより細く背が高い。君に替え玉は無理だ」
芦口は大仰な身振りで胸を押さえる。
「良かったぁ」
「君でもないとしたら、どうなるか。結論は一つ。結局、散歩させていたのは、阿刀さん本人だった事になる。酔って帰宅した彼は、何となく犬を散歩に連れだした。そして、八時十五分に帰宅。その後やってきた何者かに殺害されたんだ」
「最初ので、あってたんだ」
「その通り。結局最初に我々が目をつけた容疑者は犯人じゃなかったんだ」
芦口がまた玄関に目を向けた。笠門はリビングを親指で示した。
「部屋に戻ってくれないかな。それとも、何か戻れないわけでも?」
「いや、単に気持ち悪いだけで」
「なら少し辛抱してくれ」
リビングに戻った笠門は奥のコンセントさしこみ口を指す。
「あそこには、携帯の充電器がささっていた。そして、それには微量の血が付着していた。被害者のものだ」
「それが、何か?」
「発見時、被害者の携帯は遺体のすぐ傍にあった。この意味が判るか?」
芦口は指で頭を掻き、首を傾げた。
「判らない」
「何者かが、阿刀さんの死後、携帯を充電したって事さ。彼が帰宅前に立ち寄ったバーのマスターによれば、店で携帯の充電が切れたと言っていたそうだ」
「帰宅してすぐ充電したんだろ」
「だとすれば、血の意味が判らない」
「だけどさ、人を殺した犯人が、すぐに逃げもしないで殺した相手の携帯、充電する?」
「どうしてもしなければならない理由があったんだ。考えられる理由の一つは、阿刀さんの携帯に、犯人が何としても消去したい何かがあった。殺した後、すぐに消そうとしたが、電源切れで操作ができない。やむなくいったん充電し、操作可能な状態にした。死後すぐであれば、遺体の指紋認証も使える」
「ふーん。警察の人って色々考えるんだね」
「では、犯人が消したかったものは何か。今度はこっちに来てくれ」
笠門は犬のケージがあるリビング奥の部屋に入る。
「あらためて、鑑識にこの部屋のドアノブを調べてもらった。すると、指紋がない。何者かが拭き取ったんだな」
「掃除したんでしょう」
「ところが、ほかの場所には数人の指紋がべったりとついたままだ。ちなみに、指紋の一つは君のものだ」
「通報した後、サンプルを取られましたよ。でも、ボクの指紋があるのは当然でしょう。ここにしょっちゅう出入りしてたんだから」
「その通り。つまり、もし君が犯人だとしても、指紋については心配する必要がない」
「まあ、そうなりますね。だから、ドアノブを拭き取る必要もない」
「それがそうでもないのさ。ドアノブには血液反応があった。血液反応、君も知ってるだろう」
「ルミノールとかいうヤツ?」
「そう。その反応があった。犯人は指紋を拭き取ったのではなく、付着した血痕を拭き取ったのさ。犯人は若干の返り血を浴びていたんだな。もっとも充電器についていた事には気がつかなかったようだが」
芦口はリビングの方を意識している。そこの床にはまだ、阿刀の頭部から流れでた血の痕が生々しく残っている。
「とにかく、犯人は犯行後、この部屋に入ったんだ。何をしに入ったんだろうか」
「そんな事、判るわけがない」
「エサの箱が積んである脇に、戸棚があるだろ? そこの一番上の部分。今はもう残っていないけれど、遺体発見当日、戸棚の上には丸い跡が残っていた」
笠門は携帯の画面に、鑑識の撮った現場写真を表示する。
「掃除が行き届いていなかったから、戸棚の上には埃がたまっていた。この写真が撮られる少し前まで、ここには丸い形をした何かがずっと置いてあったんだ。その部分には埃がつかないから、それをのけた時、丸い痕が残った。ではそれは何か」
「何……なんです?」
「ペットの監視用カメラだったんじゃないかな。君はいつもここで犬の世話をしていた。そうした物を見た事はないか?」
「さ、さあ……」
「阿刀さんは、カメラの画像を携帯で見ていたに違いない。ここにカメラがあったと仮定して、部屋のドアが開いていたら……」
笠門は身を引いて、ドアの向こうを見せる。その先にはリビングがあった。
「カメラは、リビングの一部を捉える事になる。犯行の一部始終が映っていたんじゃないか。だとすれば、犯人にとっては非常にまずい映像だ。だから何としても、携帯から映像のデータを、さらに、ペット用監視モニターのアプリそのものを削除する必要があった。阿刀さんの携帯を充電したのは、そういう事さ。犯人は最後に、この部屋に入り、監視カメラそのものも持ち去った」
芦口は汗ばんだ額を拭う。
「いや、だけど、そんなカメラ、ボクは気がつかなかったな」
「君は我々に対し、遺体発見時、犬の部屋のドアは閉まっていたと証言しているね」
「ええ」
「中には入っていないと」
「本当に入っていないから」
「君は犬が気にならなかったのかい?」
「はぁ?」
「体調はどうか、ショックを受けていないか、エサは大丈夫か」
「いや、それはオレの仕事じゃないから」
「いつも世話していたのに、えらく冷たいな」
「何言ってんの。こっちは死体見つけたんだよ。犬の事なんか知るかよ」
「だがせめて、腹をすかしていないかくらい、心配すべきだろう」
「訳わかんねぇ。事件となんの関係があんだよ。だいいち、エサはいっぱいあったよ。皿に山盛り」
「……エサ皿にエサが山盛りになっていた事をどうして知っている?」
「はぁ?」
「エサ皿を山盛りにしたのは、阿刀氏が犬の散歩から戻ってきた後だ。君はいったいいつ、エサが山盛りにされた皿を見たんだ?」
「それは……死体を見つけた時だよ」
「ドアは閉まっていたんだろう?」
「少しあいてたんだ」
「残念ながら、エサ皿は犬が引っくり返してしまってね。朝方には床にぶちまけられていた。山盛りのエサを見る事ができたのは、阿刀氏が死んだ夜だけだ」
芦口は唇を噛みしめた。
「いずれにせよ、阿刀さんの携帯は鑑識で解析中だ。アプリを消去したことも、君がばっちり映っている動画も、復元されると思う。阿刀を殺したのは、君だ」
玄関のドアが再び開き、狭井と君塚が入って来た。観念した様子の芦口に、笠門はたずねた。
「動機は判らないが、殺害当夜に何かあったのか?」
彼は冷めた目で淡々と答えた。
「突然呼びだされてさ。犬が自分の言う事をきかないのは、オレの世話の仕方が悪いからとか難癖つけてきた。クレーム入れるって言うから……。オレ、別の現場でもクレーム入れられてて、そんな事されたら、首になっちまう」
狭井が芦口の肩を押さえる。
「あとは署でゆっくり聞く」
笠門と数秒目を合わせた後、狭井は芦口と共に外に出た。君塚は深々と礼をして、後に続いた。
笠門はずっとリビングの片隅で大人しくしていたピーボに近づき、頭をなでた。
「さあ、一つ解決だ。今日中にもう一つ、いこうか」
警察病院の地下駐車場、エレベーターホール脇にある休憩所で、滝小田はくつろいだ様子で缶コーヒーを飲んでいた。
専用のバンを駐車スペースに停め、笠門はピーボと共に、滝小田に近づいていった。
「そんなものを飲んで、大丈夫なのか」
笠門の問いに、滝小田は微笑む。
「節制にも飽きた」
「傷の方は大丈夫なのか?」
「明日には退院だ。来週には職場にも戻れる」
「相手がいきなり銃をぶっぱなしてくるとは、おまえも計算外だったってわけか」
缶を持っていた滝小田の手が止まる。
「何だと?」
「銃を持っていたのは計算外だったと言ってるのさ。慎重なおまえには珍しいミスだ」
「オレはいま、冗談を聞く気分じゃない」
「オレも冗談を言っているつもりはない。もう少しのところで、おまえの策にはまるところだった。おまえの目的は、須脇警視正の失脚。阿刀殺しを利用して大月刑事課長を容疑者に仕立てる。オレがそれに乗って大月を告発でもすれば、とんでもない大失態になる。犯人はほかにいたわけだからな。当然、上司である須脇警視正も責任を負わされる。ピーボの特命の件も表沙汰となり、彼は警察を追われる。そういう絵を描いていたんだろうが、残念だったな。ピーボのおかげで助かった」
滝小田は忌々しげにピーボを見下ろし、口元を歪めた。その表情だけで、笠門の言葉が真実である事を裏付けている。
「刑事課長が、阿刀の件を事故死として処理させた事は本当だ。本格的な殺人事件の捜査となると困る。ヤツとの関わりを探られたくなかったんだろうな。浅はかな話さ」
「一課に情報をリークしたのは、おまえか?」
「いや。さすがは一課だよ。とっくに課長に疑いの目を向け、極秘裏に捜査を進めていた。オレはそれを更に利用させてもらっただけだ」
「新宿の件、容疑者にタレこみの連絡を入れたのは、おまえ自身だな」
「邪魔なオレを消すために、課長が容疑者を利用した。シナリオとしては上々だろう?」
「下手すれば死ぬところだったんだぞ。そこまでして、おまえは何がしたい?」
「組織にいる限りは上を目指す。当然じゃないか」
「おまえの背後に誰がいるのか……言うわけはないよな」
「当然だ。だが須脇警視正ならすぐに判るだろうな」
「警視正を侮るなよ。あの人は……」
「それで、大月はどうなる?」
「阿刀との癒着、不適切な捜査指導。表沙汰にはならんだろうが、依願退職ってところで落ち着くだろう」
滝小田は忌々しげに笑う。
「散々動いて、刑事課長の首一つか。割に合わないな。ま、当分は所轄の一刑事として、大人しくしているよ」
彼はゆっくりとエレベーターに向かった。
「残念だよ、滝小田」
笠門はピーボとともに、車へと戻る。何ともやりきれない思いだった。ピーボもうなだれて元気がない。
「おい、ピーボ!」
少年が駆けてくる。栗田蒼だった。
「今日、退院なんだ。来週の予定だったけど、早くなってさ。よかった。おまえ、いつものとこにいなかったからさ。もう会えないかと思った」
少年はピーボをぎゅっと抱きしめる。
「ピーボ、ありがとな」
少年はピーボの耳元でそう言うと、照れくさそうに立ち上がる。そのまま、振り返ることもなく、両親の待つ車へと駆けていった。
その背中を、ピーボはじっと見守っていた。
(了)