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 インターホンに応え、阿刀宅の玄関ドアを開けると、酷く不機嫌そうな顔があった。

 笠門は腰をおり「申し訳ない」とまず詫びる。足元では、ピーボが同じく、頭を下げている。

 芦口晃はあきらめの表情で、靴を脱いだ。

「仕事は昼過ぎからなんで、まあ、いいっすよ。で? 確認したい事って?」

 笠門はリビングに芦口を招じ入れ、言った。

「犬の散歩についてなんです。散歩はいつもあなたがやっていたんですよね」

「この部屋、あんまり入りたくないんですよね」

 露骨に顔を顰めてみせる。

「人が死んだ部屋ですからねぇ。申し訳ない。でも、これが最後です。それで、散歩の件は?」

「主にボクがやってました」

「阿刀さんはどうでしたか?」

「彼も時々はやっていたようです。飼い主としてはどうなんだろって感じでしたけど、犬の方はそこそこなついていたみたいですから。ちょっと可哀想だったなぁ。で、散歩がどうしたんです?」

「気になりますか」

「は?」

「実は阿刀さんの件なんですが、事故死ではなく、他殺という事で正式に捜査が再開されるんですよ」

 芦口は「うえっ」と声を上げ、廊下に飛びだした。

「つまり、殺人ってこと? ここで、人が殺されたって?」

「実は容疑者はもう浮かんでいるんです」

「ああ、そうなの。それは、良かったんじゃない?」

「ところが、その容疑者にはアリバイがありましてね。阿刀さんは午後七時半頃帰宅して、犬の散歩に出た。散歩の様子は防犯カメラに映ってました。帰宅したのが八時十五分くらい。その後、八時三十分頃、やって来た犯人に殺害された――と考えられています。その時間、容疑者は職場にいて目撃者も多数いる」

「……なら、ダメじゃないですか」

「そう。だけど、防犯カメラの映像には顔がちゃんと映ってはいない。だから……」

「替え玉かもって事ですか」

「そう。君は飲みこみが早い。犯行は阿刀さんの帰宅直後の七時半頃。殺害してから犬を散歩させていたのは、犯人自身。八時十五分に犬をゲージに戻し、ここを出て、八時半のアリバイを作った」

「なんかドラマみたいな展開っすね」

 芦口に少し余裕が戻ってきていた。

「だけど一つ問題があってね。いま、阿刀さんのラブラドールを保護してくれている人が言うんだ。犬は人を信用しきれていない。だから、見知らぬ人が傍に寄ってきたら、吠えるなり何なりで抵抗するだろうとね」

「まあ、そんな事もあるかもですね」

「犬と初めて会った容疑者が、散歩に連れていけるはずないだろう?」

「……あっと。そうなるかな」

「あの犬を散歩に連れていける人間は、二人だけ。一人は飼い主である阿刀さん。もう一人は、普段から世話をしている君だ」

 芦口はちらりと玄関に目を走らせる。

「待って下さい。まさか、ボクが……。いや、それはないっすよ。だって、替え玉とか無理ですもん。体格違いすぎるでしょう」

「確かにそうだ。君は阿刀さんより細く背が高い。君に替え玉は無理だ」

 芦口は大仰な身振りで胸を押さえる。

「良かったぁ」

「君でもないとしたら、どうなるか。結論は一つ。結局、散歩させていたのは、阿刀さん本人だった事になる。酔って帰宅した彼は、何となく犬を散歩に連れだした。そして、八時十五分に帰宅。その後やってきた何者かに殺害されたんだ」

「最初ので、あってたんだ」

「その通り。結局最初に我々が目をつけた容疑者は犯人じゃなかったんだ」

 芦口がまた玄関に目を向けた。笠門はリビングを親指で示した。

「部屋に戻ってくれないかな。それとも、何か戻れないわけでも?」

「いや、単に気持ち悪いだけで」

「なら少し辛抱してくれ」

 リビングに戻った笠門は奥のコンセントさしこみ口を指す。

「あそこには、携帯の充電器がささっていた。そして、それには微量の血が付着していた。被害者のものだ」

「それが、何か?」

「発見時、被害者の携帯は遺体のすぐ傍にあった。この意味が判るか?」

 芦口は指で頭を掻き、首を傾げた。

「判らない」

「何者かが、阿刀さんの死後、携帯を充電したって事さ。彼が帰宅前に立ち寄ったバーのマスターによれば、店で携帯の充電が切れたと言っていたそうだ」

「帰宅してすぐ充電したんだろ」

「だとすれば、血の意味が判らない」

「だけどさ、人を殺した犯人が、すぐに逃げもしないで殺した相手の携帯、充電する?」

「どうしてもしなければならない理由があったんだ。考えられる理由の一つは、阿刀さんの携帯に、犯人が何としても消去したい何かがあった。殺した後、すぐに消そうとしたが、電源切れで操作ができない。やむなくいったん充電し、操作可能な状態にした。死後すぐであれば、遺体の指紋認証も使える」

「ふーん。警察の人って色々考えるんだね」

「では、犯人が消したかったものは何か。今度はこっちに来てくれ」

 笠門は犬のケージがあるリビング奥の部屋に入る。

「あらためて、鑑識にこの部屋のドアノブを調べてもらった。すると、指紋がない。何者かが拭き取ったんだな」

「掃除したんでしょう」

「ところが、ほかの場所には数人の指紋がべったりとついたままだ。ちなみに、指紋の一つは君のものだ」

「通報した後、サンプルを取られましたよ。でも、ボクの指紋があるのは当然でしょう。ここにしょっちゅう出入りしてたんだから」

「その通り。つまり、もし君が犯人だとしても、指紋については心配する必要がない」

「まあ、そうなりますね。だから、ドアノブを拭き取る必要もない」

「それがそうでもないのさ。ドアノブには血液反応があった。血液反応、君も知ってるだろう」

「ルミノールとかいうヤツ?」

「そう。その反応があった。犯人は指紋を拭き取ったのではなく、付着した血痕を拭き取ったのさ。犯人は若干の返り血を浴びていたんだな。もっとも充電器についていた事には気がつかなかったようだが」

 芦口はリビングの方を意識している。そこの床にはまだ、阿刀の頭部から流れでた血の痕が生々しく残っている。

「とにかく、犯人は犯行後、この部屋に入ったんだ。何をしに入ったんだろうか」

「そんな事、判るわけがない」

「エサの箱が積んである脇に、戸棚があるだろ? そこの一番上の部分。今はもう残っていないけれど、遺体発見当日、戸棚の上には丸い跡が残っていた」

 笠門は携帯の画面に、鑑識の撮った現場写真を表示する。

「掃除が行き届いていなかったから、戸棚の上には埃がたまっていた。この写真が撮られる少し前まで、ここには丸い形をした何かがずっと置いてあったんだ。その部分には埃がつかないから、それをのけた時、丸い痕が残った。ではそれは何か」

「何……なんです?」

「ペットの監視用カメラだったんじゃないかな。君はいつもここで犬の世話をしていた。そうした物を見た事はないか?」

「さ、さあ……」

「阿刀さんは、カメラの画像を携帯で見ていたに違いない。ここにカメラがあったと仮定して、部屋のドアが開いていたら……」

 笠門は身を引いて、ドアの向こうを見せる。その先にはリビングがあった。

「カメラは、リビングの一部を捉える事になる。犯行の一部始終が映っていたんじゃないか。だとすれば、犯人にとっては非常にまずい映像だ。だから何としても、携帯から映像のデータを、さらに、ペット用監視モニターのアプリそのものを削除する必要があった。阿刀さんの携帯を充電したのは、そういう事さ。犯人は最後に、この部屋に入り、監視カメラそのものも持ち去った」

 芦口は汗ばんだ額を拭う。

「いや、だけど、そんなカメラ、ボクは気がつかなかったな」

「君は我々に対し、遺体発見時、犬の部屋のドアは閉まっていたと証言しているね」

「ええ」

「中には入っていないと」

「本当に入っていないから」

「君は犬が気にならなかったのかい?」

「はぁ?」

「体調はどうか、ショックを受けていないか、エサは大丈夫か」

「いや、それはオレの仕事じゃないから」

「いつも世話していたのに、えらく冷たいな」

「何言ってんの。こっちは死体見つけたんだよ。犬の事なんか知るかよ」

「だがせめて、腹をすかしていないかくらい、心配すべきだろう」

「訳わかんねぇ。事件となんの関係があんだよ。だいいち、エサはいっぱいあったよ。皿に山盛り」

「……エサ皿にエサが山盛りになっていた事をどうして知っている?」

「はぁ?」

「エサ皿を山盛りにしたのは、阿刀氏が犬の散歩から戻ってきた後だ。君はいったいいつ、エサが山盛りにされた皿を見たんだ?」

「それは……死体を見つけた時だよ」

「ドアは閉まっていたんだろう?」

「少しあいてたんだ」

「残念ながら、エサ皿は犬が引っくり返してしまってね。朝方には床にぶちまけられていた。山盛りのエサを見る事ができたのは、阿刀氏が死んだ夜だけだ」

 芦口は唇を噛みしめた。

「いずれにせよ、阿刀さんの携帯は鑑識で解析中だ。アプリを消去したことも、君がばっちり映っている動画も、復元されると思う。阿刀を殺したのは、君だ」

 玄関のドアが再び開き、狭井と君塚が入って来た。観念した様子の芦口に、笠門はたずねた。

「動機は判らないが、殺害当夜に何かあったのか?」

 彼は冷めた目で淡々と答えた。

「突然呼びだされてさ。犬が自分の言う事をきかないのは、オレの世話の仕方が悪いからとか難癖つけてきた。クレーム入れるって言うから……。オレ、別の現場でもクレーム入れられてて、そんな事されたら、首になっちまう」

 狭井が芦口の肩を押さえる。

「あとは署でゆっくり聞く」

 笠門と数秒目を合わせた後、狭井は芦口と共に外に出た。君塚は深々と礼をして、後に続いた。

 笠門はずっとリビングの片隅で大人しくしていたピーボに近づき、頭をなでた。

「さあ、一つ解決だ。今日中にもう一つ、いこうか」

 

 警察病院の地下駐車場、エレベーターホール脇にある休憩所で、滝小田はくつろいだ様子で缶コーヒーを飲んでいた。

 専用のバンを駐車スペースに停め、笠門はピーボと共に、滝小田に近づいていった。

「そんなものを飲んで、大丈夫なのか」

 笠門の問いに、滝小田は微笑む。

「節制にも飽きた」

「傷の方は大丈夫なのか?」

「明日には退院だ。来週には職場にも戻れる」

「相手がいきなり銃をぶっぱなしてくるとは、おまえも計算外だったってわけか」

 缶を持っていた滝小田の手が止まる。

「何だと?」

「銃を持っていたのは計算外だったと言ってるのさ。慎重なおまえには珍しいミスだ」

「オレはいま、冗談を聞く気分じゃない」

「オレも冗談を言っているつもりはない。もう少しのところで、おまえの策にはまるところだった。おまえの目的は、須脇警視正の失脚。阿刀殺しを利用して大月刑事課長を容疑者に仕立てる。オレがそれに乗って大月を告発でもすれば、とんでもない大失態になる。犯人はほかにいたわけだからな。当然、上司である須脇警視正も責任を負わされる。ピーボの特命の件も表沙汰となり、彼は警察を追われる。そういう絵を描いていたんだろうが、残念だったな。ピーボのおかげで助かった」

 滝小田は忌々しげにピーボを見下ろし、口元を歪めた。その表情だけで、笠門の言葉が真実である事を裏付けている。

「刑事課長が、阿刀の件を事故死として処理させた事は本当だ。本格的な殺人事件の捜査となると困る。ヤツとの関わりを探られたくなかったんだろうな。浅はかな話さ」

「一課に情報をリークしたのは、おまえか?」

「いや。さすがは一課だよ。とっくに課長に疑いの目を向け、極秘裏に捜査を進めていた。オレはそれを更に利用させてもらっただけだ」

「新宿の件、容疑者にタレこみの連絡を入れたのは、おまえ自身だな」

「邪魔なオレを消すために、課長が容疑者を利用した。シナリオとしては上々だろう?」

「下手すれば死ぬところだったんだぞ。そこまでして、おまえは何がしたい?」

「組織にいる限りは上を目指す。当然じゃないか」

「おまえの背後に誰がいるのか……言うわけはないよな」

「当然だ。だが須脇警視正ならすぐに判るだろうな」

「警視正を侮るなよ。あの人は……」

「それで、大月はどうなる?」

「阿刀との癒着、不適切な捜査指導。表沙汰にはならんだろうが、依願退職ってところで落ち着くだろう」

 滝小田は忌々しげに笑う。

「散々動いて、刑事課長の首一つか。割に合わないな。ま、当分は所轄の一刑事として、大人しくしているよ」

 彼はゆっくりとエレベーターに向かった。

「残念だよ、滝小田」

 笠門はピーボとともに、車へと戻る。何ともやりきれない思いだった。ピーボもうなだれて元気がない。

「おい、ピーボ!」

 少年が駆けてくる。栗田蒼だった。

「今日、退院なんだ。来週の予定だったけど、早くなってさ。よかった。おまえ、いつものとこにいなかったからさ。もう会えないかと思った」

 少年はピーボをぎゅっと抱きしめる。

「ピーボ、ありがとな」

 少年はピーボの耳元でそう言うと、照れくさそうに立ち上がる。そのまま、振り返ることもなく、両親の待つ車へと駆けていった。

 その背中を、ピーボはじっと見守っていた。

 

(了)