六
店長室には、先ほど捕まった赤いキャップの男が今もうなだれて座っていた。店長室と言っても、窓のない圧迫感の強い狭い部屋で、事務机とラップトップがあるだけの、侘しい空間だった。
店長の星芦は、作業用のエプロンをしたまま、苦虫を噛みつぶしたような顔をしている。表情に生気がなく、疲労の蓄積ゆえか、背中が丸まり、目にも光がない。
笠門の姿を見た星芦は、わずかに表情を緩めた。
「ああ、刑事さん。助かりました。早く引き取って下さいよ」
うなだれた万引き犯を、ピシリと指さした。
「申し訳ない。別件なんですよ。彼の方は所轄の警察官をお待ち下さい」
「ええ?」
彼は泣きそうな表情を作ると、肩を落として壁にもたれかかった。
「いい加減にして下さいよ。これじゃ、仕事にならない。在庫のチェックや明日からのバイトの割り振り、仕事は山とあるのに……」
「この後、駅前交番によって、話をしてきます。ですから、こちらの質問に答えていただきたい」
星芦は自分のデスクに座ると、腕を垂らし、ため息をついた。
「期待しないで待ってますよ。それで、質問って?」
「ダミーの件ですよ」
感電でもしたように、星芦の上体がはねた。笠門は彼を睨みながら、声を落として続けた。
「私ね、ある女性の万引き現場を見たんですよ。それで保安員の人に報せたら、彼女はダミーだって。だから無視するんだって、言われました」
星芦は、思い詰めた表情で口を固く引き結んでいる。笠門はさらに距離を詰め、彼の顔をのぞきこんだ。
「オタクさんたちが契約している警備会社に問い合わせてみたんですがね、ダミーで保安員のスキルを計るなんてこと、一度もやっていないそうなんですよ」
笠門の背後では、意気消沈していた万引き犯が、何事が始まったのかと興味津々の目でこちらを見ている。
「星芦さん、どういう事なのか、説明してもらえませんかね。これ、もしかすると、あなたの一存なんじゃないですか? 万引きの現場を見つけても、あの女、鍬田有紀だけは捕まえないようにっていう」
「いや、それは……その……」
星芦は額の汗を袖で拭い取る。
「理由を聞かせてもらえない?」
首を左右に振り続ける星芦に、笠門は微笑みかけた。
「万引き犯をわざと逃がしたこと、あいつに話してもいいんだぞ。その上で、オレは部屋を出て行く。部屋には、おまえとあいつの二人だけ」
「待って!」
星芦はすがりついてきた。
「話す、話すから、この事は……その……内緒にしておいて」
笠門は万引き犯を振り返る。
「オレはこの人と話があるから、大人しく待ってろ」
「何だよそれ。どんだけ待たせんだよ」
「ガム二つ、高くついたな」
星芦の背を押すようにして、廊下に出る。店長室は廊下奥にあり、従業員も滅多にやって来ない。壁際に星芦を押しやり、笠門は彼の答えを待った。
「頼まれたんですよ、爺さんに」
「頼まれたって何を?」
「あの女が万引きしても、捕まえないでくれって」
「それをあんたは受けたのか」
星芦の目が泳ぐ。後悔と羞恥の念が色濃く浮かんでいた。
「金を貰ったから……まとまった金を……」
「その男について、知っている事を話せ」
「名前も何も知らない。そんな事する訳もきかなかった」
「警察相手に、そんな言い訳が通用すると思ってるのか」
「ほ、本当なんだって」
「依頼を受けたのはいつ?」
「ボクがここの店長になって一ヶ月の時だったな……」
「二ヶ月前か。で、あの女の万引きを見逃したのは、どのくらい?」
「五回。保安員にはダミーだから手をだすなって言ったけど、報告だけは入れるように言っておいたから」
「上手い手を考えたな。これなら、保安員が警備会社に報告する事もないからな」
「それも、爺さんに教わったんだ」
「しかし、女に逮捕歴はない。それだけの頻度で万引きを繰り返していたとしたら、一度くらい、捕まりそうなもんだけどな」
「ボクが店長になる前、ここは万引き天国って呼ばれてた。前の店長がいい加減でね。その時は保安員も入れてなかったんだ」
「なるほど。つまり以前から、女はここで万引きをしていた可能性が高いわけだ」
「あの……知ってる事はみんな話した。もういいだろう?」
笠門は星芦の肩を掴む。
「爺さんの情報が欲しいんだよ。それが済むまでは、もう少し付き合ってもらう」
「そいつ、逮捕するのか?」
「いや。別の事件の事で、話をききたいだけなんだ。居場所とか知ってたりする?」
「でも、ボクが話したとバレたら……」
「大丈夫。君に迷惑はかけない」
星芦には申し訳ないが、口を割らせるための方便だ。実際のところ結末がどうなるのかは、当の笠門にも判らない。
星芦は踏ん切りをつけるように、一つ大きく息を吐くと、スーパー入り口の方向を親指で示した。
「店の向かいあたりにいるんじゃないかな。あの女が来る時は、店の前で見張ってるんだ」
「店の前にいる?」
「八十近い爺さんだよ。身なりも良くない。だけど……金は持ってる」
「つまり、かなり年の離れた男が、女を監視してるってことか? そして男は、おまえに金を掴ませ、女の万引きをもみ消している」
星芦は「まあ」とつぶやいてうなずいた。怒りが突き上げてきた。この場にはピーボもいない。
「ふざけるな!」
笠門の怒鳴り声に、星芦は身を縮めた。
「おまえは金を受け取り、放っておいたのか。ストーカーとか、恐喝とか、そんな可能性を何も考えなかったのか?」
「そんなの……オレ、知らねえよ」
「いい年した男が、知らねえで済むかよ」
言い捨てると、笠門は携帯を取り、五十嵐にかけた。
「有紀はもう店を出たか?」
「いま、出てきました」
「店の近くに、八十代くらいの男がいないか」
「いきなり言われても、ここはスーパーですよ。たくさんいます」
「ピーボだ。ピーボの反応を見ろ」
「そんな事言われたって、判りませんよぉ」
笠門は通話を切ると、従業員通路を走り、いったん店内に戻る。混雑をかわしながら、出入口へと向かった。
外に出ると、遥か向こうにトボトボと歩いて行く有紀の後ろ姿があった。
「笠門さん!」
ピーボを連れた五十嵐がやって来る。ピーボは笠門の前を悠々とした足取りで通り過ぎ、そのままスーパー前の歩道に出る。
「お、おい、ピーボ」
歩道の真ん中でピーボがじっと見上げているのは、バケットハットを目深にかぶった老人だ。茶色いトレーナーを着て、視線は先を行く有紀の後ろ姿に注がれていた。笠門はその顔にハッとする。
「斑尾頼広……」
向こうも笠門の存在に気づいたようだった。身分証をだすまでもなく、こちらの素性を感じ取ったようだ。
「何てこった。最近の刑事は、犬を連れてんのかい」
七
後部シートで気持ち良さそうに丸まるピーボを、斑尾は目尻を下げて見つめている。
「犬ってのはいいな。何だかこう、すっと心を持っていかれるっていうか」
笠門の車の助手席に斑尾は座っている。二人の目は、向かいにある有紀のマンションに据えられたままだ。
「しかし意外だったな。警察が動くとは思っていなかった」
「苗場の名前はタブー扱いだからな」
「たとえヤツが帰国しているとの情報を得ても、あんたらは無視を決めこむと思っていた。恥の歴史を、自分から掘り返すことはないもんな」
「オレはこの通り、変わり者の警察官だ。出世とかそうしたものからは外れている」
「詳しい事をきくつもりはねえよ」
「オレの方はそうもいかない。いろいろきかないとな。おまえ、どうして、ここにいる? なぜ、鍬田の一人娘につきまとう」
「人聞きの悪い事言うなよ。ここにいるのはただの偶然。たまたま道歩いてたら、警察官に呼び止められた。そして驚いた事に、その警官は、友達だった男の娘を張っていた。偶然、たまたま。そういう事さ」
笠門は後ろを振り向いて言った。
「だそうだ、ピーボ」
ピーボが尻尾をペタンと左に倒した。
「おまえの言ってる事は嘘だそうだ」
「犬にそんな事が判るのか?」
「判るんだよ、ピーボには」
「けっ」
「狙いは苗場か。鍬田の仇を討つつもりか?」
答えはない。顔を覗いてみたが、百戦錬磨の男の表情からは、何も読み取れない。
「苗場が戻ってくると思うのか? ヤツは彼女の父親を殺したんだぞ。合わせる顔なんてないだろう」
「普通の感覚ならな」
「あんたは、どう思うんだ?」
「ヤツは戻ってくる」
「根拠は」
「勘だ」
やり合うには器が違いすぎるようだ。笠門は攻める方向を変えた。
「スーパーの店長に金をやり、彼女の万引きをもみ消そうとしたのは、なぜだ?」
「有紀が逮捕でもされたら、苗場は姿を見せなくなる。それでは困るからな」
「つまり、やはりあんたは、苗場を殺す気でいる」
「だったらどうする? オレはまだ何の罪も犯しちゃいない」
「万引きを見逃すよう、店長に金をやる行為は、犯罪じゃないか?」
斑尾は低くくぐもった声で笑った。
「じゃあ、逮捕でも何でもすればいい」
深く刻まれた皺に鋭く尖った鼻。積年の労苦が忍ばれる険しい顔付きだが、元はと言えば、窃盗、果ては現金強盗などという犯罪に手を染めた彼自身に原因はある。そんな男の目に今浮かんでいるのは、深い哀れみだった。
ピーボが座席の間にふいっと顔をだし、斑尾の握りしめた拳に触れた。
「何だ、びっくりするじゃねえか!」
彼は厳しい目でピーボを睨みつけていたが、それも長く続かなかった。
「そんな目で見るなよ」
目をそらし、落ち着かなげに肩をゆする。ピーボはその場を動かない。
「妙なコンビだな」
斑尾は苦々しく笑うと、そっとピーボの頭をなで、言った。
「あの女はな、窃盗症なんだよ」
意味を飲みこむまでに、数秒を要した。
「根拠は……あるのか?」
「苗場が帰国してるって噂を聞いて、オレは彼女を見張り始めた。半年ほど前のことだ。年寄りが一人でやる事だ。どこまでできるかは判らなかったがな。もっとも、平日、彼女は働いている。その間の接触はないと考えた。あるとすれば、夜だ。平日の夜は、オレもこの駐車場に車を停めて見張っていた。問題は休日だ。二日間、一人で張り付くのはきつい。だが、彼女はほとんど外出しなかった。友人や恋人と出かける事もない。ずっと家に閉じこもっている。そして、出かけるのは、あのスーパーだけ」
「現場を見たんだな?」
斑尾はうなずいた。
「食料品を買う合間に、菓子パンをポケットにねじこんでた。以前、あのスーパーは万引き天国のような場所だった。たまにヘマしたヤツが見つかっても、警察に通報はせず、その場で金を払わせて帰してたらしい」
「その頃から、有紀は頻繁に万引きを?」
「ああ。だが捕まった事はない。万引き犯としては、優秀なのかもな」
皮肉な笑みを斑尾は浮かべた。彼の言葉は、星芦店長から聞いた事と一致する。
「店長が代わり、万引き対策が厳しくなった。そこであんたは、彼に金を掴ませ、有紀を守った」
「それが元で、あんたに素性がバレた。オレも焼きが回ったよ」
「それで、クレプトマニアというのは、間違いないのか? あんた、専門家じゃないんだろう?」
「人生の大半をムショで過ごしてきた。あんたより、いろいろ知ってるさ。ただ窃盗症ってのは、今もまだ研究途上の病気だ。まあ、病気と呼ぶ事にすら懐疑的な者もいる」
「クレプトマニアの特徴は衝動性と強迫性。同じような特徴を持つ障害は多い。摂食障害やアルコール依存などとの合併によって引き起こされる事例も多い」
斑尾は不満そうに鼻を鳴らした。
「あんただって、詳しいじゃねえか」
過去に看護師経験がある事は、話す必要もないだろう。いずれにせよ、斑尾のクレプトマニアに対する知識はそれなりに深いようだった。
「これはオレの勝手な見立てだが、窃盗症患者の中には、長年強いストレスを抱えて生きてきた者が多い。万引きの緊張と達成感のようなものが刺激となって、繰り返しちまう者もいるらしい」
「有紀はそのパターンに当てはまると?」
「夫が実の父親を殺し、しかもその父親は現金強奪犯の一人だった。それだけでも、大変なストレスだ」
「夫はそのまま姿を消し、自身は一人暮らしか……」
「会社の人間がその事を知っているかどうかは判らんが、いずれにせよ、肩身の狭い思いをしているだろうな」
パーカーをはおり、常に俯いて歩く有紀の姿がよみがえる。斑尾は続けた。
「彼女が盗むのは、決まって菓子パンだ。それも一つか二つ。ポケットに入れたり、エコバッグに放りこんだりする。だが、他の物はきっちりレジを通す」
「会社員だから、それほど困窮しているわけでもない──」
「何度かゴミを確認した事がある。盗んだと思われる菓子パンは、封も切られず捨てられていたよ」
「なるほど。病院にはかかっているのか?」
「その感じはないな……」
斑尾は黙りこんだ。笠門も、これ以上、言うべき言葉を持たなかった。
時間だけが過ぎていき、その日、有紀は姿を見せなかった。
(つづく)