第二話 犬が気づく
一
特別病棟に入ると、ピーボの表情は硬くなる。緊張がリードを通して伝わってきた。
笠門はナースステーションに会釈をして、病棟へと続く廊下を進む。看護師長の柴田がピーボに微笑みかける。耳を微かに動かして応えるピーボだが、普段のような人なつっこさは影をひそめていた。
「すまないな、ピーボ」
歩きながら、笠門はいつも心の内でピーボに詫びる。ファシリティドッグとしての訓練を受け、患者に寄り添うために病院へとやって来た。そんな犬に、まるでスパイのような真似をさせているのだから。
病棟の前で、笠門は首輪を録音機付きの特別なものと交換する。黒く重い首輪を、ピーボは嫌がることなくつけてくれる。自分が何をしているのか、何を求められているのか、ちゃんと判っているのだ。
こうして一緒に廊下を歩くのは何度目だろうか。上手くいった時もあれば、酷い結果に終わった事もある。
結果の善し悪しを、ピーボは即座に感じ取る。上手くいかなかった時は、傍で見ていて心配になるほど悄気かえる。「大丈夫だ」と何度も言うが、なかなか元のピーボには戻ってくれない。
「すまないな、ピーボ」
また心の内で詫びる。人の暗い負の側面を見せつける事は、大きなストレスになっているに違いない。それでもピーボは、いつも笠門と共に歩いてくれる。だから、すぐに詫びてしまう。
七〇三号室の前で、笠門はいったん立ち止まる。「栂池七朗」のネームプレートを確認するためだ。ピーボも足元に座り、笠門の視線の先を追っている。顔付きは引き締まり、先ほどまで小児病棟の子供達とふれ合っていたときのような穏やかさはない。既にスイッチは切り替わっていた。
「行こうか、ピーボ」
リードを取り、病室内に入る。ここに運ばれてくる患者は重症の者がほとんどだ。室内の光景はいつも同じ。ベッドを囲む医療機器、脈拍を報せる電子音、点滴台、体に繋がれた何本ものチューブ。痩せ衰えた細い腕。
枕に乗った栂池の顔は青白く、唇も色をなくしていた。薄い布団がかけられているので、肩から下は確認できないが、相当に痩せ、衰弱しているものと思われる。
彼の病名は大腸癌。積極的治療はもう行われていない。
栂池は呻き、もぞもぞと体を動かした。笠門が指示を与えるまでもなく、ピーボはするりと見舞客用の椅子に上がり、枕脇に座った。じっと栂池に視線を注ぐ。
その気配に、彼は目をわずかに開いた。薄く茶色がかった潤んだ瞳に、ピーボの波打つ金色の毛が映りこんでいた。
「オレぁ、死んだのかい」
ピーボに向かって腕を伸ばそうとするが、点滴の管が邪魔をして、動かす事ができない。それを察したピーボは、自ら顔を寄せ鼻先で栂池の手の甲をそっと突いた。
栂池の目に僅かに生気が宿る。
「犬……本物かぁ」
彼の目から、はらりと涙が落ちた。
「こんな立派な犬……」
笠門は録音機が拾う声を聞くためイヤホンを装着、気配を悟られぬよう、ドアの脇へと移動する。
ここからは、ピーボの領分なのだ。
イヤホンからは栂池の荒く乾いた息づかいと、苦痛による唸り声が交互に聞こえてくる。意識がどの程度あるのかも、はっきりしない。規程の時間は三十分。笠門は壁にもたれ、ただじっと待つ。
栂池は窃盗の常習犯として、四度の逮捕歴を持つ。今年で八十六歳。一九九〇年代から二〇一〇年にかけ、関東圏を中心に資産家宅を荒らし回った居空き専門の窃盗犯だ。綿密な下調べと経験からくる野性的な勘で、住人の在宅中に盗みに入りながら現金から古美術までを鮮やかに盗み去る──。各所轄の刑事課をキリキリ舞いさせた事で、捜査員の脳裏にその名前を刻みこんだ。警察学校の教本内に用いられる事例の中には、栂池の犯行がいくつも取り上げられている。
逮捕歴もある事はあるが、最初の二回は一九六〇年代、まだ駆けだしの頃のもので、数年で出所している。三回目の逮捕は二〇一一年。彼が犯行に及んだ邸宅の付近で偶然火災が起こり、その際、行われた職務質問で逮捕に至った。相当数の余罪もあったため、懲役十年の実刑。八年で仮釈放となり、その後の消息は途絶えた。
栂池の名前が再浮上したのは、今から三年前だ。世田谷の邸宅に侵入した際、防犯システムが作動。駆けつけた警備員の通報により、現行犯逮捕された。
かつて「昭和の大泥棒」と言われた栂池も、寄る年波には勝てず、逮捕時の所持金は四千円ほど。定職はなく、安アパートに起居し、食べるものにも事欠く有様だったという。
懲役三年の実刑判決を受けたものの、昨年、健康診断で癌が見つかり、東日本成人矯正医療センターへ送られた。
今回、彼が特別病棟に送られる事になったのは、いまだ自白していない相当数の余罪があると警察上層部が睨んでいるためだ。
二〇一一年に逮捕された際、栂池は取り調べに素直に応じ、自身の犯行を詳らかに語ってみせた。
その一方で、巧妙に隠し通した事案も少なからずあると、警察は考えていた。それに加え、栂池の手口が巧妙であるがゆえに、盗まれた事に気づいていない場合、あるいは、被害品に不正が絡んでいるため、被害届がだせない場合も複数ありと睨んでいた。
二〇一九年に釈放されてから三年前までの足取りが不明という点も、上層部は気にしていた。どこかで大きな「勤め」をしていたのではないか。
ピーボを通じ、何かそうした情報の一端でも掴んでほしいというのが、笠門に与えられた任務でもあった。
窃盗事件の公訴時効は七年。今さら真相が知れたところでできる事は限られているだろうが、被害届がだされなかった「隠された事件」の被害品を追う事で、思いがけない事案にぶつからないとも限らない。
警察にとって情報は常に宝である。罪人の持つ情報は、何としてもすべて絞りだしたい──のが本音なのだろう。それがたとえ、人の尊厳を踏みにじるものであっても。
「がっ」
痰の絡んだような呻きがイヤホン越しに聞こえた。患者の容態に変化があれば、すぐに聴取を打ち切り、看護師に連絡をする。それが鉄則だ。笠門は顔を上げ、ベッドを見るが、大きな変化は見られない。第一、栂池に何かあれば、即座にピーボが反応するだろう。
「ががっ」
また呻き声が聞こえる。ピーボがちらりと笠門を振り返るが、すぐにまた栂池の方に向き直る。心配いらないって事か?
「ががが」
これは呻き声じゃない。笑い声だ。
栂池はピーボと目を合わせて笑っている。
「犬……こんなところで……やっぱり半分、死んでんだな、オレは」
擦れ声でつぶやくと、また、ひとしきり笑う。
「こんな……情けない話さ……」
ピーボは鼻を鳴らしながら、節くれ立った栂池の手をチョコンと突いた。
「へっへっ、くすぐったいよ。こんな死に損ないに優しくしてくれんだなぁ」
栂池は泣いているようだった。弱々しい嗚咽が、イヤホンを通して笠門の耳を打つ。
この男から聞くべき事は何もない。そう感じていた。彼に必要な事は、残る時間を安らかに送る事だけのはずだ。
「ああ」
意識が混濁してきたのか、栂池は意味不明な声を上げている。
時間だ。笠門が壁から体を離したとき、栂池の声が響いた。
「苗場颯太は戻ってきてる」
思いがけない名前に、笠門は思わず息を止めた。
「噂を聞いた。今さら、どの面下げて……なあ……」
言葉は途絶えた。
笠門はそっとベッドに近づき、ピーボの背中越しに栂池の様子をうかがった。
彼は顔をピーボの方に向けたまま、意識を無くしていた。涙が幾重も頬を伝った跡が残っていた。
二
「苗場颯太。たしかにそう言ったんだな」
笠門の報告書を前にして、須脇警視正の表情に光がさしていた。
「報告書に書いた通りです」
昨日は警察病院から直帰し、報告書を作成、深夜に須脇へと送信した。それから一時間で返事が届き、朝一番の出頭を命じられた。須脇はほとんど寝ていないのだろう、目の下に薄らと隈ができている。にもかかわらず、目はぎらつき、つかみ所のない微笑みを浮かべていた。
「苗場の名前は、当然、知っているよな」
笠門はうなずく。
「当然です。警察庁指定重要指名手配被疑者の一人ですから」
「海外に逃亡したと思われていたが、まさか戻ってきているとはな」
「ですが、意識をなくす寸前の証言です。どこまで信用できるか」
「無駄になれば、それはそれで構わん」
「私の時間は無駄にしても良いと?」
「警察の仕事はほとんどが無駄だ。無駄の積み重ねの中に、事件解決がある」
下手に須脇を刺激すると、さらに持論を展開し、無駄な時間を過ごすハメになる。今日は早めに出て、ピーボをジムに連れて行ってやりたい。朝、ジムで使うタオルをバッグに入れるところをピーボは見ている。勤務後、ジムに行くと察しをつけているに違いない。ピーボはジムが大好きだ。もう行く気満々になっているだろう。ここで期待と違う行動を取れば、酷くヘソを曲げるに違いなかった。
ファシリティドッグとして、完璧な勤務をこなすピーボだが、勤務終了後、つまりオフの時間には、笠門も手を焼く、わがままな犬に戻る。ピーボのご機嫌はなるべく損ねたくないのが本音だった。
「苗場颯太は、義父を殺害し、自宅にあった七千万を持って逃亡したんでしたね」
「それが五年前だ。七千万という金額は推定だがね。その金を使ったのか、空港等で水際作戦を敷いて待ち受けた我々を、あっさり出し抜いていった」
「殺害された義父というのは、鍬田五稜。彼は……」
須脇はさっと手を挙げ、笠門を制した。
「その辺の状況はこみ入っている。五十嵐巡査に資料を依頼しておいたから、そっちで聞いてくれるか」
「了解です」
その方が、こちらも助かる。
「進展があったら、俺に報せろ。直にだ」
「了解です」
苗場の身柄を確保すれば、大手柄だ。そして、手柄は須脇の大好物でもある。
実際に動くのはこっちなのに。まったく勝手なもんだ。
ピーボに向かって微笑みかけると、こちらの心中を察したのだろう、そっと体を足にすり寄せ、尻尾を数回、振ってくれた。ピーボ流の励ましだ。
「ありがとう、ピーボ。今日はジムに行くが、その前に、ひと仕事だけ済ませよう」
三
五十嵐いずみは、笠門の顔を見る事もなく、パソコン画面に目を落としたまま、USBメモリをさしだした。
「今朝、須脇警視正から依頼がありまして、さきほど、まとめ終わったばかりです」
警視庁地下三階にある資料編纂室は、薄暗く、埃っぽく、少々、黴臭かった。こんな場所で、よく仕事ができるものだと、訪れるたびに思う。たった一人、誰と口をきくこともなく、日々、捜査資料の電子化作業を行う。笠門なら、半日ともたないだろう。
「これでけっこう開放的な仕事なんですよ。いろいろな時代を体験できるし、見聞も広がりますから」
五十嵐はそう言って晴れやかに笑ってみせる。たしかに、資料は終戦直後のものから、各時代を揺るがす大事件も含まれている。捜査資料を読みこみ入力するわけだから、たしかに見聞は広がるだろうが……。
とにかく、変わったヤツだ。
今も彼女はパソコン──五十嵐はこいつに「ポルタ」という名前をつけている──に向かい、驚くべきスピードでキーを叩いている。
「ピーボは元気ですか?」
キーを叩きながら、画面から目もそらさず、五十嵐はきいてきた。
「ああ、おかげさまでな」
資料編纂室は、捜査資料の入った段ボール箱でいっぱいであり、空気も悪い。ピーボを連れてくるにはふさわしくない環境ということもあり、ここに来るとき、ピーボは二階の互助組合に預ける事が恒例となっていた。仕事中、ピーボと笠門が離ればなれになる事は滅多にないが、これは数少ない例外の一つだった。
「鍬田五稜殺しだが、現在に至る経緯はかなり複雑だな」
「ええ。殺人事件の被害者が未解決の現金強奪事件の犯人だったわけですから」
「しかも、殺しの犯人、苗場の逃亡を許した上、こちらも未解決。泥の上に泥を塗られたようなものだな」
「二つの事件で、出世がふいになった人もかなりいるそうです。苗場颯太の名前を不用意にだすと、睨まれたりするとか」
笠門は自分で調べた事件のあらましを、頭の中に思い浮かべる。
「現金強奪が起きたのは一九九三年の夏──」
「ええ。岸田銀行森町支店で、一億九千万の入ったケースが二人組の男に強奪されました。輸送に当たっていた警備員二人は、特殊警棒のようなもので殴打され、全治二ヶ月の怪我を負っています」
「輸送車の中の金をいったん下ろし、銀行の中に運びこむまでの、一瞬をついた犯行だったな」
「警備が手薄である事は、以前から指摘されていましたが、改善はされていなかったと」
「犯人二人組のうちの一人は、三週間後に逮捕されているな」
「斑尾頼広、前科三犯。いずれも窃盗です」
「栂池の同類か」
「腕は彼ほどではなかったようで、当時の生活はかなり荒れていたようです。逮捕には至ってませんが、喧嘩沙汰で何度か捜査資料に名前が。ちなみに、喧嘩沙汰の原因は大半が女性関係だったようです。定職にもつかず、生活は相当に逼迫していたとの証言もあります」
「それで現金強奪か」
「退職した元警備員から、森町支店の現金輸送全般についての情報をききだしたんですね。退職者を当たるのは、捜査のセオリーでもありますから、そこから足がつき、緊急配備。その結果、事件から二日後、静岡駅で身柄を確保されました。強奪された現金の約半分、九千万円を所持していたため、任意同行して取り調べを行い、自白を得た──」
「だが、共犯者については、完全黙秘……か」
「斑尾については、多くの捜査員が首を傾げていたようです」
五十嵐は自身も首を傾げながら続けた。
「退職者から彼の名前が出ることは判っていたはずで、それにしては逃走の動きが鈍い。犯行はあっさり自白したのに、共犯者の名は言わない」
「九千万を持っていたっていうのも引っかかるな。普通はいったんどこかに隠すなりするはずだし、そのための時間は充分にあった」
「でも、共犯者の名前だけは、最後まで口を割らなかったんですよねぇ。そのせいもあって、懲役二十年。模範囚だったようですが、仮釈放もなしでした」
「今は娑婆にいるわけか」
「現在の居所は不明となっています」
「共犯者に関する手がかりはあったんだよな」
「警備員ともみあったさい、指に怪我をして、警備員の制服に微量の血痕が付着しています」
「今なら、微量でもDNA鑑定もできる」
「そういう事です。ただ、それ以外は何の手がかりもなく、迷宮入り。未解決のまま公訴時効の十五年を迎えました。ただ、二〇二〇年に、思いがけない形で共犯者が判明します」
「鍬田五稜だな」
五十嵐の話を聞きながら、笠門は無意識のうちに右手でリードを探していた。ピーボがいない事を思いだし、慌てて手をポケットに入れる。その様子を見た五十嵐が、吹きだした。彼女の前で、何を取り繕っても仕方がない。ポケットから手をだすと、笠門は照れ隠しに首を振る。
「あいつがいないと、どうも……な」
五十嵐は申し訳なさそうに、周囲を埋める段ボール箱を見上げる。
「もう少し環境を整えたいんですけど、とにかく、次々と書類が運びこまれてきて」
「巡査のせいじゃないさ。あとはゆっくり、自宅でみさせて貰うよ」
USBメモリを掲げながら、出入口のドアへと向かう。
「ピーボによろしく言っといて下さい」
そういう五十嵐の目は、既にパソコン「ポルタ」の画面に向いていた。
世田谷にある自宅マンションのリビングで、笠門は五十嵐から預かった情報を確認していた。専用のタブレットに次々と表示されていく書類を目で追いつつ、涙を流しながら意識をなくした栂池の事を思い起こす。病棟からの連絡では、その後意識は回復したものの、状態は良いとは言えず、しばらくは予断を許さない状況が続くという。
リビングの片隅では、お気に入りの犬用ベッドの上で、ピーボが丸くなって眠っている。ジムに行き、久しぶりに大好きなインストラクターと泳いだ。ご機嫌で帰宅したピーボはいつもより少し早い時間に就寝した。毛並みの状態もよく、エサもたくさん食べる。健康状態に問題はないようだった。
笠門はタブレットに目を戻す。
鍬田五稜は、二〇二〇年の七月三十一日、練馬区石神井の自宅マンションのキッチンで絞殺死体となって発見された。発見者は彼の一人娘、有紀、二十六歳。
一DKのマンションには、被害者と娘のほかに、娘の夫、苗場颯太が住んでいた。だが彼の居所は判らず、携帯等にも応答はなかった。
義父の鍬田と苗場が日頃から不仲であったこと、高級車のディーラーであった苗場が投資に失敗し多額の借金を負っていた事などが次々に発覚。事件当日、マンションを慌てて出て行く苗場の姿を見た者もおり、彼の犯行である事はほぼ間違いないとして、警察はその行方を追った。
結果として、苗場は事件当日には、成田から韓国に向けて出国していた事が確認されている。空港内の防犯カメラ映像、タクシー運転手の証言など、それを裏付ける証拠は複数あった。出国の際、用いられたのは偽造パスポートであり、それはこの犯行と逃亡が事前に計画されたものである事を物語っていた。
「問題は動機だよな」
笠門は独り言をつぶやきながら、画面をスクロールしていく。五十嵐いずみがまとめた資料は、こちらの思考を先読みしているかのような構成がなされており、ただ漫然と時系列順に並べられた捜査ファイルとは、理解の程に雲泥の差があった。
思った通り、鍬田殺しの動機部分についてまとめたものが現れた。
被害者の鍬田五稜は、一九五九年生まれ。両親は蒲田でオモチャ屋を経営。高校卒業後は、鍬田も店の手伝いを始めている。七十九年、八十年に、父母を続けて病気で亡くし店の経営を引き継ぐ。八二年に地元の女性と結婚。だが店の経営は思わしくなく、生活は相当に逼迫していたようだ。九十四年に娘有紀が生まれるが、翌年、鍬田の妻は体調を崩し、半年後に死亡。病名については、記載がない。
鍬田は廃業寸前のオモチャ屋の店舗、土地を売却し、その金で娘と共にマンションに移った。その後は、タクシー運転手をしながら、暮らしていたとある。
父一人、娘一人の慎ましい生活をしていた男を、なぜ娘の夫は殺さねばならなかったのか。
たしかに苗場は派手好きで金遣いも荒い。鍬田とは性格も生き方も真逆である。娘有紀も、そんなところに惚れたのかもしれない。
父と義理の息子は生活態度を巡って諍いを繰り返していたが、だからといって、それが殺意に結びつくほど深刻なものとは思われなかった。
娘有紀への聴取も度々行われたが、彼女にも思い当たる点はないという。
事態が動いたのは、鍬田が自宅で使っていた衣装棚の隅に落ちていた一万円札が見つかった瞬間だった。その紙幣番号が、岸田銀行で強奪されたものと一致したのだ。
すぐさまDNA鑑定が行われ、警備員の制服に付着した血痕と鍬田自身のDNAが一致をみた。
鍬田五稜こそが、先に逮捕された斑尾の共犯者だ。
「斑尾は鍬田が経営していたオモチャ屋の常連。斑尾の趣味は、模型作りかぁ。捜査陣も痛恨の見落としだな」
事件当時、鍬田の生活は逼迫していた。彼も金が喉から手が出るほど欲しかったはずだ。そこに目をつけた斑尾が、鍬田に犯行を持ちかけた──。
「慎ましやかにみえた鍬田の自宅に、一億近い現ナマか」
何らかのきっかけでその存在を知った苗場は、鍬田を殺し、妻を捨て、金を持って逃げた。
笠門はタブレットの電源を落とす。大きな音をたてぬよう、そっとリビングを出ると、キッチンでコップに水を注いだ。ファシリティドッグのハンドラーを目指し始めてから、酒は一滴も飲んでいない。
喉を潤すと、明日からの行動について思いを巡らせた。
苗場が日本に戻っている。栂池の証言だけでは、情報が少なすぎる。しかし、苗場はなぜ、今ごろ戻ってきたのだろう。もっとも考えられるのは、持ち金を使い果たしたためだ。一億など、海外での逃亡生活を維持するにはまるで足りない。
食い詰めて戻ってきた。そして、頼るとすれば──。
「当然、カミさんだよな」
(つづく)