最初から読む

 

 

 現場となった阿刀の自宅は、目黒川の遊歩道に沿って建つ、低層マンションの一階だった。

 現場の封鎖はとうに解かれていて、管理人に身分証を提示して、あっさり入る事ができた。管理人はピーボに不審な目を向けていたが、警察官の相手はし飽きたのだろう、浮かない顔のまま、何も尋ねてはこなかった。

 部屋は思っていたよりも広く、リビングダイニングのほかに部屋が二つ。双方とも六畳ほどで、一方にはシングルサイズのベッド、もう一方には、巨大な犬用のケージが置かれていた。一人暮らしであれば充分過ぎる広さだが、ラブラドールほどの大型犬を飼うには、少々手狭だ。

 笠門は犬用の部屋に入ってみる。壁にはまとめ買いしたと思われるエサが段ボールに入ったまま積み上げられていた。その横の戸棚にはリードや首輪などが雑に置かれ、床には引っくり返ったエサ皿とそこから散らばったエサが、今もそのまま放置されている。

 五十嵐の資料によれば、警察の臨場時、部屋の床にはエサが散乱していたという。ケージから出た犬がエサ皿を引っくり返したらしいのだ。エサは相当な量で、皿に山盛りに入っていたと思われる。

 こんな環境で暮らしていた犬の事を思うと、胸が苦しくなる。

 ピーボもほかの犬の臭い、劣悪な境遇の気配を感じ取っているのだろう。部屋には入らず、戸口でそわそわと落ち着かない表情で、こちらをうかがっている。

 この部屋に長居は無用だな。

 笠門は現場となったリビングに戻る。そこはいまだ現場保存が続いているようで、テーブルの角の血痕、流しに置かれた酒瓶などがうっすらと埃をまとった状態で放置されていた。血がついていたという充電器も既に外されており、携帯も回収されていた。鑑識作業もなされた後で、今さら現場で目を凝らしても、新たな発見はないに等しい。

 淀んだ空気がピーボに悪影響を与えるかもしれない。目黒川方向に向いた窓を開けると、ピーボが近寄ってきた。爽やかな風が吹きこみ、笠門もようやく人心地がついた。

 開いたままの玄関に、気配がした。赤いキャップをかぶり、黒い作業用ジャンパーをはおった男が、不安げな面持ちで立っていた。

芦口あしぐちあきらさん?」

 笠門が声をかけると、キャップの鍔に手をやりながらうなずく。笠門は玄関口まで行き、身分証を示した。

「ご足労いただいてすみません。あなたが、阿刀氏の遺体を発見されたんでしたね?」

「はい……。その辺のことは、警察に何度も話しましたけど」

 芦口は三十二歳、駅前にある便利屋「モットクレロン」の従業員だ。

「申し訳ない。もう一度だけ、話してもらいたくて……」

 ピーボが奥の部屋から、トコトコと廊下に出てきた。

「うわっ、でかい犬……え、もしかして、ここにいた犬の親戚か何かっすか?」

「こいつの名前はピーボ。ピーボはゴールデンレトリバー。ここで飼われていたのはラブラドールレトリバーで、犬種が違うんだ」

「そ、そうなんすか」

 芦口はピーボに近寄ろうとはせず、どちらかというと、距離を置きたがっているようにみえた。一方、ピーボの方は足を止めることなく、近づいていく。彼に興味があるようだった。

「ピーボ、ステイ」

 笠門に言われ、その場でピタリと歩を止める。

「芦口さんは、阿刀氏の依頼で、犬の世話をしに来ていたんでしたよね」

「はい」

「しかし、見たところ、犬はあまり得意ではないようだ」

「いや、嫌いってわけじゃないんですよ。ただ、犬を飼った事ないんで、こんだけでっかいのが来ると……」

「阿刀氏の犬も、そこそこ大きかったと思いますが」

「そっちは仕事だったんで。ほかにもスタッフはいたんですけど、阿刀さん、細かい事にけっこううるさくて、務まる人、いなかったんです。それで、オレが」

「あなたは、文句などは言われなかった?」

「ええ。事前にマニュアルもらって、その通りやってましたから」

「そのマニュアルというのは?」

「エサの量、あげる時間、散歩の時間とコース、その辺のことがきっちり書いてありました。二回くらいやれば、あとは同じことの繰り返しなんで、仕事としては楽な方でしたよ」

「ここに来る頻度と時間は?」

 同じ質問を何度もされてきたからだろう、彼は淀むことなく答える。

「二日に一度です。来る日は、午前中に一度と夕方にもう一度来ます。エサやりと散歩」

「遺体を見つけた時も……?」

「ええ。いつもと同じ午前十時に、インターホンを鳴らしました。応答がなかったんで、鍵で入りました」

「鍵は預かっていた?」

「はい。阿刀さん、留守が多かったから」

 笠門は芦口と共にリビングに戻った。

「遺体を見つけた時の状況を聞かせてもらえますか」

 芦口は「またか」とばかり、うんざりした表情を見せたが、不平を言ったところで警察は聞く耳を持たないと経験上、判っているのだろう。気怠そうな口調ながら、話し始めた。

「応答がなかったんで、留守と思って入ったんです。そしたら、そこに、阿刀さんが倒れてて。血が、ばっと」

 テーブルの脇を指で示す。カーペットにしみこんだ血の染みは、今も生々しく残っていた。

「で、びっくりして警察を呼んだんです」

「その間、犬は?」

「そっちの部屋のケージの中にいたと思います。ドアが閉まっていたんで、直接は見てないんですけど」

 芦口が犬の世話をしていたのは、あくまで便利屋の仕事としてだ。別に犬好きというわけでもなさそうで、ならば、遺体発見の直後、わざわざドアを開け犬の心配をするはずもない。

「警察が来た後はすぐに外に連れだされて、駐車場で待たされました。その日一日仕事にならないし、日給は貰い損ねるし、いろいろ散々でした」

 芦口はそう言って、肩を竦めてみせた。これ以上、彼から得られる情報は、大してなさそうだ。徒労感を覚えつつ、あらためて室内を見回しているとき、また玄関に気配があった。今度は気配を消そうともしない。二人の男が、退路を塞ぐような体勢で、仁王立ちしていた。二人ともスーツで引き締まった体躯をしており、目付きが鋭い。警察関係者である事はひと目で判る。果たして、右に立つ男が身分証を見せた。

「目黒中央署の者だ。笠門巡査部長?」

 ぞんざいな口調から、大体の用向きが伝わってきた。芦口への聴取もここで終わりのようだ。もう帰ってもらって構わないと告げると、芦口は玄関口に立つ二人の間を抜け、逃げるように去っていった。

 二人の刑事に気圧されている笠門だったが、ピーボの方はそうでもないらしい。まるでエサでもねだろうかというように、廊下を進み、二人の前に足を揃えてチョコンと座る。

「先輩、犬っすよ」

「ああ、犬だ」

 二人の刑事が顔を見合わせながら、言葉を交わしている。

「名前はピーボだ」

 笠門が言うと、右に立つ後輩刑事は相好を崩した。

「ピーボか。かわいい……」

 左の先輩に頭をはたかれている。先輩刑事は険のある顔付きのまま、笠門と向き合った。

「オレは刑事課の狭井さい巡査部長だ。こっちは君塚きみづか巡査」

「どうも……」

 ピーボに向かって手を伸ばしたままのポーズで、彼は答えた。

 狭井の強面ぶりは堂に入っており、気の弱い容疑者ならば、その場で完落ちだろう。

「総務部総務課が、我々が管轄する現場で、何をしている?」

 想像できる中で最悪の事態だった。

 普段は須脇を通して、関係部署の了解を得る。だが今回は、了解を得るどころか、笠門たちが動いている事を、須脇は知らない。こうなれば、先手あるのみだ。笠門は狭井を睨みながら、言った。

「そちらの大月刑事課長と話がしたい」

「何だと? オレじゃ役不足だってのか」

 狭井は顔を赤くして凄む。当然だ。同じ事をされたら、笠門とて穏やかではいられないだろう。

「テメエ、何様の……」

「申し訳ないが、我々の捜査は極秘の任務なんだ」

「極秘? 訳の判らん事言いやがって……」

 狭井の携帯が鳴った。舌打ちをしながら、画面を見る。目に驚きの光が過った。笠門に背を向け通話ボタンを押している。「はい」と短い返事が二度。振り返った狭井の顔にはさらなる怒りが宿っていた。

「課長からだ。おまえを連れて来いってよ」

 

 祐天寺駅近くにある目黒中央署は、規模のわりにこぢんまりとした建物だった。築も古く、駐車場も狭い。来客用スペースに専用のバンを停める。すぐ後ろには、狭井たちの乗る車がピタリとついてきており、ハンドルを握る狭井は、今も車中から厳しい視線を投げてきていた。

「すっかり嫌われたな」

 ピーボにそっと語りかけると、「そうかな」と言わんばかりに首を傾げる。助手席の君塚が、狭井に気取られぬよう、そっとピーボに手を振るのが見えた。

 受付、交通課などのある一階は、他の警察署同様、人が多い。カウンター向こうの警察官たちは、その応対に大わらわだ。受付の一人が、素早く笠門の前に立つ。

「こちらへ」

 奥にある階段を使い、二階へと上がる。廊下は薄暗く、人気もあまりない。刑事課、地域課などは、昼間のこの時間、ほとんどが出払っているためだ。

 取調室にでも連れて行かれるかと思っていたが、案内されたのは、小会議室だった。机と椅子が四脚あるだけで、普段はあまり使われないのか、ひどく埃っぽい。小さな窓があり、薄く開いてはいるが、そこから見えるのは隣のビルのくすんだ壁だけで、空気の通りはほとんどない。ピーボを待機させるには不向きな部屋だ。案内してくれた警官も同じ事を思ったのだろう。

「えっと……犬……ワンちゃん……」

「ピーボ」

「ピーボは別の所で待っていようか」

 しかし、ピーボは頑として動かない。笠門の指示を待っているわけではなく、自身の意思でここに留まると決めているようだった。

 笠門はこのままで構わない旨を告げると、固い椅子に腰を下ろした。

「さあ、いよいよ、殺人の容疑者とご対面だ」

 上背のある恰幅の良い男が姿を見せた。皺の寄った背広姿で、四角い顔には無精ヒゲが浮き出ている。

「刑事課長の大月学警部だ」

 笠門はすぐに立ち上がると敬礼をし、名前と階級を述べる。

「そうか、君がピーボか」

 笠門をあからさまに無視し、座ったままのピーボに目を落とした。ピーボは彼をじっと見返している。大月はまぶしいものでも見るかのように顔をしかめると、すぐに目をそらした。

「まあ、かけてくれ」

 大月は先に腰を下ろすと、笠門に言った。一つ一つの仕草に、年齢と経験に裏打ちされた貫禄が備わっている。

 彼の経歴は決して華々しいものではない。いわゆる「叩き上げ」の一人であり、文字通り、現場で汗しながら手柄と階級を上げてきた、猛者でもある。今年で五十六歳。大きな失点がなければ、方面副本部長あたりに異動して、定年退職の運びだろう。

 向かいに腰を下ろすと、ピーボが足元に寄ってくる。大月に対しては、何ら特別な反応も見せていない。

「阿刀の事件を調べているそうだね」

 前置きも何もなく、本題に入る。彼のスタイルなのだろう。

「君たちが、警察病院でやっていること……噂程度だが、聞いている。過去の事件を思いがけないところから掘り返して、解決しているとか」

 抜け目のない、抉るような目線を、笠門に向けてくる。

「ただ、未解決事件ならいざ知らず、既に結論の出た事案を、いきなりひっくり返されたのでは、現場としてもたまったものじゃない。そこは、理解してくれるな?」

「大事なのは真相であり、警察官の立場、面子はまた別の問題だと考えますが」

「阿刀の死については、既に事故という結論が出ているんだ」

「それが真相であれば、何の問題もありませんよ」

 大月は苦笑しながら、椅子に座り直す。

「君はこの事件、どう思っているんだ?」

「私の考えは直属の上司、須脇警視正に直接、伝えます」

「ほう。須脇警視正は君の行動を把握されているのかね?」

 痛いところをいてくる。須脇には報告を上げていない事を、察しているのだ。大月の読みの深さ、駆け引きの術は、笠門の到底、及ぶところではない。迷いが出ぬよう、表情を取り繕うのが精一杯だった。だが微かな動揺も、彼は見逃してくれなかった。

「どうした? まさか、君の独断で動いているわけじゃないだろうね」

 いよいよ退路を断たれた。どうするべきかとピーボの様子をうかがうが、ただじっと閉じたままの扉を睨むだけで、何の動きもない。

 あの扉を開いて逃げだせってことか? 本気でそのような事を思案していると、軽いノックの後、その扉が開いた。敬礼と共に入室してきたのは、松葉杖をついた滝小田である。

 これには大月も意表を突かれた様子だ。

「滝小田、おまえ、退院したのか?」

「いえ、本日だけ、外出許可をもらいました」

 そしてやはり唖然としている笠門を睨んだ。

「総務課の者が、阿刀の事件を嗅ぎ回っていると聞きました。病院でおちおち寝てもいられません」

 大月は顔を顰める。

「おまえには、報せないでおいたんだが」

「あの捜査で、所轄の責任者を務めたのは、自分です。自分の口から説明したく……」

 傷が痛むのか、言葉が切れた。額には脂汗が滲んでおり、それが芝居でない事を物語っていた。

 滝小田は笠門に向かい、名前と階級を述べた。建前上、病院で顔を合わせた事は隠しておかねばならない。笠門もそれに倣う。

 滝小田は机に片腕を突き、座ったままの笠門を見下ろした。

「阿刀の死は事故だ。これは捜査に当たった者、全員が納得している」

 滝小田は笠門の窮地を見越し、こうしてやって来たのだろう。ならば、それに乗るしかない。

「しかし自分から見れば、随分と拙速な判断に見える。阿刀は多頭飼育の件で恨みをかっていた。その辺りの捜査はしたのか?」

「そんな事をする必要はなかった。現場を見れば、すべては明らかだったからだ。当夜、阿刀は予定されていた会議がキャンセルとなり、珍しく早い時間に目黒に戻った。そして、近所の行きつけのバーに行き食事を取りつつ飲んだ。かなりの量だ。帰宅したのは、午後七時過ぎ。そこから犬の散歩に出た。彼は普段、犬の世話を便利屋に任せていた。散歩に出たのはたまたまだろう。散歩の様子は、目黒川沿いにある防犯カメラに捉えられていた。散歩を終えたのが午後八時十五分」

「死亡推定時刻は午後七時から九時だったな」

「我々は午後八時半頃と考えている。散歩から帰り、犬をケージに入れた阿刀はさらにウイスキーを飲んだ。テーブルにグラスが一つ残っていて、中にはバーカウンターにあるウイスキーが残っていた。彼は泥酔状態だったんだ」

 そこからは大月が引き取った。

「玄関からも窓からも、侵入の痕跡はない。不審者の目撃情報もない。室内に争った跡もない。確かに、彼を殺したい動機を持つ者は多くいた。だからこそ、阿刀も警戒をしていたはずだ。簡単に部屋に通すとは思えない」

「酔って転倒し、後頭部をテーブルの角に打ちつけた。これは事故だ」

 滝小田は笠門の目を見つめながら言った。

「この結論の何処に疑問がある? おまえはいったいなぜ、現場に来た?」

 なかなか迫真の芝居である。

「答える気がないのなら、帰れ。これ以上、オレ達をバカにするな」

 笠門は黙って立ち上がり、ピーボのリードを握る。そのまま部屋を出た。

 廊下には数人の刑事たちが並んでいた。狭井たちもいる。厳しい目にさらされるのには慣れっこだが、やはり同業者からの冷たい視線は厳しい。うなだれそうになる頭を無理矢理上げ、笠門はピーボと共に署を後にした。

 

 

 

 須脇は腕組みをしたまま、終始無言である。ただ、何も置かれていないデスクの表面を充血した目で睨み据えているだけだ。

 こんなことならば、書類をぶちまけ怒鳴りつけてくれた方がましだ。

 ピーボ、何とかしてくれよと、定位置である戸口を振り返るが、ピタリと座りこんだまま、笠門から目をそらしている。

 目黒中央署で大月に追い詰められた時も、ピーボは何もしなかった。あれは扉の向こうに滝小田の気配を察知していたからだろう。

 今回はいよいよ万事休すってことか?

「ピーボを当てにするのは、止めろ」

 そう言ってドアの向こうから姿を見せたのは、捜査一課の浦幕だった。ピーボはどこかうれしそうに、ペロリと舌をだす。その仕草に浦幕も満足そうだ。

 須脇が浦幕を睨む。

「出て来るのが早い。もう少し、こいつを困らせておきたかったのに」

「笠門がどうなろうと知った事ではないですが、ピーボがこのままじゃ、かわいそうでしょう、警視正」

「ふん。まあ、確かにな」

 ピーボは大きな耳をハタハタと振ってみせる。これで須脇の機嫌も上向く。

「警視正、今回ばかりは素直に謝ります。妙な事に巻きこまれたのは、自分の失敗です」

 笠門は頭を下げた。それに対し、須脇は虫でも払うような仕草で手を振った。

「頭を上げろ、気持ち悪い。滝小田がおまえに直談判に及んだって事は、我々の仕事も認められてきた証だ。ただし、今後はどんな事情があろうと、すぐにオレに報告しろ」

「判りました」

「それから、油断は禁物。我々の仕事を快く思っていないヤツらはけっこういる。特に上層部にはな。たった一つの失敗が、命取りになる可能性はある。行動は慎重に」

 笠門の返事と同時に、浦幕がファイルを持って進み出た。

「気に入らない点はいくつかあるが、実のところ、捜査一課内でおまえらの評価は悪くない。笠門、おまえじゃないぞ。ピーボだ。ピーボの評価が……」

「いちいち言わなくても判ってるよ」

「それと、これは大変申し上げにくい事ですが、須脇警視正も少し自制された方がよろしいかと。自身もおっしゃってますが、警視正の進める様々な改革を面白く思わない者は多くおります」

「毎日、小言から脅迫めいた事まで言われているよ。出る杭は打たれるって言うが、優秀な者はつらいねぇ」

 笠門は浦幕に言う。

「それより、そのファイルは?」

 ファイルを須脇の前に差しだしながら、浦幕は刑事の顔に戻る。

「実を言うと、阿刀殺しの捜査はまだ完了していない」

「それは、どういう事だ?」

「一課の方で内々に進めているんだ」

「だが初動の段階で事故死とされているから、捜査本部も立ち上がっていない」

「それは表向きだ。所轄に気取られないよう、進めていたんだよ。おまえらが来るまでは」

 言葉の裏に含まれた意味が、見えてくる。

「つまり、管轄警察署内に容疑者がいる。標的は、大月警部か」

 浦幕はためらう事なくうなずいた。

「所轄には伏せて動いていたんだが、刑事課の中に上司を告発する骨のあるヤツがいたとはな」

「それほど親しいわけではないが、滝小田というのは、そういう男だよ。野心家だが、正義感が強い」

「おまえとは違うのさ」

「だが刑事課長が容疑者ってのは穏やかじゃない。確証はあるのか?」

 浦幕はあっさりと首を左右に振る。

「あればこんな所でグズグズしてはいない」

「大月と阿刀の間には、やはり繋がりが?」

「多頭飼育事件に阿刀が絡んでいた事は、もはや公然の秘密だ。その辺りの事は、おまえたちも把握しているだろう?」

 笠門がうなずくと同時に、戸口のピーボもコクンと鼻先を下げた。

「ピーボの方が理解が早そうだ」

「うるせえ。早く続けろ」

「なぜ阿刀だけが逃げ延びられたのか。捜査が入った時、銀行口座も帳簿もメールも、すべて綺麗なものだった。事件との関わりを示すものは何一つ残ってなかったのさ」

「情報漏れか」

「あまりにも鮮やかだったからな。捜査陣も疑問に思った。で、目黒中央署は阿刀の居住地の管轄だ。捜査協力の要請がだされ、その責任者が大月だった」

「動機は掴めているのか? 大月は叩き上げの星だ。現場からの信頼も厚い。しかも、あと数年で定年。なぜ今になって、危ない橋を渡る?」

「金の一択だろう。大月には息子が一人。よりにもよって医学部志望だ。金がかかる。それに加え、妻の両親がもう十年近く施設に入っている。金はいくらでも欲しいに違いない」

 須脇が哀れみを含んだ目をしながら口を挟んだ。

「阿刀のような輩は、抱きこむ相手を慎重に選ぶ。大月警部は、格好の獲物だったろう」

「警視正の言う通りだ。阿刀を殺す直接的な動機は判らん。良心の呵責があったのかもしれないし、金で揉めただけかもしれん。いずれにせよ、阿刀が死んでホッとしている事は確実だ」

 傲慢な態度で、猜疑心に満ちた目を向けてきた大月の顔を思い浮かべる。あの過剰とも言える反応は、焦りの裏返しであったのか。

 それでもやはり、笠門には釈然としない部分が多かった。

「だが、たとえ大月が阿刀と繋がっていたとしても、それと殺しは別だ。大月が阿刀を殺した事にはならない。大月への容疑が、そもそも誤っている可能性もあるんじゃないのか」

「疑念の一つ。大月は阿刀の遺体発見の報を受け、自ら現場に出向いている」

「出向いた? 刑事課長自らがか?」

「過去の資料を当たってみたが、大月が刑事課長就任以降、初動段階で現場に赴いた事例はゼロだ。ではなぜ、今回に限って、現場に行った?」

「……証拠の隠滅か」

「あるいは、捜査の撹乱目的だ。叩き上げで現場の信任も厚い刑事課長の言葉を、捜査員は無下にできない。そうした圧力を利用して、事故という結論に誘導した可能性もある」

 頭の後ろで手を組み、ぼんやりとした顔で二人のやり取りを聞いていた須脇が、言った。

「アリバイはどうなんだ? 調べたんだろう? 大月のアリバイ」

 浦幕は咳払いをすると、途端に歯切れが悪くなった。須脇はそれ見た事かと苦笑する。

「あるんだな、アリバイが」

「被害者の死亡推定時刻は午後七時から九時前後。八時に犬の散歩をする姿が防犯カメラに捉えられておりますので……」

「死亡したのは午後八時半頃と結論づけた」

「その時刻、大月警部は署内におりました。確認が取れております」

「それじゃあ、ダメじゃないか」

 浦幕の顔付きが変わる。

「ですが、逆に七時半前後から八時過ぎまで、警部の姿を見た者はおりません。本人は一人で食事をとりに行っていたと言っているようですが、確認は取れていません」

「七時半から……ああ、なるほど。替え玉か」

 須脇の理解は早い。笠門は付いていくのが精一杯だった。

「犬の散歩映像だな。あれがあるから、阿刀の死亡推定時刻は八時半になった。もしあれが、替え玉であり、その時点で阿刀は既に殺害されていたとしたら……」

「大月のアリバイは崩れます」

「確認はしたんだろうな?」

「防犯カメラの映像は斜め上から対象を捉えたものです。映っている男はキャップを被っていて、顔は判別できません。そして、大月と阿刀の体格は比較的、似通っています」

「大月自身が替え玉になり得るわけか」

 須脇が「理解したか?」と目で尋ねてくる。笠門がうなずくのを待って、続けた。

「いずれにしても、阿刀が問題人物である事は判っていたはずだ。その人物の死亡事案を早々に事故で片付けたっていうのは、さすがに気になるな」

 浦幕がしたり顔で言う。

「どうでしょう警視正、笠門とピーボの捜査をこのまま続けさせるのは。我々は立場上、目立った動きができません。笠門とピーボなら……」

 笠門は慌てて浦幕を遮る。

「待ってくれ。解決済みの事案を嗅ぎ回って所轄に恨まれるのは、こっちだ」

「しかし、このままでは……」

「さてどうしたものかねぇ」

 そのときピーボが立ち上がり、笠門の足元までトコトコ歩いてきた。ピーボが定位置の戸口を離れるのは、初めての事だった。

 須脇は目尻を下げ、「そうか、ピーボはやる気か」とうなずく。

 耳を上下させた後、ピーボはじっと笠門を見上げている。

「判ったよ、ピーボ。だが、どっちに転んでも、厄介な事に……」

 笠門の言葉が終わるのも待たず、ピーボは「早く行こう」とばかり、ドアの方へと歩みを進める。慌ててリードを握り、笠門は後を追った。

 しかし、百戦錬磨の刑事課長をいったいどうやって攻めればいい?

 

 警察病院の中庭では、見舞客と患者がゆっくりと散歩を楽しんでいた。芝生の緑が目に眩しく、空も青く澄んでいる。そんな中を、スーツ姿の若者が一人、背筋を伸ばして歩いて来た。

「すみません、お待たせしました」

 君塚巡査は刑事とは思えぬ、親しみのある笑顔を見せた。その視線はベンチに座る笠門ではなく、足元のピーボの方を向いている。

「病棟の人に聞きました。ピーボ、すごいんすねぇ」

 遠慮なくピーボの頭をクシャクシャとなでる。嫌がる素振りも見せず、気持ち良さそうに目を細めるピーボに、君塚はますます情を寄せた様子だ。笠門は隣に座るよう促した。

「失礼します」

 狭井といる時には見せないようなくだけた態度で、彼は腰を下ろす。すかさずピーボが顔を膝にすりつけた。

「かわいいなぁ。犬って飼った事、ないんですけどねぇ」

「こちらこそ、わざわざ来て貰って、悪かったね」

「いや、とんでもないです。ちょうど、滝小田さんの見舞いに来る予定でしたから」

「滝小田はどうだった?」

「元気そうでした。今週中に退院して、すぐ現場復帰だって、はりきってました」

「そいつは良かった。あいつが怪我をした時、君は一緒だったんだよな」

「ええ」

 君塚の表情が曇る。

「容疑者の知人にちょっと話を聞くだけのはずだったんです。まさか、容疑者本人がいるなんて……」

「滝小田はインターホンを押している時、ドア越しに撃たれたんだよな。つまり、相手は待ち伏せしてたってことか?」

 君塚はうなずく。

「はい。逮捕後の聴取で、刑事が行くとのタレコミが非通知の番号で携帯にあったと証言しています」

「タレコミをした者は特定できたのか?」

「いいえ」

 君塚の顔にさきほどまでのくだけた勢いはなく、顔面蒼白で膝に置いた手をぐっと握りしめていた。滝小田が撃たれた瞬間を思いだしているのだろう。

「それで君塚巡査、君は大丈夫なのか?」

「え、ええ。カウンセリングとかにも通わせて貰っています。自分は刑事になってまだ半年で……。それでいきなり先輩が撃たれるって、ちょっとないっすよね」

「現場に行くように指示したのは、課長?」

「はい。課長が滝小田先輩と自分を指名して、行って来いって」

「なるほどね。だがまあ、あまり気にしない事だ。滝小田が怪我したのは、君のせいじゃない」

「それは、判っているんですが」

「もう一つだけききたい。オレとピーボが阿刀の自宅にいた時、君と狭井警部補がやって来た。どうして、我々があそこにいると判った?」

 君塚は首を傾げる。

「判りません。指示をだしたのは課長なので、課長のところに誰かがタレこんだんじゃないですかね。笠門巡査部長はそのぅ……」

「評判が悪いから?」

「いえ、別にそういうわけでは……」

「いろいろありがとう。助かったよ」

 君塚は不安そうに頭をかく。

「自分、ちょっと喋りすぎちゃったかも。大丈夫ですかね?」

「それは多分、ピーボのせいだ。ピーボがいると、みんな、いろいろと喋ってくれる。だが、君に迷惑はかからないようにする」

 リードを持ち、ピーボ共々、立ち上がる。

 気は進まないが、やはりもう一度、当人にぶつからなければならないようだ。

「ピーボ、気合い入れていくぞ」

 リードを引く力がぐっと増した。

 

 

(つづく)