犬だけが知っていた(前編)



 エレベーターの扉が耳障りな音をたてて開き始めた。どこかに不具合でもあるのだろう、先週あたりから、やたらと不快な音をたてる。
「早く修理して欲しいな、ピーボ」
 笠門達かさかどたつ巡査部長は、足元でしゃんと背筋を伸ばして座っているゴールデンレトリバーに声をかけた。笠門と違い耳障りな音を気にする様子もなく、大きくて垂れた耳を微かに上下させただけで、じっとまっすぐ前を見つめていた。
 さすがだな、ピーボ。リードをそっと引きながら、笠門はエレベーターを出た。
 警察病院五階の小児科病棟。エレベーターホールの先にある、磨りガラスのはまった自動ドアが音もなく開いた。右側にはナースステーションがあり、看護師たちが忙しなく行き交っている。左側は薄いグリーンのマットを敷いたプレイルームで、病室はその先に延びる廊下の両側にある。
 看護師長の畠中はたなかがカウンター越しに身を乗りだしてきた。笠門の足元にいるピーボと目を合わせるためだ。
「こんにちは、ピーボ」
 ピーボは弓なりに反った大きな尻尾をヒョイと持ち上げて、挨拶の代わりとした。
 笠門は子供たちの姿のない、プレイルームを見やって言った。
「今日はえらく静かだな」
「入院している子が少ないっていうのもあるけど、今日は、アレの再放送やってるから」
「アレ?」
「これよ」
 畠中がタブレットの画面をこちらに向けた。テレビ放送でアニメをやっていた。赤いフレームのメガネをかけた女の子と利発そうな男の子が並んでこちらを見つめている。そこに作品タイトルがかかる。
「カッパとキーア?」
「そっ。いま子供に大人気のシリーズ。今度、第四シリーズが始まるんだけど、今日から第三シリーズの再放送が始まったの。子供たちは自分のベッドで、ものも言わずに見てる」
「へぇ。今どき、そんな番組があるんだな」
「小学六年生の女の子キーアとカッパの男の子が、幽霊や犯罪者と闘うの。うちの娘もずっとファンでね。私もつられて見ている内に、好きになっちゃった」
「大人が見ても面白いのか?」
「これが案外、よくできてるの。バカにできないのよ」
「なんか意外だな」
「何が?」
「畠中看護師長とのんびりテレビの話をしている事が」
 畠中は軽くため息をつき、がらんとしたプレイルームを眺める。
「確かにね。いつもはてんやわんやだもんねぇ」
「カッパとキーア、様様ってとこか。これなら、ピーボもゆっくり休めそうだ」
「待って。そろそろ一人、戻って来ると……」
 畠中の言葉が終わらぬうちに、自動ドアが開き、車椅子に乗ったがっしりとした体付きの男子が入って来た。車椅子を押しているのは、母親だろう。二人はナースステーションの前にいるゴールデンレトリバーを見て、ぎょっと目を見開いていた。
「あ、心配いらないですよ」
 すかさず畠中が言った。
「この犬、ピーボって名前なんですけど、ファシリティドッグなんです」
「ファシ……何ですって?」
 母親が怪訝な表情で聞き返してくる。笠門はリードを握り直すと、母子に向き直った。
「ファシリティドッグ。病院で患者さんに寄り添いながら、スタッフとして回復のお手伝いなどをする犬のことです」
「それって、セラピードッグのこと?」
「少し違うんです。特定の病院に常勤して、スタッフの一人として扱われます。もちろん、専門的な訓練も受けていますし、実は私も……」
 笠門は警察官の身分証をだす。
「警察官ではあるのですが、五年間、小児科の看護師経験があります。ファシリティドッグのハンドラーになるためには、看護師としての経験も求められるのです」
「へぇ」
 車椅子の少年は目の前に出された身分証に目が釘づけだ。もっとよく見ようと懸命に首を伸ばしている。
 少年の名前はこうたく、九歳。自転車とぶつかり、右脚を複雑骨折した。昨日入院し、明日、手術の予定だ。
 笠門には、子供たちの医療情報が提供されている。病棟の子供たちのデータはすべて頭に入っていた。
 拓馬は体も大きく、笠門たちを前にしても、物怖じした様子もない。そんな彼に、母親も安心しきっているようだ。
「じゃあ、お母さん、先生にご挨拶したら帰るね。お父さんやたつのご飯、用意しなくちゃ。一人で大丈夫だよね?」
 達樹は拓馬の二つ下の弟だ。
「うん」
 拓馬は口元を引き締め、大きくうなずいた。
「明日は朝一番で来るから。ね」
 母親は拓馬の頭に手を置いて微笑みかけると、すぐに磨りガラスの向こうへと消えていった。
 一人残された拓馬は、自分で車椅子を操作しながら、黙ってプレイルームの奥へと進んでいった。
 ピーボがふいっと立ち上がり、その後をついていく。笠門はリードを離し、その様子を見守る。
 拓馬は壁の方を向いたまま、じっとうなだれていた。母親の前では精一杯、気を張っていた事が判る。一人になった途端、抑えつけていた感情が噴きだし、受け止めきれなくなっているのかもしれない。
 ピーボは車椅子の横にちょこんと座り、褐色の澄んだ目でじっと拓馬を見上げていた。彼がピーボに気づいた。犬に対する恐怖はないようだが、自宅で犬を飼った経験はないのだろう。どう対応してよいのか判らず、とまどっている。ピーボはそんな拓馬を、ただじっと見上げている。
 やがて、拓馬がおずおずと右手をさしだした。その指先を、ピーボは鼻の先でチョンと触る。拓馬の手がさらに伸び、金色の毛に覆われたピーボの頭を優しくなでた。頭に手を乗せた拓馬は、そのままじっと、壁を見つめ続けていた。

「彼、相当、参っていたみたい。助かった」
 畠中が言った。
 拓馬は看護師と共に、自分の病室に戻っていった。かなり緊張した様子ではあったが、ピーボのおかげでリラックスはできたらしい。手術前の絶食を言い渡され、看護師にずっと文句を言っているとの報告もあった。
「それだけの気力があれば、一晩、何とか乗り切れるだろう」
「母親の付き添いがあるから、手術前後は大丈夫だろうけれど、入院が長引くとナーバスになるかもね。またピーボに頼る事になりそう」
「了解。いけるよな、ピーボ」
 笠門の問いかけに、ピーボは何の反応も示さない。当り前のことを聞くな、と怒られている気分になった。
 苦笑して顔を上げると、畠中の表情が曇っていた。
「今日は例の日でしょう?」
「ああ」
「これから、七階?」
 笠門はうなずく。
「場合によっては、また少しの間、病院を離れる事になるかもな」
 畠中はため息をつく。
「仕方ない。ここでファシリティドッグを受け入れる時の条件だったからね」
 笠門はしゃがんでピーボと目を合わせ、やさしく首周りをなでた。
「さてピーボ、そろそろ行くか」





 再びエレベーターに乗り、七階へと向かう。
 降りたところは、無機質な白い壁が続く薄暗い廊下だった。少し進み、右に曲がる。緑色の扉があり、壁には指紋認証用のモニターが青白い光を発していた。天井には監視カメラがあり、赤い光点がこちらを向いている。
 指紋確認を終えると、ゆっくり緑の扉が開く。その先には二名の警察官が立っていた。左側の女性警察官はまが「ご苦労様です」と言いながら、ピーボにそっと微笑みかけた。
 笠門は敬礼をし、言った。
「笠門巡査部長とピーボ号、定期巡回に参りました」
 浜尾がすぐにタブレット端末をこちらに向け、指示をだす。
「本日の巡回は七〇一号室。巡回対象者は三十二番、氏名は坂内六郎さかないろくろう、七十五歳」
「心不全の末期と聞いていますが」
「ここ一週間が山だろうという事です。七階への移送を踏まえ、モルヒネ等の投与は抑えています」
 笠門は唇を噛みしめる。坂内はいま、引くことのない激痛と死への恐怖に見舞われているに違いない。
 職務とはいえ、本来なら許されるべき事ではなかった。忸怩たる思いを抱えつつ、笠門は言った。
「すぐに巡回を始めます。終了と同時に、元の状態に戻すよう、手配を」
 浜尾は黙ってうなずいた。
 リードを握り、ピーボと共にナースステーションの前を歩く。看護師たちは、笠門たちと目を合わせず、俯いていた。皆、笠門たちの事を歓迎しているわけではない。医療に携わる彼らにとって、笠門は疫病神みたいなものだろう。
 カウンターの向こうから一人の若い看護師が進み出てきた。初めて見る顔だ。配属されたばかりなのだろう。緊張と怒りで顔を紅潮させ、それでも強い意志を秘めた目で笠門を睨んでいる。
「笠門巡査部長、お尋ねしたい事があります」
 凍りついた空気の中、特別病棟の担当看護師長しばが進み出ようとしていた。笠門は目でそれを制し、看護師を見つめ返した。
「何か?」
「ここに入院している人の秘密を、その犬を使って聞きだしている。そんな噂を聞きました。それは本当なんですか?」
「その噂、誰から聞いた?」
「申し上げたくありません」
 笠門は視線を落としピーボを見た。この場の緊張感に呑まれないようにするためか、目を伏せ、しょんぼりと頭を垂れていた。そんなピーボの様子は看護師からは見えていない。
 笠門は言った。
「特別病棟に入院している患者は、全員、服役囚だ」
「判っています。でも、普通、刑務所内で発病等した場合は、東日本成人矯正医療センターに移送され治療を受けるはずです。それがどうして……」
「君の言っている事が、正しいからだ」
 笠門の言葉に、看護師は息を呑んだ。
「噂は本当だ。ここに入院している服役囚たちは、取り調べや裁判でも、肝心の情報を黙秘し、明らかにしなかった者たちだ。そこまでして秘匿した情報には、それなりの価値がある。その点は君にも判るよな」
「わ、判りますが、でも……」
「厳しい取り調べや服役生活にも音を上げなかった猛者たちだ。情報をききだすのは、容易じゃない。だがもし、自分が死の淵に立たされていて、苦痛に苛まれているとしたらどうだ。精神的にも崖っぷち、すがれるものがあれば、何でもすがりつきたい。そんな時に、天使のような犬が現れたとしたら」
 語っている笠門の表情は、看護師たちにとってさぞ醜悪なものに映っているだろう。それでも、笠門は続けた。
「そこに気持ちの隙間ができるのではないか。思わず本音や隠し通してきた事を漏らしてしまうのではないか──。そんな事を考えたヤツがいるんだよ。警視庁の上層部にね。そして、この病棟ができ、俺が雇われ、ピーボがやって来た。それが答えだ。判ったかな?」
 看護師が納得した様子は微塵もなく、逆に怒りを募らせたようだった。
「患者さんの人権はどうなるんです? いくら服役囚だからといって、酷すぎます。七〇一号の方は、痛み止めの量を減らされて……」
「そのくらいにしておきなさい」
 柴田の厳しい声が飛んだ。
「笠門巡査部長にいくら言っても仕方のない事でしょう。この件については、後でゆっくり話し合いましょう」
 柴田が「行って」と顎をしゃくる。
 笠門はピーボに合図をすると、ナースステーションに背を向けた。冷たい視線が注がれている事は承知している。
 ステーションの先には短い廊下があり、左右に四つずつ、計八室の病室が並んでいた。部屋は個室で、ドアはすべて開け放してあり、廊下の中程には屈強な制服警官が一人立っている。
 か細く悲しげなうめき声が、聞こえる。一番手前、七〇一号室からとすぐに判った。
「ピーボ、行こうか」
 ファシリティドッグとして、恐怖や苦痛といった患者の精神的負担を和らげるためにピーボは警察病院で勤務している。それなのに、人の道にも医療の道にも外れた事の片棒を担がされている。
「すまないな、ピーボ」
 そうささやきかけながら、首輪を録音機能付きのものに変える。普段のものより大きく重いものだが、ピーボは嫌がる素振りもみせず、ゆっくりと病室の前へと歩いて行った。
 ピーボには、何もかも、判っているのだろう。
 坂内六郎のネームプレートを確認し、笠門も病室に入った。ベッド周りは様々な医療機器でいっぱいだ。腕には点滴用の針が刺さり、そこからいくつものチューブが伸びていた。
 前もって渡されていた写真で、本人確認を行う。一年前に撮影したものだが、面影を留めるものは右眉毛の上についた刃物傷くらいのものだった。男は、病魔にすべてを吸い尽くされようとしていた。
 痩せ細り、大きく飛びだした目は黄色く濁っている。歯は半ばが抜け、鼻と喉からは乾いた息が申し訳程度にもれていた。
 それでも、意識はしっかりとしているようで、押し寄せる苦痛から逃れようと身を左右に捩らせている。
「胸がいてえ、いてえなぁ」
 目に笠門の姿は映っているのか、それすらも判らない。脂汗を額に浮かべ、薄くなり骨の浮き出た腹を激しく波打たせている。
 坂内六郎は元暴力団員である。二十代の頃に地獄組傘下の黒須会に所属。数回の服役を経て幹部となるも、薬物に手をだして破門。その後も傷害事件などで服役し、人生のほとんどを刑務所で過ごしてきた。ここ十年ほどは体調の悪さもあり、ホームレス同然の生活を送っていたと思われる。昨年、飲み屋で酔って喧嘩となり、相手をビール瓶で殴打。実刑を食らい刑務所に舞い戻ってきた。その直後、胸の痛みと呼吸困難を訴え、東日本成人矯正医療センターへと移送された。検査の結果、重度の心不全と診断。半年から一年の余命とされ、以降は痛み止めなどの投与による緩和ケアが行われていた。
「おんや、何だ、おまえ」
 坂内がベッド脇のピーボに気づいたようだった。
「こんなとこに犬……な、何なんだよ」
 彼の目に笠門の姿は映っていないようだ。彼は懸命に体を動かし、ピーボの方を向いた。
「立派な毛だなぁ。おまえ、どこから来たんだ」
 ピーボは来客用の椅子にヒョイと上がると、そこに座り、顔を坂内に近づける。
 震える手が、ピーボに触れる。
「やわらけえなぁ。それに暖かい」
 苦痛に歪んでいた坂内の顔付きが、わずかだが緩んできている。
 坂内はその後も無言で、ピーボの長い毛を優しくさすり続けていた。
 笠門たちが病室に来て三十分、そろそろ、規程時間に達しようかという時、閉じていた坂内の目が開いた。彼はじっとピーボを見ている。
「綺麗な目だなぁ」
 小さく不安定な椅子の上に長時間乗っているにもかかわらず、ピーボはほとんど動かない。ただじっと坂内に寄り添っていた。
「犬も人も同じさぁ、目を見れば、全部、判っちまう」
 廊下にいた警官が、様子を見に部屋の前に来た。笠門は下がれと目で合図をする。
 坂内は今にも消え入りそうな細い声で、ピーボに語りかけていた。
「俺、この間、久しぶりにあいつの顔を見た。あいつの……あいつ……」
 坂内は突然、体をくの字に曲げ、激しく震え始めた。
「なあわん公、助けてくれ。俺が知ってること、あいつにバレてねえかな。スギさんはあいつに……怖えよ。わん公、助けて……」
 坂内は必死に手を伸ばすが、力が入らないのか、ピーボには届かない。そんな光景を目にしながら、笠門はイヤホンに集中しつつ、ただ一つの事を念じていた。
 名前だ。名前を言え。あいつとは誰だ。スギさんとは誰なんだ。
「痛てぇ……」
 ピーボがすっとベッド側に体を寄せた。坂内の手がピーボの前足に触れた。
 笠門はしばらく待ったが、坂内が動く様子もない。そっと近づくと、彼は苦しげに口を開いたまま、意識をなくしていた。そんな男を、ピーボは悲しげに見下ろしている。坂内の手は、今もピーボの前足に乗ったままだ。
「ピーボ、この辺にしよう」
 笠門は坂内の右手を取る。その瞬間、彼は目を見開き、笠門の手首を掴み返してきた。もの凄い力だった。引くに引けず、笠門は血走った坂内の目を間近に見つめる事となった。
「悪魔だよ、ヤツは……。あれはスギさんの……」
 突然力が抜け、坂内はズルズルとベッドから滑り落ちそうになる。危ういところで受け止め、すぐにナースコールを押した。
 片腕でも十分支えられるほどに、坂内の体は軽かった。これだけの騒ぎにもかかわらず、ピーボは椅子の上から動いていなかった。先ほどと変わらない悲しい目で、かすかに上下する坂内の薄い胸を見つめ続けていた。

(つづく)