十八
警察病院特別病棟、七〇一号室の前に、笠門はピーボと共に立っていた。開け放たれたドアの脇には「坂内六郎」のネームプレートがある。
ベッドに横たわる坂内の容体はかなり悪化していた。頬はさらにこけ、呼吸も荒い。意識もほとんどないようだ。
ピーボと連れ立ち、ベッドに近づいた。ピーボの気配にも、彼は反応を示さない。
笠門は耳元に顔を近づけ言った。
「清洲納は死んだ。もう君を狙う事はない。安心してくれ。ヤツを追い詰められたのは、君のおかげだ。ありがとう」
眉を顰め、苦痛に耐える顔に変化はない。五分ほど待ち、ピーボと共に病室を出た。
清洲に関する捜査は進み、さらにおぞましい事実が明らかとなっていた。彼は山梨の山中にいわゆる「拷問小屋」を隠し持っていた。そこで幾多の人間を殺し、埋めていたのだ。付近からは相当数の遺体が発見されてもいた。笠門たちが把握している六件の事件は氷山の一角であり、さらに多くの殺人に、清洲は関わっていたと思われる。両親が死んだ火災も清洲の仕業であるとの憶測記事がネットを中心に広がってもいた。事実と憶測が混じり合い、清洲納は人々の心に深く刻まれた怪物となった。
ただ、いまだ謎に包まれたままの事実が二つあった。
一つは清洲の創造の源泉だ。感情を持たない殺人鬼がいかにして、数々の名作を生みだす事ができたのか。もう一つは当の清洲を誰が殺したのか。結局、自ら名乗り出る者はなく、日塔警部補による捜査は今も続いている。
特別病棟を出て一階の受付前にさしかかったとき、ピーボの名前を呼ぶ声が聞こえた。
足を止め見回すと、受付待ちの人混みの向こうから、一垣が手を振っていた。先に会った時よりは顔色も格段にいい。
一垣は人をかき分け近づいてくると、まずピーボの頭をなでた。
「久しぶりだったなぁ」
「お元気そうで何よりです」
一垣は明るく笑う。
「あの後、また検査に来てさ、薬や生活改善のアドバイスもらって、少しずつやり直しているところ。数値はまだまだ良くないんだけどね。ところで、坂内はどうしてる?」
「容体は思わしくない」
「そうか……」
一垣のどこか芝居がかった様子に、引っかかりを覚える。
「どうした。今日はやけに坂内の事を気にするじゃないか」
「実はずっと気になってる事があってさ。よくなったら、直接、きいてみようと思ってたのさ」
「どんな事だ?」
「あいつの知り合いに、星占いとか予言とか、できるヤツがいたのかなって」
「何?」
「いや、あいつの知り合いに、これから起きる事とかを当てちゃうヤツがいたんじゃないかって……」
いよいよ意味が判らない。
「落ち着いて、順番に話してくれ。星占いとか予言って何の事だ」
「今さ、テレビとかでもずっと、あの殺人鬼の話やってるだろう? 清洲っていう。それで見たんだけどさ、あいつが作ったっていう『ガッパとギララ』……」
「『カッパとキーア』だ」
「そう、それ。俺さ、それと同じ話を読んだ事があんだよ。男の子とカッパの女の子が、化け物や悪人を退治する話」
「読んだっていつ?」
「ヤツと一緒に入院していた時さ」
「その頃、『カッパとキーア』はもうテレビで放送され、大人気になっていた」
「違う違う。坂内が大事にしてた絵の裏側にさ、びっしり書いてあったんだよ。それは何年も前に、ヤツが知り合いから貰ったものとかで……」
一垣の言葉に閃くものがあった。
「その知り合いって、名前は判るか」
「スギさんとか言ってたぜ」
「坂内が持っていたのは、どんな絵だ?」
「坂内の顔。よく描けてた。そっくりだった」
「その紙の裏側に、『カッパとキーア』と同じ物語が書いてあったんだな」
「あぁ。オレ、こう見えて、本が好きでさ。活字中毒ってヤツ。暇だったから、絵の裏の物語を読んだんだ。面白くってさ、引きこまれた」
「その絵は、どうなったんだ?」
「坂内が散歩の途中で暴れたって話、しただろ? その日のうちに、持ってる絵は全部破ってゴミ箱にいれちまった」
笠門は一垣の両肩に手を置き、興奮を抑え言った。
「ここを動かないでくれ。もう少し話を聞きたい」
「このわん公と一緒にいていいのなら、いつまででも待つさ」
そんなピーボは、一垣の足元に鼻を寄せ、しきりに臭いを嗅いでいる。この姿を少し前にも、どこかで見た。記憶を手繰っていると、一垣は笑いながら言った。
「わん公、気になるかい? 今朝、公園のドッグランに行ったらさ、犬共になつかれちまってな。一緒に駆け回ってたんだよ。飼い主には怒られたけど」
喋り続ける一垣を無視し、笠門はピーボと目を合わせる。
「いいか? ピーボ」
もちろんとピーボは応える。
笠門は携帯で浦幕を呼びだした。
十九
飯田橋のゴメスエンターテインメントビルから、肩を落とした棚井田が現れた。小ぶりの段ボール箱を抱え、背中には大きくふくれたデイパックを背負っている。かつて笠門に対応した際の威圧感などはなく、体つきも一回り小さくなったような印象を受ける。
棚井田は、ビル前で待ち受ける笠門とピーボを見ると、気の抜けた表情で笑った。
「お払い箱だよ」
「お気の毒です」
「で、今日は何なんです? 知ってる事は、
もう洗いざらい、警察には話したよ。あいつがあんな恐ろしい事をしていたなんて、まったく知らなかったんだ」
「それについては、聞きました。あなたが清洲の犯行に一切、関与していない事も含め」
「正直、何も気づけない自分が情けない」
「清洲は両親から徹底的な『教育』を受けてきたようです。感情対応マニュアルのようなものを教えこまれ、それを実践して生きてきたんです。しかも完璧に。そのマニュアルが彼のPCに残っていました」
「あいつ、人当たりは良かったし、性格も穏やかだし、それでいて頭は切れた。マニュアルかぁ……」
「ただ、どれだけ常人を装っていても、こみ上げる暴力衝動を完全に抑えこむ事はできない。その処理の仕方も、両親は教えていたようです。一県一殺。被害者の選択方法。手口は毎回変える等々……」
「その辺についても、聞いたよ。最近はワイドショーなんかでもやってる。生い立ち、交友関係、職場、自宅――丸裸だ」
「ただ、いくつか明らかになっていない点もあるんです。清洲を一番身近で見てきたあなたに、その点について尋ねたくて、今日はやって来たんです」
「犬連れでね。妙な人だな。で? 尋ねたい事ってのは?」
「彼の想像力の源についてです」
棚井田は抱えていた箱を持ち直し、吐き捨てるように言った。
「殺人の天才であると同時に、アニメ作りの天才でもあった。正直、認めたくはないが、そういう事だったんじゃないのか?」
「感情の何たるかも判らないのに? 現在判っているだけで二十三人を殺した、そんな男が?」
「だから、俺にも判らないって……」
「これを見て貰えます?」
笠門は用意してきたものをだした。スーパーの袋を掲げた男の顔が描かれた紙――。
「新宿の不動産屋さんの顔です。よく描けてるでしょう?」
「あ、ああ……」
笠門は紙をひっくり返す。裏側には、細かい字でびっしりと文字が書きこまれていた。
「『カッパとキーア』の三十六話。タイトルは吸血鬼の魔の手とあります。ストーリーの内容も細かく書いてある。これ、実際に放映された三十六話と、タイトルも内容も同じなんですよ」
棚井田は鼻を鳴らして笑った。
「ファンならそのくらいやるだろう。作品を見て、内容と感想を書く。まあ、紙は今どき珍しいけど」
「ですが、これが書かれたのは五年以上前、『カッパとキーア』の放送が始まる前なんですよ」
棚井田の顔色が変わった。抱えていた箱を下ろし、ひったくるようにして笠門の手から紙を奪った。そのまま血走った目で几帳面に書かれた小さな文字を追っている。
「表の絵と裏の文章を書いたのは、スギさんというホームレスの男性で、彼は現在行方不明です。清洲に殺害された可能性が高い。ただ、彼はどうして、この世にまだ生まれてもいない人気テレビアニメの世界を書く事ができたのか」
「さ、さぁ。俺には判らんよ」
笠門の手に紙を押しつけると、棚井田は箱を拾い、その場を離れようとした。
ピーボはそんな動きを予想していたようで、すでにスタスタと歩きだし、棚井田と並んでいる。笠門も数歩遅れて後を追った。
「大久保で、ジャーナリストが殺された件、ご存じですよね」
「ああ。それも清洲の犯行なんだろ? ケチな強請屋だったって話だけど」
「被害者の名前は小台拓也です」
「どうして俺に、そいつの話を?」
「彼をご存じない?」
「あるわけない。だって清洲は、自分とまったく関係のないヤツをターゲットとして選んでいたんだろう?」
「その通りです。ただ、被害者周辺を聞きこみますとね、小台は清洲に興味を持っていた節がある。彼はネタ集めにはなかなか長けた男でしてね、ネット関係にも詳しい一方で、ターゲットの自宅や事務所に侵入するわりとアナログな手法も好んでいた」
「待ってくれ。まさか、そいつは清洲の家に?」
「そう。忍びこんで何かを見つけたんじゃないか。そんな推理もできるわけです」
「ヤツの自宅には殺しの証拠品がけっこう残ってたんだろう? もしかして、そいつを小台に見られ、清洲は彼を殺した……?」
「それはどうですかねぇ。恐喝の常習といっても所詮、小物ですから、連続殺人の証拠を見つけた日には、泡喰って警察に駆けこむと思います」
「刑事さん」
我慢の限界を超えたのか、棚井田の声に苛立ちが混じり始めた。
「俺は清洲の件とは何の関わりもないし、今はそのとばっちりで、当分、仕事にはありつけそうもない。そんな人間から、いったい何をききだしたいんだ?」
「それは失礼。だがしかし、それは仕方のない事なんじゃないか? あんたは清洲の腰巾着と言われていた。自分では何も生みだす事ができないから、彼に寄生して生きてきたわけだ」
「否定はしないよ」
掴みどころのない乾いた笑みを浮かべ、棚井田は言った。
「創作の事なんて判らんくせに。腰巾着だと? 好き勝手いいやがって。だがまあ、見ておくんだな。俺はこのまま終わる気はない」
「ほう。何か方策でも?」
棚井田は、自身の側頭部を指でコツンと叩いてみせた。
「いくつか、いいアイディアがあってね。そいつをまとめて、何処かに売りこむさ」
「果たして、そう上手くいくものかね。ところで、さっきの質問にまだ答えてもらっていない。なぜ、『カッパとキーア』の物語が、何年も前の紙に書かれていたのか」
「だから知らないよ、そんな事!」
「スギさんじゃないのかい?」
「え?」
「『カッパとキーア』は、全部、スギさんのアイディアなんじゃないのか」
「さあ、何の事だか……」
「スギさんが姿を消した時、つまり、清洲に連れ去られた時、ヤツはスギさんのノートやスケッチも持ち去った。そして、スギさんを殺した後、それが宝の山である事に気づいたんだ。清洲はオック・スターを辞め、そこから監督業を志した。元となるアイディアはスギさんが書き残した膨大な文章や絵だ。それならば、感情のない清洲自身にも、物語を紡ぐことができる」
棚井田は口をつぐんでしまった。すべては笠門の推理なのだが、彼には抗うだけの技量も気力もない。そう睨んでの事だった。清洲相手だったら、こうはいかなかっただろう。
「小台は何かスキャンダルになるネタを探して清洲の自宅に入りこみ、スギさんの残したノートを見つけ、持ち去った。清洲の作ったものは、すべて盗作だったという証拠だ。小台はそのネタで、清洲本人ではなく、あんたを強請った。清洲のマネージメント一切を取り仕切っているのがあんただから」
棚井田は笠門に背を向けた。箱を抱えた手がかすかに震えている。
「棚井田さん、あんた、この件で清洲と話し合ううちに、全部、聞いたんじゃないのか。清洲の過去」
棚井田は黙って首を横に振る。
「見て見ぬふりをするには、もう遅すぎるんだ、棚井田さん。清洲の正体を知ったあんたは、ヤツを切る算段をした。確かに、監督業で成功した後、清洲の殺人衝動は抑えられていた。だが、俺とピーボのせいで、ヤツは動揺し始めた。それを見て取ったあんたは、終わりが近い事を悟ったんじゃないのか」
音をたてて、抱えていた箱が地面に落ちた。衝撃でフタが開き、中身がこぼれ出た。書籍やファイルに交じって、表紙の判別もつかないほどに汚れたノートが数冊、地面に散らばった。
笠門は一冊を取り、ページを繰った。もはや見慣れた小さな字がびっしりと書きこまれている。スギさんの筆跡に間違いなかった。
「あんたはまず、こいつを取り戻すため、小台を殺した。清洲の仕業に見せかけて」
棚井田は最後の踏ん張りを見せた。首を左右に振りながら、充血した目で自身の足元を睨んでいる。
「確かに、そのノートは清洲が持っていたものだ。ヤツのデスクに入っていたから、持ってきただけだ。俺は何も知らない」
「小台をやったのは、清洲だと言い張るんだな。では、当の清洲をやったのは、誰だ?」
「知らん。それを突き止めるのが、あんたらの仕事だろう?」
「あんた、犬を飼ってるよな」
棚井田の顔に動揺が走った。
「最初に気づいたのは、やっぱりこいつなんだよ」
笠門はピーボを示す。
「あんたと会った時、ピーボは足元を嗅ぎ回る仕草をした。偶然だが、先日、別の人間に対しても同じ動きをした。その人物はピーボと会う直前、ほかの犬に触れていたんだ」
笠門はピーボの頭を撫でながら続ける。
「だから、あの時もあんたに他の犬の臭いがついていたんじゃないか、そう考えて、近所を聞きこんでみた。すると、散歩してる姿を、皆が目撃している。あんたの住むマンションはペット可だし、相当にかわいがってたと隣の住人も証言している」
「もうそんな事まで……」
「しかし、この数日、犬を見ていないとも言っていた。犬はいま、どうしているんだ?」
棚井田の目が泳ぐ。
「そ、それは……」
「あんた、青梅に家を持っているな。もともとあんたの両親が住んでいた所だ。二人が亡くなり、今は空き家だそうだが、最近、そこでおまえを見た者がいる」
笠門は相手の表情を確認しながら続けた。
「清洲はあの夜、犬の散歩中のあんたを襲った。あんたはヤツを返り討ちにし、遺体を自宅から離れた場所に遺棄した。自宅の近所に死体が転がっていたら、繋がりを勘ぐられるからな」
棚井田の顔には諦めの表情が浮かんでいる。
「清洲を殺したのは、あんたなんだな?」
「……それは……」
「連れていた犬はどうした?」
二十
ベッドの中で、坂内は眠っていた。痛み止めを処方され、顔付きも柔らかだ。頬にも、ほんのわずかながら、赤みが戻ってきているようにも見える。ピーボは意識のない坂内の顔をじっとのぞきこんでいる。
「棚井田が自白したよ」
笠門は耳元で告げた。
「清洲が自分を狙っている事は、判っていたらしい。だから、咄嗟に反撃できたんだ」
笠門が口を閉じると、心拍を伝える音が甲高く部屋に響く。
「だが一つだけ、予想外の事が起きた。棚井田の飼い犬が返り血を浴びてしまったんだ。名前は次郎太って言うらしい。それで棚井田は次郎太を連れて山梨の実家に行った。殺して埋めるつもりで」
ピーボは酷く悲しげな目で、笠門を見上げた。この話をすると、ピーボはいつも同じ顔をする。
「ヤツの実家で見つけた次郎太の毛から、清洲の血が検出された。小台殺しについてはまだ物証は挙がっていないが、時間の問題だろう。ああ、次郎太は死んでなかったよ。結局、殺せなかったらしい。二日に一度、エサやりに通ってもいた。人は殺せても、犬は殺せない。不思議なものだな、人間ってのは」
そっとピーボの尻尾を触る。
「それからな坂内、スギさんが見つかったよ」
山梨の山中、清洲のアジト裏に広がる、いわゆる「清洲墓地」にスギさんは眠っていた。
そこで見つかった遺体は十三体。身元が確認できたのは、まだスギさん一体だけだ。
「それを伝えておきたかったんだ」
言い置いて、笠門は席を立つ。ピーボも名残惜しげに後ろを振り向きつつ、廊下に出た。
ナースステーションの受付には、あの新人看護師が座っていた。硬い表情は変わらないが、今日はピーボに向かって、一言、「ごくろうさま」と声をかけてくれた。
ピーボは弓なりの尻尾を小さく振って応えていた。
坂内が息を引き取ったのは、その日の夕刻だった。
(第一話・了)