七
赤坂にあるタガール&ガンザの本社ビルから、有藤が出てきた。足取りは軽い。口笛でも吹きそうな勢いだ。調査報告は上首尾に終わったらしい。
板橋の放火事案についてはまだ調査中とのことなので、提出したのは、別の事案についてだろう。先日会った時、年間二百件の調査を行うと言っていたが、小火、車両火災なども含めると、放火、失火の数は相当数にのぼるようだ。
とはいえ、鑑定人自身の待遇は決してよいとはいえないようだ。現場調査など危険をともなう激務であり、専門的知識も要求される。刑事事件にも関わるため責任も重大だ。それなりの給与では、充分とはいえまい。
笠門は角を曲がった有藤と、かなりの距離をとって尾行している。右手にはピーボのリードがあった。ピーボを連れていては、嫌でも目立つ。場所柄、犬を連れて歩いている者など、滅多にいないからだ。
それでも、ピーボを置いてくる事はできなかった。ピーボは相棒だ。事件の大団円を控えたいま、一緒にいるべきだ。そもそも、ピーボ抜きでは、ここまで来られなかったのであるから。
場違いではあっても、犬の散歩を装いつつ、遠くを行く有藤の背中に焦点を合わせる。同時に、ピーボの様子にも目を配っていた。
ピーボは警察犬ではない。臭跡を追ったり、危険人物と闘うなどの訓練は受けていない。一方で、人の内心や行動を敏感に察知する能力には長けていた。これはファシリティドッグだからではない。ファシリティドッグの訓練が引きだした、ピーボの才能とも言うべきものだろう。
恐らく、前を行く有藤の心情を、笠門以上に理解しているに違いない。
笠門がピーボを連れているというより、ピーボの歩調に合わせ笠門がついて行っている――そんな表現の方が正しいだろう。
実際、かなり目立っているにもかかわらず、有藤はこちらの気配にまったく気づいていなかった。
路地に入り、赤坂六丁目を六本木方面に早足で歩いて行く。低層のマンションが並ぶ一角に出ると、人通りも極端に少なくなり、車の往来も途絶える。
彼の目的がワンブロック先にあるタワーマンションである事は、調べがついていた。そこには、証券会社大手トンダイルで取締役を務める女性が住んでいる。この三ヶ月ほど、有藤と女性は週に二度のペースで、互いの住まいを行き来していた。
夜空にきらめくマンションの明かりが間近に迫ってきたとき、立体駐車場に面した植えこみの陰から、黒ずくめの男が飛びだしてきた。ふいの事で、有藤はバランスを崩し、道に尻餅をついた。
男は殺気を隠そうともせず、彼の前に立ち塞がっている。
有藤は怯えた表情で、後ずさりしていく。相手が何者であるか、判っている様子だ。
「待て、待ってくれ。オレは何も関係がない」
男はマスク越しに、くぐもった声で言う。
「二年前の借りを返しに来た」
男はポケットからアウトドアナイフを取りだした。木製の鞘を抜き払い、銀色の刃を光らせながらふりかぶる。その手首には、濃紺のカプセルがついたブレスレットがあった。
笠門はリードを離し、男に突進した。これといった武道を習っているわけでもない。まともに組み合ったら、やられるのはこちらだろう。それでも、躊躇している暇はなかった。
重い手応えがあり、ナイフを持った男と路上に転がった。刃に街灯の光が反射し、不穏な色を放つ。相手の腕にしがみつき、懸命に押さえつける。相手も必死で、それをふりほどこうと、笠門の腕に爪をたててきた。
怯んだ一瞬に、腕を振り払われ、下腹部を蹴りつけられた。激痛にうめくうち、男は立ち上がり、呆然としゃがみこんだままの有藤に近づいていった。
「そこまでだ」
路地に三人の男が立っていた。先頭は捜査一課の浦幕だ。身分証をかざし、男を睨みつけている。両側を固めているのは屈強な体付きの部下二人だ。
「そこに転がってる野郎と一緒にするな。こっちはプロだ」
男は一瞬、躊躇したものの、すぐにナイフを路上に放り投げた。
浦幕は、腹を押さえぜえぜえと息をついている笠門に歩み寄ってきた。
「もう少し、鍛えた方がいいんじゃないか?」
「出てくるのなら、もう少し早く出てこい」
「決定的瞬間まで、待ってたんだよ」
「まったく……」
浦幕はようやく右手をさしだした。笠門が掴むと、軽々と引き起こしてくれた。
「おまえがどうなろうと知った事じゃないが、パートナーの事を考えるとな」
浦幕は少し離れたところで不安そうにしているピーボに笑いかけた。
「ピーボ、心配かけたな」
笠門が語りかけると、ようやく安心した表情になり、テクテクと傍によってきた。こちらを見上げる瞳は少し潤んでいる。
笠門はピーボとともに、うなだれているパーカーの男の前に立った。
「そろそろ正体を見せてくれ、岬治一さん」
浦幕が無理矢理、フードを下ろす。やつれきり、目ばかりが異様な光を帯びている。その刺すような視線の先には、いまだ路上にへたりこんでいる有藤がいた。
「きさまのせいだ。きさまが……」
そんな岬に、ピーボがそっとすり寄った。岬は歯を食いしばりながら、涙をこらえている。
「おまえのせいで、オレの家……。ジローは……」
それ以上は言葉にならなかった。
笠門は有藤を立たせる。
「警察病院で死んだ男は、岬ではなかった。小林だ。家族に連絡して、小林のものを提供してもらい、指紋を確認した。三件の放火をしたのは、小林だ。的場と組んで、保険金詐欺を企んでいたんだな。二年前、あんたがやろうとしたように」
有藤は首を激しく左右に振った。
「知らん、オレは知らん」
「おまえは小林に、保険金詐欺を持ちかけた。借金で首が回らなくなっていた彼は、すぐに飛びついた。火を実際につけたのは、有藤、あんただろう。だが、小林宅に火を放ったのではすぐに足がつく、そこで目くらましとして、隣家の岬宅を利用した。岬宅に火をつけ、小林宅にも延焼するよう仕向けたんだ」
浦幕たちに囲まれている岬が叫んだ。
「そこまでしておいて、こいつは、失敗したんだ。オレたちの家だけ燃やして、肝心の隣に火は燃え移らなかった」
「間抜けな話だな、有藤。放火が行われる当日、小林は家を空けるため、夫婦で旅行に出ていた。旅先で火災の連絡を今か今かと待っていたが、いつまでたってもその連絡はこない。居ても立ってもいられなくなった小林は、急遽、仕事が入ったふりをして自宅に戻ってきた。放火犯にはよくある行動だそうじゃないか」
浦幕が有藤に顔を近づけて凄んだ。
「小林にはどう言い訳したんだ?」
笠門は的場直美の身辺で聞きこみを続け、小林の近況をききだしていた。小林は随分と罪の意識に苛まれていたらしい。
「何も知らない岬から、ジローの遺骨入りのブレスレットを貰ったのも効いたみたいだ」
岬は沈んだ声で言う。
「あいつは犬好きで、妻や娘以上にジローをかわいがってくれた。だから、二つ作ってあったブレスレットをやった。あいつ、鹿骨の霊園にも参ってくれたらしい。園長から聞いたんだ。建物の外からそっと手を合わせていたって。まさか、ヤツが火災の元凶だったとは知らなくて」
「あんたはいつ、真実を知ったんだ?」
「ずっと知らなかったさ。さっさとあの土地を離れたから、小林や井伊城がどうしたのかも知らなかった。あそこが呪いの土地だなんて言われてる事は、噂で知ってたけどな」
当時を思いだしたのか、岬の顔から険が消えた。
「この一年、火災や放火について勉強したんだ。警備員として深夜に働きながら、独学で。あの火事が失火だったなんて、どうしても納得いかなかった。そんなとき、板橋でキャンプ用着火剤を使った放火が起きたと知った」
「手口が同じだな」
「現場を見たかったのと、連続放火の可能性もあると考えて、毎夜、パトロールしていたんだ。仕事を休んで。そしたら、二度目の放火が起きた。その現場で、オレはこいつを見た」
有藤を指さす。
「現場で見たこいつは、酷く狼狽した様子で、普通じゃなかった。翌日も、こいつは現場をウロウロしていた。その時は、調査依頼を受けたのかとも思った。だがその次の日もこいつは、この界隈をうろついていた。オレと同じだって気づいたよ。パトロールしているんだ。鑑定人がどうしてそんな事をする? 不思議に思っていた時、第三の放火が起きた。オレはたまたま現場近くにいた。駆けつけたところ、建物から出てきた小林と鉢合わせた。驚いたよ」
岬は柔らかな視線をピーボに向ける。
「ブレスレットをちゃんとしてやがった。ヤツはオレを見て慌て、燃え始めていた的場宅に戻っていった。オレは後を追い、事と次第を聞きただしたんだ。オレの家のこと、謝罪、早口でいろいろまくしたててたよ。好きな女ができて、金がいるとか」
「なぜ、殺そうとしたんだ?」
「当たり前だろう。オレの人生を壊し、後悔を見せながら、また同じ事をしているんだ。オレから見れば、小林はクズさ。殴り飛ばしたら動かなくなったんで、そのまま逃げて火の手が回った。ブレスレットは取り返したかったが、外れなくてな」
岬は自身のブレスレットを掲げると、浦幕に肩を掴まれたままの有藤を見た。
「あんた、小林の家の放火に失敗して、どう釈明したんだ」
「そんな事、おまえには関係ねえだろう」
「関係ないだと?」
岬の目に殺意がよみがえっていた。
「おまえだけは、殺しておきたかったよ」
浦幕が二人の間に割って入る。
「おまえらが住んでいたあの場所、再開発計画が持ち上がっている。大手建設会社が名のりを上げてもいる。古い住宅も多く、住人の高齢化も進んでいる。土地を押さえる事はさほど難しくない。比較的新しい、三軒を除いて」
笠門も初めて聞く情報だった。
「おい、という事は……」
「保険金詐欺の放火が成功したところで、分け前はごくわずかだ。鑑定人としての地位を持つあんたが、なぜはした金のために、危ない橋を渡る? それで、調べてみた。おまえの役割はあの三軒を追いだして、更地にする事。鑑定人としての腕はどうだか知らないが、追い出し屋としては、なかなか優秀だな。で? 報酬としていくら貰った?」
「デタラメだ。私は何もしていない」
「ほう。こいつは、取り調べが楽しみになってきたぞ。一緒に来てもらおうか」
「私は今回の事件には何も関わっていない!」
「犯人とは面識があるわけだし。動機については、関わりがあるわけじゃない。ちょっと話を聞かせてもらうだけですよ」
浦幕は強引に有藤を警察車両に押しこんだ。
「笠門、今回の件は貸しだ。それからピーボ、グッジョブ」
警察車両がいっせいに動きだし、現場保存を担当する所轄警官だけになってしまった。
遠ざかるテールランプを眺めながら、笠門はピーボに語りかける。
「グッジョブだってよ」
ピーボはまんざらでもない顔付きで、大きな耳をピクリと震わせた。
「あのホラー動画サイト、削除されましたよ」
「カラフル」の窓際の席で、チョコレートサンデーを食べながら、五十嵐いずみが言った。向かいには笠門、その横にピーボがいる。
「……『悪魔が今夜も叫ぶのか』」
「『闇を引き裂く怪しい悲鳴』です。全然、違うじゃないですか」
「どっちでもいいよ。そいつはよかった。あの不動産販売の女性もホッとしているだろうな」
「笠門巡査部長、何も聞いてないんですか?」
「聞いてないって、何を?」
「そのサイトの主催、井伊城夫妻だったんですよ」
笠門は思わず身を乗りだした。
「井伊城って、あの岬の右隣に住んでいた?」
「ええ。二人とも仕事は順調だったそうですけど、サイドビジネスで二人の趣味だった幽霊スポット巡りの動画配信を始めたところ、これが大当たり」
「金のあるヤツのところには、上手い話が転がってくるものなんだよ」
「話はここからです。夫妻が所属していた動画配信者の事務所があるんですけれど、そこがまあ、いわゆる反社絡みのところでして、どうやら、岬たちの土地に関する呪いだの何だのを言いだしたのって、事務所からの指示だったらしいんです」
「おい、待てよ、その反社ってのは……」
「有藤にもバッチリ繋がっていたそうです。有藤自身は頑として口を割らなかったようなんですが、井伊城ルートから、土地の再開発事業に関わる不正が明らかになってきてるそうです。ただ、黒幕である大手不動産会社までいけるかどうかは、微妙なようです」
「巨悪ってのはそうやって逃げ切るのさ。ま、黙秘してがんばった有藤も、切られて終わりだな。トカゲの尻尾ってのは、哀れなもんだ」
「笠門巡査部長って、どこまでも冷めてるんですね」
「現実主義者なんだ。それより、ピーボ、やっぱり呪いなんてなかったな」
ピーボは笠門たちの会話になど、興味がないようだった。褐色の瞳は窓越しに青い空を見つめていた。ぽっかりと浮かんだ白い雲が、その瞳に映っていた。
(第三話・了)