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第一話 犬だけが知っていた(後編)

 清洲納の頭の中には、二つのファイルがある。一つは「感情」。もう一つは「対応」だ。二つのファイルは年を取るに従って分厚くなり、瞬時に最適のページを見つけだすのが、難しくなっていた。
 今も、そうだ。目の前にいる男は、何をそんなに大声でまくしたてているのか。
 男が表している感情は怒りだ。だがその怒りは清洲に向かっているわけではない。
 感情には必ず理由がある。人と付き合っていく上で、その二つの結びつきこそが重要だ。
 男の怒りの対象はどうやら、昼間訪ねてきた刑事に向けられているようだ。にもかかわらず、くどくどと繰り返される男の言葉は、清洲を苛つかせた。
 男の名前は棚井田彰久。ゴメスエンターテインメント映像学校の同期生だ。入学から二週間ほどたった頃、棚井田の方から声をかけてきたのだ。清洲が入学したのは、一年の短期コースで、その間にアニメ映像作品制作のノウハウを学ぶ。だが棚井田いわく、一年でそんなものを学びきれるわけがない。卒業証書を手にしても就職先はなく、翌日から路頭に迷うだけだと。そんなものかと清洲は思ったが、棚井田はすぐに自分とコンビを組もうと持ちかけてきた。棚井田自身も創作をしたいようだったが、成績の方はあまりパッとせず、講師にもあまり良い印象を持たれていなかった。
 一方で、性格は明るく楽天的、人付き合いも上手く友人知人が多くいた。交渉事が得意で、棚井田が間に入るといつの間にか問題が丸く収まっている。
 清洲は棚井田の申し出を受けた。何となく、棚井田自身に興味があったからだ。あのコミュニケーション能力、コロコロと変わる表情、感情。その源泉を探ってみたかった。
 棚井田と組み始めてから、様々な事が上手くいくようになった。清洲が提出した企画やキャラクターデザインなどが学内でも評判となり、卒業時には一流のアニメスタジオ、制作会社が清洲のもとにやって来た。
 その陰で、棚井田があれこれと動いていた事を知ったのは、卒業後しばらくしてからだ。
「おまえはいいんだよ。好きに描いてれば」
 棚井田の口癖だった。そして、清洲は言われた通りにした。描けと言われれば描き、何か企画はないかと言われれば、企画をだした。半年ほど、『ミサ、いる?』という作品の作画もやった。そこで、演出のやまけいの目に留まり、『ヒューストン機長の世界一周』、『タタルとタタン』などの作品で二年にわたって演出の一人を務めた。
 そして、棚井田の勧めで清洲自ら企画、脚本、監督を務めた『カッパとキーア』が大ヒット。今の地位を築くにいたったのである。
 全ては棚井田のおかげだ。清洲にも判っていた。稼ぎの多くを棚井田が持って行き、派手な暮らしをしている事も判っていた。
 棚井田の悪評は、清洲の耳にも入ってきていた。直接、彼と早く袂を分かつべきだと意見してくる者もいた。
 だが、清洲は全て無視してきた。今の暮らしに満足しているし、何よりも、棚井田と共にアニメ作品に関わり始めてから、あの衝動が起こらなくなった。この数年、清洲は完全に自分を抑えこんでいた。
 それなのに……。棚井田に目を戻す。
 言うだけの事を言って満足したのか、彼は椅子に座り、缶のハイボールをあおっていた。
 市ヶ谷にある、清洲の自宅マンションである。五階建ての低層マンションの最上階だ。棚井田が見つけ、契約してきた物件だった。
 彼自身も、勝どきのタワーマンションの高層階を購入。その金も無論、清洲が稼いだものだ。
 清洲はもう一度、頭の中で棚井田について考察する。世間一般の常識に鑑みれば、棚井田の行いは言語道断であり、そこから導きだされる感情は「怒り」だ。もっとも有効な対応策は、彼との関わりを絶つ事。
「おまえ、人の話を聞いてるのか!?」
 棚井田が目の前に顔を突きだし、清洲を睨んでいた。酒臭い息が、直接吹きかかるほどの距離だ。脂ぎった肌と血走った目を見た瞬間に、清洲は微かな衝動を覚えた。
 今なら、目撃者もいない。
 いや、ダメだ。棚井田が姿を消せば、ただでは済まない。家族こそいないが、友人知人は多い。数日で警察に行方不明の届けがだされる。そして何より、棚井田と清洲の関係性は深い。彼に何かあれば、警察は真っ先に自分の所にやって来る。
 清洲は頭の中で、何度も念じる。両手を強く握り、頭の中で「対応」に刻まれた条項の一つを繰り返す。
『家族、あるいは多くの友人を持つ者は対象から除外せよ。自分と繋がりを持つ者も対象から除外せよ』
 気がつくと、棚井田の姿は消えていた。どこかで飲み直すつもりなのだろう。ドアは開いたままになっていた。
 清洲は強い疲労を覚え、うなだれた。長らく治まっていた衝動が、なぜ急に復活したのだろう。思い当たる原因ははっきりしない。
 いったい、何が……。
 ふと閃いた。
 あれか。あの犬か。
 スタジオの待合室にいた、金色の大きな犬。ガラスのような目で、じっと自分を見つめていた。
 清洲はテーブルにあった紙とペンを取り、あの犬の絵を描いた。大きな耳、ツンと尖った鼻、垂れ下がった瞼、そして透き通った褐色の目。
 嫌な目だ。思いだすと、背筋を何かが這い回るような、じっとしていられない不快な気持ちになる。清洲は犬の絵を描いた紙を丸め、ゴミ箱に放り投げた。
 あの犬、いつか殺してやる。



「清洲納に不審な点はなかったんだろ?」
 須脇警視正は、笠門の提出した報告書をファイルに戻しながら、言った。
「はい。ただ……」
「待て」
 須脇はさっと右手を挙げる。
「不審点がないのなら、それで良し。今回の件は、これで終了だ」
「その報告書はまだ未完成です」
「意味が判らないな。おまえ、未完成のものを上司に提出したのか?」
「自分の見解はすべてそこに書きました」
「なら、充分だ。どこが未完成なんだ?」
「あいつの見解がまだ」
 笠門は戸口に佇むピーボを見た。深々とため息をつき、須脇が椅子に体を埋める。
「おまえ、いい加減にしろよ」
「ピーボの意見を無視しろと?」
「そうは言ってない。ただ、ピーボの意見を具体化するのも、おまえの仕事だ」
「ですから、報告書は未完成だと……」
「うるさい、うるさーい!」
 声を張り上げた後で、須脇ははっとピーボを見つめる。ピーボは頭を床につけ、上目遣いに須脇を睨んでいる。
「すまん、ピーボ。つい、大声をだした」
 謝りながら、須脇は報告書をクルクルと丸め、ゴミ箱に放りこんだ。
「この次は、きっちりと完成したものを持って来い」
「了解」
 笠門は敬礼をすると、ピーボのリードを取った。

 世田谷にある自宅マンションで、笠門は床に座り、ぼんやりと天井を見上げていた。リビングの隅には、ベージュ色の丸形犬用ベッドがあり、その上でピーボは気持ち良さそうに眠っている。天井の照明は落とし、笠門の脇にある電気スタンドが淡い光を放っていた。
 浦幕から入手したチンピラ殺しの捜査資料、ピーボが聞きだした坂内の証言ファイルなどが床に散らばっている。それらをどれだけ読みこんでも、清洲との繋がりは浮かんでこない。天才と呼ばれるアニメ監督とチンピラ殺しが、どうしても結びつかない。スギさんが見た犯人は本当に清洲なのか。
 やはり坂内の証言だけに頼るのが間違いなのかもしれない。結局は坂内の思い違い、あるいは妄想なのか。
 もう一度、坂内本人から話を聞きたいところだが、彼は現在、特別病棟内で昏睡状態に陥っている。
 ピーボとの面会が終わった患者は、速やかに医療センターに戻されるのが通例だが、彼にはもう移送に耐える体力が残っていないとの診断が下った。そのため、特例としてそのまま警察病院で治療が続いている。
 浦幕からの新情報もなく、捜査は完全に行き詰まっていた。自然と弱気の虫がでてくる。ここで捜査を止めたところで、何の問題もない。ピーボと共に、さっさと新しい事件に向き合えばいい。
 しかし……。
 笠門は目を落とし、ベッドで眠るピーボを見つめた。柔らかな光に照らされ、金色の毛が緩やかに揺らめいている。
 気になるのは、やはり清洲を前にした時のピーボの反応だ。あれはいったい何だったのか。それに答えがでない限り、あきらめがつかなかった。
 いったい何があったんだ、ピーボ。
 笠門にはピーボの考えがある程度は判る。口で説明できるものではない。何となく判るのだ。だがあの時だけは、意思の疎通ができなかった。ピーボの考えが読めなかった。そんな事は、現場に出て初めてだった。
 その原因として考えられるのは、やはり清洲納だ。彼の影響で、ピーボと笠門の間に流れている信号が切れた──。
 待合室での一幕を思い返していく。清洲を見つめるピーボの目。笠門はそこに「恐怖」を見て取った。
 笠門には、清洲が人当たりの良い好人物に映った。しかし、ピーボの感じ方は真逆だ。その違いはどこから来たのか。
 ピーボにとって、恐怖を感じる瞬間とは何か。無論、大声を上げながら人間が向かってきたり、車が突進してくれば、当然、恐怖を感じるだろう。だがあの場は比較的静かで、清洲はピーボに笑いながら手をだしただけだ。その後は数メートルの間隔をあけ、目を合わせたくらいだったが……。
 待てよ──。
 部屋に入り、清洲と目を合わせ、ピーボはいつものように、相手の感情を探り理解しようとした。もし、それができなかったとしたら。
 思わず背筋が冷たくなった。
 笠門は携帯をだし、五十嵐いずみの番号を表示させた。通話ボタンを押す寸前で、今が既に深夜である事に気づいた。メールに切り替え、用件を送付する。
 ひとまず、今できるのはこれくらいだ。しかし、もし自分の思いつきが当たっていたとしたら……。様々な考えが頭を巡り、笠門はほとんど眠る事ができなかった。

十一

「よう、ピーボ」
 甲田拓馬はベッドの上で、元気に右手を挙げた。ピーボはそれに応えるように、タタタッと病室に滑りこみ、ベッドの脇に座った。
 警察病院五階の小児病棟である。プレイルームで子供たちと遊んだ後、病室から出る事ができない子供たちを順番に回っていくのが、いつもの流れだ。
 拓馬は既に足の手術を終え、今は安静を命じられている。元気盛りの拓馬にとっては、それが何より辛いようであった。ストレスを溜め、母親に当たる事もしばしばと聞いている。ピーボとのコミュニケーションは、そんな九歳児にとって数少ない楽しみとなっているようだった。
 戸口に立ち、ピーボを見守る笠門のもとに、師長の畠中がやって来た。
「笠門巡査部長に連絡が入っています」
 耳元でささやく。
「誰から?」
「捜査一課の浦幕警部補」
「かけ直すと伝えてくれ」
「緊急との事だけど……」
 畠中は病室の様子に目を走らせる。
「判った」
 何があろうとピーボから目を離す事はできない。それがハンドラーの務めだ。かといって、拓馬からピーボとふれ合う貴重な時間を奪う事もできない。笠門にとって、今この瞬間、この病室で拓馬とピーボを見守る事が、何よりも大切な職務なのだ。
 規程の時間まで拓馬の病室で過ごし、名残を惜しむ彼の視線を感じつつ、ピーボと共にナースステーションに戻る。ピーボに待つように伝え、自身の携帯を取った。
 呼び出し音と同時に、浦幕の声が聞こえた。
「待たせやがって」
「どうした? 今も高田馬場の捜査本部か?」
「いや、今は大久保警察署だ」
「殺しか」
「ああ。自称ジャーナリスト殺し」
「それで、オレに何用だ?」
「おまえなんかに用はねえ。ピーボだ」
「ピーボは休憩中だ。オレに話せ」
「電話では話しにくい。会えないか」
「ここの勤務が終わったら、署に出向く」
「時間は合わせよう。また駐車場で」
 通話は切れた。
 畠中が声をかけてきた。
「大丈夫なの? 何だか忙しそうにしているけれど」
「忙しいのはいつものことさ。それより、今日はプレイルームが賑やかじゃないか」
 畠中は苦笑する。
「『カッパとキーア』の再放送、終わっちゃったしね」
 プレイルームは絵本を読んだり、共用のオモチャで遊ぶ子供たちでいっぱいだ。賑やかな声が響き、畠中の声が聞こえなくなるほどだった。
 カッパとキーア。作品名を聞くたび、笠門は胸のざわつきを止める事ができない。
「どうかした?」
 こちらの心中を素早く読み取った畠中が、きいてきた。
「いや……」
 言葉を濁すと、畠中は「そう」とだけつぶやき、ピーボに微笑みかけ自分の仕事へと戻っていった。笠門はしゃがんで、ピーボと目を合わせる。
「今日はもう一働きしなくちゃならないんだ。いけるか?」
 ピーボがすっと立ち上がり、ツンと鼻先を押しつけてきた。

 大久保署裏手の駐車場に足を踏み入れたとき、浦幕は既に壁際に立ち、新しいガムを口に放りこんだところだった。
「待たせたな」
 笠門の言葉を無視し、浦幕はピーボに手を振った。ピーボは尻尾で応える。須脇は耳で、浦幕は尻尾か。上手いことやるな、ピーボ。
「それで、新しい事件ヤマの方はどうなんだ?」
 浦幕は顔を顰める。
「思わしくない。被害者の台拓だいたくは人間のクズだ。ジャーナリストとは名ばかりで、人の弱味を握っては金をゆすり取っていた。だが、そのせいで容疑者が多すぎ……」
 浦幕は顔を上げて、笠門を睨んだ。
「お前には関係のない事だろう」
「担当事件の事をきくのは、時候の挨拶みたいなものだろうが。で? オレたちを呼びだした用件は?」
「新宿にいた頃の伝手を辿って、調べてみた。時間が経っているんで手こずったが、何とか見つけたぜ、スギさんを知ってるヤツを」
「さすが捜査一課」
「新宿界隈で、ホームレス支援をする団体を運営していたヤツだ。高大だかだいって名前だ。今は運営から足を洗って、家業の不動産屋をやっている。これが住所だ」
 浦幕はメモの切れ端を差しだした。
「助かるよ」
「ひとまず、本部に戻る。後の事は頼んだ」
 浦幕は駆け足で建物の中に消えていった。
「後ろ姿だけは、格好いいんだがな」
 ピーボは「フン」と鼻を鳴らした。それが同意を示しているのかどうかは、判らない。

(つづく)