三
須脇文警視正は、いつになく不機嫌そうな面持ちで、デスクの前に立つ笠門を見上げた。
「得られた情報は、それだけか?」
「報告書に書いたものが全てです」
須脇はこれでも、警視庁総務部総務課課長。キャリア組であり、笠門の上司でもある。最低限の礼儀はつくす必要があった。
ため息をつきながら、須脇は薄い報告書をデスクの上に放り投げる。
「名前が判らないんじゃ、何もないのと同じだ。今回は空振りだな。坂内はどうしている?」
「持ち直していますが、急変の可能性は高いと」
「そうか……」
須脇は、部屋の戸口に座るピーボにちらりと目をやった。
「まあ、今回はダメ元な案件でもあったし、これで終了としよう。ピーボ、ご苦労だったな」
こっちに労いの言葉はないのかよと内心忌々しく思いつつ、笠門は口を開いた。
「ダメ元とおっしゃいましたが、坂内が対象者となった経緯をうかがいたいのですが」
「聞いてどうする?」
「対象者となった経緯は、通常、事前に通達されます。それが今回に限り何もなかった。その上、警視正の口から『ダメ元だった』などと聞かされては、黙っていられません」
自然と語気が荒くなる。
「対象者との接触は、ピーボにとって大変な負担となります。ダメ元で任務につかされては、たまったものじゃない」
「口を慎め」
「そちらこそ、もう少し責任を持っていただきたい」
須脇が拳をデスクに叩きつけた。
「任務から外してもいいんだぞ」
「どうぞ、外してもらって構わない。ただし、俺の代わりがすぐに見つかりますかね?」
「きさま……!」
腰を浮かせた須脇だったが、すぐにピーボの存在に思い至ったようだ。大きく息を吸うと、そのまま座り直した。
「ピーボの前で、荒事はよろしくないな」
「その通りです。大きな声も控えていただきたい」
「一つ言っておくが、おまえの代わりを俺が用意していないと思うか? 資格のある者が既に二人待機している」
口を開こうとした笠門を制し、須脇は続けた。
「にもかかわらず、おまえにこの任務を任せているのは……」
須脇の視線の先にはピーボがいた。それ以上の説明は不要だった。
笠門は言った。
「なぜ、坂内は特別病棟に移されたんです?」
須脇は笠門から視線を外し、わざとらしく窓の外を見やる。須脇の部屋は、警視庁本部ビルの七階にある。法務省旧本館から日比谷公園まで一望できる。
須脇はあきらめのため息と共に、言った。
「きっかけは、寝言だ」
「どういう事です、それは?」
「医療センターの職員の証言によると、坂内は毎夜、酷くうなされていたようだ。その際、譫言を口走り、それがどうもただ事ではないと」
「譫言の内容は?」
「おまえの報告書にあった内容と大して変わらない。ただならぬ何かを見た。そして坂内はそれに関わっている人物を知っているようだ」
「そこで、俺たちに」
「うってつけの案件だろうが。ピーボなら、何か新しい情報を引きだしてくれると期待していたんだがな」
「ピーボに責任はありませんよ」
「ああ。それじゃあ、おまえの責任だ」
「それならそれで構いません。そう報告書に書いといて下さい。でも、俺たちはまだあきらめてはいませんから」
「どういう事だ」
「看守や医療センターの職員からもう少し、話を聞いてみたいんです。解明のヒントが、見つかるかもしれませんから」
「そんな事は許可できん。こんな取るに足りない事案は、もう終了だ。対象者はまだ何人もいるんだからな」
「坂内の件が片付くまで、お断りします。それと、坂内の治療に関わった者の証言は、すべて報告書にまとまっているんでしょう?」
「ああ、まとまってはいるが……おまえ、俺の命令を無視するつもりか?」
「無視するのは、俺じゃないですよ。あいつです」
ピーボが背筋を伸ばし、じっとこちらを見ている。どっしりと構えたその姿には、笠門など及びもつかない貫禄があった。
須脇は椅子を回して背を向けた。
「それは、見て見ぬふりをしてくれるっていう意思表示ですよね?」
少し前、須脇自身に殺人の嫌疑がかかるという事件があった。それを解決に導いたのは、ピーボの活躍だ。警視庁本部庁舎七階に陣取る警視正も、ピーボには頭が上がらないのだ。
「勝手にしろ」
捨て台詞を耳にしながら、笠門はピーボとともに部屋を出た。
四
七階から地下三階まで、エレベーターで一気に下りる。薄暗く黴臭い廊下を進む先に、「資料編纂室」というプレートのあるドアがあった。
ノックもせず開き中に入ると、まず目に飛びこんできたのは、どこまでも続く段ボール箱の山だ。笠門の背丈以上に積まれた箱が行く手を阻むが、よく見れば、箱と箱の間に細い道らしきものがある。体を斜めにしてそこに潜りこみ、進んでいく。角を二つ曲がる頃には、もう自分がどちらに向かって進んでいるのか、判らなくなる。
やがて、行く手に青白い光が見え、「シュィィィィィン」という奇妙な音が聞こえてきた。ゴールは近い。
段ボール迷路の先にあったのは、小さなパソコン用デスクと時代がかった古びたパソコンが一台だ。先の奇妙な音は、そのパソコンから発せられている。そして、その前に座る一人の若い女性。
「ここまで来るの、大分、早くなりましたね」
五十嵐いずみ巡査は、パソコンから目を離すことなく言った。
ポンとエンターキーを押した彼女は、活き活きとした笑顔で、笠門とピーボを振り返った。
「ピーボ、久しぶり」
ピーボは尻尾を振って応える。
「……五十嵐巡査?」
「あっ、笠門巡査部長もお元気ですか?」
「やる気のない社交辞令なんていらないんだよ。また調べて欲しい事ができた」
「坂内六郎さんの事ですか?」
「どうして判る?」
「須脇警視正から、昨夜のうちに依頼がありました。彼の起こした窃盗事件などの捜査資料その他、まとめておきました」
あのタヌキ野郎、最初から笠門たちに捜査させるつもりだったのだ。
「そいつは助かる」
データの入ったUSBを受け取りながら、笠門は言った。
「医療センターで坂内を担当していた人物と話がしたいんだ。名前、判るかな」
「調べれば判りますけど、ちょっと難しいと思いますよ」
「君もそう思うか?」
「ええ。私も一応、元医療従事者ですから。笠門さんだって同じでしょう?」
「医療センターに乗りこんでいったところで、医師や看護師が坂内の病状をホイホイ喋るわけもない……か」
「守秘義務を徹底してますから。ピーボの力をもってしても難しいと思います」
「だよなぁ」
腕を組み、薄汚れた天井を見上げる。
「そんな笠門巡査部長とピーボに贈り物です」
五十嵐は、一枚のメモを差しだした。そこには、ボールペンで「一垣朝広」という名前が走り書きされている。
「なんだい、こりゃ?」
「ある人からの依頼です。これを巡査部長に渡すようにって」
「ある人って誰?」
五十嵐巡査はあどけない笑みを浮かべつつ言った。
「言えません。口止めされているんです」
「口止めって……こっちはこれから捜査に行くんだ。必要な情報は教えてくれなくちゃ困る」
「ダメです。情報元は明かせません」
「こいつは遊びじゃないんだ」
「ダメです」
微笑んではいるが、笠門を見返す目には強い意志があった。
「判った。それについては、もうきかない。ただ、この一垣か? この人が何者で何処にいるのか判らないと、会いようもないだろう」
「この方なら、笠門さんもよく知ってる場所にいますよ」
「え?」
「警察病院西棟七階の循環器内科で検査入院されているはずです」
「つまり、警察病院の患者ってことか?」
五十嵐は右に首を傾げてみせた。
「さあ、それ以上の事は、私には判りません」
本当に判らないのか、判っていて惚けているのか、笠門の眼力では見抜く事ができない。ピーボは褐色の目をじっと五十嵐に注ぎ、「ふふん」と小さく鼻を鳴らした。
五十嵐は苦笑する。
「ピーボには見抜かれたみたいですけど」
笠門は憮然としたまま、ピーボの頭をなでる。五十嵐はそれを見て、満足そうに微笑んだ。
「さあ、用件が済んだら、出て行って下さい。私、これでも忙しいので」
「紙の捜査資料を打ちこんで、電子化するだけだろう?」
「それが、いざやってみるといろいろ大変で」
巡査はピーボに軽く手を振り、またパソコンに向かった。キーを打つリズミカルな音が、段ボールだらけの広大な部屋に響く。
相変わらず、妙な女性だ。
来た道を戻りながら、笠門は思った。こんな穴蔵のような場所での単調作業。自分なら一時間ともたないだろう。
そんな仕事を彼女は、もう一年以上続けている。頻繁に会うわけではないが、訪ねた時はいつも活き活きとしていて、疲れた様子など微塵も見せない。
また、若いのに警視庁の歴史や法律に関する知識が膨大であり、こちらのどんな質問にもスラスラと答えてくれる。
それに加え、広範なデータアクセス権も有しており、重要機密扱いの情報もどこからか引きだしてきて、笠門に渡してくれたりもする。
いったい、何者なのだろう。
ピーボがすっと体を寄せてきた。
「なんだ、ピーボもあの巡査のことが気になるのか?」
ピーボはなおも体を押しつけてくる。
「何だよ、判った、判った。彼女についてあまり詮索するなっていうんだろ」
ピーボは体を離す。
「やれやれ。おまえたち、妙に気が合うな」
長い迷路を抜け、ようやく出口が見えてきた。
(つづく)