十二
矢高不動産の事務所は、雑居ビルの一階にあった。歌舞伎町にほど近く、朝八時であるにもかかわらず、活気はまったくない。徹夜明けの気怠い気分にも似た空気が、一帯をどんよりと覆っていた。
そんな中にあって、矢高不動産には既に明かりがともり、小太りな男性がホウキを手に事務所前をせっせと掃いていた。
「うわっ、犬だ」
矢高の第一声だった。笠門の存在など目に入らない様子で、相好を崩してピーボの前にひざまずいている。
「すごい毛だねぇ。それに大人しい。触ってもいいかい?」
犬好きらしい。笠門がうなずくと、彼はそっとピーボの首輪周りに触れた。
「この場所でゴールデンレトリバーなんて、滅多に見ないからねぇ」
「犬、お好きなんですか?」
「もちろん。景気のいい頃は、飼ってたんだよ。家族もいたしね」
過去形で語られる彼の言葉は、なかなかに意味深だ。
「オレ、商才ないんだよ。親の商売継いだものの、失敗ばかりでね。財産そっくりなくして、家族も出て行って、残ったのは、この事務所とわずかばかりの得意先。まあ、自分一人なら何とかやってけるから……あれ? 何でオレこんな身の上話なんかしてんの?」
ピーボの目がイタズラ小僧のように光った。笠門は身分証をだす。
「実は、こういう者で。浦幕って警部補から連絡、行ってませんかね」
矢高はキョトンとした表情で、身分証とピーボを見比べる。
「浦幕さんからは、確かに連絡あったし、近々、刑事みたいなのが行くって聞いてたけど……」
刑事みたいなのって何だよ。
ピーボがうれしそうに尻尾を振っている。
「以前、ホームレス支援の活動をされていたとか」
「景気の良かったころね。今じゃ、人様の事より自分の食い扶持だからね」
矢高は気のいい笑みを浮かべつつ、事務所に通してくれた。書類やらパンフレットやらが散乱し、段ボール箱がところ狭しと積まれている。五十嵐の資料編纂室並みだな。そんな事を思いつつ、すすめられた固い椅子に座る。ピーボは出入口近くのわずかなスペースに身の置き所を見つけていた。
ワンちゃんにやるミルクを買ってくると言い張るのを押しとどめ、話を聞く事となった。
「スギさんってのは、大分、変わった男でね」
浦幕と一度話をしているせいか、記憶は鮮明で、メモや携帯を確認する素振りもない。
「まあ、新宿界隈で気ままに暮らしているんだから、多かれ少なかれ変わってはいるんだろうけどさ」
室内は埃っぽく、少々、黴臭い。犬にとってあまり良い環境ではないが、矢高の手前、ピーボを外にだすわけにもいかない。心の内で詫びながら、取り留めもなく続く矢高の言葉に耳を傾けた。
「いつも絵や文章を書いていてね。どういう経緯でここに流れてきたのか、何も言わない。本当の名前だって知らなかったんだ。路上で似顔絵描きとかやってね。あと、都庁のイラストとか描いて、売ってた。これが案外、金になるんだよ。でも、自分の事にはてんで無頓着でさ。稼いだ金も仲間みんなで飲んじまったりする」
矢高の表情が一瞬険しくなった。
「中には、金目当てでつるんでいるようなヤツもいてさ」
「矢高さんのホームレス支援というのは、具体的にどんな事だったんです?」
「色々だよ。主なのは炊きだしの手伝いとかかな。食材とかそういうものは、全部寄付で賄うんだけど、料理して配るのに金はかけられないから、全部、ボランティア。届けだして、テントたてて、機材用意して、力仕事もあってさ、大変だったけど、まあ、やり甲斐はあったね。みんな、喜んでくれてさ」
矢高にとっても、良い時期だったのだろう。語る口調は軽く、表情も明るいものに戻っていた。
「スギさんは、いつも?」
「そう。稼いでるのに、そうやってかすめ取られて、いつも無一文。だけど、本人は気にする様子もなかった。絵を描いて、何だか文章も書いて、ノートがいっぱいたまっててさ」
「スギさんは何処に住んでいたんです? 溜めていたノートやなんかは何処に?」
矢高は苦笑する。
「住む所がないから、みんな困ってたんじゃないの。スギさんは、冬でも、路上で寝てたよ。たまに友達の所で厄介になってたみたいだけど、居つく事はなかったみたいだな」
「荷物はどうしていたんです?」
矢高はポンと自分の背中を叩く。
「リュックを背負っててね。全部そん中に詰めてた。重そうだったなぁ。ノートとかスケッチブックとか」
笠門は本論に入る事にした。
「そのスギさんがいなくなった時の話なんですが」
「いなくなったと言っても、そんな調子だったからさ、ある日、あれ? スギさん最近みないねぇって、その程度。そのうち炊きだしに来るだろうって思ってたんだけど、結局、それっきりでさ」
「探したり、届けをだしたりは?」
矢高の表情が再び険しくなる。
「あんたね、急にいなくなるなんて、日常茶飯事なんだよ、届け出? 届け出て警察が何かしてくれるのかよ」
そう言われると返す言葉はない。
「スギさんが出入りしていた頃、坂内という人物もいたと思うんですが、ご記憶ですか?」
「浦幕って刑事にもきかれたんだけど、坂内はよく覚えてない。あんまり素行の良くないヤツってくらいの印象だなぁ。ただ、言われてみれば、スギさんと時々、一緒にいたな」
「スギさんの姿が消えた事について、何か言っていたような記憶は?」
「ないねぇ。そんな事があったら、絶対に覚えてるもん。それに、その坂内もすぐにいなくなっちまったからな。またムショに戻ったんだろうくらいにしか、思わなかった」
矢高の記憶は鮮明で語りも明快だ。一方で、当時接していたホームレスの人々については、しっかりとした一線を引いているように思えた。事実、彼はスギさんや坂内のその後について、自ら問うたりは一度もしなかった。それが矢高なりのルールなのだろう。炊きだしの現場に来た者たち一人一人に感情移入していたのでは、到底、身が持たない。各人の過去、現在の境遇、そしてそれからの人生──一切、関心を持たない事で支援をやり抜いてきたに違いない。そんな人物が今、不遇をかこち都会の片隅で小さくなって生きている。これもまた、やりきれない話ではあった。
「最後に、スギさんの顔が判るものはありませんか。写真とか」
「そんなものはないよ。たとえあっても、見せたりはしないね。個人情報だよ」
「これは失礼しました」
「だけど、オレの話は全部、空振りみたいだったね」
笠門の顔付きで察したのだろう。
「せっかく来てくれたのにな、申し訳ない。だから、役に立つか判らないけど、これ」
折り目のついたノート大の紙を、書類束の下から引っ張りだした。スケッチブックを破り取ったもので、裏には細かな文字でびっしりと書きこみがなされている。
「これ、スギさんの」
さてはスギさんの似顔絵でも出てくるのかと胸を躍らせて開いてみれば、スーパーの袋を掲げ、だらしなく笑う矢高の顔が現れた。
「……これは?」
「スギさんが描いてくれた、オレの顔。よく描けてるだろ?」
「ええ、まぁ」
たしかに、人の好い、どこか頼りなさそうな顔立ち、櫛などめったに入れないのであろう、ボサボサの髪、だらしなくよれた襟元。
絵の中の矢高は、目の前にいる本人以上に活き活きとして見えた。
これがスギさんの絵──。
「それ、持ってっていいからさ。これがオレにできる精一杯だよ」
スギさん直筆とはいえ、矢高の似顔絵を持ち帰っても仕方がない。返そうとしたところ、近づいてきたピーボに足元をポンと小突かれた。
「何だよ、持って帰れっていうのか?」
ピーボは澄んだ目でじっと見上げている。
「判った。矢高さん、ではこれ、預からせていただきます」
「あぁ、持ってって。それでもし、スギさんの消息判ったらさ、報せてよ」
ピーボと共に外に出る。店の中を振り返ると、矢高はピーボに向かって手を振っていた。
十三
「シュィィィィィィン」
五十嵐いずみ愛用のパソコンが、奇妙な音をたてる。
「いいかげん替えた方がいいんじゃないのか、このパソコン」
段ボールが積み上がり、閉塞感に満ち満ちた資料編纂室の中で、五十嵐いずみのわずかな仕事スペースだけが、明るい光に満ちていた。天井にあるのは古びた蛍光灯だが、最近、新調したばかりなのか白く眩しく輝いていた。
四畳ほどのスペースにあるのは、パソコンデスクと椅子、それに年代物のパソコンだけ。
「たしか名前がついてるんだよな、このパソコン。ボレロ?」
「ポルタです。それに、見た目は古いですが、歴代資料編纂室長がバージョンアップしてくれていますから、中身は最新型なんです」
ならば外見も最新型にすればいいじゃないか──という言葉を飲みこみ、笠門は立ったまま五十嵐の差しだしたUSBメモリーを受け取った。
「さすがだな。助かったよ」
「清洲納は今や有名人ですから。私でなくても、ちょっとネットを見れば、経歴などはいくらでも出てきますよ」
「ネットに落ちている情報をそのまま信用はできないだろう。絶対的に信用できるフィルターを通さないと」
「私はフィルターですか」
「何か気になる点はあったか?」
「そこなんです」
珍しく五十嵐はパソコン画面から目を離し、笠門を見上げた。
「清洲氏はかなり裕福な家の生まれで、私立の小学校から、同じく私立の中高一貫校に進んでいます」
「学同院だったよな。名門だ」
「父親も学同院大学医学部の卒業生で、学同院大附属病院の准教授でした。専門は精神神経科」
「母親も同じ病院にいたんだよな」
「学同院女子部から学同院大医学部へ。そこから附属病院と夫と同じ経歴です。専門は脳神経内科で、研究よりも現場に出るタイプだったと」
「そんな両親の一人息子だったら、普通、医学部に行くよな」
「それは偏見だと思いますけど」
「清洲納は学同院大学には進まず、美大を受験し、入学している。だが、二年生の夏に自宅の火災で両親が死亡。清洲は大学を中退──と」
「なぜ中退をしたのでしょう。資産は充分にあったはずですから、学費などには困らなかったと思うんですけど」
「両親を一度に亡くしたんだ。彼なりに考える事があったんだろう。ただ、その後の経歴については諸説あってはっきりしない。外国を旅したとか、北海道で絵を描いていたとか」
「正確には就職をしています。大手のスーパーに」
「そいつはちょっと意外な選択だな」
「関東圏中心に展開している『オック・スター』というスーパーでした。去年、『パキューモン』というスーパーに吸収合併されちゃいましたけど」
「そのスーパーで数年働いた後、退職しゴメスエンターテインメント映像学校に入学……。夢が忘れられずってとこなのかな」
笠門はポルタの画面から目を離し、あらためて五十嵐を見た。
「紆余曲折の半生だが、これといって不審な点も見当たらない。巡査が気になる点というのは何だ?」
「表面的なデータからは見えてこないもの」
彼女がキーを叩くと、画面には関東圏全体の地図が映しだされた。
「『オック・スター』に就職した清洲氏は、半年の研修後、戦略企画室というところに配属されています」
「えらく物々しい名前だな」
「新規店舗立ち上げの専門部署だったようです。候補地探しからオープンまでを一括して担当管理する。かなりハードな部署だったみたいで、離職率も半端ないです」
そんな極秘情報をどこから手に入れたのか。その件については、あえて尋ねなかった。
「清洲はそんな部署に、数年いたわけだよな」
「戦略企画室のエースだったようです。新規店舗の建設が終わった後は、どんな商品をどこにいくらでどのくらい並べるのか、パート、バイトは何人雇うかなど、店舗立ち上げ時のすべてを統括する──とあります」
「清洲には、そんな才覚もあったのか」
「担当店舗を次々と優良店にしたようです」
「次々と?」
「店長とは違って、あくまで新規立ち上げが職務なんです。ですから、店が軌道に乗れば、また別の新規店舗へと移る」
「確かにハードだな。転勤も多そうだし」
ポルタが表示する関東広域地図に複数の赤い点が現れる。そこが清洲の赴任した場所なのだろう。
「在職中、半年毎に勤務店舗が変わっています。場所も都内から神奈川、千葉、埼玉、栃木、茨城、関東全域にわたっています」
笠門は腕を組み、光る画面に目を凝らした。
「なるほど。巡査の言う事ももっともだ。そこそこ資産があるにもかかわらず、なぜ、美大を中退してまで、こんな過酷な仕事に就いていたのか」
「そこで、巡査部長からいただいたキーワードを元に、さらに検証してみました」
五十嵐がキーをタップすると、地図上に複数の赤い点が現れた。全部で十四カ所ある。
「この赤い点は清洲氏が立ち上げに関わったスーパーのある場所です」
「こんなにあるのか」
「当時の『オック・スター』は出店ペースを加速させていました。まあ後年、その無理がたたって経営が傾き、吸収されてしまうわけですが」
「で? この赤点にどんな意味が?」
「そこにこれを重ねます」
五十嵐がさらにキーをタップすると、今度は青い点が複数現れた。全部で八つ。うち六つが赤い点と重なっている。
「何だ、この青い点は?」
「清洲がオック・スターにいた期間に未解決の殺人事件が起きた地点です。事件の詳細はUSBに入っていますが、どれも、酷い内容です。被害者は主に中高年の男性。手口は絞殺、刺殺、撲殺など、様々」
「殺しは東京を除けば、一県につき一件。県を跨いで合同捜査本部が設置された記録なし。つまり、同一犯として捜査はされていない」
「縄張り意識から、各県警の情報共有が進んでいない事に目をつけ、一県一殺を心がけていた。そういう事でしょうか」
「先走りは禁物だが、殺人と清洲の転勤先、ここまでの一致を見たとなると、疑ってかからないわけにはいかないな」
「人を殺すために、わざと転勤の多い仕事を選んだって事ですか? そんなの、まともじゃないです」
笠門はうなずいた。
「そうだ、まともじゃない。だが清洲納はやった。恐らく彼は感情を持たないシリアルキラーだ。恐ろしく頭の切れる殺人鬼さ」
十四
清洲納はリトラスタジオ七階の会議室で、『カッパとキーア』第四シーズン最終話の絵コンテをきっていた。話の構想はほぼ頭に入っており、あとはそれを絵に起こすだけだ。その作業中にも演出家の一人が確認を求めてきたり、プロデューサーがまもなく情報解禁となる劇場版第二弾の記事確認を求めてくる。
清洲はそれらを雑音と判断し、自身の作業に集中する。
ドアがノックされる。最上階南側のこの部屋は、今や、清洲専用の作業部屋となっていた。正式な通達はないが、暗黙の了解というヤツだ。会議等でこの部屋の予約を入れる者はいない。一年中、一日中、この部屋は空いている。清洲納のためにだ。部屋の隅には折りたたみ式のマットが置かれ、キャスター付きのハンガーラックには清洲のトレーナーとジーンズが数着、かかっていた。時には数日、この部屋を出ず作業に没頭する事もあった。
清洲が誰も通すなと言えば、ドアをノックする者はいない──はずだった。
再度、ノックの音がする。清洲は無視する。ドアが開き、先日顔を見せた刑事が入ってきた。清洲はコンテを描く手を止め、頭の中のファイルを探る。感情は「冷静」、対応は「事務的」を選択する。
「刑事さん、何のご用でしょうか」
「お忙しいところすみません」
刑事が頭を下げたとき、ドアの隙間からするりと中に入りこんできたものがある。あの犬だった。清洲は苛立ちと共に、ファイルを探す。あの得体の知れない犬をどう分類し、どう対応すればいいのか。
答えはでない。
苛立ちがさらに募り、それは衝動となる。気づかぬうちに、犬を睨みつけていた。刑事は犬との間に立ち塞がり、視界を塞いできた。
「どうかされましたか」
答えが見つからない時に焦りは禁物だ。こういう時こそ、「教え」を思いだせ──。
『無理に答えを見つける必要はない。見るな、聞くな。意識からしめだせ』
清洲は今朝も何度か練習した笑みを浮かべ、刑事を見た。
「あなたの名前を忘れてしまいましてね」
「笠門巡査部長です。こちらは……」
「犬はけっこう。それで、何用ですか?」
「いくつか、確認したい事がでてきまして」
刑事は緩慢な動作で、ポケットから二つ折りにした紙をだした。足元の犬は、先日と同じく、こちらを怪訝そうな顔で見つめている。
見慣れたタッチの人物画が、目の前に差しだされた。描かれている顔にかすかだが見覚えがあった。
「この絵が何か?」
「新宿で不動産屋を営む矢高大さんなんですがね、ご存じですか?」
「矢高さん……。名前に覚えはありません。ただ、この顔、どこかで見たような気が」
「かつて新宿周辺で、ホームレス支援の活動をされていた方です。公園で炊きだしなどをされていました」
記憶がよみがえった。食事を貰いに来た男たちの間を、チョロチョロと動き回っていた男──。
「ご存じなんで?」
刑事はじっとこちらの顔を見ている。
感情は冷静に。対応は率直に。嘘はなるべくつかない方が良い。嘘は真実の中に埋没させるもの。
「思いだしました。大分、前になりますが、炊きだしの時にお見かけしましたよ」
刑事は満足そうにうなずいて、絵の中の矢高が掲げるスーパーの袋を指さした。
「このスーパーの袋、『オック・スター』のものなんですね。よく見ると、水牛のロゴマークが描かれている」
刑事はねちっこい視線を、絡めてきた。
「清洲さんは、かつて『オック・スター』にお勤めでしたね?」
「はい。美大を中退した後、しばらくお世話になりました。『オック・スター』は社会貢献にも積極的でして、こうした炊きだしなどに食材を提供していました。北新宿店の新規オープンの時、私も何度か炊きだしの現場にうかがいました。その時にお見かけしたのだと思います」
刑事はこの辺の事まで調べ挙げた上で、質問しているのだ。矢高を知らないと答えれば、いらぬ詮索をされるところだった。
「それで? この矢高さんが何か?」
「いえいえ」
刑事はまたもゆっくりとした動作で、紙をしまう。その際、足元にいる犬にチラリと視線を送り、微笑んだ。
「では刑事さん、用件が済んだのなら、出て行ってくれませんか。この作業を一時間以内に終わらせないといけないので」
「これはどうも」
刑事は頭をかきながら、詫びの言葉を並べる。しかし、実際に出て行こうとはしない。
「もう一つだけ、うかがいたい事があるんです。お時間は取らせません」
そう言って、刑事はすすめてもいないのに、傍にあった椅子に腰を下ろした。そしてまた、犬に笑いかけ、手で首筋の毛を撫でた。犬は気持ち良さそうに目を細めながらも、警戒心に満ちた目で、清洲を睨んでいた。
こうした場合の感情は「苛立ち」、「怒り」。理解しつつも、心の内に黒い衝動が湧き起こる事を、清洲は止められなかった。
「どうかされましたか? 顔色が悪いようですが」
刑事の目が気になり、清洲はとっさに目をそらす。
「徹夜続きで疲れているんですよ。それで、用件というのは?」
「あなたの経歴を調べさせていただきました」
「そのくらいネットにいくらでも載っているでしょう」
「戦略企画室にいらした事は、載っていませんでした」
「それはそうでしょう。大して面白い情報でもない」
「ですが、新規店舗の立ち上げを行うわけでしょう。相当な激務だったはずだ。それに、転勤も多かったと聞いています」
「立ち上げが業務ですからね。店が軌道に乗れば、また次の店へと移っていく。当然の事ですよ」
「当然ねぇ」
刑事はスーツの内ポケットから、古びた手帳をだし、ページをめくった。今どき、そんなものを使っている事自体、驚きだった。
「埼玉県東蓮田市の居酒屋店主殺し」
「何です?」
「居酒屋の店主が店裏で撲殺された事件です。未解決です。続いて栃木県南足利市のガソリンスタンド店員殺し。自宅近くの公園で刺殺。これも未解決」
「待って下さい。あなた何を……」
「神奈川県新幸浦の工場長殺し。これは絞殺。千葉東海岸通りの独居老人殺し。自宅内で撲殺」
刑事はページをめくる。
「群馬県桐生北のホームレス殺し。刺殺。東京都新宿区の暴力団員殺し。殺害されたのは二名で、暴行の後、刺殺。以上、すべて未解決」
刑事は手帳を机の上に放り投げる。
「表に出ていないものも、たくさんあるかもしれないな」
清洲は椅子に座り直し、絵コンテを描いていたタブレットの電源を落とした。
「日本の警察は優秀だと聞いていたが、未解決事件が意外と多いんですね」
「まったくです。ところで、一つ面白い事がありましてね。今言った六つの事件、共通点があるんですよ」
「ほう」
「事件発生に前後して、付近に『オック・スター』の新店舗がオープンしているんです」
自分は今、追及されている。そうした場合の感情は「狼狽」。対応は……。
答えを探す間も、刑事は話し続けている。
「調べてみたところ、どの店舗にも清洲さん、あなたが派遣されている」
「分析」だ。相手の言葉を正確に読み解き、穴を見つける。清洲は、すぐに実行へと移す。
「刑事さんはいったい何が言いたいんです? まさか、それらの事件にボクが関わっているとでも?」
「違うんですか?」
「バカな事を言わないで下さいよ。ボクが人殺しなんてするはずないでしょう」
「まったく身に覚えがないと?」
「当たり前でしょう!」
「狼狽」の時間は終わりだ。ここからは「挑発」、そして「抵抗」だ。「分析」で得られたものを相手にぶつける。
「関東圏で起きている殺人事件は、かなりの数にのぼるはずだ。その内の六件がたまたま、ボクの赴任先で起きた。ただそれだけの事ではないですか?」
「ただ、それだけ……ねぇ」
「あなたの事だ。すべての事件の捜査資料に、目を通しているのでしょう。で、六件の事件に、ボクの関与を示す証拠があったんですかね」
刑事は静かに首を振った。
「ならば、あなたのおっしゃる事は、ただの言いがかりに過ぎない」
大きな音とともに、ドアが勢いよく開いた。その音に犬が怯えた顔になる。刑事が素早く犬に寄り添い、何事か囁いている。
部屋に踏み入ってきた棚井田の顔は、怒りで赤く染まっていた。
「いったい、何のつもりだ」
刑事に掴みかからんばかりの勢いで迫る。
「用件があるのなら、まずオレを通せと言っておいたはずだぞ」
「これは事件の捜査だ。あんたの指図は受けんよ」
刑事は怯んだ様子もなく、犬のリードを握りしめる。犬は棚井田を探るように、鼻先を靴周りに近づけ、臭いを嗅いでいる。刑事はそれを止めるでもなく、ただじっと観察していた。棚井田は足元を嗅ぎ回る犬の様子に毒気を抜かれたのか、部屋に飛びこんできた時の勢いは消えていた。
その隙を刑事は巧みに突いたようだ。
「また来ます」
棚井田の前を通り、刑事は犬と共にドアの向こうに消えた。犬はなおも棚井田が気になるようで、ドアが完全に閉まりきるまで、ちらちらとこちらを振り返っていた。
犬の気配が消えた途端、身体にまとわりついていた錆のような感覚が綺麗になくなった。不快な重しが取り除かれ、一気に気分が高揚する。その反動か、抑えがたい衝動が湧き起こった。
また棚井田がこちらに向かって何か言っている。その声はもはや聞こえない。
標的を吟味するのは、もはや面倒だった。両親の教えには背くが、このくらいは許してくれるだろう。
「おい、聞いているのか」
棚井田の声が耳の中に響き渡る。
「あ、ああ、聞いているよ」
「ヤツらは何をきいてきたんだ? おまえ、何を答えた?」
「そう一気に聞かれても、答えようがない。それに、『ヤツら』って何だい?」
「え?」
「刑事は一人だけだった。残りは犬だ。刑事の事を言うのならヤツで充分だろう」
棚井田は戸惑いの表情を浮かべ苦笑した。
「さぁ、何でそんな風に言ったのかな。あの犬、妙な存在感があるだろう? 仕草やなんかも、何か気になる」
そんな棚井田を見つめながら、清洲は思う。
今夜だ。今夜、殺してしまおう。
(つづく)