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 大月は課長席に座り、書類と格闘していた。部屋に入ってきた笠門とピーボを認めると、不敵な笑いを浮かべる。

「あれこれ嗅ぎ回っているようだな」

 君塚からの報告も既に上がっているのだろう。書類を脇に押しやり、大月はデスクの上で手を組んだ。

「で、今日は何用かな?」

 一方で、笠門の足元にいるピーボとは、あえて目を合わせようとしない。

「阿刀の遺体が発見された時、課長は現場に出向かれたそうですね」

 数々の罪人と渡り合ってきた鋭い目が、不気味な光を帯びた。

「ああ。行ったよ」

「なぜです?」

「阿刀は、多頭飼育事件絡みの暴行事案に関与が疑われていた。動物愛護団体などからも抗議を受けていたらしい。中には脅迫状もあった」

「阿刀は、以前からこちらにも何度か来ていたそうですね」

「彼からの通報もあった。自宅に抗議者が押しかけてきたとかで。ただ、被害届まではださなかった。警察の介入を招き、馬脚を現わしたくなかったのだろう。いずれにせよ、我々にできる事は何もなかった。そうした経緯があるので、責任者として一度、現場を見ておくべきだと思った。それで、答えになっているかな?」

「そこまで気にかけていながら、あっさり事故死と断定したのはなぜです?」

「決めたのは私一人ではない。私にそこまでの権限はない。検証の結果を様々な角度から勘案した後、結論をだしたのだ」

「充電器と携帯の件についてはどうです? 充電器には被害者のものと思われる血がついていた。一方で携帯は遺体の傍にあった。何者かが阿刀氏を殺害後、携帯を……」

「その血が、阿刀氏の死亡当日に付着したものとは限らない。以前からあったものかもしれない」

「それならそれで、調べる必要があるのでは? あなたはそれをする事もなく、阿刀氏の事故死説を唱え、推した。なぜです?」

「なぜです……か。それは私の方がききたい。君は阿刀氏の死を、事故死以外の何かにしたいようだ」

「彼は何者かに殺害された疑いがある。もっと慎重に捜査すべきだったのでは?」

「立場をわきまえろ。君は総務部の人間だ。畑違いの人間が、管轄外の事件に首を突っこみ、さらには刑事課長の下した判断に異議を申し立てる。前代未聞だよ、こんな事は」

 怒りに顔を赤らめた大月は、相当な迫力だった。剣幕に飲みこまれた笠門だったが、何とか踏みとどまれたのは、平然と足元に佇むピーボのおかげだった。

 そんな笠門に、大月は冷たい笑みを浮かべ言い放つ。

「まさかとは思うが、君は私が阿刀を殺したと考えているのではないかね?」

「いえ、そんな事は」

「当然だ。私にはアリバイがある」

「死亡推定時刻、あなたはここにいた」

「目撃者もたくさんいる。しかも、全員、警察関係者だ。これ以上、確かなアリバイがあるかね」

「死亡時刻を絞りこむ決め手となったのは、犬と散歩する阿刀を捉えたカメラ映像です。ただ、顔ははっきりと映ってはいない」

「もしかして、犬を散歩させている男は阿刀本人ではないと? なるほど、私か。私が阿刀のふりをしてわざとカメラに捉えられた――面白い事を考えるものだ」

 大月は心底楽しそうに笑う。その余裕を笠門は崩す事ができない。

「我々は彼とあなたの繋がりを徹底的に洗うつもりだ」

「どうぞ、やってみればいい。ただ、覚えておけ。警視庁上層部には、君の上司、須脇に批判的な者も多い。私も何人か知っている。長く勤めていると、それなりに顔が利くようになるものでな」

 須脇の立場の危うさは、笠門も重々承知している。笠門がミスを犯せば、即、須脇の進退問題に発展するであろう事も。

「今日のこの会話は忘れてやろう。だがこれ以上まだコソコソ嗅ぎ回るようなら、こちらにも考えがある」

「それは、どういう意味でしょうか」

「おまえたちのやっている事を知らないとでも思っているのか? ファシリティドッグを隠れ蓑に、収監者などから不法に情報を引きだしている」

「それは、あくまで噂ですよ」

「証拠を掴む事など簡単だ」

「刑事課長は自分たちを脅しているのですか?」

「それはそちらとて同じだろう。確たる証拠もなしに、私に疑いの目を向けている」

「脅しではなく、取引のつもりか?」

 大月は引き攣ったような笑みを見せ、先ほどどけた書類を真ん中に戻した。

「私は警部だ。口のきき方に気をつけろ、笠門巡査部長。話は以上だ」

 

 ピーボを連れ、警察署裏手にある駐車場に入ると、二つの人影が行く手を塞いだ。ピーボにはとっくに判っていたようだ。四つ並んだ古びた黒い革靴に、そっと鼻を近づける。

「君塚が、妙な事を吹きこんじまったようだな」

 狭井は君塚を従え、腕組みをしたまま笠門を睨んでいる。

「君塚巡査から話を聞くのに、あんたの許可がいるのか?」

「何だと?」

「ちょっと先輩!」

 二人の間に君塚が割って入る。ピーボも彼に加勢しているつもりなのか、大きく柔らかな体を差し入れてきた。

「判った、判ったよ、ピーボ」

 狭井も毒気を抜かれたらしく、苦笑しながら笠門と距離を取った。

「ったく、どうもこの犬がいると調子が狂いやがる」

「それで? オレたちに何の用だ」

 狭井は深い呼吸を何度か繰り返し、警察署の建物を見上げる。その目は二階、刑事課のある窓で留まった。

「滝小田の件、おまえはどう考えている?」

「彼が撃たれた事か?」

「タレコミによる待ち伏せ。おまえ、タレこんだのは課長だと考えてる。そうだよな」

 図星だったが、さてどう答えるべきか。生真面目な狭井の出方が、笠門にはまだ判らない。

「悪いが、今の時点では、何とも言えない」

「俺は、事件の再捜査をあんたに依頼したのは、滝小田だと思っている。恐らく課長も気づいている」

「俺もそう思う」

「滝小田は早くから阿刀の事故死に疑問を持っていた。課長の身辺をそれとなく調べてもいたようだ」

「それに気づいた大月が、滝小田を消そうと企んだ。彼は暴行事件の犯人ホシが、新宿の友人宅に潜んでいる事を掴んでいた。だが、それを滝小田に告げず現場に行かせた。さらに、これから刑事が行く旨を、ヤクザ者の犯人にタレこんだ」

「そうとでも考えなきゃ、あの状況は説明できん」

 どうやら狭井も大月のやり方には不審を覚えているらしい。

「だが残念ながら、証拠は何もない。阿刀と大月の繋がりを示すものもない」

「つまり、お手上げってことか?」

「そうは言ってない。俺はあんたらと違って、さほど失うものがないんでな。簡単には引き下がらんよ」

 笠門は道を空けろと目で示した。狭井は大人しく身を引いた。その前をピーボが、するりと通り抜ける。

「引き下がらないのはけっこうだが、勝ち目はあるのか?」

 笠門は振り返って言った。

「俺には判らん。正直、これからどうしていいのかも……」

 ピーボが笠門の足をつつく。目を落とすと、どこから見つけだしたのか、ピーボが一枚の写真を咥えている。大月の机からこっそり持ち出したのか。それは、死んだ阿刀が飼っていたラブラドールレトリバーを撮ったものだった。真っ白な体で、凛々しい顔をカメラに向けている。

 笠門は写真を手に取った。

「なるほど。被害者の一番身近にいた者に話をきく。捜査の鉄則だな」

 

 

 西村知将は、浮かない顔で倉庫の片隅に置かれた犬用のケージを見つめていた。ケージの中には、白いラブラドールレトリバーがペタンと身を伏せている。阿刀が飼っていた犬だ。西村からの要望により昨日、ここに連れて来られたのである。だが犬にくつろいだ感じはなく、何かに怯え、身を縮めているように見えた。

 西村がオーナーを務める、「LAW OF THE JUNGLE」の倉庫。高い天井に小さな窓が二つあるだけだ。商品の段ボールが積み上がり、酷く圧迫感を覚える。西村はケージを遠巻きにしながら言った。

「明るい場所だと怯えるんですよ。いろいろ試したんだけれど、結局、ここが一番、落ち着くようなんだなぁ。暴力や虐待を受けた様子はないが、飼い主に愛されていたとも思えない」

 西村の口調に怒りが混じる。

「このラブラドールは、犠牲者だ。あいつは、僕たちへの当てつけのために彼を……あ、オスだということが判ったんですよ」

「エサなどは、きちんと与えられていたんですか?」

 笠門は尋ねた。

「一応ね。ただ、栄養価などはまるで考えられていない。ドッグフードと水を適当な量、与えられていただけ。聞けば、世話する者を雇っていたようですね。散歩などはギリギリ足りていたようだけれど、やはり、絶対的に愛情が足りていない」

 伏せたまま動かないラブラドールの視線を受けながら、笠門はピーボの事を思う。ピーボはいま、店の方でスタッフたちと遊んでいる。他の犬との接触はまだ避けた方が良いという、笠門、西村の一致した意見の結果だ。

 西村はあえて犬とは目を合わせずに言う。

「今のところ、彼に近づけるのは私だけだ。少しずつ信頼関係を築き上げていこうと思ってね」

「しかし、あなたには他の業務もある。つきっきりという訳にもいかないでしょう」

「不本意ではあるが、今はペットカメラなんていう、便利なものもあってね。それを使っているんです」

 西村が示した先には、メッシュラックがあり、置かれた段ボールの間に、黒いカバーのついた丸い物体が置かれていた。カメラだ。

「映像は携帯で確認できる。スタッフの力も借りて、何とかやっていますよ」

 この男に任せておけば、彼はもう大丈夫だろう。笠門はようやく確信を得た。

 

 自宅のリビングで、笠門は途方に暮れている。阿刀の死は本当に殺しなのか。殺しだとして、その犯人は大月刑事課長なのか。滝小田からの依頼を受けて始めた捜査だったが、いまだ何一つ確証が掴めない。

 ピーボはまだ眠っておらず、丸形ベッドの上に寝そべって、笠門を見つめている。

 捜査に行き詰まった事は何度もある。そのたびに、ピーボが助け船をだしてくれた。

 いつまでもピーボ頼みではいけないと感じつつも、つい当てにしてしまう自分がいる。

 捜査資料などのデータが詰まったタブレットを脇に置き、ソファにもたれかかる。

 ずっと頭の片隅に引っかかっている事があった。何かは判らない。そう、西村と話をした後から、どうにも落ち着かない時間が続いている。

 俺は何を聞いた? 小骨が引っかかったような、何とももどかしい感覚だった。

 ピーボがむくりと起き上がり、リードをくわえて近づいてきた。

「なんだ、ピーボ。まさか今から散歩に連れてけって言うんじゃないよな」

 リードを手に取ると、ピーボはなおも何か言いたげに、その端をペロリとなめた。

「今夜はもう遅い。散歩は明日な」

 散歩……。その言葉と共に閃きがやってきた。慌ててタブレットを取り、阿刀の住まいを写した鑑識の写真を見つめる。

 顔を上げると、ピーボが自分のエサ皿を前足で小突いていた。空のエサ皿はユラユラと揺れている。

「そうか、ピーボもそう思うか」

 それを聞いたピーボはホッとした表情を作り、ベッドの上に戻る。今度はゆったりと体を丸め、目を閉じた。

 ピーボが寝入ったのを確認すると、笠門は部屋の明かりを消した。

 

 

(つづく)