五
警視庁の十五階には、「カラフル」という名の喫茶スペースがある。官庁街を一望にできる眺望が魅力だ。コーヒーなどは決して美味いとは言い難いが、それでも初めての客を連れて行くと、大いに喜ばれる。
来客時に使われる事も多く、スペース内はかなり混雑していた。
有藤一は、窓から一番遠い席、壁際にポツンと置かれた四人がけのテーブルについていた。空になったアイスコーヒーのグラスがポツンとおいてある。
笠門はピーボと共にテーブルに近づいた。その姿を見て、有藤が立ち上がる。引き締まった体格で背も高い。上物のスーツに身を包み、細面の顔には自信がみなぎっていた。
笠門を見ると、恭しい礼と共に名刺を差しだした。
「有藤鑑定事務所、所長の有藤です」
肩書きには損害保険鑑定人とある。
「所長自ら、鑑定に出向かれるのですか?」
席に座るよう促しながら、笠門は尋ねた。
「実は独立したばかりでしてね。ほぼ私一人で回しているような状態なのです」
「優秀でいらっしゃる」
「恐れ入ります」
そう言いながらも、ピーボの存在が気になるのか、ちらちらと笠門の足元に目を向けている。
笠門はピーボの頭をなでながら、言う。
「自分は警察病院勤務でしてね。このピーボはファシリティドッグなんです」
「ああ……」
ファシリティドッグの知識は持ち合わせているようだが、それでも不審がる表情は消えない。それはそうだろう。放火事件の鑑定結果についてききたいと呼びだされ、出てきたのが「総務課」所属の警察官と犬なのだから。
「先日、警察病院にこの方が、運びこまれてきました」
笠門は野次馬写真からプリントアウトした、岬の写真を見せる。有藤の顔色が変わる。
「この方……岬さんじゃないですか!?」
「やはりご存じでしたか。二年前の岬さん宅の火災。あなたが鑑定なさっていますね」
「ええ、よく覚えています。放火か失火か、微妙なところで、岬さんが入られている保険会社から依頼がありました」
「スダール&ゲソラ」
「いえ、タガール&ガンザです」
「失礼、保険会社の名前はどれも似ているもので。それで、失火と結論をだされた」
「ええ。発火点は物置の新聞紙。その火がキャンプ用の着火剤に引火し、燃え上がった。隣家に燃え移らなかったのは、奇跡です」
「出火原因が岬氏のタバコであると判断した理由はなんです?」
「調査報告書にも書いたと思いますが、岬氏が習慣的にその場で喫煙していたこと、火災前一週間は降水がなく、空気が乾燥していたこと。出火当日は風が強く吹いていたこと」
「しかし、岬氏本人は、当夜の喫煙を否定していますね」
「ですが、庭でタバコを吸う姿は日常的に目撃されています。ご家族には禁煙を強く勧められていたようですし、ご本人としてもお認めにはなりにくかったと考えられます」
「その目撃証言をしたのは誰です?」
有藤は苦笑する。
「証言というほど、大げさなものではありませんよ。両隣の小林氏、井伊城夫妻がそれぞれ見たと証言されています」
「放火の可能性はなかったのですね」
「私だけでなく、消防、警察、共に同じ結論をだしていますよ」
「とはいえ、消防と警察では視点が違う。消防はあくまで出火原因と火の回りなどの検証。そこで不審点ありとなれば、警察も本腰を入れますが、死亡者もいない、ただの火事ではなかなか」
「あなた、本当に警察官ですか? ふつう、身内をそんな風には言わないものだが」
「変わり者でしてね」
有藤はおざなりな笑みを浮かべた後、言った。
「それはそうと、岬さんが入院されているとの事ですが、容体はどうなんでしょうか」
「気になりますか?」
「当たり前です」
「申し訳ないのですが、申し上げるわけにはいかないんですよ」
「なぜです?」
「放火事件の捜査が行われているものですから」
笠門は、数枚の写真をプリントアウトしたものをテーブルに置いた。膨大な写真から、徹夜で見つけだしたものだった。
「放火犯は、現場に戻ってくる。それが定説ですよね」
「ええ。実際のデータでも証明されています」
「だから、警察は野次馬の写真を撮る」
「放火犯が紛れている可能性がありますから」
「さすが鑑定人だ。ただね……」
笠門はテーブル上の写真を指さした。
「写真ってのは、何処で撮られているか判らないものなんです。特に、最近は一般人も撮りますからなぁ。撮って火事場の写真をSNSに上げたりする。その点もご存じでしょう?」
「ええ、もちろん」
「そこまで判っていて、現場にやって来たのは、失敗でしたねぇ、有藤さん」
笠門が示した写真には、野次馬たちに混じり、有藤の姿が認められた。どれも現場からは少し離れた、人の少ない場所である。警察などに撮影される事を避け、わざと離れた場所にいた。それでも、何枚かの写真の背景に、写りこんでしまったのだ。
「これは消防も捜査一課も見落としているようなんだが、板橋で起きた三件の放火事件、そのうちの二件目と三件目に、あなたが写っている。こいつは、どういう事なんでしょうか?」
だが、有藤に慌てた様子もない。
「板橋で最初に放火された建物は、タガール&ガンザの保険に入っていました。それで、私のところに依頼が回ってきたのですよ。放火というのは、大抵、一度では終わらない。成功体験を経て、よりエスカレートしていく。そこで、現場近くで張っていたんです。写真についても、撮られたくなかったわけじゃない。現場を調査するため、あちこち走り回っていたらそうなった。そういう事です」
「現場にいて、岬氏の件は何も聞いてないと?」
「三件目の放火現場から、身元不明の人物が運びだされたくらいは、聞いていますよ。ただ、私の仕事はあくまで現場の調査だ。放火犯が誰だろうと関係ない。ですから、運びだされたのが誰であったか聞いてないんです。ただ、あなたの話からすると、その身元不明の人物こそが岬氏であったわけですね」
「その点については、何とも」
有藤は苦々しげに笑う。
「警察というところは、相変わらず、秘密主義だ。我々はいつも泣かされる」
彼はわざとらしい仕草で、携帯をだし時間を確認した。
「呼びだされた用件がよく判りませんが、もうよろしいですか? 予定がありましてね」
「お時間を取らせて申し訳ない。あと一つだけ」
「そちらの手札は明かさず、こちらの情報だけ根こそぎ取ろうとする。いくら何でも、身勝手すぎませんか」
「警察というのは、そういうところだ。お判りだと思っていましたが」
有藤はため息をつき、笠門を睨みながら腕を組む。
「我々の仕事上、警察を敵に回す事はできません。あと一つだけと言うのなら、聞きましょう」
「放火によって全焼した三件目の物件についてです。所有者は的場直美となっている。もともとは夫が経営していた木工店だったが、五年前に他界。残された的場直美さんは、倉庫付きの大きな家に一人で住む事を嫌い、近所にマンションを借りて暮らしている。つまり、放火されるまでずっと空き家同然だった事になる」
有藤は口を閉じたまま、相づちすら打たない。笠門は続ける。
「その的場直美はいま、海外旅行中ときた。それもペルーの奥地だかを回るツアーで、連絡すらままならない。そして、燃えた物件もタガール&ガンザの火災保険に入っている」
有藤は口の端を緩める。
「先ほども申し上げたように、タガール&ガンザは大手だ。別に不思議ではない。それに私は、保険会社から依頼を受ける立場だ。被害に遭われた方がどこの保険に入っていようと、関係ない」
「しかし、岬治一絡みの火災が四件。うち三軒がタガール&ガンザ。そして、あんたが関わっている。気になりましてね」
「独立前、私が扱う火災調査の案件は、年間に二百件近くだった。独立後は大分、減りましたがね。それでもかなりの件数だ。私の名前が頻繁に出てきても、別に不思議ではない。あなたは、それなりに優秀な警察官かもしれないが、火災については専門ではない。あまり、思いこみでつっ走らない事ですね」
「アドバイス感謝しますよ。ところで……」
「質問はさっきのもので最後とおっしゃったはずだが」
「これは質問ではなく、個人的な興味なんですよ。たとえ話として聞いていただきたい。もし、かつて失火と判断した家の住人が、三件の連続放火事件を起こしたとします。あなたはそれでも、自身が下した失火の判断に自信が持てますか?」
有藤は真顔に返り、言った。
「もちろんだ」
六
公園のベンチに座った戸野和子は、ピーボの顔を両手で包みこんだ。
「ああ、かわいい、まあ、かわいい」
そんな彼女の振る舞いをピーボは大人しく受けている。
「あの、それでですね……」
笠門が呼びかけても、返事もない。
「夫がね、一度は犬を飼いたいって言ってたんだけど、マンション暮らしじゃねぇ。ああ、かわいい。名前、何ていうんでしたっけ」
「ピーボです」
「ピーボ!」
「それでですね、戸野さん」
「その呼び方、止めてくださいません? お殿様みたいで、嫌なんですよ」
「じゃあ、何てお呼びすれば?」
「名前で」
「では和子さん。的場直美についてなんですがね」
「気の毒にねぇ。まさか、あの倉庫が焼けちゃうなんて」
「ようやく連絡がついて、いま日本に向かっておられるようです。それで……」
「ああ、かわいいワンちゃん。名前、何でしたっけ」
戸野和子は、的場直美の親友との事だった。いまだペルーに旅行中の的場の住居周辺を聞きこんだ結果、彼女に行き着いたのだ。
的場と同じ六十五歳、夫と二人暮らしで暇を持て余していると、進んで笠門の聴取に応じてくれた。
もっとも、半分はピーボへの興味であったようだ。
自宅であるマンションの傍にある公園、連続放火事件の現場からも十分程度の場所だ。
「直美とはずっとご近所さんだったからね、仲がよかったのよ」
地面に伏せているピーボを愛おしげに見やりながら、戸野はようやく質問に答えてくれた。
「夫婦仲もよくて、うらやましいくらいだった。旦那さんが亡くなったの、四年くらい前だったかな。そりゃ、落ちこんでねえ。倉庫付きの自宅は古いし広いし寒いしで、ちょうど、私のマンションに空きがあったから、そこに入ったの。去年くらいから、随分、元気になってきてね。またあの場所に戻りたいって」
「でも、古いし広いし寒いしなんでしょう?」
「建て替えたいって言ってたわね。半分は売って、残りに新築の家を建てるって」
「景気のいい話ですねぇ。蓄えはけっこうお持ちだった?」
「いいえ。まあ、夫婦二人、堅実にやってきたから、それなりにはあるみたいだけど、売るにしろ、建て替えるにしてろ、上物を壊して更地にしなくちゃならないでしょう。それにけっこうかかるって言ってた」
「なるほど」
戸野は陰のある笑みを浮かべた。
「こんな事言っちゃいけないんだろうけど、今度の火事、ちょうどよかったんじゃないかしら」
「というと?」
「建物は焼けちゃったし、その上に保険だって下りるでしょう? これで彼女の思い通りになるってわけよ」
親友と言いながらも、そこは人間だ。彼女の顔には深い妬みの色が刻まれていた。
「保険会社はどこか、知っていますか?」
戸野は首を振る。
「いいえ、そこまでは知らない」
笠門は携帯に有藤の写真データをだし、見せた。
「この男を見かけた事はありますか? 例えば、的場さんを訪ねてきていたとか」
戸野はいったん眼鏡をかけ、画面を見つめていたが、目を細めると眼鏡を外した。
「見た事ない」
「確かですか?」
「この男は見た事ない」
笠門は携帯を引っこめる。足元でピーボがモゾモゾと体を揺すった。毛が当たってくすぐったい。
「おい、ピーボ止め……この男は?」
顔を上げ、戸野を見た。
「では、別の男は見た事がある?」
「ええ。若くはないし、ちょっと陰があってぱっとしない男だけどね」
「的場さんと一緒にいたんですか?」
「ええ、まあ。だけど、別に問題はないでしょう。あちらはもう独り身なんだし」
「その男の顔、覚えていますか?」
「ちらっと見ただけだし──」
笠門はタブレット端末をだし、火災現場の野次馬写真をだす。
「この中に、その男がいませんか」
「何これ、火事場の写真? 野次馬とか、こんなの撮ってるわけ? そんな暇があったら、さっさと犯人捕まえなさいよ」
そう言いながらも、戸野は写真を次々スクロールしていく。
「あら、へぇ、これ駅向こうのパン屋さんのご主人。やあね、他人の不幸を見物に行くなんて」
「その辺は個人情報なので……」
「見ろって言ったのは、あなたじゃない。ほら、これ田中さんよ。夜は早く寝るからとか言って、一番前で見てる。野次馬根性丸出しね」
「判りました。もうけっこうです」
「もう少し見せてよ。こんな写真、なかなか見られるものじゃ……」
スクロールをする指が止まる。
「あら?」
また眼鏡をかけ、また外す。
「何か?」
「この人の手首」
戸野が指さしていたのは、岬の写真だった。岬の身元特定のきっかけとなった、ジローの遺骨入りブレスレットだ。
戸野の目が輝いた。
「この人よ!」
「何ですって?」
「的場さんと会ってた男」
岬と的場が知り合いだった。笠門の中で、パズルのピースが組み合わさった。
笠門は的場による保険金詐欺を疑っていた。その疑念は、今、戸野の証言を得て確信に変わりつつあった。
夫との思い出の土地に、終の棲家を建てる。だがそのためには、金が足りない。そこで考えたのが、放火による保険金詐欺だ。建物は焼け、保険金も入る。一石二鳥の妙案だ。むろん、こんな事を的場一人で考えついたとは思えない。黒幕がいる。
笠門はそれが有藤だと考えていた。二年前の岬家火災にも、有藤が絡んでいる。岬家の火災は放火であり、岬と有藤が組んでの保険金詐欺目的だった。しかし何らかの理由で計画に破たんが生じ、有藤は失火と調査結果を発表した。
表向き鑑定士として活動しながら、裏では保険金詐欺目的の放火を指南している──。
しかし、思いがけないところで、岬の名前が浮上してきた。有藤が岬を手先として使い今回の放火をさせたとも考えられるが、その線は薄いように思われる。二年前の放火は失敗、さらに愛犬のジローも死んでいる。二人が手を組むとは考え難い。
となれば、岬の単独犯行。二年前の有藤の手口を真似た岬が、詐欺の指南を的場に行った。放火当日、的場は海外に行く。実行犯は岬だ。保険金詐欺を隠蔽するため、事前に二件の放火を行い、連続放火と思わせた。そして本命の三件目、岬はミスを犯し自らの炎で焼かれてしまった──。
そういう事だったのか。
笠門は最後に、岬の顔写真を戸野に見せた。
「ブレスレットをつけていた男です。的場さんが会っていた男性はこの人物ですか?」
戸野は眼鏡をつける事もなく、はっきりと言い切った。
「いいえ、この人じゃないわ」
(つづく)