五
警察病院西棟七階循環器内科の受付で身分証を見せると、受付の女性は、ピーボと共に三番診察室に行くよう指示してくれた。
待合前の通路を闊歩するピーボの姿に、患者たちが目を見張っている。視線の集中砲火を浴びても、ピーボは平然としたものだ。頭をツンと上げ、悠々と歩を進めていく。三番診察室は通路の中ほどにあった。ノックをしてドアを開く。中には医師も看護師もおらず、診察用ベッドの上に、痩せた小男が寝ているだけだった。
男はゴーゴーと大きなイビキをかいている。
笠門とピーボは中に入り、そっとドアを閉める。どうやら、この男が、一垣朝広なのだろう。起こしたものか迷っていると、男は勝手に目をさまし、素っ頓狂な声を上げた。
「犬……犬? 何でここに犬がいんだよ」
痩せて顔色も悪かったが、声には張りと力があった。
ピーボはさっそくベッドの際にまで行き、座る。
「うわぁ、かわいらしいなぁ。俺、犬好きでさ。触ってもいいか?」
笠門にきく。「どうぞ」とうなずくや、節くれ立った短い指で、そっと金色の毛に触れる。
「見事な毛並みだなぁ」
ピーボにうっとりする男をしばらく見つめた後、笠門はゆっくりと切りだした。
「あなたは、一垣朝広さん?」
「ああ、そうだよ」
一垣はピーボから目を離す事なく答えた。
「今日、ここに来られたのは、どういった経緯で?」
「いや、俺もよく判らないんだけどさ。昨日の昼、この病院から連絡があって、検査をしましょうって。俺、前に心臓やっちまってさ。本当は病院通って薬貰わなきゃならないんだけど、まあ、何と言うか、いろいろあって」
頭を掻きながら、何かを誤魔化すようにわざとらしく笑う。
笠門は仏頂面のまま質問を重ねた。
「いろいろというのは?」
「な、何だか怖いね、あんた。その……娑婆にいる間は、いつもこの病院で診てもらってたんだけど、前に入院したとき、その……タバコ吸ったり、酒とかして……」
「強制退院させられた」
「まあ、出禁みたいなもんだわな。それで……」
「ここは病院だし、調子が悪ければ、診察くらいしてくれますよ」
「それでも、何だか来づらくて。そのままほったらかし。最近は調子悪くてさ。もうこのままお陀仏かなぁなんて、思ってたんだ。そしたら、きちんと話を通しておくから絶対来いって言われてさ」
「それを言ったのは誰?」
一垣はハッと顔を上げると、両手で口を塞いだ。
「ダメ、それだけは言っちゃだめなんだ」
「いや、それじゃああなた……」
「ダメ、絶対。言わない。絶対」
五十嵐巡査と言い、いったい何なんだ。苛立ちを募らせつつも、まずは一垣という男について知らねばならない。
「一垣さん、あなたが言われたのは、警察病院に来て、循環器内科で検査を受ける事、それだけですか?」
「いや、それともう一つ」
「何です?」
「笠門って男が来るから、質問には何でも答えろってさ。誰なんだろうね、笠門って」
「俺が笠門だよ」
一垣はキョトンとした顔で笠門を見つめる。
「あんたが? この犬の飼い主?」
「飼い主ってわけではないんだけど……」
判らない。自身の正体をひた隠すその人物は、なぜ一垣と自分を引き合わせたのか。気がつくと、ピーボが少し不安そうな顔で、見上げていた。
笠門は表情を改める。ピーボは笠門の気持ちを察する。不安や怒りを溜めていては、ピーボに影響が出てしまう。
「すまない、ピーボ。大丈夫だよ」
微笑みかけながら、呼吸のリズムを整え、気持ちを落ち着かせる。
判らない事ばかりで苛ついていてはダメだ。こういう時は初心にかえる。それしかない。
「一垣さんは、警察病院で治療を受けていたと言ったね。かかりつけ医の紹介状でも持ってたのかい?」
「いや。もともとは……医療センターにいたんだよ」
一垣は口ごもりながら言った。
「何年くらい、食らってたんだい?」
「窃盗の常習で、出たり入ったりさ。十年くらい前か、四年の実刑食らって入っているとき、ぶっ倒れてさ。心臓が悪いって」
一垣のような人間は、刑務所が「家」のような感覚だ。中にいれば食事も出るし、病気の手当もして貰える。だがいったん外に出れば、世間の風は冷たく、金も思うようには稼げない。金がなければ、病院にもかかれない。
娑婆では孤独な日々を送っていたのかもしれない。笠門が何も言わなくても、彼は一人、語り続けた。
「一度は娑婆に出たけど、その後は結局、一度も病院行かず仕舞いで、また捕まっちまってね。そしたら去年、きつい発作が起きてさ。医療センターに直行だよ。もう娑婆には戻れないって覚悟したんだけどさ、半年入院したら、あっさりムショに戻されてね。そのまま刑期を終えて出所。だけどまあ、有り難くも何もないってんだよ。仕事はねえし、金もねえし──」
一垣は笠門を見て、笑う。
「本職の方もさ、まるでダメよ。体がいう事をきかない。目も悪くなって、鍵穴もよく見えない始末さ」
「それで、今はどこに?」
「新宿界隈をウロウロしてたら、何だか、そういう困ったヤツを助ける団体みたいなのが来てくれてね。寝床は用意してくれた。食事は炊きだしとかを頼って、何とかね。だけど、病院にはね、行けないよ」
「そんなあなたに、ここへ来るよう勧めたヤツがいるんだね」
「ああ……だ、だけど、誰かは言わねえよ。危ねえ。さすが、警官。人の口を割らせるプロだもんな」
また両手で口を塞ぐ。案外律儀で、根は善人なのだろう。真面目になろうとした時期もあったに違いないが、そういう人間の方が、落ちるのもまた早い。
一垣の人となりは何となく判った。しかし、一番の焦点は、自分が彼と会う理由だ。誰とも判らぬ人物は何か目的があって、これをセッティングした。では、その目的とは何か。
「一垣さん、あんたはここに来て、俺と会うよう言われた。そしてあんたは俺と会った。さて、次はどうする?」
「知らないよ。何も言われてないもん。ただ、あんたの質問には全部答えろって」
笠門はそっと舌打ちをする。ここからは俺次第って事か。
ふと目を落とすと、ピーボが一垣から目を離し、じっと壁の一点を見つめている。一垣の腕に繋がれている点滴の袋だ。中には黄色い薬剤が半分ほど残っている。ピーボの視線を何となく追いつつ、袋の下端に笠門の目が行く。
循環器内科とマジックで書かれていた。
それだ。一垣は呼吸困難、失神発作などで医療センターに運ばれた。もう一人、似た症状で苦しんでいる男が、この病院の特別棟にいる。
「一垣さん、医療センターにいるとき、坂内六郎って人と会わなかったか?」
「坂内? 会うも何も同室でね。一緒だったのは三ヶ月ばかりだけど、ちょいちょい話もしたよ」
当たりだ。ようやく二人が繋がった。
「俺がききたいのは、坂内の事だ」
「あいつ、どうかしたのかい? 最後に会った時は、随分と加減が悪そうだったぜ。医者にきいても教えてくれなかったけど、あいつ、あんまり長くないんだろ?」
答えに迷ったが、笠門も一応、医療関係者の端くれである。曖昧にうなずくに留めた。
「悪いが、病状については、詳しく話せないんだ。ききたいと言うのは、センターにいた頃の様子だ。坂内はどんな男だった?」
「どんなって言われても……、まあ、気の小さい、大人しい男だったよ」
「彼は夜な夜なうなされて、譫言を言わなかったか?」
一垣は顎の先を指でトントン叩きながら、ぼんやりと天井を見上げる。
「ああ、確かによく言ってたな」
「それはどんな内容だった?」
「内容も何も、日本語だか何だかすら判らない代物さ。ウーとかアーとか。俺は眠りが深い方で、耳元で何か叫ばれたって目が覚めない。だから、自分の耳でヤツの譫言聞いた事は、数えるくらいしかなかった」
内容については空振り。ここで新たな情報が得られなければ、いよいよ、捜査は行き詰まりだ。
「譫言が始まったのはいつ頃か、判るか?」
答えは明快だった。
「俺が同室になってから、三週間くらいしてからさ。そう、思いだしてきた。顔を合わせたばかりの頃は、夜も静かだった。それがある時から急に、おかしくなったんだよ。夜の譫言だけじゃない。昼間も病室に閉じこもるようになってさ」
「それは、病気が重くなってきたからでは?」
「いや。医者の様子を見る限り、そんな感じじゃなかったぜ。オレとはちゃんと話できていたし、食欲もあった。ただ、許可も貰ってた病棟内の散歩は完全に止めちまってたな」
「彼は歩けたのか?」
「何とかな。看護師の助けを借りて、病棟の中をぐるっと回る。一日一回、それが日課だった。本人も楽しみにしてたんだよ。それもすっかり止めちまった。あれ以来ね。何だったのかねって、オレも思ったけど」
「待った。あれ以来って言うのは、何の事だ?」
「あれはあれさ」
「あれが何なのか、オレは聞いてない」
「あれ、話さなかったっけ?」
笠門はうなずいた。一垣は笑い声を上げながら、「この歳になると、さっき喋った事も忘れちゃうのよ」と気楽な事を言っている。そんな態度に苛立ちが募り、リードを握る手に力が入る。ピーボはそれを敏感に察知し、ちょっと心配そうに笠門の様子を窺う。
熱くなった自身を反省しつつ、ピーボの背をそっと撫でながら、心の内でわびた。
そんなこちらの思いなど気づかぬ体で、一垣はあくまで、マイペースに喋り続ける。
「オレもその場を見てたわけじゃないんだけどさ、ある日、看護師と散歩してた坂内が急に暴れ始めたんだとさ。絵画プログラムだか何だかで来ていた講師を突き飛ばして、受刑者の一人が書いた絵を、破いたんだそうだ。子ネズミみたいに小心な男だったからさ、話を聞いて、オレも驚いた。部屋に戻ってきてから、理由を尋ねたんだけど、結局、何も言わなくてよ。それからさ、譫言が始まったのは」
「受刑者の絵と言ったな。その絵は何を描いたものだった? 描いた受刑者を知っているか?」
勢いこんで質問を重ねたものの、一垣はここでまた「さてねぇ」と顎を突きだして考え始める。もはやピーボと顔を見合わせ、苦笑しながら待つしかない。
「はっきりしねえなぁ。医療センターの並びに、ガキの何とかセンターがあるだろ」
「少年支援センターの事か?」
「多分。そこと合同で絵を描くって、特別な催しだか何だかがあった日」
「その参加者の描いた絵を坂内は破いた。それから、彼はうなされて、譫言を言うようになった。それで間違いないか」
「ああ、間違いない」
「問題の絵は誰が描いた? 絵には何が描かれていた」
一垣はうんざり顔で答える。
「そんな事、知るわけねえだろ。オレは病室にいて、全部、後から聞いただけさ」
彼は疲労を覚えたようで、身を投げだすようにして、ベッドに横たわった。病状を考えれば、無理もない。
「長い時間、悪かったな。養生してくれ」
「そうしたいのは山々だけどな。ここを出たら、また食うや食わずの生活さ。どうなるか、オレにも判らねえ」
笑って言っているが、強がりであるのは、不安に潤んだ目を見れば明らかだった。そんな気配を察知して、ピーボはベッドの前を離れようとしない。
一垣が言った。
「坂内はいま、どうしているんだい? まだ、医療センターにいるんだろ?」
「ああ。正直、具合はあまり良くない」
「そうか……死ぬのはどっちが先か、競争だな」
一垣はそうつぶやいた後、口を閉じてしまった。黙って天井を見上げる彼をしばし見上げた後、ピーボはゆっくりと立ち上がり、未練を残した様子でそこを離れた。
病室を出たところで、担当医と行き会った。検査結果が出たらしい。身分証を見せ、笠門は尋ねた。
「彼の病状は?」
医師は静かに首を左右に振った。
「彼をこのまま入院させるわけにはいかないのか?」
「できなくはないですが、本人が拒んでいます」
自分の体については、よく判っている──そういう事か。
「現住所が判ったら、それだけでも報せて下さい」
笠門は医師に名刺を渡し、ピーボと共に、廊下を進んだ。
建物を出たところで、携帯を取る。
「五十嵐巡査か。居所を調べて欲しい男がいるんだが」
六
早稲田通りに面した高田馬場警察署の裏手、警察車両がすべて出払ってがらんとした駐車場に、笠門とピーボは立っていた。人通りも少なく寒々とした場所は、排気ガスなどのせいで空気も悪い。ピーボを待たせるには、最悪の場所だ。
建て付けの悪いドアが音をたてて開き、長身の男が飛びだしてきた。
「待たせてすまない。管理官が細かい野郎でな」
男は笠門を無視し、ピーボの前にしゃがみこむ。
「ごめんなぁ。こんな場所で待たせちゃって。高級ドッグフードとか食わせてやりたいけど、ダメなんだよな」
警視庁捜査一課の浦幕誠警部補は、ピーボの毛を手荒くクチャクチャにする。そんな歓迎を、ピーボは満更でもない様子で受け止めていた。
「オレは完無視かよ、浦幕」
「何だおまえ、いたのか」
立ち上がった浦幕は笠門と目を合わせる。
「相変わらず、気にくわねえ面してるな」
「おまえを不愉快にさせられたのなら、この顔にも感謝しないとな」
「で? 何の用だ」
「すっとぼけやがって。オレが来る事は判ってたんだろう。遅かれ早かれ」
「さあ、何の事だか」
「五十嵐巡査を通して、一垣の情報を流したのは、おまえだろう? おっと、念のため言っておくが、五十嵐巡査は最後までおまえの名前はださなかった。オレの依頼で、おまえがここの捜査本部に詰めてるって情報をくれただけだ」
浦幕はあからさまに顔を顰める。
「何の事か判らねえな」
「五十嵐巡査に情報を与えた人物は、その時点でオレとピーボが坂内の件で動いている事を知っていた。オレたちがやっている事を知る人間は、警察内にもさほどいない。おまえはその一人だ。しかも、オレとピーボ絡みの事件で一緒に動いた事がある。須脇警視正の覚えもめでたいようだしな」
浦幕は無言だ。笠門は続ける。
「その上で五十嵐巡査に調べてもらった。おまえ、一課の前は新宿署にいたよな。そこで何度か、坂内を引っ張っている。そこまで繋がれば……」
「もういい」
浦幕は低い声で言う。声とは裏腹に、顔はピーボ相手におどけている。
「おまえの飼い主は、思ったより賢いな」
「飼い主なんて言葉、二度と使うな。ピーボはペットじゃない。オレの相棒で、警察病院のスタッフだ」
言い返してくるだろうと身構えていたが、浦幕は素直に頭を下げた。
「すまん。まだ、慣れていなくてな」
浦幕と笠門は過去に因縁があり、以来、犬猿の仲だ。最近、やむを得ず事件で協力をしたが、職務を離れれば、お互い言葉を交わす事もない。すれ違っても、普段は挨拶もしない。
「なぜだ」
浦幕の態度には、疑念を超えて気持ちの悪さすら感じる。
「なぜ、俺たちに手を貸すような真似をした」
「手を貸したつもりはない。利用させてもらっただけだ」
「どっちにしても同じ事だ。自分の名前だけ口止めするとか、姑息な真似しやがって」
「上手くいけば良し。失敗した時、巻き添えを食いたくはなかったからな」
笠門はピーボを見下ろして言った。
「おまえのお友達は、随分とセコいヤツだな」
ピーボはそっぽを向いたまま、反応しない。くだらない痴話喧嘩に興味はないって事らしい。
浦幕はため息を一つもらした後、言った。
「一垣は何か喋ったか?」
「気になるか?」
「喋ったからこそ、ここに来たんだろう?」
「絵の事を話したよ」
「絵?」
「坂内が夜な夜なうなされ、譫言を言うきっかけになったのは、ある絵を見た事がきっかけになった可能性がある」
「絵ねぇ。で? 絵はどんなものなんだ?」
「そこまでは判らん。だが、おまえなら、調べられるだろう?」
浦幕は初めて、笠門と目を合わせた。
「だから、ここに来た……?」
「当り前だ。できる事なら、テメエの手なんざ借りたくもない。とはいえ、この情報を掴めたのは、おまえのおかげだ。持ちつ持たれつ。友達は大事にしないとな」
「友達だと?」
「オレとおまえじゃない。おまえとピーボだよ」
ピーボがさっと顔を上げ、浦幕を見つめた。この目で見つめられれば、大抵の人間はイチコロだ。そう判っているような仕草だった。
いいぞ、ピーボ。
「あらためてきくぞ。なぜオレたちに、一垣を引き合わせた? おまえは坂内とどんな関わりがある?」
浦幕はポケットからガムをだし、口に放りこんだ。禁煙して以来、ガムを常に携帯しているとは聞いていた。取り調べや聞きこみの際、相手との間合い、タイミングを計るのにも使えるらしい。そのアイテムを、彼はいま自分のために使っている。
「新宿署にいた頃、酷い殺しがあった。チンピラ二人だ。一人は路地裏で心臓をひと突きにされていた。出血もほとんどなく、鮮やかなものだった。ただ、拷問の痕があった。全身アザだらけで、手足の指が全部、へし折られていた。無残なものだったな。新人の鑑識が吐いていたよ。裏路地とはいえ、人通りの多い新宿で、叫び声一つ立てさせず、これだけの傷を負わせられる。間違いなくプロの仕業だと感じた」
「待て。殺しの被害者はチンピラ二人だと言ったな。もう一人は?」
「一人が拷問されている間、もう一人もその場にいたらしい。拘束されて、身動きができない状態で」
人里離れた小屋の中であればいざ知らず、都心のど真ん中、それも屋外で、誰にも気づかれずそれだけの事をやる。笠門の経験に照らしても、考えられる事ではなかった。
「で、そのもう一人は?」
「三日後、奥多摩の山の中で見つかった。新宿からその日のうちに運ばれ、拷問されたのだろう。五体がバラバラにされていた。生きたまま解体されたらしい」
「酷いな」
「被害者二人は、売り物の薬に手をだすようなチンピラで、同業からもかなり恨みを買っていた。だが、当日の状況から見て、二人が絡んだのは一般人らしいんだ。それも一人」
「目撃者がいるのか?」
「スーツ姿の地味な男が、路地に引っ張りこまれるのを見た者が複数人いる。だが、顔をはっきりと見た者はいない」
「二人を殺したのが、その男とは限らないだろう」
浦幕はうなずいた。
「捜査本部もそう考えた。二人は木田組の構成員でな。丁度、海外の新勢力との抗争が激しくなっていたころで、捜査の矛先はそっちに向いた」
「犯人は上がったのか?」
浦幕は首を振る。
「その後、木田組と中国系組織との抗争が始まった。五人死んだ。行方不明も何人かいる。チンピラ殺しはうやむやさ」
「だが、おまえはチンピラに連れこまれたっていう男に拘っている。そうだろう?」
浦幕がうなずくのを待ち、質問を重ねる。
「なぜだ?」
「タレコミがあった。犯人の顔を見たヤツがいる。それが犯人にバレて、命を狙われているみたいだから、保護してやって欲しいって」
「有力な目撃情報じゃないか。で、その目撃者の身元は?」
「それがな、当時の新宿公園界隈を根城にしているホームレスだった。名前もはっきりしない。ただ、スギさんって呼ばれていた」
「スギさん!」
「そうだ。坂内の口から、スギさんの名前が出たと聞いて、じっとしていられなくなったんだ。もしかすると、タレこんだのは、坂内じゃないのかって」
「なるほど。それでこんな面倒な事を……」
「チンピラ殺しの犯人は、捕まってこそいないが、抗争事件の一環としてケリがついている。そこにオレが異を唱える事はできねえだろ」
「出世にも響くもんな」
「何とでも言え。オレはおまえらと違って……」
「そんな事はどうでもいいんだ。それでスギさんってホームレスはどうなったんだ?」
「捜査本部は完全無視。そこでオレ一人で細々と行方を追った。本名は杉下信彦。住み処を突き止めた時には、もう姿を消していたよ。段ボールのヤサも空っぽでさ。身元が判るようなものは何一つなかった。結局、それっきりだ」
浦幕が話し終えたのを見て、ピーボは笠門の背後に回り、ペタンと体を伏せた。小児病棟での勤務から動き詰めだ。疲れたのだろう。
笠門は浦幕に向き直る。
「事情は判った。それで、これからどうするつもりだ。坂内が破いたっていう絵に何が描かれていたのか。おまえなら、突き止められると思うがな」
浦幕は下唇を噛み、逡巡している。密かに過去の事件を調べ直すなど、一課の刑事としてもっともやってはならないスタンドプレーだ。結果の如何にかかわらず、経歴にとって良い事は何もない。
「判った」
浦幕は噛み終えたガムを紙に包み終えると言った。
「連絡する」
ドアの向こうに消えるまで浦幕の背を見送った後、笠門は目をうっすらと閉じているピーボに語りかけた。
「さあ、帰ろうピーボ」
(つづく)