第三話 犬が祓う
一
「本当にありがとうございました」
頭を下げる母親の横で、少女は寂しげな目をしてピーボを見つめていた。ピーボとの別れは少女にとっては喜ばしい事なのだ。病が完治し、自宅に戻れる。これ以上の喜びがあるだろうか。
それでも、少女の目には名残を惜しむ涙が光っていた。
「じゃあね、ピーボ」
小さな手を振りながら、母親と共に、少女はエレベーターホールに通じるドアの向こうに消えていった。笠門の横で、ピーボはシャンとした姿勢で座り、既に閉じたドアを見続けている。褐色の目には、微かな寂しさが見て取れた。
「でも良かったじゃないか、退院できて。彼女はもう大丈夫だ」
笠門が頭を軽くなでると、ピーボは鼻先を上下に動かした。まるでうなずいているかのような仕草だった。
「だけど、寂しい気持ちも判る。半年以上、入院していたもんな」
ピーボの勤務はこれで終わりだ。日のあるうちに自宅に帰り、もう一度、軽い散歩をしよう。食事はピーボの好物の……。
小児病棟担当の看護師長畠中が、ナースステーションから飛びだしてきた。良くない事が起きたようだ。笠門より先に、ピーボはスイッチを切り替えている。少女の消えたドアに背中を向け、近づいてくる畠中を見つめていた。
「笠門巡査部長、すぐに七階へ行ってくれる?」
「了解」
笠門の思いがリードを通して伝わったのか、ピーボはすぐにエレベーターの方へと歩きだした。
今日は七階に行く「任務日」ではない。にもかかわらず、突然の呼びだしだ。いったい何が待ち構えているのか。
職員専用のエレベーターで七階に上がり、病棟に通じる緑の扉の前に立つ。指紋認証を終えて扉を抜け、姓名、階級を名のると、警備に立つ女性警察官浜尾がいる。彼女の表情は緊張のためか、若干、強ばっていた。
「笠門巡査部長、緊急の事案のためファイルはありません。対象は七〇一号の患者、男性、氏名年齢共に不明です」
「容体など判っている事を教えてくれ」
「全身に重度の火傷を負っています。カルテなどの詳細は後ほど届きます」
「火傷を負った状況は?」
「男性は昨夜九月十五日、連続放火の容疑で現行犯逮捕されました。建物に放火したものの、逃げ遅れ炎にまかれたと思われます。緊急入院して治療を続けてきましたが、容体が思わしくなく、こちらの病棟に移送されました」
「ききだすのは、氏名など、身元に関する情報。それでいいか」
「須脇警視正から、具体的な指示は受けていません」
こちらにすべて任せるという事か。不安そうにこちらをうかがう浜尾に対し、ピーボがそっと足元まで近づき、弓なりの尻尾を左右に振る。
顔は笠門の方を見上げており、「はやく行こう」とばかりに鼻先で病棟の方を指した。
浜尾は微笑みながら、「それじゃあピーボ、頼んだよ」と囁いた。
笠門はピーボと共に特別病棟に進む。ナースステーションでは、看護師たちがそれぞれの仕事をテキパキとこなしていた。現在、病棟の入院患者は三名だけ。本来ならもう少しゆったりと構えていられたであろうに、放火犯のためにそうもいかなくなったようだ。
彼らは誰も笠門とピーボに目を向けない。いつもの事だ。看護師長の柴田一人だけが、笠門を見てうなずいた。病棟の廊下に至るこの行程は、何度繰り返しても慣れる事がない。
七〇一号室は、廊下に入ってすぐ右側だ。ナースステーションにもっとも近い病室なので、重篤な患者が運びこまれる事が多い。
廊下の真ん中に立つ警備の警官に会釈し、笠門はピーボの首輪を交換する。
「行けるか? ピーボ」
笠門のささやきに、ピーボはいつもの凛とした表情で、ぶるんと大きな体をゆっくりと震わせた。
ドアが開いたままの病室に足を踏み入れる。氏名不詳のため、ネームプレートなどはない。様々な医療機器に囲まれたベッドに、男が寝かされている。布団がかかっているため、体全体の様子は判らないが、幾重にも包帯でまかれた顔を見れば、重篤である事は察せられた。包帯に覆われていないのは、目と口の周りだけ。いわゆる「ミイラ男」のような状態で、人相も判らない。ざっと見たところ、中肉中背、これといった特徴もない。
目はほとんど開いておらず、唇が引きつるようにピクリピクリと動く。意識は混濁しており、相当な痛みに耐えているものと思われる。
そんな状態の患者に対しても、ピーボはいつもと同じように、ベッド脇まで行き、来客用の椅子にヒョイと体を乗せた。
気配は感じているのだろうが、男は目を固く閉じたままだ。
笠門は戸口まで下がり、イヤホンを耳に入れた。
病棟内は静寂に包まれていた。反応はほとんど得られず、ピーボの存在に気づいているのかどうかも定かではない。
開始して五分。男は相変わらず、一言も言葉を発しなかった。意識が混濁しているのかもしれない。ピーボはその傍らで、辛抱強く待っている。
突然、男の両目が見開かれた。自分が何処にいるのか、懸命に思いだそうとしているようだ。激しい痛みに呻き声を上げながら、呆然と天井を見つめている。
三十秒ほどその状態が続き、やがて目の焦点が緩み始めた。再び意識を失いかけている。
ピーボは男に対して、何もしない。無理に目覚めさせようとしても、それが患者のためにはならないと心得ているのだろう。
男の目がピーボを捉えたようだった。
「ジロー……」
イヤホンを通して、微かな声が聞こえた。
「ジロー、なんだ、寂しくなったのか? ジロー……」
ジローとは誰の事だ? 家族か? 友人か?
笠門は男の様子を確認する。彼の目はぼんやりとではあるが、ピーボを捉えていた。
男は朦朧とした意識の中で、ピーボを別の犬と勘違いしている。ジローはおそらく、彼が飼っていた、あるいは何らかの関わりのあった犬だ。
「また会えるとはな。一度だけ、行ったんだぞ、し……シシボ……」
男の全身から力が抜け、同時に緊急を報せるアラーム音が鳴り響いた。
笠門はピーボに下がるよう命令する。椅子を降り、笠門の横に戻ってきたとき、柴田を先頭に看護師三人が飛びこんできた。看護師経験のある笠門だが、治療行為に参加する事は禁止されている。痛みに呻き、管の繋がれた腕を布団の間から懸命に伸ばしている。その左手首には、一筋の一際濃い、火傷跡が走っていた。
「ジロー」
男の姿は、看護師たちの背中に遮られ見えなくなった。
柴田たちの表情を見るに、状況は厳しいようだった。
笠門はそっとリードを引き、ピーボと共に病室を辞した。
男の死が告げられたのは、それから数分の後だった。
二
須脇警視正は、頭の後ろで手を組みながら、興味なさげに笠門の報告を聞いていた。
「で、結局、名前も住所も不明のままで、聞きだせたのは、犬の名前ジローと意味不明の言葉」
「シシボ」
うーむと唸る須脇は、不満げだ。
「しかし警視正、ろくな情報もなく、いきなり患者と向き合えと言われても、ピーボだって困るはずです」
定位置の戸口に座るピーボは、そうだそうだとばかりに、首をたてに振った。
須脇は慌てて言葉を継ぐ。
「いや、ピーボに文句を言ってるわけじゃないんだ。ただ、捜査一課の中には、まだうちを小馬鹿にする輩がいてな。そいつらの鼻をあかしてやりたかった……という思いはある」
詳細は聞いていないが、放火事件であれば、既に捜査一課も、消防と協力して動いているはずだ。
「まだ、身元は判らないのですか?」
「難航しているようだ。男を見つけた現場も、大半が焼けちまっているらしく、指紋などのデータもヒットしなかった」
「つまり前科はない……。もし警視正が望まれるのなら、捜査を続けてみますが」
「そうだなぁ。一応、ここのところ連続放火事件の資料はまとめるよう、五十嵐巡査に言ってある」
「判りました。他部署の連中の鼻をあかしてやりたいという思いは、オレも同じです。先に身元を突き止めてやりましょう」
須脇は気のない様子で、肩の凝りをほぐすべく首をクルクルと回しながら言った。
「まあ、どちらが先に男の身元を突き止めるか、一課長あたりと賭けてみるよ」
「どっちに賭けるんです?」
「捜査一課」
「じゃあ、賭けにならんでしょう」
ピーボが憤然とした様子で立ち上がり、小さく、「ワン」と不満を唱えた。
笠門は須脇を振り返り、言った。
「オレはピーボに賭けますよ。来月の給料全部」
資料編纂室の一際薄暗い壁際で、笠門はタブレットに送られてきたばかりの資料を黙読していた。段ボール箱の山をへだてたすぐ向こうには、ただ一人の担当職員、五十嵐いずみ巡査がいる。今日も、PCのキーを叩く音がリズミカルに響いてくる。
「笠門巡査部長、そんなところですみません。ついに箱の山がパソコンデスク周りにまで及んでしまって」
「俺の方は構わないよ。君が資料に押しつぶされないか、心配しているところだ」
「これでも最速でやっているつもりなんですけど……」
「そんな時に、余計な仕事を増やして悪かったな」
「いいえ。笠門巡査部長、もとい、ピーボのためなら、エンヤコラヤです」
「何だ、そのエンヤコラヤって」
「昭和ではよく言われていた言葉です」
「いつも思うんだが、五十嵐巡査はやけに昭和に詳しいな」
一瞬の沈黙があった後、やや上ずった声で、五十嵐の声が聞こえた。
「まぁ、趣味みたいなものです。今でいう推し」
「昭和が?」
「ええ」
あまり詳しくは語りたがらないようなので、この辺りで切り上げる事とした。資料に目を戻す。
身元不明の男が起こしたとされる放火事案の概要がきっちりとまとめられていた。
最初の放火があったのは、九月三日の深夜だった。場所は板橋区上板橋四丁目の住宅街だ。火をつけられたのは十字路の南側に建つ木造の一軒屋だった。空き家になって半年ほどの家で、管理する者もなく、夏の間に人の背を越えるほどの草が生い茂っていた。犯人は朽ちかけた住宅の壁に、キャンプ用の着火剤を塗布し、火をつけたらしい。炎の勢いは激しかったが、隣家がすぐに炎に気づき通報。駆けつけた消防によって十分足らずで消火された。無人の家屋で火の気などはまったくなかった事から、放火の線で捜査が進められる事となった。
二回目は九月九日の深夜。場所はやはり上板橋で、前回の現場からわずか百メートルほどのところにあるアパートだった。二階建てで全八部屋。一階の奥には家主が居住するという昔ながらの造りだった。火がつけられたのは、通りに面したところにある集合ポスト。今回も、キャンプ用の着火剤が使用されていた。アパート前の通りは川越街道にも通じる道で、深夜でも車の往来がある。燃え上がった火は、通りがかった車の運転手に目撃され、放火から数分で消防が駆けつけた。今回も人への被害はなく、ポスト内の郵便物が燃えただけで済んだ。
とはいえ、連続放火事件である事に変わりはなく、警察、消防の捜査に加え、町内で深夜のパトロールを始めるなど、地域住人は不安の中で毎夜を迎える事となった。
そして三度目は九月十五日。二度目の現場から新板橋駅にワンブロックほど行ったところにある無人の住居兼倉庫から火の手が上がった。数年前まで、木工店だった家で、二階建ての住宅の裏に、材木を置くための小さな倉庫があった。材木類はすべて撤去されていたが、メモ帳などの紙類が散乱していたらしく、風の強さも相まって火勢が一気に広がった。
結局、倉庫と住宅部分を半焼し鎮火。焼け跡から、大やけどを負った男性一名が発見、救助された。
三度目も使われたのは、キャンプ用着火剤。状況などから見て、救助された男性が自ら火をつけ、逃げ遅れたものと警察、消防はみている。
資料を読む限り、典型的な連続放火事件で、男性が放火犯と見て間違いはないであろう。
問題は男性の身元だ。
「五十嵐巡査、提供された捜査資料の中に、現場写真などのデータは入っているか?」
「入っています」
キーを打つ音は途切れることなく、ハキハキとした言葉だけが返ってくる。
「放火事案なら、野次馬の写真もあるはずだな」
「はい。板橋の放火三件分だけでかなりの量あります」
放火犯の特徴の一つとして、現場に戻るという点がある。特に連続して放火を行う、愉快犯のような場合は、火をつけた建物が燃える様を自身の目で見ようとして、野次馬に紛れ見物している事が多い。それを踏まえ、消防、警察では、野次馬を含む、現場付近にいる人物の写真を可能な限り撮影する。
「三件の放火、すべての現場にいた人物は、既にピックアップされているだろうな」
「はい。さきほど、三件目の写真データが届きました。三件すべてはいませんが、うち二件に写りこんでいる者は七名います」
「多いな」
「野次馬の多くは近隣住人です。現場が同じ地域内ですから、同じ人が交じっている確率も上がります」
「その七名で、身元不明の男性と特徴が一致する者は?」
「二名です。性別、大凡の年齢、体格でかなり絞りこめています」
「その二名のデータを送ってくれないか」
「了解です」
笠門のタブレット端末に着信があったのは、その返事が終わる前だった。
すぐにデータを開いて確認をする。火災現場周辺を写したデータが、全部で四枚分あった。
二名いるうちのまずは一人目だ。男は九月三日と九日、つまり一回目と二回目の放火現場で写真に撮られている。
画面に映しだされているのは、一件目の現場だ。トラテープと現場整理に当たっている制服警官、彼らを押しのけるようにして、携帯を構える人々。その中に、ただぼんやりと火災現場を見つめている中年男性の姿があった。ブルーグレーのパーカーを着て、袖をまくっている。二枚、九月九日のも同じだった。異なっているのは服装くらいで、やはり携帯を構えるでもなく、興奮した様子もなく、ただじっと前方を見つめている。
もう一人は薄手のセーターを着て、手には缶ビールを持っている男だ。彼が写っていたのは九日と昨夜、つまり二件目と三件目の現場だ。ならば、この男は外せる。現場で大やけどを負い病院に運ばれた男と同一人物であるはずがないからだ。
笠門は最初の二枚分のデータに戻る。現時点で、このパーカーの男が身元不明容疑者である可能性が高い。
五十嵐から、新たな着信があった。一枚目に写る男を拡大したデータだった。画像処理で、かなり鮮明になっている。
笠門はまくり上げられた袖、露わになった手首に目を留めた。
男は左手にブレスレットをはめていた。大ぶりなもので、彼が着ているものとはどこか不釣り合いな感じがした。
小粒のガラス玉を金属のワイヤーで繋げた、数珠のような見た目である。ガラス玉の一つはカプセルのような形状で、濃い青色をしていた。
「こいつは……」
似たものを、笠門はかつて見た事があった。ファシリティドッグのハンドラーとなるための研修中、インストラクターがつけていたものだ。インストラクターは、それがペットの遺灰入りブレスレットだと教えてくれた。玉の一つに遺灰を入れ、アクセサリーにする事で、肌身離さず持っていられるというわけだ。日本でもブレスレットやリングにする人が増えていると言っていた。
インストラクターのものには、長年飼っていた犬の遺灰が入っていた。
そして、病棟の男の左手首には金属製の何かを巻いていたと思われる火傷痕があった。ブレスレットをはめていた可能性はある。あの患者が写真の男だとすれば……。
ピーボとともに、病室で聞いた言葉を笠門は思い起こす。
「シシボ」
端末で、都内にあるペット霊園を検索する。「オススメペット霊園10選」というサイトの三番目に、ペット霊園「レボール」が表示される。住所は東京都江戸川区鹿骨五丁目だ。
「鹿骨か……」
端末を閉じ、笠門は立ち上がる。
「五十嵐巡査、ありがとう。助かったよ」
「どういたしまして」
キーを打つリズムに、乱れはまったくなかった。
(つづく)