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二十六 孫四郎


 蒲池鎮漣の一行が佐嘉に向かっているという報せを受けて、孫四郎は慌てて酒見城を出立した。鎮漣の佐嘉への伺候はもとより決まっていたことだが、早くとも六月のはずだった。
 唐突な呼び出しは、自分が佐嘉にいない時期を狙ったとしか思えなかった。
 筑後川を渡る頃、背後から土煙を上げて駆ける騎馬が見えた。木下昌直だ。島津家との内通が疑われる、山下城の蒲池家を見分させていたものを急遽孫四郎が呼び出していた。
「どうやら、大木統光が鷹尾城の田尻鑑種のもとにむかったようです」
 昌直の言葉に、嫌な予感がした。
「十郎の傍にいないということか」
「どうやら、随行する二百の兵を率いているのは、兄の鎮久のようです」
 鎮漣の兄鎮久も歴戦の武士ではある。若いころは、自らの強さを過大に恃み、鼻につくこともあったが、鎮漣を主と認めてからは己の力量をわきまえ、かえって戦も隙がなくなり、強くなったように思う。
 だが、単純な刀の技量でいえば、大木統光に勝る者は蒲池家中にはいない。龍造寺家中を見渡しても、槍を持った木下昌直くらいのものだろう。和議を結んだとはいえ、戦が終わったばかりの佐嘉には、統光こそ伴うべきだった。
「田尻が小細工を弄したかもしれぬな」
「蒲池殿と大木殿を引き離すためですか」
「統光がいるだけで、蒲池の守りは数段強固になる。ひるがえせば、統光の不在は、十郎にとっての大きな隙だ。率いる兵も、二百という少なさなのであろう」
 千の兵を連れ、火縄銃を携えよという孫四郎の言葉を、鎮漣は受け入れなかったようだ。あくまで、隆信を信じていると表明するためだろう。甘い。思わず舌打ちした。
 隆信の恐ろしさは、単に隆信個人の恐ろしさではないのだ。その家臣たちが、隆信の考えを勝手に推測して恐れ、自らに火の粉が降りかからぬよう動いてしまう。隆信に鎮漣を害する気がなくとも、家臣の中で暴発する者がいるかもしれなかった。
 そして、隆信はそれを承知であえて暴君として振る舞っている風もある。
 須古城での隆信の言葉に嘘は感じなかった。だが、この数年は、一年を通して一月も会っていない。自分が隆信を見誤ったのか。もう一度、舌打ちがこぼれた。
 孫四郎が佐嘉にいる時は、家中に厳しく統制を敷くことができる。だが、筑後の政に忙殺され、佐嘉の様子を事細かに知ることはできていない。
「殿は、猿楽の一座を伴うようにと蒲池殿に命じられたようです」
「柳川には、隻眼の猿楽師がいたな」
「京下りの者のようですな。一度、柳川で見たことがありますが、見事に舞う翁でした」
 猿楽を催すとして呼んでいることも、どこか作為を感じた。
「昌直、鷹尾城に向かえ。すぐに統光を佐嘉に──」
 言いかけて、孫四郎は口をつぐんだ。
 最悪のことを考えるべきだ。
「孫四郎殿?」
 いつもの生真面目な顔に、一抹の不安が差している。顎に手をあてて、孫四郎は呻いた。万が一にでも、隆信が鎮漣を殺すようなことがあれば、筑後は龍造寺家への叛旗が四方八方に翻ることになる。
「統光を柳川城へ向かわせよ。同時に酒見城に兵を参集させる」
「筑後の動乱を見据えてですか」
 昌直も、鎮漣が暗殺されるかもしれないと予測しているのだろう。だが、口にするには、あまりに根拠がない。一月早まったことも、大木が随行していないことも、考え過ぎだと思えば、それ以上のものではない。
「とにかく、私は佐嘉に行く。お主は万が一に備えよ。いかなる結末になろうと、龍造寺の支配を揺るがせるわけにはいかぬ」
 大友が衰退しているとはいえ、いまだ筑前の立花山城と宝満山城には、きっての名将である戸次道雪と高橋紹運が健在だ。二人が筑後に乱入してくれば、靡く国人衆もいるだろう。
「お主にはちと無理をさせるかもしれぬ」
「生まれてくる我が子のために、勇ましき武士でありたいと思っておったところです。相手に不足はありませぬ」
 昌直が頷くと、颯爽と馬首を翻した。
 駆け去っていく昌直から目を離し、孫四郎も馬腹を蹴り上げた。
 佐嘉に到着したのは、五月二十五日の昼過ぎだった。城下は鎮漣を迎えるために、町をあげて飾りつけていた。
「杞憂だったか」
 祭の前を思わせる賑やかな城下に、ほっと息を吐きだした。城下に兵の気配は無い。
 隆信は須古城におり、佐嘉では家督を継いだ龍造寺政家が出迎える手筈だった。村中城の御殿に赴いた孫四郎を見ても、政家に動揺は無い。血の繋がりこそないものの、幼いころから自分の息子同然に育ててきたのだ。嘘のつけない政家の表情に安堵した。
 鎮漣が佐嘉に到着したのは、翌日、陽の傾いた黄昏時だった。
 二百の兵と、百ほどの猿楽師の一座を引き連れ、宿舎として用意された本行寺に入ったという。政家が使者を出してから一刻経たずして、鎮漣がわずかな供を連れて村中城に姿を現した。出迎えるのは龍造寺家の宿老たちで、肥前、筑前に所領を持つ者がほとんどだった。
 政家が和議を労い、宴が始まった。
 父と同じく蟒蛇のように酒を呑む政家が、早々に顔を赤くした。まだ若く、自らの戦下手を気にしているからだろう。鎮漣へ、戦の術をまくし立てるように聞いている。答える鎮漣は、微笑みを浮かべて、時折、酒で舌を濡らしていた。
「戸次殿とは、いかなるお方なのですか?」
 政家の問いかけに、大書院に並ぶ者たちが聞き耳を立てた。西海道で戦上手と言えば、誰もがまず戸次道雪の名を挙げる。その道雪の薫陶を受けた鎮漣の言葉は、孫四郎も興味があった。大友軍と戦い続けてきたが、軍神と称される戸次道雪と、直接干戈を交えたことはない。
 鎮漣が困ったように考え込み、しばらくして口を開いた。
「娘の些細な言葉に傷つき思い悩む、どこにでもいる、ごく平凡な父ですな」
 政家の怪訝な表情に、鎮漣が苦笑した。
「ぎん千代と申す娘がおりましてな。この娘は、偉大な父の名に苦しめられ、自らが戸次の家を継ぐに相応しくないと、日夜苦心しておりました」
 遠く、襖が開け放たれた奥の夜空に目を向け、鎮漣が続ける。
「なぜ、軍神と称されるほど、父が強くあらねばならなかったのか、ぎん千代殿は私に聞かれました」
「蒲池殿には、その答えが分かっておられたのですか?」
 政家の言葉に、鎮漣が目を細めた。
「比べることも烏滸がましいですが、道雪殿は、ある部分で私とよく似ておいででした。道雪殿の心の中には、ただ大友家への忠誠があり、望む姿になるために、全てを注ぎ込まれていた。自らの望む姿のために、その他を全て捨てる覚悟。道雪殿の強さは、まさにその覚悟ゆえでしょう。強くあるために、雷を相手に刀を振るうなど、正気の沙汰ではありますまい」
 雷を切ったという戸次道雪の伝説を口にした鎮漣に、一同から笑いが起きた。
「ただ、だからこそぎん千代殿の苦心を理解できず、思い悩まれていました。私ごときを立花山城に呼びたて、ぎん千代殿と話してほしいと頭を下げられた」
「なぜ、蒲池殿だったのです?」
「義心鉄の如しと謳われた蒲池宗雪の嫡子でありながら、私は姫若と筑後中に揶揄されてきました。偉大な父の名に苦しむ心が分かると思われたのでしょうな。まあ、まことに臆病だった私などと比べて、ぎん千代殿は齢十にならずして兵を動かす烈女ですが」
「それは、龍造寺家にとっては憂うべき報せではありますな。鎮漣殿は柳川に三千の兵で籠城し、我ら七万の兵と対峙された。ぎん千代殿なる娘御を恐ろしく思うのは、それがしだけではありますまい」
 実直な政家らしい言葉だった。
 鎮漣が首を左右に振った。
「ぎん千代殿が戦場に出る齢になる前に、戦の無き世となせばよいだけです。龍造寺の御家には、その務めがございましょう。それを成すお力もございます」
「蒲池殿のお力添えもありましょうな」
 上機嫌の政家の言葉に、鎮漣が静かに頷いた。
「二十五年も前の、柳川一木村でのことです。大殿、そして孫四郎殿と出会ったことで、私はいかに生きるべきかを考え始めました。そして道雪殿に教えを受け、今山の戦いでは孫四郎殿に、強大な敵への勝ち方を教えられました」
 視線を向けてきた鎮漣に、孫四郎は苦笑した。大友家の大軍を破った今山の戦いでは、大敵への勝ち方を鎮漣に示すつもりだった。毛利と龍造寺による大友包囲網を破った鎮漣への、負けてたまるものかという思いもあった。
 鎮漣が強く成長したからこそ、孫四郎もまた龍の御者と呼ばれるほどの武士になったと言っていい。
「十郎。ようやく、始まるな」
 孫四郎の言葉に、鎮漣もまた頷いた。
 夜更けまで続いた宴が終わり、鎮漣一行が本行寺に戻ると、酔いつぶれた政家が下女に肩を抱かれて消えていった。大広間にはいびきをかいて横たわる者もいる。
 鎮漣たちは旅の疲れを癒すため、翌日は本行寺に逗留することになっていた。龍造寺家中の者たちが朝から本行寺に赴き、柳川からやってきた猿楽の名手を一目見ようと、城下の民も集っているようだった。
 喧騒を遠目に孫四郎は、佐嘉の館に戻ると、明朝の出立に備えて早々に床に入った。
 目を覚ましたのは、夜明けまで一刻ほどの頃だった。
 鎮漣たちとは與賀社で合流し、夜明けとともに須古城に向かうことになっていた。須古城での馬揃えのために甲冑を着込み、館を出た孫四郎のもとに、村中城から二百の兵が送られてきた。
 護衛には多すぎる。ふと兵の足元を見ると、その具足は泥にまみれていた。その瞬間、背中から汗が流れた。
 村中城の兵ではない。夜を徹して行軍してきた兵だ。
 そう思った時、孫四郎は天を見上げた。
 城下の空気が、異様にささくれ立っている。
 音を殺そうとしているが、戦に慣れた者の耳はごまかせはしない。百や二百ではない。下手をすれば、数千の兵が無数に分かれて城下に潜み、息を殺して進んでいた。
「……愚かな」
 己への罵倒を吐き捨て、孫四郎は急いで村中城へ駆けた。
 何かを仕掛けるのであれば、実直な政家に伝えるはずがない。佐嘉にいる政家や家臣には隠し、ことを進める。現れた兵は、鎮漣が佐嘉に到着したという報せを受けて集められた須古城の兵なのだろう。
 村中城の二の丸では、蒼白な表情で龍造寺政家が待っていた。
「父からの書状が」
 ひったくるようにして受け取ると、そこには酔った勢いで記されたような文字が躍っている。須古城で、鎮漣の首を検分する。ただそれだけが記された書状を破ると、孫四郎は篝火の中に放り込んだ。
「兵はどれほどが?」
 政家が泣きそうな表情で空を見上げた。
「須古城の兵が二千。その他、筑前や豊前からも動員されているようで、四千を超える兵が城下に」
 周到に用意されていたということだろう。筑後勢が動員されていないのは、政家や孫四郎に露見しないためだ。拳を握りしめ、孫四郎は息を二度、吐きだした。
「殿、御覚悟をお決めください」
 昨日の言葉を、翻すことになる。武士として、ありうべからざる節操の無さだ。
「龍家は、いまより修羅の道を行くことになりましょう。大殿の所業は遍く天下に知れ渡り、龍家は天下の信を失います。従えども殺されるとなれば、龍家に降る者はおりますまい」
 すでに與賀社は遠巻きに包囲されているのだろう。隆信が時をかけて整えた包囲には、蟻の這い出る隙間もないはずだ。隆信は、ここで蒲池鎮漣という武士を殺すことを決めたのだ。
 義兄の顔を思い浮かべた。
 裏切りこそが乱世を生き抜く術だと、隆信は信じている。祖父や父を裏切りに失い、誰一人として心赦せる者がないままに、五州二島の太守まで成り上がった隆信は、自らの信念を至上のものと思っている。
 裏切りを是とするからこそ、鎮漣ほどの才が裏切ることを恐れている。隆信の生き方が、鎮漣の忠誠を信じることができないのだ。
 二人が相容れることは、決してない。諦めを、孫四郎は呑み込んだ。隆信に期待しすぎたのか。そう考え、違うと心の中で否定した。生き方が違う。ただ、それだけなのだろう。それだけで命を奪い合うのが、戦国という世なのだ。
「殿は村中城を動かれませぬよう。鎮漣は、私が討ちます」
 覚悟して、息を吸い込んだ。
「兵を興した以上、ここで討ち取らねば、龍家を衰亡させる禍となりましょう」
 鎮漣を逃せば、筑後の国人たちは、柳川を盟主として一斉に立ち上がるだろう。そうなれば、柳川一城にすら勝てなかった龍造寺軍は、二度と筑後に踏み入れることはできない。苦労の果てに手にした肥後も失うことになる。
 ここで、蒲池十郎鎮漣を討たねばならない。
 力無く、心の内でそう言葉にして、孫四郎は村中城を後にした。


急 黄鐘早舞
 互いに表情まで分かる距離だ。
 鍋島孫四郎直茂が手を振り上げ、友を殺すための言葉を、いまにも吐きだそうとしている。ここで蒲池鎮漣を討ち漏らせば、龍造寺家は瞬く間に四方を敵に囲まれることを、孫四郎はよく理解しているのだ。
「苦しいな」
 孫四郎の心中が、手に取るように分かる。
 昨日の言葉は嘘だったのかと、なじる気にはならなかった。
 鎮漣を殺せば、龍造寺家は諸国の国人衆からの信望を失うだろう。これより先の龍家の戦は、敵か味方のどちらかが死に絶えるまで止まぬものとなる。血で血を洗う戦しか、待っていない。
 隆信が、自分を討つ決断をしたということは、もはや隆信の瞳は民の平穏など見ていないということだった。
 信じた自分が愚かだとは思わなかった。
 惜しむらくは、自分の才の無さだろう。もっと早くに力をつけていれば、隆信とともに西海道を駆けることができたかもしれない。青年だった隆信の瞳には、間違いなく民が映っていた。あの頃の隆信を将と戴き、両翼を自分と孫四郎が務めることができれば、大友や島津など、敵では無かっただろうと思う。
 もはや叶わぬことだ。だが身を震わせるような悔しさは無かった。
 自分がここで死ぬとしても、蒲池の義が死なないことを、確信している。弱き者を決して裏切らず、抗う者が一人二人と増えていくことが、この国の平穏に繋がっていく。蒲池の義を継いだ自分が、非才の身から、龍家七万の兵と対峙するほどまでになったのだ。
 自分よりも才ある者は、数多くいる。
 姫若と揶揄された鎮漣には負けられぬ。そう思う彼らが、いずれ成し遂げてくれる。瞼の裏に浮かんだのは、戸次ぎん千代の黒髪の下のあどけない表情だった。彼女もまた、自分などよりも、ずっと強大な何者かになっていくだろう。
「殿に相応しきものを」
 背後から聞こえたのは、舞台の中央に進み出てきた宗顕だった。猿楽の一座を本行寺に残し、與賀社には老いた身一つで付いてきた。
 その手には、五色に彩られた樫の枝が握られている。
「錦木ですか」
 宗顕が頷いた。
「女に恋い焦がれた男がこの錦木を毎日捧げ、千日目に成就する物語にございます」
「男は、九百九十九日目に、死ぬのでしたな」
「夜が明ければ、殿の願いは届きましょう」
 宗顕の言葉は、慰めといった風はない。
 民の平穏を願い続け、自らの生き方を決めてきた。偉大な父に押しつぶされそうになり、苦しい時が多かったようにも思う。自らの非才を受け入れ、一歩一歩、小さな歩幅を積み重ねてきた。
「明日の景色を見てみたいと思うのは、贅沢というものかな」
 そう言った鎮漣に、鎮久が肩越しに振り返った。
「それをご所望とあらば」
 孫四郎の方に踏み出した鎮久を止め、鎮漣は太刀を引き抜いた。
 直刃の金剛兵衛盛高を、まっすぐと馬上の孫四郎に向ける。
「斬り抜けるぞ」
 二百の兵が、一斉に刀を抜いた。じりじりと迫ってきていた龍造寺兵の足が止まり、恐怖に顔をひきつらせた。柳川蒲池の武勇は、知れ渡っている。
 ここで死ねば、柳川城の玉鶴姫は嘆くだろうなと思った。
 だが、彼女の瞳に映ることが、鎮漣にとっての生き方でもあった。滅びることで、蒲池の義は、この国に知れ渡る。その生き方を、玉鶴姫は認めてくれた。笑いながら、泣く玉鶴姫の顔が脳裏に浮かんだ。
 不器用な生き方だったかなと首を傾げ、笑った。
 孫四郎が、息を呑んだ。
「それが男というものだろう」
 直後、昏い空に、無数の火矢が浮かび上がった。

 

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