最初から読む

 

二十一 宗顕


 嫌な噂の流れ方だった。
 柳川城下で流れているのは、城主蒲池鎮漣が龍造寺隆信から独立し、島津と手を結んだという風聞だった。それが真であれば、すぐにでも龍造寺家の大軍が押し寄せてくるだろう。
 だが、鎮漣をよく知る宗顕にしてみれば、あの思慮深い鎮漣が、龍造寺勢力の真っただ中で、まだ肥後にすら出てきていない島津をあてにするとは思えなかった。
 城下に張り巡らされた堀を歩く宗顕は、ふと空を見上げた。葉の落ちた柳が、曇天の空を御簾のように覆い隠している。ちらつき始めた粉雪に、膝が痛み出したようだった。
「骨を埋むるによき地。そう思っておったのじゃがのう」
 噂の出所を探るように手下に命じ、奥州小路を北へ抜けた。
 普段は夕暮れ時でも人の往来が多い通りだが、今は数えるほどの人影しかない。そのどれもが、何かを怯えるように俯いて足早に歩いている。
 城下を走る水路の水位が、普段よりも高くなっていた。平時は底に足がつく程度だが、今は鎧武者が足を踏み込めば溺れるほどの高さがあるように見える。水位が目に見えて上がったのは、城下で噂が流れだしたころからだ。鎮漣の信頼する武士だけが、水位を調整できるという。戦に備えているようにも思えた。
「老骨は用心せねばのう」
 鎮漣は、柳川が攻められることを予感しているのかもしれない。
「いったい誰が、十郎様を陥れようとしているのかのう」
 節くれだった竹を杖にして、宗顕は再びぽつぽつと歩きだした。
 月初め、山下城の蒲池麟久が死んだことが筑後中に広まった。山下城が島津家に内応していたがゆえ、龍造寺隆信に暗殺されたのだろうと多くの者が口にしていた。
 だが、そのすぐ後に広まったのは、柳川城主である蒲池十郎鎮漣こそが島津家に内通し、龍造寺家に叛旗を翻さんとしているという風聞だった。麟久が殺されたのは柳川の内通を止めようとしたからだというものだ。柳川に逃げ帰る刺客を見た者もいるという。
 その噂が広まって以来、柳川に寄宿していた商人たちが次々に逃げ出している。機を見るに敏な彼らの性と言えばいいのだろうが、彼らが逃げ込んだ佐嘉は、往時よりも賑わっていると聞く。誰が利を得たのかは、明らかだった。
 商人が逃げ出せば、民が日々使うものも不足し始める。些細なことだが、民は日々の生活の中から情勢を知る。城下を包む、まとわりつくような嫌な空気が、民の顔を暗くしていた。
「じゃが、あの殿さまが、誰かに見つかるような下手をうつかのう」
 鎮漣だけではない。その傍に影のように寄り添う大木統光という男は、家中や国人衆からの評価は低いが、あれもまた己の真の姿を隠す傑物の類だと宗顕は思っている。
 統光が、猿楽の教えを受けたことはない。だが、鎮漣に付き従う挙措は、並の達人のものではなかった。かつて京にいた頃、上泉信綱という剣豪を見たことがある。足利将軍家にも剣の指南をしたほどの剣の遣い手であり、天下無双と噂される武士だ。
 普段は、小柄な好々爺にしか見えなかった。気の良い親爺で、よく軽口も飛ばしていた。だが、剣の立ち合いとなると悪鬼のような形相となり、一尺以上も背の高い武士が、瞬時に首となる。そして、剣を鞘に納めた信綱は、直後にはもう好々爺に戻っているのだ。
 戦場の統光を、悪鬼と評する兵がいた。普段の茫洋とした姿からは想像もつかない姿だ。
 統光は、世評とは全く違う姿を持っている。統光が討ち手として山下城に向けられたならば、麟久程度では歯がたたないだろう。
 ただ、用心深い鎮漣たちが、露見するような暗殺をするとも思えなかった。
 唸り声が喉の奥から洩れていることに気づいたのは、旅籠の軒先で、幼女が怯えるように宗顕を見上げていたからだった。旅籠の主人の娘だ。奥州小路でも、常に人の出入りが多い旅籠の一つだが、客の姿はない。
 睨みあうような格好になった。
 幼女が目をつぶったのを見計らって、懐から猿楽の翁面を取り出した。目を開けた幼女の顔が引きつり、見る見るうちに目尻に涙が溜まってゆく。
「すまぬ、すまぬ」
 慌てて面を外して詫びると、宗顕は幼女の視線の高さまでかがんだ。巾着の中から松風を取り出し、手に握らせる。
「京のものとは少し違うが、これはこれで旨いぞ」
 小麦粉と砂糖を卵と水でとき、芥子の実を混ぜて焼き上げる菓子だ。京で購えるものはふっくらと厚みがあるものだが、肥後を中心に柳川で作られるものは薄く焼き上げられ、噛み心地が良い。
 涙を浮かべ戸惑う幼女の姿に、不意に、鎮漣に招かれた十余年前を思いだした。
 母親を亡くしたばかりだったりんは、京からの旅の途中、ずっと宗顕の手を握りしめていた。毛利元就の制覇戦による傷痕が、山陽道には生々しく残っていた。道に屍が打ち捨てられ、山道は常に凶賊を警戒した。壮年となっていた自分でも命がけだったのだ。五つのりんには、過酷な旅だったろう。
 戦火の影もなく、穏やかな空気に包まれた柳川の街並みに、目を丸くしていたりんの姿は今でも覚えている。そのときのりんも、京のものとは全く違う松風を口にして、久しぶりに笑みを見せた。
 幼い子は正直なのだ。
 心の底から安堵できる場所。りんは、柳川の町にそう感じたのだろう。それを見て、宗顕も妻を失ってから凍っていた心が溶け出すようにも思ったものだ。
 目の前の幼女の不安な表情は、城下に漂う空気を鋭敏に感じ取っているからだ。幼子にそんな顔をさせる大人がどこにいる。心の中で己を罵倒し、宗顕は松風を食べるようにと微笑んだ。
 恐る恐る手に取った松風を口に運び、幼女が喉を鳴らした。
 ほんのわずかだが、頬の強張りが解けたようにも見えた。
「旦那、甘やかすのはやめてください」
 呆れるように言ったのは、旅籠の主人だった。右足を引きずるようして近づいてきた。
 十五年前に世話になって以来の付き合いだ。宗顕が城下に屋敷を構えてからは、月に一回程度だが酒を酌み交わしている。
「この通りにも、旅籠が増えたな」
 立ち上がり、巾着を懐にしまった。
 食事を出す宿は、全土でもいまだ珍しい。商人の出入りが多い大坂や大宰府には、それなりの数が整っているが、ほとんどの国では泊るだけの宿が散在するだけだ。旅籠の数が多いということは、それだけ柳川が栄えているという証でもあった。
「増えたのは良いですが、どうなることやら。この一月ほどは、どの店も客が逃げ出してしまっていましてね」
「皆、佐嘉との騒動を予想しておるのかのう」
 主人が疲れきった表情を見せた。
「佐嘉だけならばまだいいでしょう。柳川の殿は、筑後の中でもひどく嫌われております。もしも佐嘉との戦になれば、柳川の味方をする者は筑後にはおりますまい。今朝がた、うちを発って大宰府に向かったお人が言っておりましたが、猫尾城の黒木様も柳川討伐の起請文を差し出したとか」
「黒木様は龍造寺に強く抵抗していたと記憶しておるが」
「とは申しましてもな。旦那が柳川にいらっしゃる前、殿がまだ幼少の頃です。黒木様は、殿の母君と一緒になって、殿の廃嫡を画策していたようでして。もとより、軟弱な殿を嫌っておいででした」
「黒木様が敵となるとすると、柳川の味方となってくれそうなのは鷹尾城の田尻様かのう」
「田尻様は、殿の叔父君でもありますからなあ」
 そう呟き、主人の眉間に皺が寄った。
「それ以外は駄目ですな。山下城のご一族も、噂が真であれば仇討ちの好機とばかりに攻め立てるでしょうし、発心岳城や福丸城。筑後十五城と呼ばれた国人衆のうち、鷹尾城以外のほとんどが佐嘉につきましょう」
 筑後中が敵となれば、少なくとも一万数千の敵となる。鷹尾城の田尻軍三千が味方についたとしても、柳川勢は六千に届かない。龍造寺隆信の本軍が合流してくれば、さらに兵力差は大きくなる。
「四面楚歌ではないか」
「どういう意味です?」
「周りが敵だらけという意味じゃよ。柳川も厳しいかのう」
 頷いた主人が、顎の髭をぴしりと抜いた。
「それは戦となってみれば分かりませぬが。噂が真で、島津様が筑後まで北上してくれば目もありそうですが、肥後を越えるにも一年はかかりましょうな。大友の御屋形様も、いまだ柳川城への勘気を解いておられぬと聞きますし」
 旅籠の主人にしてみれば、よく世情を見ていると思った。だが、諸国の商人を泊めるがゆえに、さまざまな報せも入ってくるのだろう。
「そこまで見えていて、お主は柳川を出てはいかぬのか?」
 聞いた宗顕に、主人が苦笑した。笑いながら腕まくりをして、剥き出しの左腕を宗顕に見せてきた。痛々しい矢傷が残っている。
「旦那が柳川に来るよりも前のことです。戦場で逃げ出そうとして、背後から敵に矢を喰らいましてな」
「痛そうだな」
「もう痛みはありませぬが、刀を遣えなくなりました。草むらで泥にまみれて転がる私を救ってくれたのが、柳川の殿でした。敵を前に逃げ出したことで討たれてもおかしくない私に、逃げる気持ちはよく分かると言って、自らの羽織を裂いて手当をしてくれたのですよ」
「羽織を裂いて?」
「家宝として、いまだ肌身離さず持っております。戦で使えなくなった私に、この旅籠を任せてくださったのは殿です。戦が無ければ、誰も逃げずに済む。そんな世にするためにも、力を貸してくれとおっしゃられたのですよ」
 袖を戻しながら、主人がゆっくりと伸びをした。
「柳川の城下には、そんな者が数多くおります。周りを敵に囲まれたからといって、窮地の殿を見捨てていくような軟弱な武士は、柳川にはおりませぬ。我ら皆が、蒲池の義を心に宿しておるのです」
 それに、と主人が愉快そうに笑った。
「殿は筑後で言われるような懦夫ではございませぬでなあ。誰よりも戦がお嫌いだが、戦となれば兵を死なせぬため、自ら先陣をきるようなお方。軍神戸次道雪も認めた戦の申し子にございます。筑後のお歴々はそれを認めたくないようですが、殿の下で戦っていた我らは、しかと分かっております」
「柳川が勝つこともありえると?」
「少なくとも、蒲池の義が敗けることはありませぬ」
「蒲池の義か」
 途切れるようにこぼした言葉に、主人が微笑んで頷いた。

 柳川城下に鎮漣が姿を見せたのは、年の暮れだった。
 崇久寺に猿楽の舞台が急造され、宗顕も呼ばれた。
 大木統光が境内の警戒を取り仕切っているのだろう。せわしなく動き回り、下知を飛ばしている。城下の民のほとんどが集められているようで、境内に入りきらない者も雲霞のごとくいた。集まった者には、大鍋で煮たてさせた醴酒(甘酒の一種)がふるまわれている。
 舞台のそでに立ち、艶やかな絹織物に身を包む鎮漣は、集まった者たちをじっと見つめ、どこか晴れやかな気配も感じさせる。
 近づくと、鎮漣が静かに振り返った。
「宗顕殿、良く晴れておりますな」
「ええ。からりとした空気の中に、柳川の水の豊かさが映えております」
「柳川城は、水とともに生きてきました。水が人を呼び、商人を呼んだ。この豊かさこそが、私が守らなければならないものです」
 鎮漣の溌溂とした姿を見たからなのだろう。醴酒を飲む民の多くが、自然と笑みを浮かべている。この一月ほどの不穏な空気からは考えられない光景だった。老臣たちに姫若と蔑まれてきた童の頃から、鎮漣は民とよく交わっていたという。城下を歩けば、鎮漣と一緒に土を耕したと笑う者と多く出会う。鎮漣を見捨てる者はいないという旅籠の主人の言葉も、この光景を見れば、あながち嘘ではないように思えた。
 戦の気配を感じれば、民はさっさと逃げ出すことが、世の常だ。城下に残り、敵に捕らえられようものならば、見知らぬ国に売られ、死ぬまで農奴として扱われる。
 龍造寺隆信が攻めてくるかもしれないと噂が流れる中、これほどの民が集うような光景は、他では決して見られないものだった。
 息を呑み込んだ時、鎮漣が翁面を顔にあてた。
「宗顕殿、この舞台が終われば、京へ戻られるとよい」
「何を申される」
「感じておられるでしょうが、遠からず、柳川は戦火に包まれましょう」
「……戦にございますか」
「どうやら、柳川を陥れたい者がいるようでして。少々、謀られたようです」
 龍造寺隆信という名を思い浮かべ、宗顕はこめかみを掻いた。
「戦わずに降るという道はないのでしょうか」
 面の裏側でどんな表情をしているのだろうか。押し黙った鎮漣が、しばらくして首を左右に振った。
「隆信公は苛烈なお人です。筑後、肥後を手に入れたことですべてが思う通りとなると思っておられるが、その立つ場所は孤独でもある。大友や島津など、見上げるほどの大敵を前に、心から味方だと思えるものは、鍋島孫四郎くらいのものでしょう。その孫四郎殿も、領土が増えたことによって傍にはおりませぬ」
「付き従った筑後の国衆を信じてはおられないと?」
「国人衆という者は、強き者に従うものです。隆信公の威勢が少しでも弱まれば、すぐにその矛先を変えます。それが弱き武士の生き方であり、隆信公もそれを十二分にご存じです」
 しかしと、鎮漣が息を吐いた。どうやら、面の下で微笑んだようだ。
「まだ童だったころ、流寓の隆信公は、弱き民を救うために天下を狙うと語られていた。その姿に私は憧れ、そして公を認めてきたのです」
「天下とは、また気宇壮大な」
「他の者が言えば戯言でも、公にその器があると、私は信じているのですよ」
「であれば、なおさら戦うことの理が分かりませぬ」
 鎮漣が小さく頷いた。
「裏切りが生きるための知恵となったこの戦乱、誰一人として天下を統一した武士はいません。それが答えのように思うのです。狡猾さや策謀に長けただけでは、成し遂げられないのだと。天下を平定してこの国に平穏をもたらすには、まことの信が必要なのではないかと私は思っています」
「まことの信ですか」
「蒲池の義と言い換えてもいい。弱き者を決して裏切らず、救う覚悟です」
 鎮漣が翁面を外した。
 差し込んできた西日が、赤く鎮漣の横顔を照らす。
「何者かが柳川を陥れようと、隆信公に戦を吹き込んだのでしょう。戦に勝ち、いかなる時でも柳川は隆信公とともにあることを伝えたい。隆信殿が蒲池の義を信じることができた時、道は大きく開けましょう」
「目の前の民が死んでもですか」
「遠回りのように見えるが、それこそが平穏への近道だと思い定めました」
 赤く染まった鎮漣の顔が、束の間、修羅のように見えた。
 修羅の心が泣いている。そう感じた時、宗顕は思わず口を開いていた。この男は、戦で死ぬべきではない。生きて、民を導くべきだと、そう思った。
「りんを京へ帰し、お迎えするための屋敷を整えさせます」
 鎮漣の視線が向いた。
「宗顕殿は」
 驚く鎮漣に、宗顕はとぼけるように肩を竦めた。
「まだ、お伝えしておらぬことが山とあるのです。まだまだ道は長く、究める楽しみは、これからでございます」
「御身も窮地に陥るかもしれません」
「窮地をうまく生き延びる術が、長生きの秘訣でしてな。この歳まで生きておる儂を、信じていただきたいですな」
 もしも戦に敗れた時は、鎮漣を京へ逃す。言下に込めた意味に気づいたのだろう。鎮漣がかすかに頭を下げたようだった。
 この先の鎮漣と行動を共にすれば、間違いなく死地に追い込まれることになる。柳川に来たばかりの頃、鎮漣の風聞を聞いてすぐにでも立ち去ろうとしていたことを思えば、自然と笑いがこみ上げてきた。

 

(第17回につづく)