十五 鎮漣
天正五年(一五七七年)九月──
逢魔が時の空は蒼と茜が混じりあい、黄金色の穂田には油山の影が伸びていた。耳を澄ませば、遠くから豊作を喜ぶ笛の音が聞こえてくる。寂寞を感じさせるのは、それが束の間の喜びでしかないと、分かっているからだろう。
騎馬武者に率いられた五百の蒲池兵の表情は、立花山城が近づくほどに強張っている。
連銭葦毛に騎乗し、先頭を行くのは、黒の肩衣を纏う蒲池十郎鎮漣だった。背負った左三巴紋は、雷鳴を表している。三十歳も半ばを過ぎた横顔は、かつて姫若と揶揄されたころの柔和さはない。
切れ長の目からは薄く皺が伸び、端正な顔つきに、柔らかな威厳を与えている。
「騎馬五十騎を、五町ほど右に駆けさせよ」
鎮漣がそう命じたのは、湖沼を二つすぎた時だった。
兄の鎮久に率いられた五十騎が、砂煙を上げて遠ざかっていく。
「徒歩は、前後に分けますか」
左手の下山田城を見上げて頷くと、傍らで統光が苦笑した。戦場を駆けまわる中で、統光との間には、阿吽ともいうべき呼吸があった。
「勝気な姫君と聞きましたが、噂以上ということですかね」
「であろうな。軍神のもとに生まれた姫だ」
下山田城の裾に広がる深い木々の中に、伏兵の気配があった。こちらを試すつもりもあったのだろう。わざと隙を作ってみせたが、そこに踏み込んでこないだけの戦の目は持ち合わせているようだった。
立花山城の城門を潜ったのは、夜も更けた丑三つ時──。
七つの峰を囲むように無数の曲輪が広がり、立花山に据えられた主郭は、高い石垣が四方を守っている。毛利との熾烈な争奪戦を繰り返し、戸次道雪が苦心を重ねた堅牢だった。
平時にもかかわらず、火縄の焦げるような匂いが漂っているのは、道雪の心構えが一兵卒にまで行き届いているからなのだろう。
兵を曲輪で待たせ、鎮漣は統光のみを伴い、櫓台へと昇った。
格子窓からは、月明かりが斜めに差し込んでいる。竜笛の音が聞こえてきそうだと思ったのは、室内にたたずむ乙女子の姿が見えたからだろう。日本ではまだ珍しい綸子の打掛姿は十歳たらずの乙女子に、どこか艶やかな気配を纏わせている。それでもなお空気が張り詰めているのは、さすが道雪の娘というべきか。
「戸次ぎん千代にございます」
膝を正して鎮漣を出迎えた戸次ぎん千代の声は、童というにはあまりに大人びていた。
「蒲池民部少輔鎮漣です」
息苦しい。暗がりから、こちらをじっと見つめる視線に頭を下げ、鎮漣は茵の上に座った。
目の前の乙女子は、わずか七歳で戸次道雪の跡を継ぎ、立花山城の城督となっている。道雪がそれを認め、一騎当千の武者が揃う戸次家の老臣たちがそれを認めたことは、筑前でも霹靂のようにぎん千代の名を知らしめていた。
「此度は、私のわがままを聞き入れてくださり、お礼申し上げます」
立花山城まで赴いたのは、戸次道雪の頼みだった。
顔を上げたぎん千代が、にこりと笑った。張り詰めた空気が、不意に華やいだ。
「道雪様には、戦場で世話になりました。これしきのこと、礼を言われるようなことではありませぬ」
「父から面白き武士がいると、つね聞いておりました」
「道雪様は、何と?」
「戦嫌いの戦巧者」
統光が笑ったようだ。ぎん千代が目を細め、俯いた。
「試すような真似をして申し訳ございませんでした」
「やはり、ぎん千代殿でしたか」
「父が称賛する方の采配を見たく」
「ぎん千代殿の将器も見事なものだったように思います。隙だらけの我らを前に、打って出ることを思いとどまられた」
床を見据えたまま、ぎん千代が躊躇うように口を開いた。
「迷っておりました」
「ではなぜ?」
「全滅したいならば行けと、父が」
先刻の伏兵には、戸次道雪も自ら立ち合っていたということだろう。もしも道雪自身が指揮を執っていれば、鎮漣がわざと作った隙は、致命的だった。安堵の表情をした鎮漣を訝しがるように、ぎん千代の瞳が向いた。
「もしも道雪様が兵を率いていれば、我らは無惨に引き裂かれ、潰走させられていたはずです。戦場の御父上はまさに鬼神」
口にした言葉に、鎮漣はしまったと思った。ぎん千代の瞳は、どこか悲しげでさえある。
「戸次は、武門でございます。父道雪は、鬼とも軍神とも呼ばれ、大友を支えてまいりました。されど、子には恵まれず、家督は女の身である私が継いでおります」
「それを認めさせたのは、ぎん千代殿のお力でしょう」
ぎん千代が首を横に振った。
「父の名ゆえです。男として育てられ、有象無象の者に刀槍で負けるとも思いませぬ。されど、やはり女であることは変えられませぬ」
「ぎん千代殿は、何を望んでおられるのです?」
「父と同様、戦場で名を成したい。私を侮る者たちに、戸次ぎん千代の名を認めさせたいのです。父はことあるごとに、柳川に民部少輔鎮漣がいる限り、筑後は安泰だと申しております」
「過分なお言葉です」
「蒲池殿の行軍を見て、父も申しておりました。あれを破ることができるのは、筑前でも自分と宝満山城の高橋殿くらいのものであろうと。私はいまだ、戸次の名に値しないのです」
絞り出すような乙女子の言葉は、月明かりに照らされ、凄愴ささえ感じさせた。
鎮漣が呼び出されたのは、ぎん千代たっての願いだと聞かされていた。なぜかと思ったが、ようやく合点がいった。老臣たちから蔑まれながら、いまや柳川の兵を縦横に率いている鎮漣に、ぎん千代は己を重ねているのだろう。
並の者が言えば小賢しくも感じるかもしれない。だが、まっすぐに向けられた視線は透徹し、こちらに気後れさせるような力強ささえある。心を揺さぶるような視線に、鎮漣は戸次道雪の苦衷を感じた。偉大な父であることの苦悩とでもいうべきか。
「それがしの話が、役に立つかは分かりませぬが……」
小さく頷き、鎮漣は月を見上げた。
「戦場の強さなど、誇るものではございませぬ」
視界の端で、ぎん千代の表情が強張った。
「父を、愚弄されますか」
「そうではありませぬ。道雪様の戦の才は誰とも比肩できませぬ。それは皆が認めるところです。されど、戦の強さはただ、術でしかありませぬ。誰もが御父上を認めるのは、戦に強くあらねばならなかった道雪様の願いがあるがゆえです。御父上の祈りとも言えましょう」
「父上の祈りでございますか」
瑠璃のような瞳を、鎮漣はまっすぐと見返した。
「大友家を守り、後の世に繋ぐことを、道雪様は願っておられる。願ったがゆえ、道雪様は強くあらねばならなかったのです。主家のために、己を贄として生きてこられたその姿を、誰もが認めている」
生涯無敗。島津や少弐、大内といった西海道屈指の大名たちが軍神と恐れ、遠く甲斐の武田信玄が認めたという戸次道雪の強さは、無私の強さとでも言うべきものだった。
鎌倉以来の大友という家を至上とし、道を妨げる敵を滅ぼしてきた。当主であろうと、大友に相応しくなければ、身命を賭して諫言する。ゆえに、他者から恐れられ、主君からも疎まれてきた。それでも、その強大な力を、誰もが無視できない。
自分と重ねることは、烏滸がましい。だが、道雪を知れば知るほど、鎮漣は自分と似ていると思った。道雪は、己の身を置いた場所に立ち続けるため、強くならねばならなかった。
自分もまた、弱き民のために生きることを課したが故に、強くあらねばならなかった。
「道雪様の前には、ただ己の道があります。私も、己の道を信じて生きてきたが故、今の自分があると思っています。戦嫌いの戦巧者というのは、面はゆい言葉ですが」
道雪と自分の道が、決して交わらないであろうことを、鎮漣は分かっていた。おそらく、道雪もそれを見抜いている。だからこそ、立花山城に呼び寄せたのだ。
「私も、蒲池殿のようになれましょうか?」
ぎん千代のまっすぐな視線に、鎮漣は微笑んだ。
「私のようにはなれますまい。されど、道を行くことを諦めなければ、ぎん千代殿が望む戸次ぎん千代殿には必ずなれましょう」
そう言った直後、異様な気配が闇に現れた。
「お主には、儂の道が見えておるのか」
紬の肩衣は風に吹かれ、阿修羅のまとう炎のようにも見える。統光が平伏し、鎮漣もまた頭を下げた。
「哀しき道かと」
囁くように応えると、道雪が苦笑した。
「さような言葉を吐けるのは、お主くらいであろうな」
戸口に立ち、腕を組む道雪がついて来いと顔を背けた。
杖をつきながら歩く道雪は、桝形虎口を抜けると、急峻な断崖に突き出すような二の丸で歩みを止めた。腰に佩く千鳥という刀は雷切とも呼ばれ、道雪を象徴するものだ。
断崖から東に向かって開けた視界には、数里ごとに篝火の灯りが見えた。
「烽火台ですか」
道雪が頷く。
「毛利が海を押し渡ってくれば、即座に知れる」
「見事な備えです」
「世辞はよい。もはや何の意味もなさぬものだ。畿内の織田家の勢いは、絶後のもの。今朝方、織田家の羽柴秀吉が播磨に出陣したと報せがあった。軍神の死んだ毛利家には、もはや豊前に手を出す余裕などはあるまい」
「桶狭間で、今川義元を討った織田信長。その右腕とされる男ですね」
「異質な男たちよ」
そうこぼす道雪の声には、羨望の響きがあった。鎮漣の視線に気づいた道雪が苦笑した。
「織田家は、尾張斯波家の家老の系譜でしかなかったにもかかわらず、畿内一円を制する天下人となった。二百四十年続いた幕府を滅ぼし、無数の民が信ずる叡山や本願寺を皆殺しにすらした。この国全てを敵に回すほどの所業を繰り返しながら、いまやこの国で最も力を持っておる」
「いずれ、織田家の手はこの地まで伸びてくるのでしょうか」
「であろうな」
「烽火台は、その時に役に立ちましょう」
道雪が、力なく首を左右に振った。
「信長公の軍に抗することは、我らにはできぬであろう。己が所領を守ろうとした元就などとは、器が違う。あの男たちは、ただ一つなる国を見ておる」
「元就公の大軍から、立花山城を守りぬいた道雪様のお言葉とは思えませぬ」
「そうでもあるまい。信長公麾下の武士は、主を信じ、主に引き上げられてきた。小城の城代でしかなかった柴田勝家は、越後の上杉謙信と互角に斬り結んでおる。もとは百姓にすぎぬ羽柴秀吉は、いまや我らを苦しめてきた毛利家を、正面から滅ぼさんとしておる」
道雪が、遠く畿内に精通していることにも驚いた。だがそれ以上に、大友家が織田家には敵わぬともとれる言葉に、鎮漣は驚きを隠せなかった。
「規模は大いに違うが、龍造寺隆信のもとに集った男たちも似ておるな。生まれは様々なれど、ただ才によって隆信に取り立てられた」
遠くの灯りを見つめる道雪が、雲一つない星空を見上げた。
「この城に来てから、六年が経った。お主と出会った時から数えれば、十年にもなるか」
「昨日のことのように覚えております。多々良浜では、道雪様の采配を見せていただきました」
二段に分けた八百の鉄砲で敵陣に穴を開け、長槍隊と騎馬武者を巧みに操り、敵を崩していく。勝負所と見れば、道雪自ら先頭に立ち、率いられた兵は皆鬼と化す。戦場の呼吸というものを、鎮漣は道雪から学んだ。
「この十年で、お主は驚くほどに強くなった。だが、その心はついぞ変わらなかったな。柳川の民を慈しみ、誰に疎まれようとも己を変えぬ」
苦しげな声だった。胸の疼きを感じながら、鎮漣は顔を背けた。
「私は、父宗雪ほど、諦めが良くないのです」
「義心鉄の如し、か。お主の父には、幾度も窮地を救われた。大友家の筑後支配が続いてきたのも、ひとえに宗雪殿の尽力によるもの」
「そのお言葉を聞けば、父も喜びましょう」
「鎮漣。お主が殿に許されているのは、宗雪殿がいるがゆえと心しておくがよかろう」
道雪の横顔に、苦みが混じった。
「お主がとりなした龍造寺との和議は、あまりに危ういものであった」
昨年の十月のことだ。
龍造寺隆信は、大友家の勢力下にあった三根郡(現在の佐賀県みやき町)の西島城を攻めている。島津家との戦線を日向方面に抱える大友宗麟は、筑後の大名たちに西島城の援護を命じた。鎮漣も命じられた一人だ。
「筑後勢で肥前に出陣したのは、私と叔父の麟久、その他に三名の大名率いる四千の兵でしかありませんでした。龍造寺家の軍容は、隆信公をはじめとして、あの鍋島孫四郎直茂もおりました」
道雪の顔に、明らかな苛立ちが滲んだ。
「麒麟児、龍の御者。異名に事欠かぬ男よ」
「なれど、そのどれも、孫四郎殿を真に言い表しているとは言えませぬ」
道雪がぎこちなく頷いた。
「鍋島孫四郎直茂。戦場で見たあ奴の戦ぶりに、儂は吃驚した。どれほど先を見ておるのか。儂を無敗と称する者がおるが、敵に恵まれただけとも思ったものじゃ」
「それほどまでに」
日本全土に名を轟かせる道雪に、これほどまでに言わせる孫四郎の才はやはり尋常ではない。道雪の言葉通り、孫四郎は大友家にとって災禍であり続けている。
八年前、龍造寺討伐のため、六万の兵を動かした大友宗麟は、わずか四、五百の兵を連れた孫四郎の夜襲によって実弟を討たれるほどの敗北を喫している。今山の戦いは、龍造寺家と鍋島直茂の名を西国中に響かせ、大友家の失墜を喧伝することにもなった。
今山の勝利は、鎮漣への宣言でもあったのだろう。隆信と孫四郎であれば勝てると、鎮漣へ見せつけたのだ。
童の頃、木刀をもって向かい合った時から、すでに才気は溢れていた。龍造寺隆信を支えることで、その才は大きく育ち、軍神と呼ばれる戸次道雪すら手出しできないものになっている。
「だが、お主には、勝算があったはずだ」
「買いかぶりです」
柔らかく否定し、鎮漣は石垣の上に自らの羽織を敷いた。道雪がゆっくりとした動きで腰をかける。心の澱を吐き出すように、道雪が息を吐いた。
「龍造寺との和議を、殿は大いに喜ばれておった」
「恐れ多く」
「殿は島津を討ち、日向を手に入れたがっておる。全軍を日向に向けるためにも、背後の龍造寺を降しておく必要があった。筑後の誰が言っても聞き入れなかった隆信が、お主の持ち掛けた和議にはあっさりと頷いた」
座る道雪の身体が、不意に何倍にも大きくなったような気がした。
「鎮漣よ。筑後中の者たちが、一人功をあげたお主を敵視しておるぞ。お主が龍造寺と内通していると殿に告げた者もいる」
どう反応すべきか迷い、鎮漣は腰の刀に視線を落とした。戸次道雪は、鎮漣の心が大友家から離れ始めていることに気づいているのかもしれない。
柄から視線を外し、鎮漣は道雪の正面に座った。布越しに、地面の露が染みる。
道雪が寂しげに目を細めた。
「ただ、民を護る。難しいことじゃ。魚の木に登るがごとき御業といってもいい。四十年にもわたって戦い続け、今なお道が見えぬ。だが、儂は殿を信じておる。大友宗麟という玉は、今でこそ曇っているかもしれぬ。だが、必ず再び輝き、民の守護者となる。輝かせることが儂の務めでもある」
それを待つ余裕は、もはや民にはない。
戦は、力ある者が望むがゆえに起きるのだ。戦を望む力ある者では、民を救えない。己の野心のままに戦を起こす宗麟では、西海道を束ねることなど望みえない。
だが、そう言葉にすることはせず、鎮漣は浅く頷いた。
「私の望みは、ただ筑後の民を、柳川の民を護ることでございます」
大友家を見限ったわけではない。一度、龍造寺に敗れたとはいえ、いまだ大友の勢力は強大であり、西海道随一のものだ。畿内では織田信長に率いられた者たちが、天下を統一せんと動き始めている。彼らが西海道に辿り着けば、大友も龍造寺も島津も、相手にはならないだろう。
全土を統一し、この国から戦を無くしてしまう。鎮漣が考えもつかなかった道を、平然と突き進む男達がいる。この天下は一つの国なのだと、彼らが鎮漣に気づかせた。
宗麟などではない。まして、龍造寺や島津でもない。柳川の民の平穏を守るために必要なことは、あまねく天下を統べる人を待つことなのだ。
己が行くべき道は、誰にも理解されることはないだろう。父も、筑後の大名たちも狐に憑かれたとでも思うかもしれない。童の頃から傍にいる統光も、絶句していた。
「独り、征く道ぞ」
脅すような響きを、鎮漣は正面から見据えた。
大友家と敵対することになれば、柳川は四方を敵に囲まれる。戦の師でもある戸次道雪も、容赦はしないだろう。筑後中の大名が、ここぞとばかりに柳川を攻め立てるはずだ。
だが、それでも誰かが為さねばならないのだ。
才ある者たちは、自ら富貴を得ようと戦う。誰も彼らの真似はできない。大友宗麟の真似を誰もできない。戸次道雪や龍造寺隆信の真似を誰もできない。まして、織田信長や毛利元就などといった天賦の才の真似などできるはずもない。
だが、自分であれば──。
それこそが、民のため、玉鶴姫の隣に立つために戦い続けてきた鎮漣の矜持だった。才無き自分であれば、たとえ死んだとしても後に続くものは出てくる。鎮漣でもできたことだと、立ち上がる者は、必ず出てくる。
戦を望む力ある者を、斃す──。
それが大きな津波となった時、この戦乱は姿を変える。
「才無き私が、なすべきことです」
はっきりと口にした言葉に、道雪の気配が腰の雷切に集まった。歯を食いしばる。だが、どれほど待っても風を断つ音は聞こえなかった。
「一度だけでよい。殿を見極めてほしい。今は佞臣に誑かされて、莫迦げた夢を語っておるが、大友の家を大きくした才は間違いなくある」
毛利家に敗れて以来、大友宗麟は口うるさい戸次道雪を疎んじ、自らの居城から遠ざけていた。京から招いた者を厚遇し、政も麾下に放り投げているという。道雪は、鎮漣を認めてくれた師でもある。老いた師の頼みに、鎮漣は小さく頷いた。
道雪が立ち上がった。
「礼を言う。己が道を征く者の姿を、ぎん千代にも見せたかった」
鎮漣を見下ろす道雪の顔は、軍神と呼ばれる猛々しさはなく、ただ娘の一生を願う父のものだった。
「道雪様。私にも、娘が一人おります」
五年前、玉鶴姫との間に生まれた子だ。たどたどしく這い、鎮漣の足に掴まって立ち上がる姿は、なにものにも代えがたいものだ。道雪の瞼の裏にも、戸次ぎん千代の幼い姿が焼き付いているはずだ。
「娘たちに、泰平への道を見せてやることが、我らの務めでしょう。私にどれほどのことができるかは、まだ分かりませぬが」
この先、鎮漣の予想通りに世が進むならば、大人となった我が子に、自分の姿を見せることはできないかもしれない。ただ、その残像は見せることができるかもしれない。
「いずれ、ぎん千代殿の姿を、我が娘に」
訣別の言葉だ。ここで斬られたとしても、それまでだと思って覚悟していた。育ててくれた道雪に斬られるのならば、それでいいと。道雪が、背を向けた。
「承知した」
闇の中に小さくなる後ろ姿に、鎮漣は深く頭を下げた。