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   六 玉鶴姫

 浅瀬の砂利を覆う薄氷うすらいには、うっすらと亀裂が伸びている。
 筑後川の流れは穏やかで、降り注ぐ柔らかな朝陽は、筑後平野に息づく春の芽吹きを待ちわびているようでもあった。
 永禄元年(西暦一五五八年)の十一月、筑後川の岸に立ち、ゆるゆるとした流れを見つめるのは、十八歳の玉鶴姫だ。
 その立ち姿には一分の隙も無く、武芸に秀でた龍造寺隆信の一人娘であることをうかがわせる。身に着けている茜色の小袖と、十八の色気があいまって、大和絵の住人にも見える玉鶴姫だが、その瞳に滲む憂いは歳を経るごとに色濃くなっているようだった。
 柳川の城下から、法螺貝のぼやけた音が聞こえてきた。五月、筑後のつく惟門これかどが、大友家への手切れを宣言した。それ以来、秋月家や宗像むなかた家、麻生あそう家が次々に大友に敵対し、筑後の国衆は対応に駆り出されている。
「……また、戦でございますか」
 振り返って見える柳川の町は、見事な景色だと思う。無数の水路が縦横に走り、それはそのまま柳川城を守る水堀となる。水路の水量は、自在に変えることができるとも言われており、行軍経路も守備側の思いのままだという。
 塩塚川しおつかがわおきの端川はたがわに南北を挟まれた柳川城を攻めるには、船で水路を塞ぎ、東西に広がる水路を縫うように布陣しなければならない。それとて海に突き出した城郭を包囲できるものではなく、まさしく、水に守られた難攻不落の城だった。
 樹齢二百年は超えるであろう桜に繋がれた馬を見て、玉鶴姫は水面へと視線を戻した。
 一月に一度、こうして柳川の領内での遠乗りをしている。水路の水量をどのように調整するのか。父隆信から与えられたのは、その秘密を暴くことだった。貴公子然とした顔立ちの父には、一皮むけば狡猾で残忍な顔がある。
 父は、いずれ柳川の城下を滅ぼすつもりだ。
 殺すべき時が来れば、殺せ。
 そう言って玉鶴姫を柳川へ送り出した父の表情は、はっきりと覚えている。暗がりの中で盃を傾ける父は、娘に対する感情を何も持ち合わせていなかった。ただ、利用できる道具として見ている。それがはっきりと伝わってきた。
 それまで玉鶴姫の傍に置かれていた従者たちは、全て佐嘉に留め置かれた。裏切れば、お前の親しかった者たちを殺す。父の薄ら笑いは、はったりなどではない。
 四年前、佐嘉城を奪還した父は、自らを追いやった土橋栄益つちはしひでますを捕らえると、大釜で煮殺し、その首を晒した。大釜に薪をくべさせられたのは、まだ幼い栄益の子たち。泣き叫びながら実の父を責め殺した彼らも、人知れず川に捨てられた。
 思い出すだけで、身体の震えが止まらなくなる。父は、その残忍な振る舞いをこれでもかというほど幼い自分に見せ続けてきた。己の道具が決して裏切らぬよう、裏切れば血の雨が降ると、刻み込まれた。
「誰も、隆信という男を知らない……」
 民は、電光石火の戦ぶりを称賛し、その陰で殺された多くの者を知らない。
 乱世、生き残ることができる者は、誰よりも狡猾に、そして残忍になれる者だ。父の所業を見て抱いた思いは、平穏に包まれた柳川の町並みと、鎮漣の人のいい風貌を見て一層強まるようだった。
 義心、鉄の如しと言われて喜ぶなど、愚かなことだ。その愚かさが、龍造寺隆信という鬼神を野に解き放ち、愚かな父子は、いずれその金棒の下に血を流すことになる。
 川辺に花開いた仙人草が揺れ、玉鶴姫の身体を凍えさせた。
「大木殿、そろそろ戻りましょう」
 その言葉を待っていたのか、統光の下知によって直ちに従者たちが撤収の動きを始めた。
 大木統光という男のことは、よく分かっていなかった。隆信のような剛毅さがあるわけでもなく、鍋島孫四郎のような才気煥発な様子があるわけでもない。鎮漣の傍仕えとして、刀の腕はあると言われていたが、その腕を見た者は誰もいないという。
 掴みどころのない男だが、こういう男が間者の元締めだったりすることを思えば、油断できなかった。
「奥方様、出発の用意が整いました」
 栗毛の馬が曳かれてきた。
 何が役に立つか分からぬ。父の口癖だった。くだらぬと言いながらも、あらゆる古典漢籍を乱読し、武芸百般を身につけた父に、玉鶴姫もあらゆることを教え込まれた。馬術もその一つだ。馬上へ飛び乗ると、遠くで様子を窺っていたのであろう民が歓声を上げた。
 父は、筑後柳川では民に好かれている。
 いずれ、彼らは父に殺されるのだろうか。強張った笑みを張りつけ、彼らへ顔を向けると、ひときわ歓声が大きくなった。

 柳川の城下がにわかに騒がしくなったのは、それから一月ばかり経った青天の朝だった。筑後中の有力な大名が柳川に集まってきている。
 二の丸の厨では、諸将を出迎える支度が慌ただしくなされ、炊煙が立ち込める中で、玉鶴姫も襷をかけて握り飯を握っていた。貞心院が老臣たちを伴って現れたのは、膳の準備が終わった頃だった。玉鶴姫の姿を見て苦々しげに舌打ちした貞心院に、下女たちが怯えるように左右に割れた。
「なぜ、龍造寺の娘がここにいるのです」
 咎めるような言葉だった。鎮漣の実母である貞心院は、玉鶴姫が柳川に嫁いできた時から、仇を見るような瞳を向けてきていた。蒲池の家督は、庶長子の鎮久が継ぐべきだと考えており、鎮漣の立場を強くする玉鶴姫を目障りに思っているのだとも伝わっていた。
 鎮漣の軟弱さを嘆き、自らの子であることを恥と公言している。
 貞心院が握り飯を一つ摘まみ上げ、地面に投げ捨てた。
「全て、作り直しなさい」
 貞心院が、冷ややかな瞳を向けてきた。
「大事な戦の前です。敵か味方かも分からぬ者が用意したものを、筑後国衆の皆様の口に入れるわけにはいきませぬ」
「龍造寺は、蒲池様と固く手を結んでおります。そのようなことは」
「口を閉じなさい」
 ぴしゃりと言った貞心院が、嘲るように笑みを浮かべた。
「立場を心得なさい。十郎殿をたぶらかして、柳川を手に入れようとしていることなど、先刻承知しているのです。近頃、十郎殿が猿楽(能の前身)なぞに耽っているのも、貴女に吹き込まれたからだというではありませんか」
 貞心院の傍らに並ぶ老臣たちも、忌々しげな視線を向けていた。
 玉鶴姫が鎮漣を操り、いずれ柳川を龍造寺家に捧げるつもりだと疑っている者たちだった。貞心院の我が子憎さが、真実を見通していることは皮肉にも感じた。
 拳を握り俯いた時、軽やかな足音が聞こえた。
「母上、それ以上はおやめください」
 鎮漣だった。黒の肩衣を身につけて現れた鎮漣が、もったいないと嘆きながら、地面に落ちた握り飯を拾い上げる。
「十郎殿」
 貞心院が咎めるのを無視して、鎮漣が土にまみれた握り飯を口に入れた。
「良い塩梅です」
 頬に米粒をつけた鎮漣を見て、貞心院が身体をわななかせた。
「十郎殿には、筑後旗頭たる蒲池の後継というご自覚が足りませぬ」
「飢えた民もいるのです。握り飯を無駄にしないことも、領主として大事なことでしょう。なにより、姫の作った美味い握り飯を食べていただければ、筑後のお歴々も喜びましょう」
 握り飯をほおばった鎮漣を、老臣たちが呆れたように眺めていた。ここまで誑かされおったかという声も聞こえてきた。
「いい加減になさいませ」
 鎮漣を睨みつけていた貞心院が、不意に背を向けて去っていった。鎮漣が大きな息を吐きだした。その額には、うっすらと汗が滲んでいる。緊張していたのだろう。鎮漣がほっとしたように笑った。
「母の言葉は、気になさらないでください。私を嫌っているがゆえ、姫にも厳しい言葉を向けられるのでしょう。申し訳ない」
 その言葉に寂しげなものがあるのを、鎮漣は気づいているのだろうか。実の母に、使えぬ道具としての烙印を押されている。父である隆信に道具としてしか見られていない自分の身に置き換え、玉鶴姫は心が握り潰されるように感じた。
 朝餉の指示をして、玉鶴姫は鎮漣とともに二の丸の館に戻った。
「皆さま、張りつめていらっしゃいますね」
 絹の肩衣は畏まった場でしか着ない。この四年で、体躯も人並みになった良人おつとを着替えさせながら、玉鶴姫は心配するような声を出した。
「大きな戦になるやもしれぬと聞きました」
 鎮漣の身体が強張るのが、掌から伝わってきた。この四年、鎮漣はほとんど戦場には出ていない。領内の政に精を出してきたと言えば聞こえはいいが、戦場では役に立たぬからと老臣や当主宗雪から見放されている格好だった。
「こたびは、十郎様もご出陣されると聞きました」
 ことさら怯えるように肩衣を握った。
「留守役を仰せつかることはないのですか?」
「ないでしょうね」
 沈んだ声音で、丁寧な言葉が返ってきた。粗野な言葉遣いが多い武士の中でも、鎮漣は珍しく誰に対しても穏やかな言葉を遣う。龍造寺家の荒武者に囲まれた玉鶴姫にとっては、それも鎮漣が軟弱に見える理由の一つだった。
 振り返った鎮漣が微笑み、朝餉の膳の前に座った。
 微笑みには、隠し切れない怯えがある。
「大丈夫です」
 玉鶴姫が傍に座ると、鎮漣が自分に言い聞かせるようにそう言った。
「お味方は大友家の大軍です」
「しかし、柳川勢はつねに先陣を命じられるとも聞きました。戦は時の運とも申します。十郎様の身に何かないかと、不安でございます」
 うつむきながら、玉鶴姫は呟いた。慰めるように、鎮漣の手が玉鶴姫の肩に触れた。
 鎮漣が自分に好意を抱いていることは、出会った時から分かっていた。頬を赤らめ、見つめてきた鎮漣に、この程度の男がと思ったことは、よく覚えている。そして、柳川を手に入れるために、父が自分を鎮漣に嫁がせるであろうことも察した。ゆえに、ことさら笑みを作ってもみたのだ。
 いずれ、この男を殺すときが必ず来る。鎮漣の身を案じ、戦に怯える振る舞いは、鎮漣を油断させるためでもあった。
 肩に添えられた鎮漣の手の力が、わずかに強くなった。
「なぜ、筑紫様は大友の御屋形様に叛旗を翻したのでしょうか」
 恨むように言葉にすると、鎮漣が力なく首を振った。
謀神ぼうしんが、動き出したからでしょう」
 そう言った鎮漣が、箸を膳の上に置いた。武士にしては華奢な身体つきだ。いつも箸を濡らす程度で、酒もほとんど嗜まない。少し考えるように俯き、鎮漣が口を開く。
「先年、長門の大内家が毛利家に滅ぼされたことは覚えていますね?」
「ええ。安芸の毛利元就に討たれたことは、大騒ぎになりました」
「姫の父、隆信殿が柳川に落ちてこられたのは、大内義隆卿が重臣のすえ殿に殺され、義隆卿の後ろ盾を失ったからでした」
「よく覚えております。あの時の父は、義隆卿の仇を果たせぬことを嘆いておりました」
 実際には、義隆が討たれたことを罵倒していたが、表向きはその死を悲しんだことになっている。
「そうでしたね。その陶殿を逆賊と名指しして、毛利殿が蹶起したのが三年前。厳島の戦いで陶殿を討った毛利殿は、そこから急速な勢いで安芸や長門、石見(現在の島根県)など旧大内領を手にしていきました」
 厳島の戦いの勝利は、西海道でも驚きをもって語られた。二万余を率いる陶晴賢に対し、毛利元就率いる兵はわずか二千余。狭隘な厳島の地形を使った元就の軍略は凄まじく、その戦いを機に、元就は謀神と呼ばれ始めた。
「毛利家の当主元就殿は、百戦錬磨、四十年にわたって戦を潜り抜けてきた老練な将です。陶殿を討ち、大内領の大半を得た毛利殿は、旧主大内家の後継を自認し、かつての大内家の宝を手に入れようとしています」
「宝、ですか」
 鎮漣が頷いた。
「筑前国博多。かつての大内家が遠く京にまで影響力を持っていたのは、博多を制し大陸との交易を一手に担っていたからです。そこから上がる銭は、大内家を西国一の大名家へと導きました」
「毛利殿が博多を狙って動き出されたということですか」
「はい。豊前国の門司もじ城を攻める動きがあります。門司城が落ちれば、強力な小早川水軍を持つ毛利家は、即座に博多を陥れるでしょう。大友家は許さぬ構えですが、叛旗を翻した秋月殿と筑紫殿を討たぬことには、門司城までの道は開かれない」
 戦に無頓着な鎮漣にしては、よく見ていると思った。入れ知恵をした者がいるのかもしれないが、思い出したのは父と鍋島孫四郎の言葉だった。
 場を与えられることで、力を出す者がいる。
 鎮漣の兄鎮久が蒲池家を継ぐならば、玉鶴姫を嫁がせる必要はない。そう考えていた父は、孫四郎と鎮漣の立ち合いを見て輿入れを決めたという。玉鶴姫もその場面を見ていたが、二人が警戒するようなものは感じなかった。共に過ごしたこの四年も、鎮漣に秀でた才があると思ったことはない。
 民と一緒になって泥にまみれて笑う姿は、民におもねっているようにしか見えなかった。軟弱な鎮漣を慕う民も愚かだった。
 口を一文字に結ぶ鎮漣が語りだしたのは、暫く経ってからだった。
「毛利家の動きを見れば、筑紫殿が元就殿の口車に乗ったと考えることが自然です」
 鎮漣の横顔に、翳が差した。怯えにも見えるが、もっと別のものにも見える。何かを言いかけた鎮漣が瞼を閉じ、首を横に振った。
「大丈夫です。毛利家が龍造寺家を攻めるならば、私が必ず義父上を救います」
 強がるように笑う鎮漣に、玉鶴姫は失望がその心に広がるのを感じた。鎮漣が立ち上がる。
「父に呼ばれています」
 そう言って部屋を後にした良人の足音が消えた頃、玉鶴姫は冷たくなった湯を飲み干した。
「かわいそうな十郎様……」
 毛利の門司城攻めは、父龍造寺隆信と毛利元就の盟約がなったことの証だった。
 謀神と呼ばれる毛利元就ですら、父の前では掌の上の傀儡も同然なのだ。父の野望は、仇敵である少弐家を滅ぼし、そして永く西海道に君臨しながら戦乱を終わらせることのできなかった大友、島津を滅ぼすまで止まらない。いや、その瞳は天下の要衝である京すら視界に入れている。柳川は、父が南へ龍の翼を広げるために、手に入れなければならない要衝だ。
 鎮漣の死は、案外すぐ傍までやってきているのかもしれない。
 畳の上に視線を落とした玉鶴姫は、自分の指先が小さく震えていることに気づいた。父の野望が果たされるということは、すなわち血の雨が降るということだ。
 自分を庇うように貞心院の前に立った鎮漣を思い出し、玉鶴姫は静かに目を閉じた。
 良人の背に、小刀を押し込むのが、自分の務めだ。
 心の中で、そう言い聞かせた。

 

(第4回につづく)