二十三 鎮漣
眼下の筑後平野に、延々と炊煙が立ち昇っている。
濃く色のついた梅の花の下で、蒲池鎮漣は大木統光とともに柳川城を囲む龍造寺軍を見つめていた。雲霞のごとくとはよく言ったもので、黄土色の枯野を覆う大軍は、まさしく変幻自在の雲のようにも見えた。
指揮するのは、龍の御者と謳われる鍋島孫四郎直茂だった。
籠城戦が始まって十日。互いに攻めどころを探している状態で、激しいぶつかり合いは起きていない。だが、龍造寺軍の陣形は刻一刻と微妙に変わっており、気を抜けばいつの間にか大手のすぐ傍に接近されている。
孫四郎の指揮に対応して兵を動かすため、鎮漣もまた櫓に泊まり込んでいた。
「一軍を率いる者同士として対峙するのは、これが初めてだが。統光、やはり孫四郎殿は難敵だな」
「戸次道雪様も、孫四郎殿の手腕を恐れておいででした。智があり、大友六万の大軍を、わずか三百の兵で退かせた勇もある。当代の名将の中でも、五指に入りましょうな」
「ほう、残る四指は?」
戯れに聞くと、統光が悩ましげに口を歪め、ややあって口を開いた。
「越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄、安芸の毛利元就あたりは外せますまい。残る一人は、迷いますが畿内を制した織田信長ですかね」
「偉大な名ばかりだな」
だが、あながち間違いでもないのだろうと思う。
肥前のほんのわずかな所領から始まった龍造寺家は、今では肥前一円に加え、筑後、筑前、肥後にまで所領を広げ、豊前まで手を伸ばしている。豊後の大友家や、薩摩の島津家といった鎌倉以来の名門が覇を唱える西海道にあって、唯一下克上を成し遂げ、今では西海道が古代中国の三国時代になぞらえられるほどの力を持ったのだ。
龍家の飛躍が語られる時、隆信の器とともに、鍋島孫四郎の才があわせて語られる。龍造寺家の強さの源泉は、当主である龍造寺隆信以上に家臣たちの信望を集める孫四郎の存在によって、二面作戦が可能な点にあった。龍造寺家四天王などと呼ばれる勇士もいるが、孫四郎は別格の将として認められている。
筑後統一の戦では轡を並べて戦ったが、こうして対峙してみると、孫四郎率いる軍の覇気は尋常のものではなかった。向かい合うだけで気力が削がれていくような気さえする。
「その孫四郎殿が、一切手を抜いてくれないというのがなあ」
嘆息した鎮漣に、統光が苦笑した。
「こちらの兵は三千二百。包囲する龍造寺軍は二万を超える大軍。攻め手は籠城側の三倍の兵力が必要などと言われますが、六倍近くですね」
「それどころか、まだ兵の参集は続いている。肥後の甲斐宗運や城親賢、相良義陽をはじめとした国人衆たちも、すでに居城を出陣したようだしな。総勢六万をゆうに超えそうではないか」
柳川城は、無数の水路に囲まれているため、包囲されているとはいえ外部との連絡は容易に可能だった。兵粮の運び込みに困ることも、水に困ることもない。ただ、同時に入ってくる各地の報せは、鎮漣を暗くさせもする。
「獅子搏兎というにはやり過ぎですな」
「狙いは別にあるのであろう」
呟いた鎮漣に、統光が目を細めた。
柳川のたった一城を陥落させるために、六万もの兵を動かすのは、理にかなっていない。筑後支配が盤石ではない龍家にとって負けられない戦だということは分かる。だが、これほどの大軍を動かし続けることは、莫大な金を使うことでもある。柳川に勝利したとしても、まかなえるとは到底思えなかった。
「孫四郎殿の狙いとは?」
統光の言葉に、しばらくしてから鎮漣は口を開いた。
「じき、分かる」
孫四郎が、鎮漣の想定通りの戦略を描いているとするならば、柳川城の勝機は、限りなく少なくなる。龍造寺軍にとっても薄氷を踏むような戦略だが、率いるのは鍋島孫四郎と龍造寺隆信だった。十中八九、想定通りになると思ったほうが良かった。
鎮漣の表情に影が差したのを見て取ったのか、統光が小さく唸った。
「老臣の中から、島津へ援兵を求めるべきだという言葉が出ていますが」
「島津には頼らぬ。この戦は、隆信殿をお諫めするためのもの。あくまで、私は隆信殿を信じている」
鎮漣の心が揺らいでいないということを確認したかったのだろう。安堵したように、統光が頷いた。
龍造寺軍の猛攻が始まったのは、明朝からだった。
深夜には見えなかった船団が、有明の海に浮かんでいる。松浦の海賊衆を呼び寄せたのだろう。陸側の龍造寺軍の前面には、牛の皮を張った大楯が並べられ、平原に黒い一文字が引かれたように見えた。四方から二万の大軍が、徐々に近づいてくる。
両軍ともに息を殺し、間合いをはかっている。龍造寺軍の前衛が、矢の射程に入った。
「まだだ。まだ、引き金に指をかけるな」
はやる蒲池兵を制し、鎮漣も軍配を握りしめた。
敵が城壁まで百歩の位置まで近づいた。堀による迷路のような小路に、龍造寺軍が入り込んでいる。平原では一塊の大軍だったものが、すでに散り散りとなっていた。
「兄上、統光、頼むぞ」
呟いた瞬間、城門を開け放って、二隊が飛び出していった。赤糸縅の大鎧を身につけた鎮久と統光が、先頭で飛び出していく。小路の龍造寺勢は、いきなり現れた蒲池勢に狼狽え、瞬く間に切り崩されていく。だが、二人の突撃も、すぐに止められた。
「戦い慣れているな」
統光たちの突撃を、龍造寺軍はただ受けていただけではない。柔らかく押し包むように兵が動いている。おそらく、その場で戦っている兵の判断だろう。
敵中で止まった統光と鎮久の両軍は、凄まじい乱戦になった。阿鼻叫喚が響き渡る。
統光率いる五百の兵が、三百ほどに減った時、鎮漣は撤退の鉦を鳴らした。鎮久と統光が、一度敵を押し込み、空隙をついて身を翻した。だが、龍造寺勢が勢いに乗じて攻めてくることは無い。着実に、城壁に迫ることを優先しているようだった。
並べられた大楯が、着実に近づいてきている。その背後には、行天橋や衝車が続いている。
孫四郎は、柳川城攻略の備えに、かなりの時間を割いてきたのだろう。この一月や二月という短い期間ではない。攻城兵器の数は配置を見ただけでも、相当の年月をかけて準備してきたことが分かった。味方に対しても、敵となった時を想定することは、優れた将の資質でもある。
統光と鎮久の二軍が城内に帰還したのを見て、鎮漣は従者に合図した。
「構えよ」
呟きと共に、土塀の鉄砲狭間に二百の銃口が突き出された。火縄銃を構える兵の両側には、弾込めを終えた兵が控えている。その背後の曲輪では、千の兵が空に向かって弓を引き絞っていた。
「放て!」
天地を揺るがすような轟音が鳴り響き、眼下の龍造寺兵がばたばたと血煙を上げて倒れた。直後、千の矢が降り注ぐ。だが、勇猛で名高い龍造寺兵は、亡骸を踏み越えて進んでくる。
四方にかかる橋のすぐ手前まで敵が充満したその瞬間、鎮漣の合図とともに、城下の広い範囲でいくつもの土柱が空に巻き上がった。櫓の床が、縦に揺れた。爆音とともに土煙が広がっていく。立ち込める土煙の中から、敵の混乱が伝わってきた。孫四郎も退くか進むかの指示を出せないでいる。
風が流れ、土煙が徐々に落ち着いた時、視界に現れたのは、木っ端微塵に破壊された攻城兵器の残骸だった。地面の中に埋没させた地雷砲が、一斉に爆発した威力は、仕掛けた鎮漣も目を覆いたくなるものだった。肉片が水堀に浮かび、爆発の中心にいた兵は、原形すらとどめていない。
地中に埋めた竹筒の中に導火線を仕込み、城内から爆発させる仕組みは、一度使ってしまえば二度と使えないものだ。これ以上ない機を掴んだと言っていいだろう。
僚友の変わり果てた姿を見て、龍造寺兵が怯えに包まれるのが分かった。
「撃ち続けよ」
孫四郎が撤退の合図を出すまでに、どれほど損害を与えられるかが勝負だった。
「……判断が速いな」
歯噛みしながら鎮漣はそう呟いた。戦場に広がった恐怖を、孫四郎は寸分の狂いなく見て取って、これ以上の力攻めは無理だと判断したようだった。あと半刻、その指示が遅れていれば、数千の龍造寺兵を討ち取れたはずだった。
龍造寺兵が一斉に退き始めた。追い討ちをかけるほどの余裕はなかった。
予想したよりも敵を討つことはできていない。だが、暗くなり始めた城内では、期待の眼差しに溢れていた。やはり、鎮漣についてくることを決めた者たちも、心の中では不安だったのだろう。
その不安を消すという目的は果たせた。
二の丸を見渡し、鎮漣は拳を突き上げた。
「鬨を上げよ」
ここで殺しきれなかった計算違いが、どう響いてくるのか。
響き渡る勝鬨の声を聞きながら、長く延びる龍造寺軍の影を遠目に見つめた。
籠城を始めて一月が経っていた。
生涯をかけて造り上げた柳川城は、些細な揺るぎもなかった。開戦十日目の猛攻以来、数度の小競り合い以外は、遠巻きに包囲しているだけだ。松浦の海賊衆が一度攻め寄せてきたが、大木統光の指揮する蒲池家の戦船が散々に打ち破っている。
兵粮の心配もなかった。開戦時、すでに一年分の兵粮は運び込んでいたし、何より海側に開けた水路からは、夜陰に紛れて不足する物資が運び込まれてくる。火縄銃の弾薬も、懇意にしている堺の商人が送ってくる。
この状態が続くならば、柳川の籠城は二年でも三年でも続く。
「だが、このまま手をこまねくほど、孫四郎殿は甘くはないだろうな」
遠く、開戦時から不動の龍造寺軍の本陣にそう呟いた。
統光が眉間に皺を寄せて、天守に現れたのは四月に入ってすぐだった。
「兵を分けたようです」
「ほう」
「昨夜のうちに、龍造寺軍から鍋島孫四郎の旗と、二千ほどの兵が消えました」
「やはり、そう動くか」
絞り出すように、鎮漣はそう言葉にした。やはり、孫四郎はかなり先まで見通したうえで、戦場に立っている。
それは、この戦で鎮漣が想定する通り、万余の死者が出るということだった。
「行き先は、恐らく肥後であろう」
統光が頷く。
それから数日して、肥後の山鹿に姿を現した鍋島孫四郎が、その旗印の下に、肥後の国人衆率いる五万の軍勢を集結させたと報せが届いた。五万の大軍と共に、赤星親隆の籠もる隈府城を落城させ、その勢いのまま内空閑城をわずか一日で降伏に追い込んでいた。
だが、本当の狙いは違う。五月に入って、筑前方面に向かって放っていた間者が持ち帰ってきた報せに、鎮漣は小さく頷いた。
龍造寺隆信が、佐嘉を自ら出陣していた。
率いる兵は四万三千。一直線に筑前の荒平城へ向かっているという。荒平城の傍には立花山城と宝満山城という大友傘下の城郭がある。守将は軍神戸次道雪と、戦の腕では大友家中でも道雪に次ぐ高橋紹運の二人だ。
「平時であれば、手出しもできぬだろうが……」
「鍋島孫四郎率いる七万の大軍に惑わされて、大友家が兵の布陣を誤りましたな。筑前が手薄になりすぎました」
統光の視線は、天守の畳の間に広げられた地図に注がれている。大友家の将は、筑前から肥後まで散っている。下手に動けば、龍造寺家の大軍に各個撃破されるだけだった。
「いかに戸次殿と高橋殿といえど、二十倍の敵に勝つことはできないだろうな」
呟き、鎮漣は窓の外の星空を見上げた。
これが、孫四郎の真の狙いだったのだろう。
柳川を攻めると見せかけることで、大友家を油断させたのだ。そして、肥後の国人衆を大軍に束ねることで肥後を統一し、大友家を釘付けにした。その間隙を突くように、龍造寺隆信率いる大軍が、筑前に侵攻し、難攻不落の荒平城を陥落させるつもりなのだろう。
戸次道雪、高橋紹運という大友家きっての名将二人を相手に、隆信が勝利することを信じている。それに応える才が、隆信にはあった。
七月に入ってもたらされたのは、荒平城陥落の報せだった。大友家と龍造寺家が講和し、隆信は筑前どころか豊前の一部までも手にしたという。
それはそのまま、柳川城が西海道で孤立無援となったことを意味していた。
籠城が始まって半年が経とうとしている。
長期の籠城戦となっているが、城内の兵の士気は高く、規律も乱れていない。包囲する二万の龍造寺兵が攻めてくれば、その度に跳ね返し続けていた。
玉鶴姫が襷姿で現れたのは九月、包囲する龍造寺勢の中に鍋島孫四郎の旗が高々と上がった時だった。肥後計略を終えた孫四郎が、ついに戻ってきた。肥後勢を加えた龍造寺軍は、七万に届くほどの大軍に膨れ上がっている。見たこともないほどの陣容だった。
「一つの城を、七万もの大軍が囲むことは、西海道ではいまだかつてないのでは?」
玉鶴姫の言葉に、鎮漣はゆっくりと頷いた。
「誇れることではありません。ただ、流れる血が多くなるだけだ」
「お味方は三千あまり。指揮する者があの孫四郎でも、勝てるというのですか」
四層の天守からは、筑後平野がよく見渡せる。
ひしめき合う七万の龍造寺兵を見れば、そのまま大友家を蹂躙し、島津家を滅ぼすことができるようにも思う。だが、それでも鎮漣は落ち着いていた。
「潰走させることはできないかもしれませんが、負けることはないでしょう」
うぬぼれにも聞こえかねない言葉だったが、その言葉には、哀しさが滲んでいることを鎮漣自身も気づいていた。予想よりも敵が多くなり過ぎた。それが、戦の後に禍根を残しかねない。
玉鶴姫が窓の傍に立った。
「戦の後、殿は父と結ぼうとされているのでしょう」
鎮漣以上に悲しげな声だった。
「姫。私は童の頃から、隆信殿をずっと信じております。隆信殿こそ、この国の民に平穏をもたらす英雄だと」
「父にそのような器が、真にありましょうか」
玉鶴姫は、幼いころから隆信に手ずから育てられてきたという。それゆえ、残忍で狡猾な本性に怯えている。敵であった者のしゃれこうべを切り刻むという奇行も姫から聞いた。
だが、それでもなお、西海道を見渡して隆信以上の人物がいないことも確かだった。武門の家名を至上とする大友や島津では、民の平穏は夢のまた夢だ。敵に対してどれほど残忍であろうと、隆信は自らの民には限りない優しさを見せることを鎮漣は知っている。童の頃、一木村で泥にまみれた民と笑いあっていた隆信の姿をいまだに覚えている。
だが、鎮漣の想いを察したかのように、玉鶴姫が首を左右に振った。
「殿。畿内では、織田右府様の勢い強く、数年のうちに山陽の毛利や、四国の長宗我部なども降ると言われているようですね。父ではなく、織田殿の麾下となる道はないのですか」
右近衛大将に任じられた織田信長の勢いは、確かに空前のものがある。だが、西海道からはまだあまりにも遠かった。
「十年はかかりましょう。その十年、民は耐えられないかもしれない」
織田信長が天下を制するならば、それでもいい。だが、その威光が西海道に届くまで、龍造寺隆信という英雄の下で、民を護る必要がある。
「隆信殿を、信じているのです」
もう一度、そう口にした鎮漣に、玉鶴姫が瞼を閉じた。
七万余の龍造寺軍の気配が変わったのは、十一月に入ってからだった。耳を塞ぎたくなるほどの喊声が轟き、柳川の空から鳥が消えた。
「孫四郎は、今日中に勝負を決めきるつもりなのであろうな」
兄の呟きに、鎮漣もまた頷いた。
龍造寺軍の中には、地雷砲の惨劇がこびりついているのだろう。地面を注意深く探りながら、ゆっくりと進んできている。もう地雷砲の仕掛けは無い。だが、その滑稽さを嗤う気にはならなかった。
開戦した時、外れてほしいと願った戦況だった。
だが、柳川攻めを囮に、肥後、筑前を攻める好機を、孫四郎が気づかぬはずがないとも思っていた。覚悟していたはずだ。掌に滲む汗を、静かに握りしめた。
「兄上。配置に」
四十を超えた鎮久は、父によく似てきていた。こめかみの上に一筋走る白髪など、そっくりだ。
「いかなる時も、殿の先陣は儂が務めます」
そう言い残し、鎮久は北の曲輪に向かった。
「さすがに、この光景は怖いな」
迫る七万の大軍には、油断も隙も感じられない。覚悟し、備えてきたとはいえ、いざ目の前にすると強烈な圧迫感があった。
包囲が狭まる。地雷砲などないことに、敵も気づいたのだろう。全軍が前がかりになった。
火縄銃の射程は、とっくに越えている。冬の鋭い日差しが中天に昇りきった時、鎮漣は天守の外に立った。凍るような寒さにもかかわらず、全身が煮え立つように熱かった。
「水門を、全て開け」
軍配に力を込めた。
視界に映る城下の光景が、少しずつ変わり始めた。
天守から見下ろす鎮漣だけが、全てを分かっている。城下を進む龍造寺兵は、何が起きているのかも気づいていないだろう。
十重二十重に囲む水堀のうち、外側を囲む水路から、水が溢れていた。溢れた水は、柳川城に向かって流れだす。次の水路へと流れ込み続け、水が龍造寺軍を呑み込み始めた。
城壁近くの龍造寺兵は、まだ異変に気付いていない。だが、外側では混乱が広がり始めていた。水が龍造寺兵の足元を覆い、やがて膝下までの高さになる。四万近くの龍造寺兵が、水で足場を失った。
冬の、氷のような水だ。
恐怖して天守を見上げた龍造寺兵と、目があったような気がした。
直後、鎮漣は軍配を大きく振り切った。
六百の火縄銃が間断なく火を噴き、城内で手が空いている全ての者が、曲輪の中から四方に矢を放つ。籠城を続ける中で、城内に逃げていた女子供も弓を扱えるようになっている。五千の矢が放たれ続けた。
城下から響く断末魔の叫びが、天守閣の破風を揺らしているようだった。
龍造寺の兵が大楯を放棄して、一斉に退き始める。だが、大軍が仇となっていた。
水と矢弾から逃げ出そうと、前衛の兵が後退するほど密集し、動けなくなる。大鎧を身につける武士が、水の底に隠れた堀に踏み入れ、溺れていく様が天守から見えた。
城下の清らかな水が、恐ろしいほどの速さで赤く染まっていった。
堅牢な柳川城で戦えば、こうなることは分かっていたではないか。
怯えに捉われそうになる己を叱咤した時、鎮漣は不意に退いていく龍造寺兵の中で、それに逆らって近づいてくる一団を見つけた。水の上とは思えない速さだ。
「……田舟か」
底が平らな船で、波の無い水田で使われる小舟だ。海や川では役に立たないが、水位を上げた柳川城の周囲では優れた道具となる。孫四郎はこの状況も予想し、陸揚げして持ってきていたのだろう。
「孫四郎殿の炯眼だな」
鎮漣は、一人そう呟いた。
柳川の水堀の水位が変えられることは、漏れていると思っていた。嵐の時も水堀の高さが変わらぬことを見ていれば、誰でも予想できるものだ。だが、柳川城を水の中に浮かべるほどに溢れさせられることは、一族の当主のみに口伝される秘事だった。
舳先に楯を載せた田舟が百艘ほど、大手門に向かってきている。
「ただ、数を揃えきる時まではなかったようだな」
形勢を変えるためには、あと十倍の田舟が必要だろう。
妙な陣形だった。百艘が横並びではなく、何かを隠すように一塊となって進んでいる。舟と舟が近づきすぎ、転覆しているものもある。
不意に先頭を進んでいた田舟が左右に分かれた。
双頭の龍のように分かれていく一団の中心に、黒々とした鉄の塊が光った。陽の光を浴びて、城内の蒲池兵たちも釘付けになっている。
喉が張り付いた。
「大手門から離れよ!」
そう叫んだ瞬間、大地が揺れるような轟音が田舟から鳴り響いた。空気を裂く音は野太く、短い。刹那、大手門の扉が木っ端みじんに弾け飛んだ。
衝撃で大破した一艘の田舟の上に、大手門の扉を破壊した大筒が、黒煙を吐きだしていた。国崩し。一国を破壊すると言われるほどの最新鋭の大筒だった。
「銃陣はそのまま、逃げる兵を撃ち続けよ。弓勢は大手門を守れ。指揮は統光」
田舟に乗っているのは孫四郎直下の精鋭だろう。
城内への侵入を許せば、一挙に形勢が傾きかねない。孫四郎の直下兵に手間取れば、態勢を整えた龍造寺軍が進んでくる。兵から五百を割き、扉の修復を急がせた。
田舟が大手門前の長橋に群がってきた。一人、見覚えのある男がいた。木下昌直。孫四郎の右腕として一軍を預かる将だ。龍造寺家の重要な戦では、必ず先陣を務めてきた。
統光を救援するか、束の間迷い、鎮漣は刀を天守の床に置いた。
大木統光が後れを取るはずがなかった。なにより、鎮漣の相手はあの孫四郎なのだ。自分が孫四郎から目を離すわけにはいかない。大手門を挟んで乱戦が始まった。さすがに、蒲池勢が押し返している。
大手門の扉の修復が終わったのを見計らって、木下勢が田舟に飛び乗って撤退を始めた。押し込んでいたはずだが、兵の骸は百も残っていない。北の曲輪では、鎮久が追い討ちをかけて、三人の敵将を討ったとの報せが届いた。
閉じた目を開き、鎮漣は震える手で刀を拾い上げた。
天守から見下ろす城下は、まさしく地獄と評するに相応しい光景だった。いたるところに龍造寺兵の骸が浮かび、流されていく。柳の木に引っ掛かった骸に、新たな骸が積み重なり、流れを妨げているところもある。どれほどの兵が死んだのか、予想もできなかった。
大軍であればあるほど、水に行き場を失い、矢弾で殺すことは容易になる。
柳川を攻めたことで、龍造寺家は豊前から肥後までを手に入れた。同時に今、広大な領地を得て大兵力を得たことで、柳川城に大敗したのだ。
「あとは、隆信殿を信じるだけか」
鎮漣の本当の勝負はここからだった。籠城戦に勝ったとはいえ、十万もの兵を動かしうる龍造寺家に抵抗し続けることはできない。西海道の過半を制した龍造寺隆信と面会し、己が決して裏切らぬことを認めさせなければならない。
弱き民のため、隆信の下で戦うことこそが、蒲池の義だと鎮漣は思い定めたのだ。
水の上に浮かぶ柳川城を恐れるように、龍造寺軍の包囲が遠ざかってから四日後のことだった。軍使の旗を掲げ、一艘の田舟が柳川城の大手門に寄せてきた。
船上に立つ鍋島孫四郎直茂と目が合った。
厳しい光を湛えているのは、鎮漣の気のせいではないのだろう。
「勝ちが、鮮やかすぎだ」
大手門に降り立った孫四郎の言葉は、鎮漣の胸をすっと刺した。
「どこまで読んでいたのです」
「敗軍の将が何を語ってもむなしいだけだ」
そう言って、孫四郎が肩を竦めた。
「和議を。私は、お主と共に戦いたい」
孫四郎の言葉に、鎮漣はぎこちなく頷いた。
田舟を用意していたということは、孫四郎は鎮漣の策を読み切っていたはずだ。もし本気で柳川城を落とそうと考えていたのであれば、大量の田舟を用意しただろう。もし、その備えがなされていれば、柳川城は衆寡敵せず陥落し、鎮漣もまた命を落としていた。
共に戦いたいという言葉が、激しく脳裏を揺さぶった。
鎮漣が生き延びるには、柳川城が勝つほかに、道は無かった。だが、龍造寺軍がただ柳川城に敗北すれば、筑前や肥後はもとより筑後や肥前でも龍家への叛乱が相次いだはずだ。
龍造寺が西海道にその威容を見せつけたうえで、柳川が勝利する。孫四郎は、そこまで描いていたのか。
空恐ろしいものが背中に走った時、孫四郎が疲れたように苦笑した。
「ただの運だ。柳川が水に浮かんだ時、俺は心の底から驚いた」
孫四郎が龍造寺の陣に帰ってから十二日後の十一月二十八日。龍造寺軍との間に、正式に和議が結ばれた。籠城を始めて三百日が経っていた。
水の引いた城下に、民が戻ってきた。
あちこちから歓喜の声が聞こえてくる。空の寒さを吹き飛ばすような熱気を見下ろすと、鎮漣は天守の桟に肘を載せ、目を閉じた。
民の声が、心地よかった。